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    かけはし2017.年6月26日号

「身分制度」を打ち破ろう


寄稿

迷走する郵政民営化(下)

労働者の団結再構築のために

――監獄化する郵便局の現場

丸池忠怒

温存された差別構造


 日本の郵便制度は貴族が設計し、庄屋・名主・肝煎などを拠点に郵便局ネットワークを全国に繋げ、実際の現場の配達仕事は「人夫」が請け負った。地域の郵便局とは言ってもそこで働く者は、事務職と現場の配達労働者とはまず身分が違っていた。その差別的構造は戦後も温存され続け、現在もその残滓が現場労働者を苦しめ続けている。
かつての郵政省という役所は二流省庁と言われながらも国策として郵便・通信事業を統括し分厚い官僚層を育ててきた。また郵便局長会(全特)は町内会などと共に自民党の集票システムを担い、その家父長的労働雇用形態を全国の特定郵便局の組織的基盤としてきた。
戦後労働運動高揚期、全逓はこの差別的労務管理に果敢に抵抗し、国労と共にその戦線の最前衛に立ち続けていたこともあった。国鉄民営化を節目に、労働戦線全体が後退していく中で、九〇年代を通して郵便局でもほぼ現場・職場から労働組合運動は蒸発していった。一部抵抗派は小さいながらもいくつか拠点を残し、後に現郵政ユニオンなどの潮流を残す。

それは現代のカースト制


郵便局はイオンに次ぐ非正規労働者を雇用する民間会社と言われるが、その内実はそれだけに止まらない。社員の身分は正規と非正規の二つとは限らない。それはもう現代のカースト制度かと思うほど郵便局のそれは細分化され複雑怪奇である。しかも、インドのカースト制度は主に職業・職種ごとに細分化されるが、郵便局の場合は、すべて同じ職業に属しながら、その雇用時の形態が少し違うというだけでいくつものカーストの烙印を押されるのだ。
主なカーストは以下の通り。正社員─一般職社員(広域転勤を伴わない限定正社員)─無期雇用社員(継続五年以上の時給制社員)─期間雇用社員(半年ごとの雇用契約)─パート・アルバイト。その他にも再雇用社員、事務職の派遣労働者、業務請負労働者等々、法律専門家などのエキスパート社員などというものも。そしてこれら社員には一部を除きほぼすべての一人ひとりに成果主義賃金制度が適応される。期間雇用社員に至っては六段階もの評価制度があり、一段階でも評価が下がるとほぼ半年間にわたって実質減給になってしまう。さらに年賀状などの各種販売ノルマが課される。商品は年賀状や「かもメール」だけではない、イベント小包と言った例えば今なら「父の日」に絡むセット品など、一年中そのような商品の販売ノルマが具体的な数字をもって課されるのだ。局所ごととはいえ各カーストごとに細かく数字設定されるのである。そして交通事故やら誤配やら仕事上のミスへのペナルティは、減点評価に重ねてさらに様々なつるし上げ制度のステージが待ち構えているだろう。
このような身もだえをするような職場の頂点に別格のカーストが君臨する。郵政官僚、いわばバラモンだ。霞が関を主なねぐらにする。さらに加えて郵便局には広域支社制度というものがある。北陸支社、南関東支社、九州支社といったもの。いわば地方の郵政官僚のねぐらで、民営化後その支社組織はかなり空洞化しつつあるが、未だいくつか有力な天下り組織を抱えており、労使双方の官僚たちの出会いの場所でもある。
そして現場にはこれら複雑なカーストを統制する職制―郵政小官僚が生息するが、だいたいこれが一番残酷な小役人役を演じる。パワハラ・セクハラ・イジメの最前線を担う。郵政官僚の虎の威を借り、強圧的で一方的な上意下達を旨とする。社員を懲役刑を課された労働者のように見下す看守ども。職場は本当の監獄である。

流通・宅配業界の構造的危機

 
M&A失敗による郵政事業民営化後初の赤字記事が報道されたほぼ同時期、クロネコヤマトの窮状がクローズアップされていた。発端は神奈川県の元クロネコヤマト複数の社員による内部告発から始まったと言われている。膨大な残業代未払いが発覚、それは全国に波及し前代未聞の不払い賃金額になると一斉に報じた。三月四日朝日報道「ヤマト、巨額の未払い残業代七・六万人調べ支給へ」。一部報道では一〇〇〇億を超える不払い額になるのではとの観測もあった。しかし蓋を開けてみるとその不払い賃金支給総額はわずかに一九〇億円、対象となる社員は約四万七〇〇〇人ということでほぼこの問題は終息した。
しかしヤマト問題はこれ以降宅配事業の構造的な事業危機が全面に取り上げられるようになる。まるでヤマト経営陣が今回の未払い賃金を契機に一気に事業収益構造の改善に手をつけるという決断をしたかのようだった。マスコミ各社もこれを好意的に受け取り、不在再配達問題、ドライバー不足問題、長時間過密労働問題等が改めてクローズアップされる。そのような好意的なマスコミ報道を背景にヤマトはAmazonなどの大口取引先約一〇〇〇社との配送料値上げ交渉を行っている。
大口顧客との契約は日本郵便ともシェア争いを演じており、一時は体力に勝る日本郵便が有利になるのではとも言われていた。確かにここ数年双方のダンピング合戦が続いていたことは確かだが、宅配市場全体に占めるシェア率はここ数年ほとんど変わってはいない。つまり日本郵便がいくらダンピング攻勢をかけてもヤマトのシェア率は持ちこたえてきたのだ。それは明らかに商品の質の問題だったろう。先の郵便局の現場の情況、監獄のような職場からは質のいい商品など提供できようもないのだ。長時間過密労働、人手不足等々の労働条件は同じでも末端のサービスの質の差はヤマトが一歩も二歩も先んじていた。
ただしそれも双方限界にぶち当たった。既に現在の宅配料金では収益を望めなくなっていた。ネット通販の爆発的拡大は、宅配インフラの許容量をはるかに超えてしまっていたのだ。
ヤマトの窮状を横目に日本郵便では今のところ人手不足というほどのことではないとの社長コメントが報道され、現場は面食らった。ここ数年JP労組全国大会でも郵政ユニオンの大会でも最大の課題はこの人手不足問題。余裕のない職場でパワハラ・セクハラが横行し精神主義的進軍ラッパが職場に鳴り響いている。
もちろん既に日本郵便も大口顧客の契約見直しに着手している。それは去年から始まっており取り組みとしてはヤマトより早かったかも知れない。しかし、今でも日本郵便内では地域でのヤマトのシェアを奪還営業すると高ポイントのインセンティブが成果主義賃金として付与されるのだが。

会社を超えた労働者の
ネットワークを

 ヤマトの報道が落ち着きを見せ始めた五月一二日、元ヤマト社員という二階堂運人名による総括的な報告が東洋経済Onlineに掲載された。“ヤマト元社員が訴える「宅配現場」本当の疲弊”というそのレポートは、現場にとっては少々の不払い賃金の改善やら宅配ボックス等の増配置、さらには少々の人員増配置といった改善策などは所詮根本的な解決にはならないだろうと総括し、現場の社員が本当に望んでいることは、として、以下のようなちょっとロマンティックな文章で稿を閉じる。
「昨今、ヤマトが大変というニュースが増えたことで、大きな変化があった。宅急便を受け取るお客が『大変なんですって? 頑張ってくださいね』『再配達頼んじゃって、悪かったわね』とドライバーに声をかけることが多くなったというのだ。
少し前にヤマトはこんなテレビCMを流していた。
『場所に届けるんじゃない、人に届けるんだ!』
本来、そこにヤマトの真髄がある」。

 誇りがまぶしいほどだ。それを単に愛社精神だのと呼ぶのは陳腐である。経営者にとっては好都合だろうが、私はそこに働く者の矜持を見る思いがした。同じなのだと。郵便屋さんもヤマトの社員も、労働の最大の対価とは何かということに関しては、同じだということだ。
想像してみて欲しい、地域の街の歴史を私たちは密かに共有する。小さい頃から見知った子にいつか受験票を配達するだろう。その子が新しく所帯を持ち生まれた子供の名前を配達原簿に加えることもあるだろう。二カ月毎に配達する年金振込通知書と共に、幾人かの心配なお年寄りの情報交換を仲間と交わしたりもするだろう。
確かに私たちは配達先で差別的な眼で見下されたり横柄な対応をされたり、たまには犬に噛みつかれたりもするだろう。それでも大雨の日も吹雪の日も日照りの日も放射能の中だって配達するだろう。そしてその労働の対価は、同じ仕事をしている同僚とのわずかな差をひけらかすような賃金にあらず。共に働き、笑い、泣き、闘い、そして地域社会の一員として働く、それらすべてが本来労働の最大の対価である。その点に関しては郵便屋もヤマトの社員も佐川の社員も変わらないだろう。
であるならば、現場の労働者は共感し合える共通の土台を共有していることになるのだ。会社の枠を超えて、共通の困難を共有し共通の要求を創りあげることさえ不可能ではないはずだ。
日本郵便の細分化された身分制度に絡みつかれた職場からは本当の労働の対価は得られないだろう。それはヤマトさんの職場でも似たよう情況かも知れないが、今回の日本郵便、ヤマト双方の企業の構造的な問題がクローズアップされたのを機会に実は双方の現場労働者は共通の気概を持っているのだということを、もっと喧伝されてしかるべきだろう。
労働の対価は単に商品価値としての賃金にあらず。人生の大半を過ごす職場の仲間たちと地域社会とのそのすべての関係性こそが労働の最大の対価である。それが基本である。それを基準として職場の改善のために闘い、日本郵便の身分制を打ち破る闘いをこそ継続しているはずだ。
私の夢は、今後この現場労働者が共有する思いを基に会社を超えた具体的な継続的な交流の場をどこかに創りあげていき、そしてゆくゆくは会社を超えたストライキ委員会を共に組織化できないかと、大風呂敷を拡げたくなっている。(おわり)

4.15

アジア連帯講座 公開講座

トランプ政権と安倍政権 A

東アジアの反資本主義左翼の展望

(1)シリア攻撃と朝鮮半島危機の連動について(承前)


 
 A朝鮮半島

 北朝鮮へのトランプの圧力、まさに「瀬戸際」戦略をもてあそんでいる。しかし言うまでもなくトランプは中国の意向、韓国の動向、安倍政権の意向にも配慮せざるを得ないだろうが、よりギリギリの攻防になる可能性もあり、「暴発」の可能性がないわけではない。この点で、プーチンのロシアを批判し、習近平の中国を評価する転換にも注意すべきだろうが、さらにどう転ぶかわからない。
すでに北朝鮮が核実験を行おうとするのなら米国は「先制攻撃する」との情報が飛びまわっている。トランプによる「後先を見ることのない」軍事攻撃の可能性も排除できない。
イラク反戦運動で活躍したWPNのようなイニシアチブが必要な状況だと言える。

B欧州の極右の伸長(トランプの友人たち)

 いずれにせよトランプ米大統領の登場は、ソ連・東欧「社会主義」ブロックの崩壊による「歴史の終焉」あるいは〈TINA=There is no Alternative/「これ以外の方法はない」〉という傲慢な言説の崩壊を、あらたな危機的段階へと引き上げた。英国のEU離脱、仏大統領選と国民戦線などの混迷に現れている。
「かけはし」二〇一五年「地政学的カオス」をめぐる討論のために(上)「『歴史の終わり』から『帝国』まで」を参照してほしい。
イラク戦争を前にして、二〇年前にわれわれはどのようなイデオロギー状況に直面していたか、あらためて振り返ってみよう。ついでに言えば「左翼史観」に対する「自由主義史観」としてもてはやされた西尾幹二『国民の歴史』のニヒリズム史観についても挙げておく。
(a)フランシス・フクヤマは、一九八九年に書かれた「歴史の終わり?」、ならびに一九九二年の『歴史の終わりと最後の人間』の中で、ソ連邦の崩壊によって「対立の歴史」は終焉し、リベラル民主主義に代わる政治制度・イデオロギーはもはやありえないと主張した。
「自由主義経済という大枠の中で、さまざまなヴァージョンが競い合っており、その競争はこれからも続くでしょう。/しかし繰り返しますが、それは経済的イデオロギーをめぐる競争であり、政治的イデオロギーをめぐる闘争ではありません。政治的イデオロギーをめぐる命がけの闘争が世界を動かしてゆく歴史の時代は決定的に終わったのです」(浅田彰との対話。浅田『「歴史の終わり」を超えて』中公文庫より)。

 (b)サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』(一九九六年)は、フクヤマの「歴史の終わり」と「対立の消滅」の主張に反対するものだったが、それは「イスラムと非イスラム」の「文明間衝突」を新しい紛争の基軸に押し出すことになった。
「フォルト・ライン戦争(異なる文明圏の国家や集団のあいだで起こる、共同社会間の紛争)の圧倒的多数は、ユーラシアとアフリカを三日月状に横切り、イスラム教徒と非イスラム教徒を分離する境界線に沿って起こっている。世界政治のマクロ・レベル、すなわちグローバルなレベルで見れば、文明間の中心的対立は西欧とその他になるが、ミクロのレベルで、つまり地域レベルで見れば、イスラム教徒とその他の紛争が中心である」。
(つづく)



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