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    かけはし2017.年3月27日号

両国でレイシズム反対運動の構築を


オランダ/トルコ

右翼のキャンペーンに立ち向かう連帯と抵抗

2017年3月14日   イエニヨル/SAP


  極右の大躍進が予想されていたオランダの総選挙を直前に控えて、トルコとオランダの第四インターナショナル両支部(ソシアリスト・デモクラシ・イイン・イエニヨルと「社会主義オルタナティブ政治」〈SAP〉)が、両支部の出版物の名で以下のような共同声明を発表した。これに先立ち、トルコの閣僚によるオランダ国内でのトルコ出身移民に向けた国民投票キャンペーン開催をオランダ政府が禁止し、それによりトルコ政府とオランダ政府の対立が激化していた。このオランダ政府の行動の背景には、同国で直近に控える総選挙での極右の攻勢が目立っているという事情があり、現与党がトルコへの強硬姿勢を示すことで極右から支持を取り返したいとの思惑が作用しているとの観測もあった。今回の両支部の声明は、このような右翼の攻勢と画策への反撃を呼びかけるものだ。なお、総選挙での極右の伸張は事前予想を下回った。(「かけはし」編集部)

  極右の大躍進が予想されていたオランダの総選挙を直前に控えて、トルコとオランダの第四インターナショナル両支部(ソシアリスト・デモクラシ・イイン・イエニヨルと「社会主義オルタナティブ政治」〈SAP〉)が、両支部の出版物の名で以下のような共同声明を発表した。これに先立ち、トルコの閣僚によるオランダ国内でのトルコ出身移民に向けた国民投票キャンペーン開催をオランダ政府が禁止し、それによりトルコ政府とオランダ政府の対立が激化していた。このオランダ政府の行動の背景には、同国で直近に控える総選挙での極右の攻勢が目立っているという事情があり、現与党がトルコへの強硬姿勢を示すことで極右から支持を取り返したいとの思惑が作用しているとの観測もあった。今回の両支部の声明は、このような右翼の攻勢と画策への反撃を呼びかけるものだ。なお、総選挙での極右の伸張は事前予想を下回った。(「かけはし」編集部)

オランダ政府が
トルコをけん制
トルコでは二〇一七年四月一六日、憲法改訂提案に対する国民投票が行われることになっている。その修正は特に、象徴的ではない執行権力をもつ大統領制を確立し、判事と検察官の最高部局の構造を変えると思われ、それは、現大統領のレセプ・タイップ・エルドアンに権力を集中する結果となるだろう。
二〇一三年のゲジ運動(イスタンブール中心部のゲジ公園閉鎖に反対して民衆が決起した運動)の発展、同年のクルド運動との和平をめぐる話し合い進展期待の終焉、およびトルコ国家によるクルドの人々に対する暴力のエスカレーション以後、そしてより近くは未遂に終わったクーデター以後、トルコ政権は日を追って権威主義的となってきた。AKP(公正発展党)政権は、数多くのジャーナリスト、教員、学者を含む、何千人もの市民を逮捕し続け、また解雇し続けてきた。
この政権はクルド諸運動の指導者たち、および野党のHDP(人民民主党)の議員たちを、「テロリズムを支援」という嘘の嫌疑で投獄し続けてきた。政府はまたデモを禁止し人権を侵犯し続けている。それでも政権は今、オランダ警察の行動にうろたえていると思われ、政治集会を開く自由を擁護する旗を振っている。
オランダの右翼首相のマルク・ルッテは、二〇一七年三月一五日に行われるオランダ総選挙キャンペーンの最終盤の中にいる。彼の党であるVVD(オランダ自由民主党)は、ゲールト・ウィルダース率いるイスラム排撃の極右、PVV(自由党)と競っている。VVDは新自由主義の党だが、その緊縮という設定課題への支持を高めるツールとしてオランダ民族主義を利用している。
ルッテは、AKPの集会を妨げ、トルコの家族相、ファトマ・ベチュル・サヤン・カヤを「好ましくない人物(ペルソナ・ノン・グラータ)」と宣言することにより、自由主義的民主主義の擁護者、かつイスラム主義のAKPやオランダ国内トルコ人のAKP支持者に脅されることのない強力な指導者として、自らを押し出したいと思っているのだ。

反トルコの国際
的共謀を利用
しかしこれらの歩みは、トルコ国内における民主主義制限に関する懸念を動機としたものなどではない。つまりルッテはむしろ、潜在的なPVV支持者を勝ち取ろうと試みているのだ。オランダ当局の行為は、事実として今エルドアンを助けている。しかしルッテにとっては、トルコにおける権威主義のさらなる強化を真に避けようと挑むことよりも、彼の選挙キャンペーンの方が重要なのだ。
エルドアンは、ルッテのおかげで今や彼の宗教的民族主義の基盤に向け、トルコ内部で発展中の諸々のことから注意をそらしつつ、西側に対立する一つの立場を取っている者としてより容易に自らを押し出すことができている。AKPは、支持を呼び集めるために、反トルコの国際的共謀に関し、切迫した危険という大嘘宣伝を利用し続けている。
他方でオランダ国内のトルコ人移民とその家族は、長い間レイシズムと偏見の犠牲者という境遇に置かれてきた。オランダ右翼は、トルコ出身のオランダ市民は本当はオランダ社会に帰属している者ではないという主張を支える議論として、また全体としてのトルコ人・オランダ人コミュニティを攻撃するために、このコミュニティのかなりの部分がAKPを支持しているという事実を利用し続けている。

難民を抑圧する
両国の右翼政府
トルコ民族主義者とウィルダースやルッテのようなオランダ民族主義者は、社会に関する彼らの見方に反対している者たちに向け同じメッセージを携えている。つまり、「われわれに同調せよ、さもなくば国を去れ」と。
オランダとトルコの右翼の行為は偽善に満ちている。オランダ政府は、イスラエルのネタニエフ政権のような抑圧的でレイシスト的政権に自らを連携させることに何の問題も見ていない。しかしトルコの件では、民主主義に関し突如、深く懸念しているふりをし続けるのだ。オランダ政府がトルコにおける民主的諸権利を本当に心配するのであれば、この政府はこれを、トルコの民主的反対派や自決権に対するクルドの権利を支持することによって示すこともできただろう。しかし両国の支配勢力は、難民問題でわれわれが経験しているように、難民を抑圧し、要塞化された欧州を強化するために、摩擦なく共に協力できているのだ。
左翼は、オランダとトルコの右翼によるキャンペーンに反対し、彼らに対決する闘争を構築する必要がある。われわれは、トルコの国民投票での「ノー」を支持し、一層権威主義化されるエルドアン体制への抵抗の組織化を支持し、世俗主義の防衛を支持し声をあげる。われわれは、オランダでのイスラム排撃とレイシズムに反対する投票を、また街頭と職場におけるレイシズム反対の運動構築を求める。民主的諸権利と民衆の利益を守る上では、トルコとオランダの勤労民衆は、彼らの国の右翼政府に依拠してはならない。彼らはそれに代えて、新自由主義に反対し、抑圧のあらゆる形態に反対する共通する闘いの中で共に分かち合う利害を守らなければならない。

▼SAPは以前のオランダ社会主義労働者党。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年三月号) 

ロシア革命

二月革命とさまざまな組織

1917年7月には党員17万人

急速に党員数を増やしたボリシェビキ

【五〇年間にわたる逮捕、シベリアへの流刑、亡命、暗殺にもかかわらず、社会主義運動は存在し続けた】

 人民の中へというナロードニキの潮流が一八六〇年代に生まれ、一八八一年のツァー暗殺でこの運動は頂点に達した。農民の革命的役割に基礎をおいてロシアで即時に社会主義革命が可能であると信じていたこの潮流は、マルクス主義に依拠しながらも、一方におけるテロリズムと他方におけるツァーに対する闘争に農民を獲得するために数千の青年を農村に浸透させる活動との間を動揺し続けた。
ナロードニキ潮流が一九〇一年に結成された社会革命党(1)の思想的起源である。たとえ指導者たちが都市にいたとしても、この党は、その政治的活動(新聞、選挙)やテロ活動によって人口の八〇%を占める農民の中で大きな権威をもっていた。党は一九〇七年時点で、五万人の党員を擁していると主張していた。弾圧と戦争によって完全にその組織が破壊されたが、一九一七年二月になって、とりわけ兵士ソビエトの中で、さらには農村において、再浮上した。

社会民主主義派の結成から分裂へ
社会民主主義派は、プレハーノフを中心にして、このナロードニキの中から生まれた。この潮流は時代が資本主義の段階に入っていることの重要性を主張する。資本主義こそが、プロレタリアートを生み出すことによって、資本主義自身の墓堀人を作り出しているというのである。
一八八〇年代の小さな宣伝サークルが一八九〇年になると労働者のストライキの中で役割を果たし始めるようになる(2)。一八九八年にミンスクで、この党は、都市(都市人口は全人口の二〇%未満だった)に基盤があった社会民主主義の諸グループや(数千人の党員を擁する)ユダヤ人社会主義組織(ブンド)などを出発点にして、ロシア社会民主労働党として誕生した。この創立大会大会の代議員はすぐに一斉に逮捕されてしまった。一九〇一年、レーニンは新聞『イスクラ』を立ち上げ、同紙を中心として地下通信員や地区グループのネットワークが組織された。
一九〇三年のロシア社会民主労働党(3)の事実上の創立大会では、プロレタリア独裁はプロレタリアートによる政治権力の獲得であると定義され、この定義にもとづくプロレタリア独裁に関するプレハーノフ、マルトフ、トロツキー、レーニンの全員の合意がなされた。しかし、党組織についての考え方でレーニンとそれ以外の者との間で分裂が生じた。
レーニンとっては、党員とは「その個人が党の組織のひとつに参加する」者でなければならなかったのに対して、マルトフにとって党員とは「その個人が党の組織のひとつの指導の下で規則的に協力する」者であった。ここにボリシェビキ(多数派)とメンシェビキ(少数派)との間に亀裂が生まれた。
分裂の進行には時間がかかる。社会民主労働党の多くのグループはその後も二つの潮流を組織し続ける。一九〇五年の第三回大会はボリシェビキ派だけの大会であった。大会への代議員の多数は、地下グループを代表する職業的な活動家であった。約八〇〇〇人の党員がいてその大部分は工業中心地にいた。

ボリシェビキ
が頭角を現す
一九〇五年の革命の後、ボリシェビキとメンシェビキの多くの委員会が合同した。メンシェビキ(三万四〇〇〇人)とボリシェビキ(一万四〇〇〇人)、ユダヤ人ブント、ラトビアとポーランドの社会主義者の間で統一大会が一九〇六年に開催された。大会では、議会活動と革命活動との位置をめぐる論争が行われた。一九〇七年の大会では、七万七〇〇〇人の党員を代表する代議員の中ではボリシェビキの方がメンシェビキよりも多かった(4)。
一九〇七年〜一九〇八年の(反動期)には、労働運動が崩壊し、政治的に分解し、党員数は一万人未満へと縮小した。メンシェビキの中には、地下活動を解散し、自由主義ブルジョアジーとの同盟を追求する潮流が出現した。ボリシェビキの中では、その多数派は選挙のボイコットを望んでいた。
一九一〇年から闘争が再び活気を取り戻しはじめた時、党は再び分裂した。一九一二年のボリシェビキ派の協議会は、日刊の合法新聞『プラウダ』の発行を決定した(5)。これは、ボリシェビキによるロシアにおける人民の多数派の獲得を可能にするための武器となっていった。
一九一二年のドゥーマ(国会)の選挙では、ボリシェビキは「民主共和制」、「八時間労働制」、「大地主の土地の没収」(6)という三つのスローガンにもとづいて選挙戦を展開した(7)。一人が定員の大都市の六つの労働者「地区」ではメンシェビキよりもボリシェビキの方が多数派だった。全体として、ドゥーマでの社会民主主義派の会派は、これら労働者地区からの六人のボリシェビキ議員といくつかの地域で選出されたメンシェビキの八人の議員を形成していた。だが、統一への願望がいぜんとして根強かった。

党の再建から
一〇月革命へ
(第二)インターナショナルに属してしていた社会主義諸政党は運動の組織化に努めていたが、それは一九一四年八月(第一次世界大戦の勃発)によって妨げられた。ドゥーマ(国会)のボリシェビキ派とメンシェビキ派の議員たちは社会民主主義派という会派の下にともに軍事公債の発行に反対票を投じ、抗議の意を示すために議場から退場した。
すべての党が戦争によってその組織的解体に見舞われた。何万人もの党員が逮捕され、流刑地に送られた。別の党員たちは、徴兵されて兵士となり、労働者も徴兵で戦争に動員された。
ボリシェビキは一六カ月の間、実際に指導部をもてなかった。一九一六年になって闘争が再び活気を取り戻した時、党組織が再建された。ボリシェビキは、その時点で五〇〇〇人から六〇〇〇人の党員を結集していた。一九一七年の二月革命後、党員数は一万人で、その中でペトログラードには一五〇〇人の党員がいた。その後、党員数は膨れ上がっていく。四月には、七万九〇〇〇人の党員数になり、一万五〇〇〇人の党員がペトログラードにいた。七月になると、党員数は一七万人になり、そのうちでペトログラードの党員数は、三万五〇〇〇人から四万人であった。

注記

(1)、社会革命党は一九〇四年から第二インターナショナルに加盟している。
(2)、一八七〇年から一九〇〇年までの間に、ロシアにおける労働者の数は七〇万人から二八〇万人になった。
(3)、ロシア社会民主労働党もまた第二インターナショナルに属していた。
(4)、代議員数はユダヤ人ブント 四四人、 ラトビア 二六人、 ポーランド 四五人、ロシア 一七五人(ボリシェビキ 九〇人  メンシェビキ 八五人)
(5)、『プラウダ』は、その後、何度も発禁処分を受ける中でその名称を変更していく。
(6)、これは、「三頭のクジラ」と呼ばれた。これは、世界が三頭のクジラによって支えられているとするロシアの伝承にもとづいていた。
(7)、社会革命党はこの国会選挙をボイコットした。


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