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    かけはし2017.年4月24日号

「働き方改革」は丸ごと民衆攻撃


いのちと権利への敵対許さない

過労死放任「時間規制」認めない

労働者民衆の総反撃へ

人々の願いをもてあそぶ

 安倍政権のペテン政治がますますひどさを増している。そこにまた一つが加わった。三月二八日に決定された「働き方改革」実行計画だ。長時間労働の是正と同一労働同一賃金を二枚看板に、安倍首相が自ら音頭を取って鳴り物入りの宣伝に努めてきた政策だが、この二枚看板が二枚とも、決定された実行計画では中味が一八〇度逆のものになっているのだ。それは、この改革が労働者の願いとは無縁であるばかりか、労働者への総攻撃であることをあかしている。
 その二枚看板には確かに貧困と格差が広がり、過労死や職場に起因する心身疾患の広がりに代表される、深刻さを増す社会現状が反映されている。実際、職場に入り僅か一年で過労の末自死に追い込まれた電通の高橋まつりさんの過労死は、社会に大きな衝撃を与え、人々に長時間労働の深刻さをあらためて知らせた。その限りで、この二枚看板が社会が政治に取り組みを迫っている重大問題であることに間違いはない。そうであればこそ、政権がそれに取り組むと打ち上げたことに一定の期待が寄せられたことにも理由がある。逆に言えば、その期待への裏切りはそれだけ重大なものとなる。
 そうであればこそわれわれは、その裏切りを安倍にとっての重大事にしなければならない。われわれには、その裏切りを徹底的に暴き出し、その底にある「働き方改革」の本当の姿を引き出すことが求められる。そうすることで、「働き方改革」への総反撃に道を開き、人々の切実な願いを軽々しくもてあそんだ代償を安倍首相に払わせる民衆的な闘いを作り上げることが求められる。

労働時間「規制」だって?

 現実に今回の実行計画はまさにその重大な裏切りを赤裸々にした。批判が各方面で吹き出していることは当然だ。その批判が何よりも集中しているものが労働時間「規制」だが、それこそ、このひどい裏切りのもっとも分かりやすい、さらにこの「働き方改革」の正体を浮き彫りにし、象徴する事例と言ってよい。
立ち入った検討は後述するとして、画期的、などとの大げさな形容付きで決定された時間外労働の規制基準は、何と特例最長月一〇〇時間、休日労働を除いて年間七二〇時間、という考えられない長さになっている。しかも、この「特例」に厳密な要件が示されているわけでもないのだ。さらに、長時間労働が横行している自動車運転業務や建設業には法施行後五年間の猶予が与えられ、医師の場合にも具体的規制は五年後を目途とする、とされている。研究開発業務にいたっては規制の適用除外だ。これらのどこが長時間労働の是正だろうか。
この誰にも分かるインチキさは、三月一七日の「働き方改革実現会議」で方向決定された直後から、当然のことながら各方面の、特に長時間労働の非人間性をもっとも痛切に知る、過労死で家族を奪われた遺族の強い批判を浴びた。しかし結局三月二八日、何ら再考されることもなく先のように決定されたのだ。この経過自体も裏切りのひどさを上塗りすると言っていい。
前述した高橋まつりさんの母親である高橋幸美さんは、この決定から時間を置かず「……過労死を予防するための法案なのに、過労死ライン以上の一〇〇時間とするのは、過労死をさせよ! ということを認める法律でしょうか……」と、悲痛とも言えるコメントを出した。怒りはあまりに当然だ。しかも高橋幸美さんは、「働き方改革実現会議」の座長である安倍首相からわざわざ官邸に招かれ、時間規制についての意見を聞かれていたのだ。安倍首相は高橋さんの痛切な訴えをどう受け止めたのだろうか。結果から見れば、安倍にはまじめに考えるつもりはまったくなかった、と言わざるを得ない。

「日本経済再生」の犠牲

 同一労働同一賃金についても同じだ。そこには長い労働者の、特に女性たちの闘いの歴史がある。そしてその根底には、人間としての平等と人権に対する深い希求があった。しかし今回の実行計画にそのような歴史へのまなざしなど皆無だ。
結果として本実行計画が言う同一労働同一賃金とは、人権や人間としての平等とはまったく無縁、単に労働者を経済に動員するための動機づけ、いわゆるモチベーションの問題にすぎない。結局は労働意欲を高めるための処遇はどうあるべきかという議論であり、いわば企業人事管理論の焼き直しと言っていい。
当然のように議論の対象から女性は完全に消され、問題は、正規と非正規の、しかも企業内に限定された処遇差の問題に切り縮められている。論じられている処遇差は、賃金・手当、職務研修のみだ。非正規労働者にとってもっとも切実で核心的な権利や職の安定は端から無視されている。
しかし現実問題として、この権利と職の安定に対する保証の弱さこそが、非正規労働者に対する差別的処遇と深く結び付いているのだ。したがってその無視は決定的と言わなければならない。当然だが、労働条件全般の決定に対して、当事者である非正規労働者の位置などどこにもない。さらに付言すれば、実はこの実行計画全体を通じて、時間外協定の当事者として登場する以外、労働条件全体の決定に関わる当事者として、労働者も労働組合もふれられてすらいない。
このような論理では、同一労働同一賃金どころか、意味のある差別的処遇の是正さえ出てきようがない。案の定、くどくどとしたガイドラインが描き出したものは、結局は企業が設定したキャリア形成コースに基づく差別を是認し、極度に不合理な、たとえば特殊作業に関わる危険手当のようなものの差別のみに是正を求めるにすぎない。まさに現状追認であり、特に労務管理システムを精緻に整備している大企業にとっては痛くもかゆくもないだろう。
しかし非正規労働者にとっては、この改革の法制化が打撃にならざるを得ない。現状の処遇差に法的根拠が与えられるからだ。非正規労働者はいわば、分を超えた要求はするな、と言われているに等しい。そしてその処遇差の合理性を争う際、企業には説明義務があるだけであり証明義務が課されていないことがそれに付け加わる。
見えてきたようなこの二枚看板に露骨に現れた不誠実、そして労働者のいのちと尊厳、また権利に対する根本的無関心が、今回の「働き方改革」を貫いている。そしてそこには何の不思議もない。本実行計画自身に明記されているが、この「改革」の本当の目的はあくまで、労働者の状況の改善ではなく、「日本経済再生」にあるからだ。「働き方改革」はその方策として位置づけられ、改革がめざしていることは、労働のあり方を経済再生に役立つものにする、ということだからだ。
その必然的帰結として、「働き方改革」は不断に労働者に対する攻撃に転化している。紙面の関係でここではふれないが、たとえばテレワークなど権利保障のない労働形態、いわば名ばかり自営の大々的導入への布石など、危険はまさに満ちあふれている。安倍首相はかつて「日本を世界で一番企業が活動しやすい国にする」と豪語したが、「働き方改革」はその具体的方策の一つ以外の何ものでもない。二枚看板はそこから注意をそらすお飾りにすぎない。以下ではそれを、労働時間規制に絞ってより具体的に確認したい。

とんでもない数字


まず今回の規制案では、週四〇時間を超える時間外労働の上限は一応、月四五時間、年三六〇時間が原則とされている。そしてその違反には罰則が課されるとされ、これが画期的なのだと宣伝されている。しかしすぐさま、「臨時的な特別な事情」という何の限定もなくどうにでも適用可能な条件に、労使合意での協定締結を要件に加え、先のような超長時間労働を認めている。要するに実際上はほぼ無制限に、少なくとも年間七二〇時間の時間外労働が労働者に強要される仕組みになっているのだ(強要とあえて言うのは、労働基準法三二条は、まず原則規定として、一日八時間を超えて労働させることを罰則付きで禁じているにもかかわらず、時間外労働労使協定――いわゆる36協定――がある場合は、労働者個人には時間外労働を拒否する権利がない、との最高裁判例があるからだ)。
しかもこの七二〇時間(月平均六〇時間)には、実行計画本文では、トリッキーにも休日労働が含まれるのか否かは明記されていなかった、しかし、後段の煩雑な月平均の取り方にしたがった月八〇時間、月一〇〇時間を可能とする場合は休日労働を含むとしていて、この規定との対比で各方面から疑問が指摘される中、結局含まれないと、事後に判明したのだ。そして国会審議の中では、この月七二〇時間は、休日労働を加えた場合、年間九六〇時間(月平均八〇時間)をも可能にする基準であることが明らかにされている(三月二二日、参院厚生労働委員会、厚労省山越敬一労働基準局長答弁)。この経過自体もこの「働き方改革」に刻印された狡猾さを示して余りある。
とにかくこの九六〇時間とはとんでもなく恐ろしい数字であることを確認する必要がある。それは現在の過労死労災認定基準が、時間外労働が月四五時間を超えると業務と発症との関連が時間と比例的に高まり、月一〇〇時間、あるいは二ヵ月連続月八〇時間では、業務と発症との関連が強い、とされていることがはっきり物語っている。裁判では、この水準以下の時間外労働でも過労死が認定されていることも付け加えておきたい。要するに、月一〇〇時間容認を含め、今回の時間外労働規制案は、死んでもおかしくない基準案、過労死容認、放任案と言うしかない代物なのだ。
そしてこの水準が、日本経団連を構成する大企業に一般的な時間外協定時間(年間、一ヵ月、あるいは三ヵ月)であることも加えなければならない。つまり今回の規制案は、大企業の現状に対する追認を意味し、彼らには何の痛みもない、ということだ。さらに重大なことは、毎月延々と月八〇時間、あるいは単月一〇〇時間という時間外労働の法的容認は、先に見た過労死労災認定基準の否定を内包し、その緩和の狙いすら透けて見えるという危険だ。
これらは、規制とは名ばかりの、まさに労働者に対する攻撃以外の何ものでもない。まさにこうして、この実行計画本文には「意欲と能力ある労働者の自己実現の支援」などというまさに詐欺的なタイトルの下に「高度プロフェッショナル制度の創設や企画裁量型裁量労働制の見直し」について「国会で早期成立を図る」との一文がさりげなく差し込まれた。現在国会に上程され、全労組、また「全国過労死を考える家族の会」、そして過労死と闘ってきた弁護士団体が強い反対を明らかにしてきた労基法改悪案の早期成立にむけて、露骨に圧力がかけられているのだ。
そしてこの点では、この一文を含んだ実行計画が連合会長同席の下に決定されたことの重大性、つまりこの間の連合方針の否定を意味するという問題を指摘する必要がある。連合傘下の各労組にとってそれは容認できることなのか、重大な問題が提起されている。

労働組合の反省が必要


ところで今回の時間規制について政権が、さらに連合までも大宣伝に努めている罰則をつけたことが画期的、という点についてだが、その規制という意味、実効性はそれほど大きくないということは付け加えておきたい。というのも、見てきたように年九六〇時間という基準はすでに労働者の生理的限界だからだ。それ以上の時間外労働を強要することは、現実的にさまざまな意味で合理性を欠くことになるだろう。それをあえてやる企業があるとすればまさに確信犯的な荒稼ぎしか念頭にないブラック企業ということになるだろう。そしてそうした企業は、現労基法三二条の罰則(極めて軽い)に対する姿勢と同様、まさに抜本的な重罪(あるいは懲罰的な高額罰金)とでもしない限り、やり得として法を無視するだろう。罰則をつけたことが前進だ、などという恩着せがましい主張を許してはならない。
長時間労働の是正は何よりも、労働者が自ら闘い取らなければならない課題であること、もはや小手先のごまかしでの対処を許してはならない問題であることを、今回の「働き方改革」はあらためて突き付けている。現に長時間労働を強いているは企業の方であることを明確にしなければならない。労働者は休みたいのであり、家族とのあるいは仲間との時間がほしいのだ。そしてそれなしに尊厳ある生活は不可能だ。労働者の長い闘いの歴史が示すように、八時間労働制、さらにそれを超えた時間短縮の要求は人間であることの根源的な要求であり、あくまでそれを出発点にしなければならない。今回の実行計画本文中にあるような、「長時間労働を自慢するかのような風潮が蔓延・常識化している現状」などと、あたかも労働者にも責任があるかのような勝手な認識を許してはならない。
それは労働組合にも厳しい反省を迫っている。現実にも労基法三六条の八時間労働の例外規定が労働組合(あるいは従業員過半数代表)との協定を要件にしていることには、労働組合に労働者個々の権利の守り手としての十分な役割を期待する意味も込められているはずだからだ。現状の長時間労働の蔓延は多くの労組がその期待に応えてこなかった、ということを意味する。
その意味で今回の「働き方改革」実行計画決定に際した、労働時間規制に関する連合、日本経団連合意書が、現状を生み出した自らの責任に対する厳しい自己批判を一切欠いたまま、恩着せがましい記述に終始していることは見苦しさを通り越している。まして、今回の合意を歴史的前進などと持ち上げた連合事務局長談話は、もはや裏切りを超え、丸ごとの権力依存、安倍政権翼賛に近い。それは連合の質的転換への踏み込みを意味するのだろうか。傘下諸労組には、運動のあり方についての真剣な熟考が求められている。
そしてわれわれには、このような合意を踏み越えて、「働き方改革」という仮面をかぶった労働者への総攻撃を丸ごと粉砕する、全民衆的な共同の構築に全力で挑戦する任務が突き付けられている。  (神谷)   



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