トルコ
ポスト国民投票
体制危機がAKPに道を開き
次いでその前に立ちはだかる
ダリオ・ナバロ
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今年四月一六日の憲法改定国民投票で強力な権力集中に成功したエルドアン大統領の下にトルコがどう動くのかは、特に中東の今後に大きな影響を与えると思われる。エルドアン体制とはどういうものかを含め、今後起こり得る可能性と反体制派に求められている対応を分析している論考を紹介する。イギリスの 「ソーシャリスト・レジスタンス」に掲載された。(「かけはし」編集部)
もろさを隠せない強権体制
二〇一七年四月一六日の国民投票は、与党の公正発展党(AKP)とエルドアン大統領が推し進めた憲法修正に承認を与え、トルコを議会制から政府の大統領制システムへと移行させた。これは期待された結果ではなかった(第四インターナショナルトルコ支部声明――本紙五月二九日号――参照)。
ジャーナリストのアムベリン・ザマンは国民投票に先立つ彼女の論説の一つで、誇張を含んだ質問を提起した。つまり、ノーの投票が勝利する可能性などあるのだろうか、と。彼女は、そのような結果を期待することは素朴すぎるだろう、と確信していた。そして、国民投票敗北という何らかのリスクがあるとすれば、エルドアンがそこに突き進むことなどあるだろうか、と付け加えた。
それにもかかわらず、この修正案に承認を与えた僅差は、国民投票キャンペーンの非常に不平等な戦場を前提としたとき、この国に対するエルドアンの掌握が難攻不落ではない、ということをあからさまにした。
国民投票にいたる時期、クーデターの企ての後に宣言された非常事態が、ノー陣営の諸集会を妨げるために利用された。その間AKPは彼らの自由になる国家諸機構と国家メディアを確保していた。そしてAKPは彼らのキャンペーンを支えるために、それらを遠慮会釈なく利用した。付け加えて親クルド運動の国民民主主義党(HDP)は、その指導者たちおよび党の選出された議員と自治体首長の多くが投獄され、党には国家メディアの放送時間が僅かしか提供されなかったという事実により、不遇な状況に置かれた。
ノー陣営に立ちはだかる諸々の障害にもかかわらず、統一戦線ではないとしても、非公式な選挙共同戦線が発展し、そこには、主な野党、人民共和党(CHP)、HDP、さらにウルトラ民族主義政党の党員たちも加わった。最後の部分は、彼らの指導部のAKPを支持するという突然の転換にも動かされなかった人々だ。何人かの伝統的なAKP支持者も、彼らの党の創立メンバー何人かによる沈黙に、提案された憲法改訂不承認を読み取った可能性があるが、改憲支持の投票はしなかったかもしれない。
この改憲はあらゆる国家権力を大統領の手中に集中するだろう。首相機能は存在しないことになるだろう。つまり、執行権力は大統領が握ることになる。また大統領は、最高裁判事のほとんどを、また司法部の他の高位判事も指名するだろう。大統領が同時に政党指導者であることも可能である以上、これが意味することは、彼あるいは彼女が立法機関の構成に大きな影響力を行使することが可能になる、ということだ。
しかしながらこれらの変革は、適切な見方で評価されなければならない。これまでにエルドアンは、こうした権力を相当な程度で行使し続けていた。西側の新聞だけではなく、トルコの反政権派もまた、彼を「独裁者」、「スルタン」、「執政官」などと見ている。国家機構の非党派公務員の粛清、諸々の大学、司法部また行政部に対する統制が、非常事態宣言制定以前にすら起きていた。
以前エルドアンが大統領指令でできたことが今や、法令によって行われている。新憲法は、エルドアンが以前は憲法があるにもかかわらず使った権力を正統化する。そしてそれは彼に、二〇二九年まで大統領にとどまる機会を与える。この新憲法がやろうとしていないただ一つのことは、体制の危機を処理することだ。そうは言っても、これはこの国民投票の目的ではなかったのだ。
体制危機は1980年から続く
この体制の危機は、法の支配を通してこの国を統治する上での、エルドアンとAKPの一貫した失敗の中に見て取ることができる。この危機は、二〇一三年のゲジ公園をめぐる抗議行動に対する警察の全面的に比例を失した暴力的対応の中に見られたように、また腐敗や同じ年に閣僚四人の辞任という結果になった贈収賄の嫌疑――そしてこの嫌疑は、事件の訴追に対し出された逮捕の警告と警察首脳の解任によって直ちに止められた――から見られるように、近年強められ続けてきた。二〇一四年には、シリアの諸組織に対する重武装品秘密輸送が明るみに出た。この事件に対する訴追は、輸送トラックを中途で取り押さえた当地の軍将校たちと検察首脳の逮捕によって、再び停止された。この事件を報じた「クムフリエット(共和国)」紙のジャーナリスト多数はその後逮捕され、今裁判を前にしている。
二〇一五年、クルド解放運動との和平プロセスは、このプロセスを自ら始めた者がエルドアン自身であったにもかかわらず、彼によりぶち壊しにされた。結果としての、クルドの町における当地の自治に対する要求を黙らせるための軍事作戦は、彼らの家屋の取り壊しと住民の強制された大規模な移住を伴って、非武装の住民に極めて高い死者数をもたらすことになった。権力の座に向かうその台頭の間AKPの最強力な同盟者であったギュレン運動との刺々しい決裂もまた、権力ブロック内部にある一つの危機を指し示した。
しかし、これらすべての指標の陰を薄くするできごとは、二〇一六年七月の失敗に終わった軍事クーデターだった。そのクーデターの企ては圧倒された。しかしそれに対し政府が頼った過酷な諸手段はその後、雇用された者数万人の恣意的な解雇、テロリストとの烙印、さらに多くの場合逮捕と一体になった、共和国史上、以前にはまったく見られなかった規模での国家諸機構と国家機関の粛清に導いた。
政治的危機がその始まりや終わりを明確にはっきりさせたことはめったになく、それが明らかにしたものはただ、より短いあるいはより長い持続期間からなる諸サイクルでしかない。しかし、人が現在の体制危機を識別するよう迫られたならば、その始まりは一九八〇年の軍事クーデターまでたどることができる。
このクーデターは三つのカギとなる面で以前のものとは違っていた。第一に、軍事政権が権力をとったとき、それはすでに明確に概括された実行すべき新自由主義的な経済綱領をもっていた。これは、同じ年の一月に公表された。
第二に、伝統的なケマル主義国家イデオロギーから政治的イスラムとトルコ民族主義の混合物への、イデオロギー的移行を始めるために諸方策がとられた。この混合物、いわゆるトルコとイスラムの統合という一つの政治的教条は、何人かの理論家がスルタン・アブドゥルハミトまで遡って跡づけているが、主には一九七〇年代を通じて洗練された。
第三に、支配階級の二つの伝統的政党――一九四六年に支配階級が二大政党政治システムへと移って以後トルコを統治してきた――の非合法化は、結果として政府危機の繰り返しとなった。つまりそれは、政治的イスラムが主要な政治プレーヤーとなることに余地を与えた。
二〇〇一―二年の経済危機と金融危機は、大きな通貨切り下げ、GDPと一人あたり所得の激しい落ち込みを引き起こし、AKPがエルドアンに率いられて政治の舞台で指導的役割を引き受けるという光景をしつらえた。そしてAKPはその役割を以後不断の流儀という形で維持してきた。
宗教に訴えるボナパルチズム
現在、この体制をどのように特性づけるべきかに関し高度の一致を見た、幅広い話がある。英国紙、また限られた数のトルコ反体制派メディア(主にソーシャルメディア)の中で読むことができる典型的な記述は、それに専制、権威主義、独裁政治、国民投票制独裁、個人支配、独裁体制、ネオファシズム等々と言及している。これらの用語のほとんどには妥当性がある。しかしそれらは、体制を堅固に身を固めた全体主義的国家と描く傾向がある。そしてそれは、エルドアンとAKPが必ずしも事実ではない高度な難攻不落性をもっている、と信じているふしがある。
われわれは一九二〇年代と一九三〇年代のケマル主義体制を、一方に軍官僚制エリートと新興の野心的なブルジョアジーを置き、他方に州の名望家、大地主、封建領主的地主を置き、その間でバランスをとる、ボナパルチズムと見なしてきた。今日体制は、大資本の両部門、すなわち西側を向いている既成のコンプラドール(外国投資家・事業家の国内代理人として活動する者たち:訳者)資本家、および新興の保守的な「アナトリアン・タイガー」、の上に堅固に立っている。それこそがこの体制の強みだ。
その民衆的な基盤は、一九八〇年代以後着実に成長を遂げてきたアナトリアの低・中層、また中間階級であり、保守的な小地主と大地主および小規模農民だ。同時にトルコの階級構成は、近代的な経済がもつ構成と一致する形で変化してきた。近頃の国勢調査によれば、人口の六一%は主に大都市に集中した、労働者として認識されている。彼らが、政治的イスラムに対して政治的不安定性の潜在的根源を代表している。労働者階級に影響を及ぼす経済危機の諸条件の下では、政治的イスラムの人気は急速に腐食する可能性があるからだ。
投票した住民の半分の支持に基づいて個人独裁を構築することがすでに体制にとって一つの問題であるとすれば、大都市で支持を失ったことの前途は二重に問題になる。最大都市のイスタンブールと首都のアンカラのノー陣営への明け渡しは、AKPに向け警報を発したと思われる。
西側に反対する愛国主義的わめき、シリアのクルドに対する軍事攻勢、「一つの国民、一つの母国、一つの旗」というスローガンに伴われた国旗を打ち振る政策といったすべてをもってしても、来世と現世における人の存在に対する諸々の脅威にはふれないとしても、この体制の選挙基盤をほとんど維持し得ないとすれば、体制はその支持を支えるために、そして前途に控える二〇一九年の選挙に勝利するために、他に何ができるだろうか?
ここで、エルドアンのボナパルチズム体制の識別できる側面を心に留めておく必要がある。つまり、オスマントルコの伝説と今や再度トルコの広がりの内部に現れている帝国の威光と一体的に、信心深い者たちに訴えかけるために、宗教のカードを使うその能力のことだ。私の考えでは、この要素、つまり共和制の世俗主義のゆえに失われた、しかしエルドアンの個人的な指導性の下に再獲得されるかもしれない、その栄光の時代への変わることのない言及は、この体制をエルドアン主義と名付ける正当な理由となる。
われわれは、部分的にはこの国の階級構造の展開を理由に、また部分的に諸々の危機の引き延ばされた持続期間のゆえに、この体制が直面している固有の諸困難のいくつかに言及してきた。しかしながらこれは、ノーブロックが体制に挑戦する強力な位置にあるということを、いかなる意味でも示唆するものではない。その逆に、反体制派の弱さ、現体制に対する信頼性あるオルタナティブを構築する上での能力不足(むしろ意志の欠如)が、この体制の主要な強みになっている。
世俗主義が反対派統一への糸
ノー支持者のほとんどは、CHPによって代表されている。そしてこの党は、主な野党としての役割で完全に満足しているように見える。CHPは、明確にHDPを標的にした議員の免責特権取り上げでAKPと結託した。そしてその指導部は、クルド運動と連携していることに思考停止し、HDPを疫病のように避けている。一方ウルトラ民族主義政党の異論派は、彼らが分裂を決定しようが、家に戻ることを決定しようが関わりなく、民主的な反体制派の一部にはなりそうもない。
HDPについて言えば、その選挙上の能力は、主にはクルド人選挙区におけるその強さを基礎にまさに一〇%以上を引き出した二〇一五年の総選挙を通じてその絶頂に達した。トルコ人左翼は、ノー投票のために懸命に努力したとはいえ、社会勢力として周辺化されたままであり、クルド問題では分裂している。
国民投票後に左翼から押し出された考えは、主に諸組織の議会外形態に向けたものだ。たとえば、大都市で形成された「ノー会議」の継続、地方と全国の「憲法制定会議」創出、ノーブロックを拡張するための「行動計画」創出などだ。活動的な労働者部隊の小部分しか代表せず、三つの全国連合に分裂してもいる労働組合運動の弱さは、民族固有の、民族主義的な、また宗教的な違いを基礎とした誤った路線にはふれないとしても、今日大衆的で民主的な反体制勢力を生み出す上でのもう一つの障害だ。
諸々の危機が今後どのように解決されるかは、まだ白紙の問題であり続けている。危機が住民のますます大きくなる諸部分にとって耐え難くなる中でAKPは割れるのだろうか、あるいはそれは、この国をさらにイスラム化の方向に、おそらくはイスラム共和国へと引き連れることによりそうした展開を防止しようともくろむことになるのだろうか?
次のようなことが主張されている。つまり、権力獲得に先立ってその初期に言明されていたことと一致した形で、世俗主義を一掃し、シャリア法を取り入れることにより、AKPは彼らの支配権をその結論に持っていくだろうということだ。この推論に異議を唱える者たちは、西側との重要な経済的かつ軍事的な結びつきを前提としたとき、そのような歩みはトルコの支配階級とエリートたちに魅力あるものではないことが分かり、是認されないだろう、と強く主張している。
とはいえ十分に明瞭なことは、信心深い若者をつくり出すというこの政権の公言された政策、学問と報道の自由の縮小、治安部隊の脱世俗主義化はすべて、世俗的で民主的な共和制にとっては悪い前兆となる要素、ということだ。それらは、前途にある一〇年間を支配するように定められている、トルコ・イスラム統合のイスラムにおける極となるだろう。
ここに見た起こり得ることがらは、幅広い戦線を貫いて組織する効果的な道を見出すという、反体制派にとっての必要に緊急性を与えている。そして、明日のノー陣営にとって、世俗主義が、民主主義を求める要求と共に、統一に向けた重要な糸になり得るということを示している。(二〇一七年五月一二日、「ソーシャリスト・レジスタンス」より)
(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年六月号) |