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    かけはし2017.年4月3日号

女性の運動が今抵抗をけん引


フェミニズム

始まっているのは階級を基礎に
多様性を消さない集団的な決起

シンツィア・アルッツァ/ペネロペ・ドゥガン

 今年三月八日の国際婦人デーでは国際的に協調された呼びかけを軸として、ここ何年もの間見られてきたものよりも、より大規模かつ広がりの大きな諸決起があった。これを受けて、「インターナショナルビューポイント」としてペネロペ・ドゥガンが、これらの決起がはらむより幅広い意味について、米国の女性ストライキ組織者の一人、また著名なマルクス主義フェミニストであり活動家であるシンツィア・アルッツァに聞いた。合わせて、三月八日以前に書かれたアルゼンチンの運動体による論考を別掲する。フェミニズム運動の新しいエネルギーとその政治的性格の発展をより幅広い背景の中で理解する上で貴重な視点が提示されている。(「かけはし」編集部)

新しい運動が姿を現した


――筆者は一月二一日の後、「女性行進:抗議から運動へ?」との標題で一つの論文を書いた。あなたはどう考えますか、われわれは今見つつあるものを、運動と呼ぶことができるだろうか? 米国で? 世界規模で?

 昨年夏私が同じ質問を聞かれた時は、否定的に答えた。私は今回答を変えることができることを喜んでいる。まさに私は、おそらくわれわれは国際的なレベルで新しいフェミニスト運動の誕生を目撃しつつある、と考えている。もちろんこれは、あらゆるところにフェミニスト運動があるということを意味しているわけではない。
国際女性ストライキには五〇ヵ国が加わったが、ストライキへの参加は、さまざまな国ごとで不均質だった。ポーランド、アルゼンチン、イタリア、スペイン、アイルランド、そしてトルコでは中でも最大のデモがあった。他の諸国では、ストライキが大きなメディアでの可視性を獲得し、われわれは、強力で大きな反資本主義的フェミニスト潮流と動員の再建における最初の数歩を今見つつあるのかもしれない。つまりこれは、たとえば米国の場合であり、そこでは、七〇〇〇人のニューヨーク市行進が、明確に急進的な政綱に基づき呼びかけられた。一つのデモとしては、ここ何年かでは最大の参加を実現した一つとなった。
しかし特にこの主題に関係していることは、これが国際的に計画され、協調が図られた決起だった、という事実だ。われわれは、二〇〇〇年代初め、またグローバル・ジャスティス運動以後、国際的協調のこのレベルに比較できるものはいかなるものも見ることができなかったのだ。

――メキシコの一同志は、すでに三月八日以前に、喜んで肯定的に応じていた。あなたはどう考えますか、彼は早まりすぎていたのだろうか?

 ポーランドおよび一〇月のアルゼンチンでの印象に残る女性ストライキ、そして一一月のイタリアでの大衆的なデモを前提とすれば、三月八日以前に肯定的な回答に対する基礎はすでにあった。諸々の信号はすでに国際婦人デー以前にあった。そしてストライキへの参加がそれらを確証したのだ。

連帯と集団的行動再建への自覚


――われわれは、一九六〇年代後半/一九七〇年代はじめに、女性運動の「波」について語った。それが、女性と女性の要求を世界中の諸国で政治の地図に押し出した一つの力だったからであり、それが政府レベルでの応答を強制したからだ。今はより全体的に守勢的な情勢だが、それでもあなたは、われわれは今日同じ力を見つつある可能性がある、と考えますか?

 私は次のように言いたいと思う。つまりある種散漫なレベルでだが、この決起はすでに政治的優先度の再定義という領域で強力な作用を及ぼしつつあり、いくつかの国、たとえばポーランドでは、すでにいくつかの重要な勝利を勝ち取った、ということだ。もちろん情勢は守勢的だ。しかしまさにこの理由から、この新たなフェミニスト運動はそれだけ重要なのだ。
それは、同時に女性の要求と声を運動の中心に留めることを確実にしつつ、より幅広い社会運動に対する一つの引き金として作用する可能性がある。これは大きな成果になると思われる。

――これらをつなぐ四〇年間、もちろんフェミニストの活動は存在してきた。しかしそれは多くの場合に、相対的に制度化された水路(政府やNGO)を通して、あるいは完全に個人化された抗議の諸形態に基づき、世界女性行進のような努力にもかかわらず、より断片化されることになった。もちろんこのすべては、一九九〇年代のポストモダニズムをはじめとする全般的な政治的つながりの中で考えられなければならない。われわれは、行動のより集団的な形態への復帰のために、上述の点を克服したのだろうか? それは、新たな波を語ることを可能にすると思われるものだろうか?

 私は次のように考える。つまりこれらの決起は、われわれの身体、自由、また自己決定権に対する連続的攻撃から、さらに帝国主義的かつ新自由主義的諸政策からわれわれ自身を守ることのできる唯一の方法として、連帯と集団的行動を再建する必要性に関する新たに高まりつつある自覚を示し続けている、ということだ。その上でそれらは、フェミニストの議論と実践に含まれる自由主義的傾斜に対する一つの解毒剤としても機能を果たしている。
と同時に、「ポストモダニズム」、個人主義、あるいはある種の独自性偏重政治の克服は、六〇年代への単純な回帰を意味してはならない。マルクスがわれわれに教えているように、後戻りは決して一つの選択肢ではない。
われわれはここ何十年間で、階級、民族性、人種、年齢、能力、さらに性的志向性に応じた、女性を称する者たちの社会的条件の階層化に関してより多くのことに気づいてきた。新たなフェミニスト運動が直面しなければならない挑戦課題とは、それらの違いを見えないものにすることのない、逆にそれらを真剣に考慮する、そうした要求と組織と行動の形態を接合するという挑戦だ。
この多様性は、われわれを分断する何かあるいは障がいというよりも、むしろわれわれの武器とならなければならない。しかしそうするためには、われわれは、特に女性を称する者たちのうちもっとも抑圧された人々に可視性と声と主役の位置を与える必要がある。
つまり、真に普遍性のある政治を生み出すただ一つの方法は、それらを、資本主義的かつ異性愛―家父長主義的な諸々の社会関係に対するより包括的な批判の中で一体的に組み合わせることによるものなのだ。ある特定の抑圧を基礎とした各々の政治的主体化は、資本主義、レイシズム、また性差別主義がわれわれの生活を苦しめるさまざまなやり方に関し、新たな知見をわれわれに提供できる。

なぜストの呼びかけだったのか

――女性の選択する権利と暴力に反対する権利は、たとえば労働者としての女性の権利よりも、もっと中心化されつつあるテーマとなっているように見える。女性の権利に関して活動を維持している労組、三月八日のストライキを呼びかけた労組はある。後者の例としてはフランスでCGTとSUDの諸労組が、女性と男性間の賃金格差を問題にするために、午後三時四〇分からのストライキを呼びかけた。職場でよりも、地域や共同体を基礎として女性を動員する方がもっとやさしい、あなたはそう考えますか?

 私が言おうと思うのはそれとは逆に、この新たなフェミニスト運動を特性づけているものはまさしく、それが女性の労働を見えるものにしつつあり、女性を単純に女性としてではなく労働者と呼んでいる、ということだ。三月八日に対しわれわれが「ストライキ」という用語を当てたのはたまたまではなかったのだ。
一定数の諸国には全国的政綱があり、それは、女性に対する暴力は個人間あるいは家庭内暴力であるだけではなく、資本主義市場のゆっくりとした暴力、加えてレイシズム、イスラム嫌悪、そして移民政策と戦争の暴力でもある、という事実を強調していた。われわれは女性を、女性および労働者として動員し続けている。つまりこれが、三月八日のもっとも強力なメッセージの一つだった。
どちらかを選ぶ必要はここにはまったくない。そしてこれがまた、米国でわれわれが九九%のためのフェミニズムというスローガンを採用した理由でもある。つまりわれわれは、女性が、特にレイシズム差別を受けている女性が、勤労階級のもっとも搾取された者であり、また家庭内でかつ家庭外でもっとも働いている層でもあるということに完全に気付いているがゆえに、階級を基礎に置いたフェミニスト運動を求めているのだ。

――米国では、ストライキするよう女性に求めることは特権をもつ女性への呼びかけだ、との論争が起きた。あなたはこれと闘ってきた。私には、そうしたことが他で起きたとは信じられない。それは、ヒラリー・クリントンの、民主党の支持者だけのことか?

 ストライキは特権をもつ人々向けのものという主張は明らかにばかげていて、恐ろしく恩着せがましく、その上歴史にも反している。しかしその中で興味深いものは、反労働者、反労働組合攻撃に助けとなっている特権と白人の罪に関する、典型的に自由主義的主張の流用だ。ストライキは特権をもつ者向けのものと言うことはまた、組織化された労働者、およびストライキ権を確保している労働者は何かしらの「特権層」、と示唆する一方法でもある。
それは、労働者が労働組合あるいは労働者の諸権利をもっているとすればそれは、彼らがさまざまなリスクに直面し、先のものを得るために厳しい闘いを行ってきたからだ、という事実を見えなくしている。その上にこの主張は、移民の女性と白人ではない女性は歴史的に、彼らの諸権利を求めて闘うために深刻な諸々のリスクを前にしてきたという事実、また彼女たちができることあるいはできないことに関し、彼女たちには恩着せがましい説教などまったく不要であるという事実を見えなくもしている。クリントン派のフェミニスト支持者に関する限り、マウリーン・ショーは女性のストライキを攻撃する彼女の意見として、基本的に、こうした女性のための行動でより良い形態は民主党議員に電話をかけることだろう、と暗示した。これは、「特権をもつ女性のためのストライキ」というこの主張の背後にある懸念が本当のところ何であるかに関し、すべてを語っている。

左翼は現実直視し自己変革を

――次にやることについてのあなたの考えは?

 われわれは米国で、われわれの全国的な社会的連合と共に活動を続けるだろう。そして、メーデーに向けた移民の決起の中で、強力なフェミニストの参加と存在を築き上げるために努力するだろう。
もっと全般的には、フェミニスト運動は幅広い社会層につながりを届かせるよう、また幅広い諸々の社会運動の誕生に向かう指導的な一勢力として行動するよう挑戦しなければならないだろう。もちろんこれは、依然として残っている性差別主義的偏見を克服する左翼の能力にもかかることになるだろう。もし左翼が、国際的なレベルで、フェミニストが現在道を先導しているということを理解しないならば、そしてこの事実を正しく評価せず、それにしたがって自らを改革しないとすれば、それは、自らと全体としての労働者に深刻な害を及ぼすだろう。

▼ペネロペ・ドゥガンは、第四インターナショナルのビューローメンバーであると共にIV編集者。フランスNPAの活動家である彼女は、国政選挙と地方選にはその度に立候補している。また、特に女性と若者のプログラムに責任を負うIIRE講師陣の一人でもある。
▼シンツィア・アルッツァはイタリアのシニストラ・クリティカ(批判的左翼)の指導的メンバーだった。現在は、ニューヨークのニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチで哲学助教授を務めるフェミニスト。社会主義活動家でもある。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年三月号)  

フェミニズム

3・8国際女性ストライキ

その世界的共同は
どう広がったのか

ニ・ウナ・メノス

一人の少女の殺害への抗議から

 一六歳の女性殺しに抗議する女性ストライキに向けた、昨年一〇月一九日の呼びかけは、男の暴力を、労働に関する、経済的、社会的、また地域的な暴力と不安定化に結び付け、それらを女性の身体に対する「冷酷さの教育学」(否定しようのない植民地時代そのままの繰り返しをまとった姿で)として強く非難した。
 問題の女性殺しは、ロザリオ(アルゼンチン)での第三一回全国女性集会の翌日に起きた。そしてこの集会には七万人の女性が参加し、閉幕行進では四〇もの通りのブロックを埋めた。しかしこの集会は、最後には力づくで弾圧されたために、出版物に現れただけだった。同月の初めにはポーランドの女性が、合法的な中絶をさらに制限することを当地の法制定で強要しようとしていた法改定を拒否して、全国ストライキを召集した。
 一〇月一九日の女性ストライキと世界のさまざまな地域の諸々の女性連合形成に続いて、三月八日における国際女性ストライキを求める呼びかけが登場した。
 二〇一五年と二〇一六年の六月三日にアルゼンチンで起きた集会の叫び「誰一人劣っていない」(ニ・ウナ・メノス)の下で、女性殺しに反対する巨大なデモの前兆は、強力な動員力を指し示すことになった。そしてこの一年、さまざまなラテンアメリカ諸国間での共同のネットワークがすでに張り巡らされつつあった。
 一〇月一九日のストライキは、アルゼンチンとラテンアメリカで史上初めての女性ストライキだった。ストライキは、あらゆる可能な場、すなわち職場、教育の場、家庭の場、住宅地区の場その他で、一時間の時限ストとして呼びかけられた。それに続く決起は本当にとてつもないものだった。ブエノアイレスでは二五万人以上の人々が立ち上がり、この国全体を覆ってもっと多くの行進があった。ラテンアメリカは、このストライキ呼びかけを通して急速に結び付けられた。

家父長的暴力の経済的構造照射


ストライキというツールの使用は、家父長的暴力の経済的な構造を照らし出すことを考慮したものだった。そしてそれはまた、力の巨大な誇示でもあった。なぜならばわれわれはわれわれ自身を、犠牲者という位置から引きはがし、自身で政治的主体かつ価値の生産者として位置づけたからだ。われわれは女性労働者という概念を複合的にし、労働には家庭内や非正規的なものもあり、自営的団体の諸形態も含まれる、ということをはっきりさせた。ニ・ウナ・メノスのスローガンはさまざまなラテンアメリカ諸国ですでに取り上げられていたがゆえに、一〇月一九日の諸決起は、アルゼンチンの呼びかけと家父長的暴力に反対する各国の要求の結合の中で急速に複製された。
一一月二五日に向けた諸々の会議、行動、決起の組織化(女性のカレンダーに付されたもう一つの予定、すなわち女性に対する暴力の廃絶を求める日付け、を利用して)は、この日付に関する通常のイニシアチブを超えて、数多くの国の間の横断的な結びつけという作業を加速した。
シウダー・フアレス(メキシコ、チワワ州の都市)からモスクワまで、グアヤキル(エクアドル最大の都市)からワルシャワやサンパウロへ、ローマからサン・サルバドール・デ・フフイ(アルゼンチン、フフイ州の州都)へと進む形で、新たな地理の形が描き出された。地方的かつ世界的な構造は、新たなタイプの国際主義を生み出した。それは諸々のネットワークや諸々の街頭の中で見えるものとなった、フェミニスト国際主義の新たな経験だった。
一つのイニシアチブはフェースブック――パロ・インテルナチオナル・デ・ムヘレス/国際女性ストライキ(PIM)――を通して調整されつつある。このフェースブックはポーランドの一女性グループによるものだったが、彼女たちには、欧州や世界の他の地域の様々な国から活動家たちが加わった。 ウエブサイトと並ぶ形で、フェースブックグループもまた、国連宛請願と一つの宣言を回している。

問題を突きつける仕事の中断へ


ニ・ウナ・メノスは一月二三日に、国連宛請願やPIM宣言とは異なる内容に基づいて、それ自身の呼びかけに乗り出した。われわれの理解では、宣言は、具体的な諸状況と諸闘争を基礎に、また支配的な新自由主義のモデル、ネオコン的な、レイシズム的な、家父長的なモデルと闘い、体系的な変革を求める運動の構築に結び付けられて、育て上げられなければならない。われわれは、諸闘争が相互の交叉から強さを得ることによって共鳴し機能する、そうした新たなタイプの蓄積過程にいる、と確信している。
一月二一日の米国の女性行進は、フェミニズムの新しい形態、つまり資本主義的搾取の新たな諸形態の帝国にしたがわされたままとどまることを拒否する、女性、トランスの人々、移民の重なり合う諸運動、をはっきりと示すこのサイクルの一部だ。この行進に続いて今、三月八日のストライキに加わろうという、組織化に努めている活動家たちからの新しい呼びかけがある。
われわれは仮想空間での協調だけではなく、新たな構造、生身の人同士の、また街頭でのつながり合いの辛抱強い織り上げにも専心している。われわれは、諸々の対話を始めた。そして、ラテンアメリカ諸国のすべてと世界の他のところとのネットワークを構築することに毎日の活動を向けている。
二月三日、ある開かれたまた異なったものが混在した会議の中で、アルゼンチン内女性運動のあらゆる潮流が、女性ストライキのイニシアチブを支持するようにとの諸労組に向けた呼びかけについて合意した。われわれはまさしく、問題突き付けによる仕事の妨害という手段に訴えている。そしてそれを、フェミニズムの中心的な課題で行っている。つまりわれわれは今、賃金労働者や正規労働者の問題を話しているだけではなく、われわれの暮らしの不安定化とわれわれの自律性の犯罪視に全面的に異義を突き付ける一つの枠組みの中で、われわれの批判、われわれの要求、そしてわれわれのストライキを刻み付けてもいるのだ。
われわれが確信するところでは、三月八日の国際的女性ストライキに向けた呼びかけの多重性は、われわれが生きたいと願う世界を今ここで提案しつつ、また運動を結び付け、各地から生まれる諸軌道と諸闘争に基づいて運動を位置づけつつ、新しいやり方での女性運動と民衆の闘争の連なりを強調する場合に強力となる。(二〇一七年二月一六日)

▼ニ・ウナ・メノスは、アルゼンチンを拠点とする男の暴力に反対するフェミニストの共同行動。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年三月号)



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