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    かけはし2017.年6月26日号

エコロジーの具体的過渡的要求も不可欠


エコソーシャリズム

これは戦略以上の新たな文明化
めざす構想への挑戦を意味する

アレクサンドレ・アラウジョ・コスタ/ダニエル・タヌロ

 ブラジルのエコロジー活動家であるアレクサンドレ・アラウジョ・コスタが、ベルギーのエコロジー著述家かつ活動家のダニエル・タヌロと、エコロジーとエコソーシャリズムに関する諸問題について語り合った。トランプ政権がパリ協定からの離脱を決定したことにより、地球環境の危機、特に気候の危機があらためて急を要する課題として浮上している今、パリ協定の不十分さを含め必要な取組みを求める民衆的な議論と運動の強化が決定的に必要とされている。三カ月ほど前のこのインタビューで、そこに寄与できると思われる考え方がさまざまに論じられている。以下に紹介する。(「かけはし」編集部)

左翼の環境危機軽視総括基礎に


――何年もの間左翼の諸組織は全体として、環境の諸課題に多くの注意を向けてこなかった。しかし少なくとも第四インターナショナルは一五回世界大会以後、われわれが「環境危機」と呼んでいるものにますます関わりをもつようになっているように見える。何が変わったのか?

 実際ほとんどの左翼組織は、一九六〇年代、この問題を見逃した。この時期いわゆる「環境危機」は、幅広い社会的関心を引く一つの問題として現れた(この出現に関しては一つの象徴的な日付けを定めることができるとしても――一九六二年出版の、レイチェル・カーソンの著作、『沈黙の春』)。
この見逃しの主な理由は、これらの諸組織が、反植民地主義戦争や支配を受けた諸国の革命(キューバ、アルジェリア、ベトナム……)に、東欧の官僚制に反対する大衆運動(ポーランド、ハンガリー)に、また西欧における若者たちや労働者の急進化の凝集に、焦点を絞ったことだった。
しかしこの理由は、私の観点だが、一つだけだったわけではない。人はまた、左翼の諸組織が一つの理論的立脚点から、この環境危機をうまく処理できなかった、ということを深く考えなければならない。たとえば多くの著作家は、資本主義的テクノロジーに対する糾弾に、また成長の限界というその考えそのものに心地悪さを感じていた。現実にはマルクスの著作はこれらのテーマについて非常に豊かだ。しかし先の状況は、あたかも彼の後継者たちが彼の貢献(たとえば、囲い込み〈羊牧場化に向けた、資本主義創生期の英国における暴力的農民追い立て:訳者〉に関する、人間と自然の社会的代謝作用との資本の絶縁に関する、森林、農業、農地の管理におけるその諸結果に関する)を忘れ果ててしまっていたかのようだった。これは、わが同志のエルネスト・マンデルのような極めて創造的、かつ革命的なマルクス主義思想家の場合でも事実だ。
私は以下のことついてはっきりさせたいと思う。つまり、私の観点では、マルクスのエコロジーに関する話は若干誇張されている、ということだ。マルクスとエンゲルスの仕事にある緊張と矛盾が考慮されなければならない。しかしマルクスの遺産にあるエコロジー的側面は本当に印象的だ。そして政治経済に対する彼の批判は、それを豊かにするすばらしいツールをわれわれに与えている。

生産力主義と科学主義に別の光

 そうであればわれわれは、マルクス主義者の左翼のほとんどが一九六〇年代にエコロジーの列車に乗り遅れたという事実を、どのように説明すべきだろうか? もちろん、スターリニズムがその責めの大きな部分を負っている。しかしこの説明は、反スターリニズム潮流の場合には大して説得力がない。つらつら考えるに、私は生産力主義と科学主義の諸観念による左翼に対する非常に幅広い汚染があった、と思っている。
それは、一九世紀末に社会民主主義の中で始まった。そして共産主義運動の中では、本当に根絶されることはなかった。おそらく、革命が起きたロシアがいわば遅れた国であったが故だ。
変化を遂げたものは三重になっている、と私は考える。第一に、核の脅威が、テクノロジーは中立ではない、という益々高まる意識を育てた。第二に、貧しい農民と先住民の闘いが、エコロジーの諸問題にはらまれた社会的次元を明らかにした。第三に、二、三の著作家が自然に関してマルクスを再評価しはじめ、彼の遺産を明るみに出した。
そうだとしても、過半の左翼は純粋に宣伝主義的な取り組みで満足し、資本主義の枠組み内ではエコロジー的なオルタナティブはまったくない、と人々に告げていた。そのことは真実だが、過渡的綱領の中の社会的諸要求と接合された、具体的なエコロジーの要求や改革をわれわれが必要としていない、ということを意味しているわけではない。
この綱領の方向における重要な一歩は、二〇〇一年にミシェル・レヴィとジョエル・コベル(米緑の党に参加した米国の研究者:訳者)が起草したエコソーシャリスト宣言だった。この宣言に向けたイニシアティブは、大きな脅威としての気候変動と一体的に、深まる環境危機とその世界的特質によって育てられた。同時に、われわれの組織内のますます多くの活動家が、エコロジー的挑戦に関わる社会運動、特に気候運動と食料主権を求める運動(それらは、地球温暖化においてアグリビジネスが果たしている重要な部分を条件に、緊密に結びついている)に関わっている。

気候変動はもっとも危険な脅威

――あなたの観点から見て、気候変動はどれほど懸念されることか? それは単純に、化石燃料を再生可能エネルギーで置き換えるといった正しいテクノロジーを使う問題か? 地球の気候は、炭素の分離・捕獲とジオエンジニアリング(ある種の地球の大規模改造を内容とする、気候変動対策として新たに提唱され始めたテクノロジー:訳者)の組み合わせによって正しく落ち着かせる、ということは可能なのか?

 気候変動は極度に懸念されるべきことだ。実際にそれは、われわれが対処しなければならない、短期、中期、また長期的な巨大な結果を伴った、おそらくもっとも危険な社会的かつエコロジカルな脅威だ。
あまり詳細には入らないが、しかし人は、三度Cの気温上昇はもっともあり得ることとして、約七メートルの海面上昇を引き起こすことになる、ということを知る必要がある。そこへの到達には一〇〇〇年かそれ以上を要するだろう。しかしその運動を止めることは不可能だろう。短期的ということでは専門家は、今世紀終わりまでに六〇から九〇センチメートルの海面上昇が起き得ると考えている。
それは、数億人という難民を意味すると思われる。あなたが気候変動の他の諸作用(極端な気象現象、農業生産性の下落、その他)を考慮に入れれば、結論はぎょっとするようなものになる。一定の閾値を超えれば、八〇から九〇億人の人類にとっては、気候変動に対する可能な適応方策はまったくない。
人が閾値を置くところは、科学的な問題(ばかり)ではなく、(何よりも)ある種政治的な問題だ。諸政府はパリで、温暖化を余裕をもって二度C以下に維持し、一・五度Cにそれを限定することに挑むことを目的として行動すると決定した。平均二度Cの温暖化はある種の破局と考えられるべきだろう。
明らかに、気候変動はただ一つの脅威ではない。実際諸々の脅威がありそれは、種の大量絶滅、海洋酸性化、土壌劣化、窒素並びに燐酸汚染に起因する海洋生物の死、化学物質汚染、オゾン層消滅、淡水資源の過剰利用、大気に対するエアロゾル負荷、といったことなどだ。
しかし気候変動は中心的役割を演じ、他の諸脅威のほとんどに直接、間接に結びついている。つまりそれは、生物多様性の喪失では一つの重要な要素であり、海洋酸性化は大気中のCO2濃度上昇によって引き起こされ、海洋中の窒素と燐酸の過剰な量はアグリビジネスから到来し、そしてアグリビジネスは淡水の過剰利用と土壌喪失では中心的役割を演じ、等々といったことだ。
ほとんどの問題は相互に関連しあっているという事実は、他の挑戦課題から気候変動に対する対応を切り離したならば間違いを犯すことになるだろう、という理解を必要とするのだ。しかしながら、これらエコロジカルな挑戦課題には同じ原理的な源がある。つまり、利潤を求める競争によって駆り立てられる量的成長、資本主義的蓄積だ。
これが意味することは、気候問題への挑戦は技術的課題をはるかに超えた問題、ということだ。それは、この生産様式に対する世界的なオルタナティブという原理的な問題を提起している。そしてこのオルタナティブは客観的に極度に急を要している。実際それは、技術的観点からでさえグリーン資本主義の戦略は偏向している、というほどに急を要している。

1・5度C炭素予算超過は目前


もちろん、われわれが必要とするエネルギーすべてを生産する上で、再生可能資源にのみ依存するということは完全にあり得る。しかしあなたは、太陽光パネルや風車、また他の装置をどのようにして生産するのだろうか? どのようなエネルギーを使ってか?
論理的に考えてあなたは、移行過程それ自身が余分のエネルギーを必要とするだろう、移行過程が始まる時点で化石燃料起源が八〇%を占めるこの余分なエネルギーが余分なCO2排出を引き起こす、ということを考慮しなければならない。こうしてあなたは、他のところで超過分を切り下げることによって先のような余分な排出を相殺するための計画を必要とするのだ。
そうでなければ、再生可能エネルギーの比率が早期に改善するとしてさえ、世界的排出は上昇し続ける可能性がある。そしてそれは、あなたがいわゆる「炭素予算」を超過し続けているかもしれない、ということを意味するのだ。ちなみにこの炭素予算は、今世紀末前に一定の気温上昇の閾値を超えない蓋然性をあなたが確保したいと望む場合に、あなたが大気に加えることが可能な炭素量だ。
IPCCによれば、一・五度Cおよび蓋然性六六%に対応するこの炭素予算は、二〇一一年から二一〇〇年の期間に対して四〇〇Gt(ギガトン)だ。世界の排出はおよそ年当たり四〇Gtであり、それらは改善の途上にある。つまり、一・五度Cの炭素予算は、二〇二一年に費やされるだろう。それゆえわれわれはすでに壁にぶつかっている。これが、利潤を求めるわれ先の資本主義の暴走、および必要な排出削減の機能に沿った移行を計画することへの資本家の拒否から出ている具体的な結果だ。
実にこれが、炭素分離・捕獲とジオエンジニアリングに関する論争に幕を開けている。資本主義的生産力主義システムの枠組み内部では、炭素分離・捕獲とジオエンジニアリングが、炭素予算超過を相殺するあり得る唯一の「解決」なのだ。私はあえて引用符を使っている。なぜならばこれらは、魔法使いの弟子的な解決だからだ。

解答のありかは政治の舞台上


もっとも熟成した技術の一つは、炭素隔離と捕獲を伴ういわゆるバイオエネルギー(BECCS)だ。その考えは、発電プラント内で化石燃料をバイオマスで置き換え、その燃焼から結果するCO2を捕獲し、それを地質層内に溜めることだ。成長過程の植物は大気中からCO2を吸収するがゆえに、BECCSの大量展開は温室効果を引き下げることを可能にし、結果として炭素予算を改善するはず、とされている。それは他の理由の中でも、CO2を地下に、またどれほどの長さ留めておくことが技術的に可能かどうかを誰も知らないがゆえに、まったくの仮説的解決だ。
同時にそれは、ある種極度にトリッキーな対応だ。なぜならば、必要となるバイオマスの生産は巨大な地表面を必要とすることになるからだ。それはおよそ、今日農業に使用されている土地の四分の一あるいは五分の一に相当する。一方で、バイオマスプランテーションへの穀物農地の転換は、食料生産には有害となると思われる。他方、非耕作地での産業的なバイオマスプランテーション設立は、生物多様性の恐るべき破壊、自然の異常な貧困化を必然的に伴うと思われる。
IPCCの九五%気候シナリオにはそのような技術の実行が含まれ、それは高度に問題含みだ、と言おう。これは、科学が特にそれが社会的・経済的計画をつくる段になると、中立でも客観的でもない、というさらなる証拠だ。
一・五度Cに対する炭素予算は超えられるだろう。そして二度C予算もまたほとんどすぐに超えられることになりそうだ。しかしこの事実は、われわれがよりマシな悪として資本主義的テクノロジーを受け入れなければならない、ということを意味するわけではない。このことを心に留めることが重要だ。
情勢は極度に深刻であり、事実は、炭素排出の削減や相殺では十分ではないだろう、ということだ。気候の救出には、大気からの炭素除去が必要だ。しかしこの目標は、BECCSや他の危険なテクノロジーに頼ることなしにもっと健全に達成可能だ。資本主義がBECCSのような技術を選択する理由は、それらが利潤を求める競争に適合するからだ。それへのオルタナティブは、先住民の人々を重んじ、小規模農民の有機農業や森林と農地の注意深い管理を発展させ、全般化することだ。このやり方で、生物多様性を育成し、すべての人に良質な食料を提供しつつ、大量の炭素を大気から除去しそれを土壌中に溜めることが可能になるだろう。しかしこの選択は、アグリビジネスや地主に対決する激烈な反資本主義的戦闘を意味する。すなわち、解答は技術の分野の中にではなく、政治の舞台で見出されるだろう。

資本主義的気候対応は貧困加速


――オクスファム(一九四二年に設立されたオクスフォード飢餓救済委員会を起源とし、現在世界規模で活動を展開している国際NGO:訳者)は先頃、たった八人の男が人類の半分がもつ富と同じ額を支配している、と示す研究を提出した。われわれは同時に世界的な気温の記録を破り(再び)、われわれの大気はCO2濃度で四〇〇ppmを超えた。

 もちろんそれらはその通りだ。貧しい者たちが、全体としての破局の、特に気候的破局の主な犠牲者であることはよく知られている。明らかにこれは、人間活動(より正確に言えば、資本活動)に起因する気候の破局に対してもまた真実だ。それはすでに、われわれが世界の諸地域ではっきり見てきたように、事実になっている。つまり、タイフーン、ハイヤンがあった二〇一四年のフィリピンで、ハリケーン、カトリーナがあった二〇〇五年の米国で、大洪水のあった二〇一〇年のパキスタンで、熱波のあった二〇〇三年の欧州で、干ばつと海面上昇があったベニンと他のアフリカ諸国で、またその他、その他でのことだ。
その上、気候変動に対する資本主義的対応が、この社会的不平等に対する加速器として作用している。この理由は、この政策が市場メカニズム、特に天然資源の商品化/私用を基礎にしているからだ。それは主に「外部性の内部化」に依拠しているが、それが意味することは、環境的損害の価格は商品とサービスの価格として評価され、その中に含められなければならない、ということだ。もちろんこの価格は、その後最終消費者に移される。マネーをもつ人々は、より清浄な技術――たとえば電気自動車――に投資できる。しかし他の人はそうできず、こうして彼らは、同じサービスに対しもっと多くを払うことになる(先の例では、移動性に関し)。
不平等の深刻化ということでは、保険部門がある特殊な役割を演じている。つまり保険部門は、貧困層が暮らしている地域で高まるリスクを保証することを、あるいは人々が会社に払う必要のある保険料の改善を拒否するのだ。
全体としての金融部門は、それが炭素市場に投資し、それが高度に投機的であるがゆえに、大きな役割を演じている。たとえばそれは、炭素貯留装置としての森林の機能が商品化されることになったがゆえに、森林に投資する。その結果として先住民衆は、彼らが形作り何世紀にもわたって保護してきた自然の保護を名目に、彼らの生計を禁じられるのだ。
似たような搾取とプロレタリア化が、たとえばバイオ燃料やバイオジーゼル油生産を原因に、農業部門で進行している。ここでもまた、不平等を深刻化し企業支配を強要する政策の口実として、自然の保護が使われている。
起こりそうなことは、諸資源の商品化と私用という市場メカニズムが将来どんどん重要性を増すこととなり、社会的不平等をさらにもっと生み出す、ということだ。このことは、ジオエンジニアリング、特にBECCSの実行に関し以前に言われてきたことに照らせば明らかだ。
しかしそのことはそれ以上さらに先まで進む。ニコラス・スターン(英労働党員である権威ある経済学者でサーの称号をもつ:訳者)が主宰する非常に影響力のあるシンクタンク、世界委員会の最新報告は、いわゆるグリーン経済への移行におけるインフラストラクチャーの役割に向けられている。この文書は、全体としての自然を「インフラストラクチャー」と定義し、このインフラストラクチャーを資本に対し魅力あるものにする必要を説明し、この魅力性にとっての鍵となる条件は財産諸規則の全般化と安定化だ、と結論づけているのだ。潜在的に資本は、それが労働力を組み入れたように、全体としての自然を組み入れたいと思っている(もっとも、労働力もまたある種の天然資源なのだが)。

巨大な惨害が難民の中に現実化


――あなたは、環境危機と移住の間にある結びつきに関し少し話せるか? また、未来への傾向をどう考えるか?

 それは気候変動のもっとも恐るべき結果の一つだ。先に話したように、一定の閾値を超えた場合、人類の八〇から九〇億人にとって気候変動に対する可能な適応策はまったくないのだ。もっとも危険にさらされている人々は、彼らが暮らす場所から離れることを迫られることになる人々だ。この過程はいくつかの地域、たとえば西アフリカですでに進行中だ。その西アフリカでは、気候変動が戦争、独裁、テロリズム、また多国籍企業による土地強奪といったこれらの作用と組み合わされている。
それはまた、バングラデシュ、ベトナム、またいくつかの小さな島嶼国家でも進行中だ。この逃れる人びとは何をするだろうか? 彼らは町々の外周部に集中する。彼らの社会的構造は幅広い形で弱められている――女性の経済力の衰弱と一体的な、特にジェンダーの諸関係――。彼らのある者たちは、ほとんどは男だが、豊かな諸国への移住を試みる。彼らがこの旅を生き延びるとすれば、彼らは家族にカネを送ろうと試みるだろう。それは巨大な惨害だ。

気候変動否定するトランプ


――こうした全体の流れでのトランプ台頭をどう評価するか?

 一・五度C炭素予算に対して私が与えた数字が意味することは、われわれが気候変動が急速化する瀬戸際にあるその時に、トランプが権力に到達する、ということだ。キャンペーン期間中にトランプが語ったことは、気候変動は「中国人」がつくり出した悪ふざけということであり、その目的は、米国の製造業の競争力をなくすこと、ということだった。そして彼は、パリ協定を放棄すると約束した。彼のスタッフは気候変動否定論者で一杯であり、彼が環境保護局(EPA)を指導するために選んだ人物は、オクラホマ州司法長官として外部からこの機関を破壊しようと何十年間も挑んできた後で、今や内部からこの機関を破壊したいと思っている。
これはまさに極度に懸念を呼ぶことだ。われわれはパリ協定も、この協定に沿ったオバマの「国毎に決定された寄与」(NDC)も支持しない。つまり両者は、環境の観点からは完全に不十分であり、社会的な観点からは深刻な不公正さをもつからだ。特にわれわれは、一方のパリ協定の目標(一・五度C〜二度C)と、他方のNDCの累積的影響(二・七度C〜三・七度C)の間には巨大なギャップがある、ということを知っている。排出の点では、このギャップは二〇二五年に約五・八Gtに達するだろう。
パリ協定放棄という米国の決定が及ぼす影響を評価する上では、米国のNDCは、二〇二五年までに二Gtだけ排出を削減する(二〇〇五年比で)ことに相当する、またこの二Gtは、協定の署名一九一カ国のNDCに含まれた世界的努力の約二〇%を意味する、ということを知らなければならない。結果としてトランプの綱領が意味することは、もし実行に移された場合、世界の諸政府が行うと約束したものと、大気温一・五度C上昇を超えないために行わなければならないものとの間にある五・八Gtというギャップに、米国がさらに二Gtを上乗せすることになる、ということだ。つまり、米国なしにそれは不可能かもしれないと以前私が言ったように、二度Cを超えないことも非常に、極度に難しくなるだろう。

米国の脱退とその影響


私が考えるに、世界の支配階級の多数は、気候変動はある程度真実であり、その支配への巨大な脅威であること、またこの脅威が「人間起源」であることを今や納得している。これは、中国、インド、EUなどの対応が示すように、トランプの選出で変わったわけではない。サウジアラビアでさえ、パリ協定とそのNDCへの約束を確認した。
しかし米国の逃亡の作用は、逃亡がはっきりした時、他の諸国が先のギャップを埋める目的で彼らの努力を高める気をもっとなくす、という形で現れるだろう。EUの極めて保守的な立場をとる者たちはこの立脚点から多くを語っている。われわれはあらゆるところで、諸政府が気候に関する努力を高めるよう要求しなければならない。一方では、パリ協定の目的とNDC間のギャップを埋めるために、また他方で、米国の逃亡を相殺するためにだ。
これは、現在の資本主義的政策の枠組み内では達成不可能だ。つまりそれは、市場の論理と決別する改革、たとえば無料の公共交通、建物を断熱するための公的イニシアチブ、アグリビジネスに対抗する小規模農民への支援、鉱業企業や伐採企業に対抗する先住民衆への支援などを求めているのだ。
トランプが彼の目標を達成することはたやすくはない、というのは本当だ。米国の気候政策の一部は、一方で州や市やビジネスに依存し、他方でCO2は大気浄化法中で一つの汚染物質と分類されているからだ。しかしこの問題は、もっとはるかに広い関係の中で理解されなければならない。それは、トランプの気候政策の問題であるばかりではなく、全体としての彼の政策に関わる問題でもあるのだ。

米国覇権の後退を取り戻す

 トランプの構想は、世界における米国のヘゲモニーの後退を挽回することだ。これはオバマも狙いとしていたことだが、トランプは方法が異なっている。オバマはこの目標を、新自由主義の世界的な統治という枠組み内で達成しようとした。しかしトランプはそれを、ある種の民族主義的、レイシスト的、イスラム嫌悪と反ユダヤ主義の反文明的政策を通して達成しようと思っている。彼は主に、将来米国に挑む可能性があると思われる台頭中の大国、中国に焦点を絞っている。
この構想は、戦争の危険、第三次世界大戦の危険すら必然的に伴う。ここには、第一次世界大戦以前のドイツの台頭と英国の後退、また第二次世界大戦以前の非常に深い経済的、社会的かつ政治的危機を背景にしたヒトラーの台頭、この両者との間で類推できるものがある(私はトランプがファシストだと言いたいわけではなく、それは論点ではない)。それでもこの情勢においては、諸環境にはらまれた力によって、気候危機の切迫性が二次的な問題に退けられる可能性があるのだ。支配階級の知的な人々がそうではないと気付いているとしてもだ。
すべての雲にはその銀色の裏地がある。この情勢の前向きな側は、米国内の分極化が右翼だけではなく左翼をも利していることだ。女性行進、「ムスリム禁令」と対決する大衆的決起、そして中でも四月二九日の気候のための行進は、トランプを打ち負かすことがあり得る、ということを示している。挑戦は、米国内の民衆にとってだけではなく、世界のわれわれすべてにとって巨大だ。現在の情勢においては、トランプの打ち負かしが気候のために闘う最良の道だ。
われわれはあらゆる国で、米国内の社会的決起という楽隊車に便乗しようと努めなければならない。米国の女性運動は、三月八日(国際婦人デー)における彼女たちの闘いに合流するよう、まさに国際的なアピールを発した。それはしたがうべき事例だ。われわれは同じ精神で、四月二九日(あるいは、米国での科学者のための行進に当てられた日付けである同二二日)の気候のためのデモをあらゆるところで組織するよう挑まなければならない。もちろん、パリ協定を支持するためではなく、急進的なエコソーシャリズムの諸要求を押し出すためにだ。

「新たな地質時代」


――われわれが人間活動によりあまりに深く改造された世界に暮らすにつれ、多くの科学者は、われわれは新たな地質時代、つまり新人世に入り込んだ、ということに同意している。これが革命的左翼の綱領と戦略にどのような意味をもつことになるかという点について、あなたはどう考えるか?

 現実にこれは極めて興味深い論争だ。科学者たちは、新人世は第二次世界大戦以後に始まった、と考えている。その理由は、人間活動の影響が海面上昇、核廃棄物、以前は存在していなかった化学微粒子の蓄積などといった、地質学的諸変化に結果したのは、先の時点になってはじめて、というものだ。これは、地質学的観点からは反駁不可能だ。その日付は客観的事実に依拠している。しかし、社会的かつ政治的な進行中の二つの論争がある。この客観的な変化を駆り立てているメカニズムについて、そして綱領と戦略という点にはらまれる意味についての論争だ。そして両者の論争は結びついている。
メカニズムについての論争は、人類が環境を今も破壊し続けている理由をめぐるものだ。もちろん、この破壊には資本主義がもっとも重い責任を負っている。つまりその成長の論理、抽象的価値生産と利潤最大化の論理は、環境的持続可能性とは両立できない。
時間の関数として環境的危機のさまざまな側面の展開を示す曲線に刻まれた指数関数的特性は、そのはっきりした表示だ。これらすべての曲線(温室効果ガス排出、オゾン層消失、化学的汚染、大気へのエアロゾル負荷、種の減少その他)は、第二次世界大戦以後の屈曲点を示している。資本主義的拡張の長波との結びつきは絶対的に明瞭だ。資本主義の大きな責任を否認すること、新人世は、資本主義のではなくホモ種の、むしろホモ属の結果だと偽ることは誤りである。
しかしこれだけが話のすべてではない。環境破壊という点では、資本主義以前にも存在し、二〇世紀の非資本主義の諸社会にも同じく大規模に存在していた。一定の類似性が女性の抑圧との間にある。実際その抑圧は資本主義以前に存在し、いわゆる「現存社会主義諸社会」の中でも続いた。分析の結論は両者の場合で同じだ。つまり、資本主義の廃絶は、女性の解放にとっての、また人類と残りの自然との非略奪的関係にとっての必要条件であるが、十分条件ではない、ということだ。
女性解放の分野では、この分析の含意は二重的だ。つまり女性は自律的運動を必要とし、革命派はこの内部に一つの社会主義的傾向を建設しなければならない、ということだ。ここでわれわれははっきりと、比較がもつ限界に突き当たる。理由はもちろん、社会的論争に介入できる自然の自立的運動などまったくないからだ。
そこからわれわれはどのような結論を引き出すべきだろうか? 一定の人間が自然に変わって社会的論争に介入しなければならない、ということだ。それこそが、エコソーシャリストがやりたいと思っていることだ。それゆえエコソーシャリズムは、社会的諸要求と環境上の諸要求を結び付ける、戦略と言われるものをはるかに超えるものだ。それは、新たなエコロジカルな意識の発展、自然との関係に関する新たな文化、新たな宇宙の創造をめざす、文明化の構想だ。

新しい文化革命へ


もちろんこの新しい意識を前もって決定することは誰もできないだろう。しかし私は、それは敬意、配慮、注意深さによって動かされるべきだろう、と考えている。われわれは、人類には支配する能力が巨大にある、と分かっている。それはわれわれの知性の産物だ。しかし「支配」は二つの意味で理解され得る。すなわち一方では、残酷さと私的専取の行為として、他方では、困難な問題を理解し解決する能力としてだ。われわれは至急、第一の意味における自然支配を止めなければならない。そして第二の意味において「支配」することに挑まなければならない――彼らの課題を十分にわきまえている良い学生として――。
われわれは多くの破壊をつくり出してきた。しかし、自然に気を配り、可能であればわれわれが破壊してきたものを再建するために、われわれの知性を活用できないというような理由はまったくない。もっとも、ジャレド・ダイアモンド(米国の進化生物学者、邦訳でも評判となった『銃・病原菌・鉄』の著者、三・一一後には、原発よりも気候変動が脅威として、原発を手放すなと主張:訳者)が語ることとは逆に、過去の何人かの他の科学者は、自然に関する極めて深い知識のおかげで、極めて賢明に彼らの環境に気を配ったのだ。
つまりわれわれが必要としていることは、社会革命だけではなく、一つの文化革命でもある。それは、極めて具体的な行動の変化を通して即刻始まらなければならない。しかしそれは、純粋な個人のふるまいという問題ではない。諸々の変化は社会的に育成されなければならない。そしてそれは具体的な闘争を通してもまた前に進むだろう。
先住民の諸社会はひらめきの一つの源だ。私が考えるに、この過程ではいくつかの明確な理由のために、小規模農民が一つの決定的役割を果たすだろう。さらに女性もまた同じだ。それは、彼らが「本質的に」より感受性が高いと思われるからということではなく、彼らが受ける特定の抑圧の結果としてだ。第一に、彼女らは食料の八〇%を生産しているがゆえに、女性は直接に、自然の悪化とその結果という現実に直面している。第二に、女性は家父長的抑圧の結果として、家族内で最も多く出産と育児の任に着いている。これが彼女たちに、私がこれまで述べた三つの動力伝達要素、つまり敬意、気配り、そして注意深さ、の重要性に関する特別な観点を与える。

▼ダニエル・タヌロは実績のある農学者、エコソーシャリズムの環境活動家であり、「ラ・ゴーシュ」(第四インターナショナルベルギー支部、LCR―SAPの月刊誌)の記者。
▼アレクサンドレ・アラウジョ・コスタは、ブラジルのエコロジー活動家。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年三月号)

訳注:
新人世(Anthropocene)とは、人類が地球に及ぼした影響は、地質学的にもそれ以前の時代(完新世)と線引きできるという考え方で、特に二〇世紀に始まったプラスティックや、核実験によって生成される放射性同位元素のような人工物質を特徴とする地質時代。



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