梅香里と星州をつなぐ基地反対闘争史
戻ってきた都鳥に安息は来るか
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燕尾服を着たようなしゃれた姿の都鳥がさわやかに舞いおりる。都鳥が梅香里沖合のノン島に初めてやってきたのは2016年の春だ。これまで鳥たちの主な住みかは全羅北道群山沖合のユブ島だった。天然記念物の貴重な姿は12年を生きる。梅香里の17年にわたった米軍射撃反対運動が実を結んだのが2005年なので、都鳥も一世代を待って、彼らの生きる所を新たに用意したわけだ。
射撃場閉鎖させた闘い出発点に
韓国の近現代史においてわが国軍駐屯の歴史は1882年の壬午軍乱にさかのぼるが、基地反対運動の歴史はまだ30年にしかならない。その出発は、都鳥が新しい巣を作った京畿道華城市雨汀邑梅香里だ。梅香里に米空軍クニ射撃場が運用され始まったのは韓国(朝鮮)戦争直後の1955年からだ。射撃場によって騒音など、さまざまな被害に遭った住民は全体で4千人余。誤爆や不発弾などで死亡した数だけで13人だ。
30余年の苦痛の歳月を耐え、「梅香里米空軍爆撃場撤廃のための住民対策委」が結成されたのが1988年6月だった。翌年には住民700余人が身体をはって、チームスピリットの訓練期間に爆撃場を占拠した。34年ぶりに住民自らが爆発音を止めたのだ。10年後、彼らは訴訟によって方向をつかんだ。住民代表14人がまず訴訟に参加した。6年続いた訴訟で大法院(最高裁)は住民らの手を挙げた。2005年、後に続いた訴訟で住民1889人が勝訴の喜びを享受した。2005年9月、駐韓米軍は結局、梅香里クニ射撃場を閉鎖することに決定した。クニ射撃場はノン島という本来の名前を取り戻した。そして都鳥が飛んできた。韓国現代史において平和運動が培った事実上、最初の結実だった。梅香里は闘いそれ自体によって、米軍基地問題を抱えている他の地域への刺激剤になった。群山米空軍飛行場騒音訴訟、江原道春川ヘル機場騒音訴訟、京畿道平沢米空軍飛行場・陸軍ヘル機場騒音訴訟などが続けられた。米軍基地だけではなく、韓国軍基地を対象とした訴訟のきっかけになりもした。国防省は結局「軍用飛行場など騒音防止および周辺地域の支援に関する法律」制定に乗り出さなければならなかった(現在「軍用飛行場騒音法案」は国会に発議された状態だ)。
1992年10月、駐韓米軍ケネス・マークルによるユン・グミさん殺害事件は米軍基地運動史のもう1つの転機となった。口にするにもむごたらしいほどに残酷な事件の実像が伝えられるとともに韓国の人々は激しく怒った。以降、梨泰院殺人事件(1997年)、韓江毒劇物放流事件(2000年)、ヒョスン、ミソン事件(2002年)などが相次ぎ、駐韓米軍についての韓国人たちの認識が批判的に変化し始めた。
米軍関連の事件が発生するたびに市民たちが目撃したのは韓国政府のお手あげぶりだった。その無能の先には韓米駐屯軍地位協定(SOFA)があった。平和運動の始まりが梅香里ならば、SOFAの不平等問題をめぐる闘いの出発点は群山だった。ムン・ジョンヒョン神父が先頭に立った群山市民の会の活動は1997年、韓国の民間航空機が群山米軍基地内の滑走路を使用しようとするなら米軍に使用料を払わなければならないのに比して、米軍は関連の賃貸料を全く払わないという常識外の不平等を認識することから始まった。群山のSOFA改正運動は1999年10月、全国地域農民会、平和運動団体、人権団体などが参加する「不平等なSOFA改正国民行動」の母胎となった。以降、SOFA改正は2002年、ヒョスン、ミシンの事件を通じて再度の転換点を迎える。2人の女子中学生の凄惨な死を前に韓国社会の世論は沸きかえった。当時、ソウル市庁前広場には10万人の市民が集まりキャンドルを灯した。人々は光化門の米国大使館を怒りのキャンドルで包囲しもした。SOFA条項はそれ以降、かなり改善されたものの不平等条項は相変わらずだ。
「地域住民の生活権」柱に立て
SOFA改正運動と共に大衆的に共感を得たのは「われらの土地を返してくれ」という米軍基地返還運動だった。大邱では、1993年からヘル機場と飛行場返還問題で対策委員会が作られ、釜山でも1995年「釜山の地、ハヤリア取り戻し市民対策委員会」が作られて反基地運動が本格的に始まった。仁川富平では1996年「われらの土地、富平米軍基地取り戻しおよび市民公園造成のための仁川市民会議」が結成された。1997年には米軍基地のある全国主要都市の諸地域団体と駐韓米軍犯罪根絶運動本部、緑の連合、民主化のための弁護士の会などが「われらの土地、米軍基地取り戻し全国共同対策委員会」を作った。米軍基地返還運動は「駐韓米軍撤収」という幾分理念的な論争から一歩ひいて、「地域住民の生存権」という新たなフレームを構築することができた。それだけに地域住民たちの呼応も大きかった。
2002年3月、韓米両国は漢江以北の米軍基地を返還し、これを漢江以南に移転・再編するという内容を骨子とした連合土地管理計画(LPP)協定を締結した。すると米軍基地が移転するものと「予定されている」地域の住民たちが乗り出した。ごく自然に地域単位の米軍基地移転反対対策委員会が結成された。京畿道利川では米軍基地移転の動きに、利川住民たちの反対対策委がただちに結成された。利川市までが乗り出すとともに2001年には利川計画が撤回されるようにした。2002年にはソウル龍山基地の移転候補地として浮上していた京畿道水原、城南、ソウル松坡区は米軍基地反対からさらに一歩踏み込んで、国軍特戦司令部まで出て行くことを要求した。梅香里爆撃場の代替地に挙げられていた江原道太白にも既存の韓国軍射撃場閉鎖運動まで登場するとともに、計画は修正された。
もちろん「勝利する」闘いだけがあったわけではなかった。米第2師団など駐韓米軍を平沢に移転する過程で2004年8月、基地の敷地に選定された大秋里は1990年代の梅香里のように、新たな基地運動の中心として浮かび上がった。当時、大秋里にはさまざまな平和運動団体、人権団体などが集結し、闘いは長期の局面に入った。結局、2006年5月、政府は「夜明けのコウノトリ」という作戦名の下、軍と警察1万人を投入してデモ隊の千人余を解散させた。米軍基地移転は急ピッチで進められた。2007年に敷地決定後、済州・江汀マウルで繰り広げられた海軍基地反対運動も2000年代基地運動の一線を画した。基地は名目上、大韓民国海軍のものであるけれども、米軍が活用することができるという点において、これまでに続けられてきた米軍基地反対運動と軌を一にする。
基地反対の歴史は今や慶北星州で綴られている。サード(THAAD・高高度ミサイル防御)配置の故だ。国防省の「サード発射台4基追加搬入報告の漏落」事件以降、政府はサード配置による環境影響評価を本格的に始める予定だ。ムン・ジェイン政府は敏感な戦略の懸念であるサード問題を、国内的な手続き的正当性を問いただすという論理によって迫っている。住民らが望んでいるサード配置の撤回が実現されるかは、まだ分からない。
闘いの焦点、また梅香里に回帰
最近の梅香里には、いま「米軍戦闘機の砲撃の騒音が癒されもしないうちに、またもや戦闘飛行場の建設か」という横断幕がかけられた。去る2月16日の国防省の発表によって、京畿道水原の軍空港の予備移転候補地となったのだ。航空機が吐き出す轟音の恐怖に梅香里は再び長い闘いを準備しつつ沸きあがっている。基地反対の運動史は再び梅香里で綴られるのだろうか。都鳥はノン島の巣を守ることができるのだろうか。(「ハンギョレ21」第1166号、17年6月19日付、ハ・オヨン記者)
またも国防長官が情報遮断
軍に勝手を許してはならない
その放任が無能を助長した
国防省長官ハン・ミングには4度の機会があった。5月14日、ムン・ジェイン大統領が主宰した国家安全保障会議の常任委員会に参席し、17日にはムン大統領の国防省への初めての「巡視」に同席した。26日にはムン大統領が主宰した国務委員(閣僚)の昼食懇談会があったし、28日にはチョン・ウィヨン国家安保室長と昼食を共にした。けれどもハン長官は安保のために自らがあれほどに重要だと主張していたサード(THAAD・高高度ミサイル防御)の追加搬入の事実を1度たりとも軍の統帥権者に報告しなかった。甚だしくはチョン・ウィヨン安保室長が「既にサードの4機が入ってきたそうですね」と尋ねると、「そんなことがありましたか」と反問した。既にメディアに報道され、サードの追加搬入の事実を「誰もが知っている」としていた「朝鮮日報」の主張通りならば、職務遺棄は青瓦台ではなく、ハン長官がやったのだ。この事案が「報告漏落」ではなく、「虚偽の報告」であるとする理由だ。
軍の独断専行と無能が発覚
前任の国家安保室長キム・グワンジンは大統領パク・クネが弾劾訴追を受けて職務停止中だった去る1月と3月に米国に行った。東北アジアの諸国家が参加している平和協定体制を通じて北核の危機を鎮めるな、とドナルド・トランプ政府を説得するためだった。露骨に言えば、戦争を辞さない、やり方で北核の問題を解決しようという提案だ。けれども米国や中国は、この軍人の言葉を無視し、北核問題を対話の局面に転換しようとする動きを続けていった。韓国政府はここから排除された。これを各メディアは「コリア・バッシング」と呼んだ。この2つの場面とサードの搬入過程を結合してみよう。米軍は3月6日、サードの発射台2基を韓国に搬入した。米軍はこの過程を動映像で公開し、国防省も搬入の事実を公式確認した。4月26日、「YTN」はサード4基が追加搬入されたと報道した。けれども国防省は前とは違ってこの事実を公式確認しなかった。政府の公式確認がないので「YTN」の報道は「推定」として残った。そして4月26日未明、米軍は慶尚北道星州郡韶成里にサードを配置した。韶成里のハルモニたちが身を投じて、手続き的正当性も事前予告もなかったサードの配置を阻もうとしたけれども、残ったのはハルモニ12人の手足の骨折と涙だけだった。
すべては軍によってのみなされた。軍は大統領の「不在」状況で気ままに北韓に対する強気の外交に乗り出した後、国際社会から見事に無視されるという無能さを見せつけた。そうして韶成里の住民だけではなく、軍の武器導入過程を透明に把握しなければならない市民やメディア、市民たちを代理する議会の知る権利を無視した。甚だしくは、市民たちの支持を通じて選出された現職大統領にして軍の統帥権者にも報告しなかった。市民や国家を保護しなければならない軍の存在論的当為を否定したものだ。
虚偽報告と越権行為の歴史
このようなことは初めてではない。軍は2004年にも同じようなことを繰り広げた。韓米連合司令部は当時の北韓(北朝鮮)の急変の事態に備える軍事計画たる「作戦計画5029」は、「北韓内部で急変の事態が繰り広げられれば韓国が主導的に対処する」という方針を立てたノ・ムヒョン政府ばかりではなく、キム・ヨンサム、キム・デジュン政府も反対していたことだ。けれども軍はノ・ムヒョン元大統領に報告もなしに、これを韓米連合司令部と協議し、草案まで完成した。
同年7月には北韓警備艇が西海(黄海)の北方限界線(NLL、海の38度線)を越えてくると、海軍が警告射撃を行った。軍は当時、「北韓警備艇に警告放送をしたけれども応答しなかった」とメディアに発表し、青瓦台に報告した。けれども青瓦台の調査結果、北韓の警備艇が軍の警告放送に「今、南下しているのはわが国の漁船ではなく中国の漁船」だと明らかにするなど、3回も応答した事実が明らかになった。軍の虚偽報告だった。当時、軍の対応は正当だったと主張した人物は「イミョンバククネ」政府で国家報勲処長を担っていたパク・スンチュン当時合同参謀本部情報本部長だ。
仮にも安保のためにサードの配置に賛成している人々であるなら、今回の事態に怒らなければならない。ところがわれわれは、そうではなかった場面を見ている。それがまさにこれほどまでに無能な軍が存在論的当為さえ否定しながらも、今日まで韓国社会の一方の軸を担当してくることができていた訳だ。(「ハンギョレ21」第1165号、17年6月12日付、イ・ジェフン新聞「ハンギョレ」記者)
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