RPM―M/RPA声明
同志ルベン虐殺を糾弾する
「墓場の平和」の目論みを許さない
二〇一七年三月五日 ハロルド・フェルナンデス
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非武装の一人に重武装の軍襲撃
同志ルベンに革命的敬礼を送る!
人民革命軍(RPA)の全武装パルチザンは、ラナオ・デル・ノルテ州カパタガン、バゴン、プロク8で、政府軍部隊が二〇一七年三月四日に行った、同志ルベンの虐殺を強く糾弾する。
前述した悲劇の午後、マルルーイ・S・ディセン中尉、小隊指揮官フェルナンド・オリベロスジュニア少尉が率いた第三歩兵師団一五歩兵旅団ブラボ中隊の多数かつ完全武装の部隊は、同師団同旅団大隊長アウディ・E・モンガオ中佐の司令の下に、多数の国家警察(PNP)部隊と共に、彼らの主張では同志ルベンの逮捕状執行を名目として、ラナオ・デル・ノルテ州カパタガン、ブルギ・ティアコンガンのある家の手入れを行った。
同志ルベンは、フィリピン軍(AFP)武装部隊が家に近づくことに気付いた。そして、自身が武器をもっていなかったことからすぐ国軍から逃げようと決めた。しかし、大口径の武器を携えた敵の数を考えれば、逃れようとした彼の試みは不可能だった。彼はただ一人にすぎず、もっていたのは携帯電話だけだった。友人、家族と人々を訪ねるためにその場にいたからだ。
その場に現れた武装人員の数を前提とすれば、本当の意図は同志ルベンを消すことだった。ルベンに打ち込まれた弾丸数から理解できることとして、それは一種の虐殺だった。まったく鮮明かつ非常に赤裸々であったことは、前記の作戦が警察の作戦というよりも主に軍事作戦だったということだ。それは、たとえ彼の逮捕状が彼に渡されると想定されていたとしても言えることだ。
同志は最後まで人々と共に活動
同志ルベンは、何らかの殺し屋であったことも、他の非革命的な活動に関わったことも一度もない。彼は、一九九〇年代初めにRPAがCPP―NPA(フィリピン共産党―新人民軍)から分裂した時から、RPAの精力的な政治的かつ軍事的カードルだった。
彼は、犯罪者に対し、また政府軍部隊や横暴さや抑圧的なことで知られていた個人に対してはなおのこと断固としていたことで知られていた。事実として彼は、違法な麻薬取引に対する現ドゥテルテ政権のキャンペーンを、ただし超法規的手法ではない取り組みを支持して声をあげた人々の一人だった。彼が強く確信していたことは、この国に広がる麻薬問題が、わが人民の圧倒的多数を苦しめているひどい貧困と社会的不平等の象徴、ということだった。
同志ルベンは、RPAパルチザン部隊の一メンバーとして、彼の作戦地域の農村共同体と貧しい田舎の人々を防衛することに大きな精力を傾けてきた。彼は、殺人者たちが行った悲しむべき事件まで、彼の政治的任務と軍事的任務を私心なく行ってきた。彼は、最後の数時間まで人々と共にあろうとした。
同志の死を決して無駄にしない
RPAは革命的労働者党ミンダナオ(RPM―M)の武装部隊として、一九八〇年代はじめからラナオ・デル・ノルテ州を含むミンダナオ北西部に存在してきた。RPM―Mがアロヨ政権の下で、RPAとフィリピン政府との休戦協定に署名した後、RPAの同志たちは、この協定をしっかり守り、民衆の極端な貧困の結果としての武装紛争を平和的に解決するという路線を維持しようと務めてきた。
同志ルベンの殺害は、この協定に対する違背だ。これは、ドゥテルテの下で現政府が取りかかっている和平の性質に対し、多くの疑問を起こさせた。しかし、これではるかにはっきりしたことは、AFPが達成したいと思っている和平は墓場の平和、ということだ。
われわれは同志ルベンを失ったことを深く悲しむ。しかしわが同志の死を無駄にすることなど決してないだろう。
われわれは勝利する!
全国作戦司令部(NOC)
▼筆者は革命的労働者党ミンダナオ(RPM―M)/人民革命軍(RPA)のスポークスパーソン。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年三月号)
声明:同志暗殺を糾弾
政府は和平の約束を守れ
進歩勢力支援の国際連帯を
第四インターナショナル・ビューロー
二〇一七年三月四日、同志ルベンがフィリピンのミンダナオ、ラナオ・デル・ノルテ州で軍により殺害された。
これは明らかに暗殺だった。ルベンは確かにお尋ね者だった。彼が、第四インターナショナルフィリピン支部である革命的労働者党ミンダナオ(RPM―M)と人民革命軍(RPA)に参加したことを理由としたものだ。しかし彼はその時友人たちと家族を訪れようとしていたのだ。彼はどのような武器も所持していなかった。彼の逮捕は簡単にできることだっただろう。しかし彼は処刑されたのだ。
カパタガンで作戦を指揮したのは警察(彼らもそこにいた)ではなく、重武装の政府軍歩兵大隊だった。彼は殺害されたただ一人であり、数知れない弾丸を撃ち込まれた犠牲者となった。
ルベンは、一九九四年の分裂とRPM―M/RPA創立過程への参加まで、フィリピン共産党および新人民軍(CPP―NPA)の一メンバーだった。彼は政治的、軍事的カードルとして、農民と田舎の貧しい者たちを防衛したがゆえに、そして麻薬取引に反対する活動、選挙期間中の当地政治家による票の買い取りに反対する活動、横暴な地主の手先になったならず者たちや取り巻きたちと対決する活動、ちなみにルベンは彼らを武装解除したのだが、そうしたことのゆえに当地の地主の中に数多くの敵を作った。
ミンダナオ北西部におけるRPM―M/RPAの人気は、一九八〇年代はじめ(当時は毛沢東主義派の共産党の下で)に遡る。一九九四年の分裂後、新しい組織は首尾一貫して、専守防衛的な政治・軍事姿勢を採用してきた。彼らは軍に対するあらゆる攻撃的な作戦を止め、アロヨ政権の下ですぐに和平協議を始めた(二〇〇一―二〇一〇年)。
現大統領のドゥテルテはフィリピン、特にミンダナオでの和平プロセスを再開すると約束した。警察と軍による攻撃、ルベンの暗殺は、この約束に反している。事実上これは、それ以前にRPM―M/RPAとの間で始められていた和平協議への違背だ。
われわれはルベンの同志たちの深い悲しみを共にする。そして彼らにわれわれの心からの深い連帯を送る。
超法規的な殺人がすでに数多くの犠牲者を生み出している以上、あらゆる進歩勢力と革命勢力を確実に支えるために、われわれは国際的連帯を必要としている。二〇一七年三月七日
(「インターナショナル・ビューポイント」二〇一七年三月号)
イラン
核合意による資本呼び込み
暴力的「社会」政策
一方で拡大する抵抗
ババク・キア
労働規制解体で
多国籍資本殺到
核計画に関する合意以後、イランイスラム共和国が抱く強迫観念は、労働力市場を多国籍資本にとってもっと魅力的にする義務がある、というものとなった。こうして、実行されようとしているものは、もっとも暴力的な類の「社会」政策となっている。
この政策は特に、労働諸法の修正、さらに一五歳以下の子どもを搾取する可能性の再導入、によって特性づけられることになった。契約に関わる保護の貧弱な諸形態も取り除かれた。また口頭契約「でよしとする」可能性も拡張された。今後俸給は、雇用主と労働者の間で直接「交渉」可能となる。最低賃金の水準は、「経済的現実」を考慮に入れて、企業毎に決められる。
こうしたことを背景に、多国籍資本はテヘランとの契約を刷新しつつある。こうしてプジョーは、イラン自動車市場における先頭を行く西側企業、としての地位を取り戻そうと挑んでいる。IKAP(イラン・コドロ・オートモビールス・プジョー)という名をもつ共同企業体の二〇一六年一〇月の発足は、イラン市場でのフランスブランド復帰を知らしめた。その一部としてルノーは、イラン・コドロおよびサイパとの共同企業をつくり出すことになった。そこでは、イラン労働者がこうむる社会的暴力は、多くの……意味があるわけではない。
エアバスについて言えば、この企業は、中・長距離航空機一一四機におよぶイスラム共和国との合意議定書に署名した。国営のイラン航空は、その最初のエアバス、A321の引き渡しを受けたばかりだ。商業レベルでは、「大悪魔」(米国を指す:訳者)が除外なしを確保しようとしている。こうして米企業のボーイングは、八〇機の売却とその他に二九機のリースに関し、イラン航空との協定に署名したことを公表した。
諸闘争、抗議、
そして連帯も
こうした経済的かつ「社会的」政策と抑圧の暴力を前に、労働者の闘争が弱まることはなかった。それらは職場で行われ、またイスラム共和国の刑務所でも続けられている。そしてそれらは、無視できない住民の中に反響を見出している。海外で、あるいはソーシャルネットワークを介して、数々の連帯キャンペーンが行われ続けている。
二〇一六年一〇月末以後、イランの刑務所では新たな抗議の波が起きてきた。過去二、三週間にわたって数人の囚人が、彼らの収監条件を厳しく非難するためにハンガーストライキに入った。その中には、何人かのよく知られた活動家がいる。女性に対するひどい暴力に反対する平和的なデモに参加したことで投獄されたアリ・シャリアティ、子どもの権利の擁護者であるサーエド・シルザド、その他多くの労働者階級やクルドの活動家だ。
この運動の目的は、正義を求めること、適切に行われる裁判を受けさせること、また拷問や不正な扱いの取り止めだ。何人かの囚人は、七〇日間以上もハンガーストライキを続け、生命が危険な状況にある。
体制は、この運動と活動家に対する支援を前に、囚人とその家族に対する脅迫キャンペーンに打って出た。数人の囚人は、高度警備棟の独房に移され、そこに留められている。また入院させられていた何人かは、医療スタッフの反対にもかかわらず、再収監された。
しかしながら体制もまた、いくつかのその弱点を明らかにすることになった。女性作家かつ活動家であるゴルロク・エブライミが解放されたのは、国際キャンペーンとイラン内の支援行動のおかげだ。戦闘は継続するに違いない。収監されている活動家たち、およびムラーの独裁に反対して勇気をふるって闘っている者たちは、国際連帯のキャンペーンに今期待をかけている。
▼筆者は、フランス反資本主義新党、NPAの機関紙「ランティカピタリステ」の通信員。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年一月号) |