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    かけはし2017.年6月5日号

巨大な責任が労働組合と社会運動の肩に


ブラジル

4・28ゼネストを経て

テメル政権との総対決が始まる
画期的統一を政治主導力再生へ

ロベルト・ベラス・デ・オリベイラ


 

 四月二八日、ブラジルはこれまででもっとも印象に残るゼネストの一つを目撃した。いずれにしても、このストライキの後何が変わったのだろうか? テメル政権に対する抵抗はどのように進むのだろうか?

労働組合の政治的指導性の後退


ブラジルでのこの四月二八日のゼネストは、最後のものからは一一年後、最初のものからは一〇〇年後に起きた。労組運動はこの期間を通じて、この国の歴史に精力的に参加してきた。この運動が迫害を受けた二〇年にわたる独裁期(一九六四―一九八五年)の後、労働組合運動は、再民主化の歩みにおいて、また一九八八年憲法に首尾よく何とか諸々の社会的改良を含ませることができたことに関し、傑出した役割を果たした。一九八三年から一九九六年の間には、ブラジルの諸労組は六回のゼネストを敢行した。
まさにその始まりから二つの異なった方向性が結晶化した。その一つは、「ニューユニオニズム」の継承者であり、労働者党(PT)と提携し、一九八三年に生み出された中央統一労組(CUT)により代表された。もう一つは、公認諸労組連合に結びついた諸部分の支持を得て同年創出された、そして一九八六年に名称を労働者総連合(CGT)とあらためた、労働者階級全国評議会(コンクラート)により代表された。
この僅か数年後の一九九一年、CGTの反対派は労働組合の力(FS)を創出したが、この勢力は新自由主義的思考との関係では実用性次第との観点を防衛している。
一九九〇年、フェルナンド・コロルとフェルナンド・エンリケ・カルドゾの諸政権は、職の創出とは切り離されたマクロ経済諸政策を通して、新自由主義の設定課題、すなわち、私有化、公共サービス投資の縮小、労働関係諸法の緩和、反労組的構想、を推し進めた。諸労組は、失業の増大、労働力市場の非公式化、賃金や諸手当の切り下げ、といった筋書きが固まるのを前に、守りの闘いに押しやられた。彼らは大きな程度で労働者の要求の前線に何とか留まることができた。しかし、過去には彼らを特性づけた政治的指導性を示すことができなかった。
この国は、ルイス・イグナシオ・ルラ・ダ・シルバとディルマ・ルセフの大統領期の下、経済成長と所得配分における諸々の改善という道を回復した。職場におけるより良い公的諸条件、より有利な政治的空気、また労働協約交渉における、そして異なった政治行動の組み立てにおける、労組の行動に対する便宜供与もあった。
しかしこの結果は、一九八〇年代に諸労組がもっていた政治的役割の回復とはなっていない。CUT内部で優勢な立場は、社会的設定課題や労働に関わる設定課題について、イニシアティブの政府への委任を支持するというものだった。そしてこれが内部の反対に導いた。
そしてこの後、PTの左に立つ二つの政党の影響下に、「労組と民衆センターコンルータス」(CSP―コンルータス)が出現した。ここで挙げた二政党とは、社会主義自由党(PSOL)と統一労働者社会主義党(PSTU)だ。また、「ブラジルの共産党」(PCdoB)に結びついたブラジル中央組織(CTB)、インターユニオンも生まれた。

社会政策の全面退行策す政権


ルセフの第二期は二〇一五年、初期的な経済危機および保守諸勢力の前進を背景として始まった。これらの保守勢力は、主流メディアから助けを受け、両院における右翼の協調行動の成功、司法の右に向けた移行、また「汚職との闘い」を旗に掲げた中産階級諸層の決起による後押しを受けた。
中道左派政権に対する包囲攻撃は結論まで続き、これが憲法にのっとらない手段を通した大統領の解任になった。議会、司法、メディアのクーデターは、一九一六年の四月から八月までにかけて遂行された。ルセフの放逐をもって、副大統領のミシェル・テメルが割り込み、彼の党、ブラジル民主運動党(PMDB)とカルドゾの党、ブラジル社会民主党(PSDB)が率いる連合のトップとして、彼が大統領に就任した。ちなみにPSDBは前の四回の選挙で、PTに敗北している。
その時以来、経済危機が深まり、失業率が一三・七%に達する(二〇一四年にその最低として四・八%に達した後)中、退行的な社会的、政治的設定課題が現政権により実行され続けている。この政権は、極度に低い支持率、およびその主要幹部――大統領自身を含め――を巻き込んだ腐敗の申し立てにもかかわらず、議会とメディア内で今なお十分な支持を当てにできている。そしてそれが政権に、その政治的かつ社会的な綱領を維持することに余地を与えている。
政権には三つの主な優先政策がある。第一は財政調整であり、主には公的支出の切り下げを目標にしている(今後の二〇年間予算に上限を設ける憲法の修正は、債務利子の支払い向け予算配分を唯一の例外として、すでに通過させられた)。
第二は、社会的諸権利と労働者の諸権利の切り下げだ(アウトソーシングを幅広く、公的管理内にあるものまで広げる一つの法がすでに通過させられ、労働力市場と年金の改革に関するいくつかの法案は現在下院で検討中だ)。
第三は、私有化の強化と公的企業の私有部門への引き渡しだ(ここでの象徴は、ペトロブラスの資産と鉱物資源採掘地域だ)。
標的にされつつあるものは、ルラとディルマの政権の社会諸政策だけではなく、一九八八年憲法で認められた諸権利、さらに一九四〇年代の統合労働法(CLT)に含められた諸々の保証にまで広げられている。現在までこの法案に対する抗議は、暴力的に弾圧され、主流メディアの支持を得て犯罪扱いされてきた。こうして新しい筋書きは、この退行的課題設定を逆転するための巨大な責任を、労働組合と民衆運動の肩の上に置いている。

諸労組 社会運動の壮大な合流


これこそが、さまざまな運動の要素が四月二八日にゼネストを呼びかけた背景だった。それらの運動勢力には、労働組合として、CUT、CTB、インターユニオン、CSP―コンルータス、UGT(ブラジル一般労組)、労働組合の力、新中央、CSB(ブラジル中央労組)、CGTB(ブラジル総中央労組)があり、民衆運動としては、土地なき労働者運動(MST)、家なき労働者運動(MTST)、中央民衆運動(CMP)があり、ブロックという形に編成され組織化されたものとしては怖れを知らない民衆戦線やブラジル民衆戦線があった。
それは、さまざまな労組と民衆諸勢力の統一の点で、ある種今までとはまったく異なる画期だった。たとえば留意が必要なこととして、労働組合の力は、ルラ政権との抜き差しならない関係にもかかわらず、そうであってさえルセフ弾劾を支持したのだ。
ゼネストは決定的なときに起きた。それに先立つ水曜日、議員たちは政府が提出した労働改革法案を承認していた。そしてそれは今、上院の手続きの通過を待っている。年金制度の改革もまた現在審議中であり、早期の議会承認が議題に上っている。
抗議活動は、猛烈なソーシャルメディアの活動から後押しを受け、いくつかの鍵を握る労組から最初の支持を受けた。それらの労組を例示すれば、銀行、冶金、石油、石油化学といった部門の労働者、私立と公立の学校教員、公共交通とオートバイの労働者、また郵便、土木建設、貿易、医療、都市サービスの諸労組だ。
政府はその工程表を固守し、団結を固めようとしていた運動を無視した。主流メディアは、ストライキの呼びかけを広めるどのような情報も遠ざけようと気を配った。その情報拡散は基本的にソーシャルメディアを通じて成し遂げられた。国中のカソリックの司祭と司教による支持は、このストライキを支える極めて肯定的な発展――ブラジルの守護女神であるアパレシーダの聖母の三〇〇年祭礼(この聖母像は一七一七年に三人の漁師が拾い上げたとされる:訳者)へのテメルによる招待をフランシス教皇が拒否したことにより、姿勢の変化が強化された――と解釈された。教皇は、出席を拒否しただけではなく、住民の最貧困層の状況を悪化させている政権の諸方策について、いくつかの批判的コメントも加えた。

抵抗再生に向けた歴史的一日

 四月二八日のストライキは、国中で諸活動の停止を引き起こし、その後には諸々の行進、集会、道路封鎖、デモが続いた。テメルと連携する州政府は、弾圧へのゴーサインを出し、リオジャネイロはその好例となった。ここでは警察が、この町のシネランディア広場でデモ参加者が集会を行うことを、催涙ガスを使い人々に殴打を加えることで妨げた。ゴイアスでは、警官に乱打された若い学生が今も意識不明だ。サンパウロでは、三人のMTST指導者が、放火と暴力扇動の罪の嫌疑で逮捕され、今獄中にいる。
政府の当局者たちはその声明で、この抗議行動を不法だと決めつけ犯罪扱いした。農業相の場合このストライキは、「取るに足らないもの」だった。テメルの場合それは、「国民の近代化に関する諸法」に対する拒絶に駆り立てられた、「小グループの街頭や終着駅の封鎖」にすぎなかった。メディアと言えば、彼らは最初起きようとしていたことを無視しようと試みた。しかしその後事実を隠すことは不可能だと悟り、街頭における衝突や物的破壊の報道、という選択肢を取った。
組織化にあたった者たちは、約三五〇〇万人の労働者がこのストライキを支持した、そしてそれがこのストライキをこの国の史上最大のゼネストの一つにしている、と語っている。彼らの行動は、労働と年金の改革法案に賛成か反対かの票を投じようとしている下院議員と上院議員に圧力をかけつつ、五月一日のデモとして、またブラジリアにおける大きな統一行進――その日取りはまだ決まっていない――の準備として続いた。保守勢力の猛攻に反対する諸勢力にとって四月二八日は早くも、この国の方向を抵抗を利するものに変えた歴史的な一日と考え始められつつある。

▼筆者はブラジルのパライバ大学の助教授。『ブラジルの労働組合主義と民主主義:新労働組合主義から社会ユニオニズムへ』の著者。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年五月号)

香港

学者200人以上共同声明

怖れと怒りを感じて

民主主義派指導者起訴に抗議

 当地と海外の大学の学者二〇〇人以上が、二〇一四年の親民主主義オキュパイ抗議行動での指導的役割を理由とした、香港の活動家に対する起訴を批判する共同声明に署名した。
 「われわれは怖れと怒りを感じている」、先の声明はこう綴る。そして「香港民衆の普通選挙権を実現するための非暴力的な闘いを理由にこれらの学者を起訴するという香港政府の決定に、われわれは強く反対する」「平和的な学者と市民たちに対するこれらの犯罪的な訴追には、自由で開かれた社会との香港の世評に対し永久的な損害を与えることに加えて、世界と当地の学者、学生、若者に巨大な失望を起こす効果がある」と続ける。
 この声明には米国、カナダ、日本、シンガポール、スペインといった諸国にある海外の機関から、九〇人以上の学者が署名した。はっきりと声をあげた学者の中には、ドイツのハーティ・ガバナンススクール学長のヘルムート・アンハイアーがいた。〔最初の〕公表時点では、当地の諸々の大学からも、一〇〇人の学者がこの文書に署名した。
 このキャンペーンは、オキュパイの指導者に対する先頃の警察による弾圧への対応だった。九人の指導者が公共への有害行為というさまざまな訴追に直面している。一方当地のメディアは、諸々のニュースソースを引き合いに出し、抗議行動に関わった三九人の個人がまもなく似たような訴追に直面するだろう、と語っている。
 標的にされた一人、社会学教授のチャン・キン―マンはもっと早い段階で、彼と他の二人の運動創設者は、公共への有害行為をつくり出すために他者を扇動したという嫌疑での罪を弁解するつもりはない、その理由は、「扇動された者たちには自由な意志がないという遅れた想定が基礎になっている」時代遅れの起訴だから、と語った。
 何人かは、法廷で証言する意思を表明することによって指導者たちへの支持を表明するためにソーシャルメディアに頼った。その証言は、彼らをデモに参加するよう扇動したのは、抗議行動の指導者たちではなく、北京と香港の当局者たちだった、というものだ。
 アムネスティインターナショナル香港やフリーダムハウスのような国際的人権監視機関は、これらの起訴を厳しく非難した。米国の上院議員であるマルコ・リビオもまた香港政府に、完全な民主主義に対する香港人の要求に答える「意味のある歩み」を進めるよう迫った。
 香港政府はオキュパイの抗議行動を「違法な運動」と呼んでいる。
 指導者たちは、五月二五日に東部地区予審法廷に姿を見せるだろう。この法廷はその後事件を、陪審のない地区法廷か、陪審がつく高等裁判所での審理に付すだろう。公共への有害行為という違反行為に対し法は、最高で七年の投獄刑を規定している。(香港フリープレス四月一日より)(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年五月号)


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