東日本大震災・福島原発事故から6年
1.29
女川再稼動を問う市民シンポ
「原発のない東北の復興」を
仙台で800人が参加
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一月二九日仙台で「市民による女川原発の再稼動を問うシンポジウム」が開催された。「脱原発をめざす宮城県議の会」と「市民による女川原発の再稼動を問うシンポジウム実行委員会」が主催、会場の仙台国際センターには八〇〇人近い人々が集まった。
金子勝さん(慶応大学教授)が「脱原発」成長論をテーマに基調講演を行った。ディスカッションでは宮城県議会議員、女川町議会議員、岩手から参加したNPO法人の事務局長がパネラーとなった。
住民の期待を背負
う県議会議員たち
「脱原発をめざす宮城県議の会」は二〇一五年一二月に結成された。県議会定数五九のうち、超党派の有志たち二〇人による。
「@原発依存から脱却を目指す、A女川原発再稼動に反対する人々、慎重な対応を求める人々と思いを同じくする」。この二点を目的に学習会や意見交換会などの活動を進めている。このような会の設立は「原発立地一四道県議会で初めて」だという。
二〇一五年、宮城県議会や仙台市議会など自治体選挙が続いた。「原発再稼動」「指定廃棄物処理」をどうするか。憲法・安保法制やTPPと関連しながら争点となり、翌年の参議院選挙につながっていった。
三・一一震災と福島原発事故を共通体験とし、超党派で始動した「脱原発をめざす」地方議員たちのチャレンジ。注目と期待はますます広がっている。
「脱原発こそが新しい経済を創る」(金子勝さん講演)
福島原発事故の「処理」は一九九〇年代の不良債権処理と同じだ。危機がせまっているのに国も業界も対応できず、金融機関が次々に倒れていった。あの時代を繰り返すのかと金子さんは問いかける。
原発推進・依存の日本企業はどこに行くか? 日本の重電機メーカーが「原発という世界の衰退産業を引き受けて沈む」。その象徴的な事例が東芝問題として、リアルに進行しているではないか。
東京電力救済が最優先され、公的資金が注入される。そのような「スキーム」のもとに「廃炉計画の修正」が相次ぎ、処理費用は膨らみ、国民の税金や料金が吸い取られていく。
東電責任を明確にし、株主も銀行も責任をとって破綻処理すべきだった。その点があいまいであり、骨抜きにされた。(「事実上の国営」という状況下で東電の責任と経営が不透明となり、一方で政府は原発復活政策を進めた。)
環境汚染問題はどうか。先は見通せないにもかかわらず、「避難区域解除」の名の下に被災者への支援が打ち切られていく。「住民分断」の悲劇に水俣、足尾鉱毒事件の谷中村を思い出さずにはいられない。「巨大な国家犯罪」ではないか。
しかし、道はある。「東電救済最優先のあり方を見直すこと」だ(*注)。「原発はコストが高く、衰退産業だ」という認識をもっと広め、政策の見直しをせまっていくことが必要だ。
金子さんはさらに「真の地方創生の道は何か」と議論を進めた。
「地域分散ネットワーク型」のシステムに転換することではないだろうか。原発は電力流通からしても、政治のあり方からしても、中央システムそのものだ。「再生可能エネルギー」への転換は、福島原発事故の反省であるとともに、「地方創生」への歴史的な流れの中にある。
時代は大きく変わっていく。「スーパーコンピュータと情報通信技術の時代」にあって、「地域分散ネットワーク」をいかに構想するか。そのような問いかけは、日々の生活と密接に関連しており、現実感のあるものだった。
(*注)金子勝「原発は火力より高い」(岩波ブックレット)
伝えられた各地
の課題と知恵
パネリストたちの報告。それぞれの経験と課題が語られた。
岩手県紫波町の「NPO法人紫波みらい研究所」の活動紹介。
その取り組みは徹底して「地場」にこだわるものだった。「一〇〇年後の子どもたちに!」という目的をかかげ、「人と人、人と食べ物、人と自然」を大切にしよう。「地産地消と循環」(森林資源、エネルギー、地域商品券・・)、「公民連携」という組織と住民のあり方など、取り組みは多彩であり「重層的に関連」しあっている。そのような発想による町づくりは、震災に直撃された被災地にとってもヒントが満載だった。
女川町議会議員の阿部美紀子さん。
女川が原発誘致のために抱え込んだ「分断の構造」を振り返りつつ、「次」を語った。「女川の未来」とは、その構造から脱却することだ。「再稼動なき女川」が、未来へのスタートだ。原発は「地元」だけの問題ではない。日本全国すべてが「立地自治体」なのだと大震災で思い知らされたはずだ。「被災した女川原発」が再稼動することは、なんとしても阻止しなければならないと訴えた。
宮城県議会議員の佐々木功悦さん。
県議会に立候補する前、宮城県美里町長として町政の先頭に立ってきた佐々木さん。「国の罪」を糾弾すると同時に「私自身の反省」を語り、町でも全国でも政策と運動に責任をもって取り組んできた。震災以降は町の原子力災害対策はもちろん、女川原発「周辺自治体(UPZ自治体)」の連携を築いてきた。
「福島後」を生きる私たち。原子力エネルギーを再び選択するか、決別するか? 単なる「お金」の経済による成長か、生命や暮らしや「精神的充足感」か? 今、決断の時だ。
そのような聴衆への問いかけを、佐々木さんは常に自分自身に言い聞かせているという。
宮城全労協ニュース三〇五号(二〇一七年二月二六日)より
2.23
嘉手納爆音訴訟判決
爆音は違法 賠償金倍増
しかし飛行差し止め不能
避難指示解除と
2020五輪
二月一九日、福島原発事故緊急会議は、二〇一三年九月に始めた連続シンポジウムの一二回目として「福島原発事故から六年、『復興』の名の下に切り捨てられる人びと」を、東京・渋谷区の千駄ヶ谷区民会館で行った。報告は、郡山市在住で「原発いらない福島の女たち」の中心メンバーとして活動している黒田節子さんと、事故直後から現地で放射能被害の問題などに住民たちとともに取り組んできたFoE Japanの満田夏花さん。シンポジウムには四〇人以上が参加した。
東日本大震災と福島第一原発事故から六年を迎える福島では、「復興」の名の下に被災者への「帰還」促進と、切り捨ての圧力がさらに強まろうとしている。
黒田節子さんは昨年末に彼女がある新聞に投書した文章の一節を紹介した。
「『復興』への動きはとどまるところを知らない。私の住む郡山市の最近での話である。当初は屋内運動施設を市内四カ所に整備する構想があったが、市長交代で一転。すべて屋外型になった。『気にしてたらここで生活できない』『子どもをのびのび遊ばせたい』という親の声があることは確かだが、それは『どうせ避難できないんだから』との前置きがあってのこと。放射線量のいわゆるグレー・ゾーン地域でも、避難したい人には避難の権利を与えるべきだ。『日本版・チェルノブイリ法』がなんとしても欲しい。『復興』を声高に叫んで公共事業を推進し、東京五輪を控えて避難指示解除を急ぐことが本当に地域再生につながるのか」。
黒田さんは、自主避難者(福島県の把握では、県外避難約四万人、県内避難四万一〇〇〇人――二〇一六年一二月段階)の住宅無償援助打ち切り、や「除染で安全、帰還で復興=避難早期終了」キャンペーンの中で、小児甲状腺ガンが三年足らずのうちに七四人から一八三人に達している現実を指摘し、三月から年二〇msv以上、五〇msv以下の居住制限区域への避難指示解除が計画されていることも報告。
避難者いじめが子どもたちにの間にも広がっている現実に向き合い、スベトラーナ・アレクセービッチが「チェルノブイリの祈り」の中で向き合った方法に学ぶべきことを訴えた。また「原発いらない福島の女たち」が主催して福島市民会館で三月一一日に行われる「第六回 原発いらない地球(いのち)のつどい」への参加を呼びかけた。
住宅提供打ち
切りに抗して
満田夏花さんは、「住宅提供の打ち切りと追いつめられる原発事故被害者たち」というテーマで報告した。政府は「復興加速化指針」として居住制限区域(二万三〇〇〇人)、避難指示解除準備区域(三万一八〇〇人)を三月までに解除する目標を打ち出した。避難指示解除時期にかかわらず精神的賠償は二〇一八年三月に打ち切られる。しかし例えば富岡町では「帰還する」とした人は回答者の一四%(回答率五割以下)に過ぎず、多くは六〇歳代以上だった。
いわゆる自主的(区域外)避難者は賠償も支援もなく、子どもたちを守るためにのみ避難した人が多い。福島県の二〇一五年六月の発表では、その数は一万二四三六世帯に達する。政府指示区域以外の避難者への住宅支援はこの三月に終了する。自主的避難者は経済的にもきわめて困難な境遇に置かれ、「いじめ」などの対象にもなっている。満田さんは「避難の共同センター」を通じた「孤立」させないための施策を自治体に求めると共に、支援者と避難者の共同活動を紹介した。
子どもたちの甲状腺がん、またはその疑いのある者が一八三人に達しており、二〇一五年五月の「県民健康調査」検討委員会の評価では、「わが国の地域がん登録で把握されている甲状腺がんの罹患統計などから推定される有病数などに比べて数十倍のオーダーで多い」とのこと。
満田さんは、国に対しては「当面は災害救助法に基づく住宅環境の期限延長」「抜本的な、原子力災害被害者の支援の法制化」を求めるとともに、自治体にたいして「避難者の実情・ニーズの把握、現行の公営住宅の期限の延長、新たな公営住宅の優先枠の設定」などを求めていくべきことを呼びかけた。
シンポジウムでは、政府の原発再稼働、被ばく・放射能汚染隠し、「復興」キャンペーンによる支援切り捨てなどに抗して、被災者とともに行動していくことを改めて再確認した。 (K)
投書
山城博治さんと面会してきました
内田雅敏(弁護士)
内田です。お元気ですか。
二月二一日夜から二四日夕刻まで、沖縄に行ってました。二二日辺野古から戻った夜、池宮城弁護団長を表敬訪問、懇談した際、山城さんに会ってやってほしいとも言われましたので、二三日午後一時から二時半まで「弁護人になろうとする者」という立場で面会しました。
山城博治さんは、確かに長期勾留の疲れはありますが、拘置所に移ってからは、外からの情報がよく入るようになり、新聞も読めて(琉球新報と沖縄タイムズを一カ月交替で購読)おり、体調も良くなり、落ち着いていました。警察段階では毎日朝、昼、夜と三回の取り調べ(黙秘)があり、再逮捕、再々逮捕と続いたので、ちょっと落ち込んでいたようです。しかし、外からの激励コールがよく聞こえ、これで随分元気づけられたとのことです(拘置所では、激励コールはかすかに「音」がする)。
二四日午後三時から、裁判所前の公園で、山城議長釈放要求抗議集会が開かれ、二〇〇〇人が集まりました。集会終了後、デモ出発前、代表団が、裁判所に集会決議文を手渡ししようとして裁判所に入ったのに続き、集会参加者らの約半数裁判所構内に「なだれ込み」、期せずして、山城議長釈放要求集会となりました。沖縄を返せ、の大合唱が起こり、感動でした。写真をお送りします。そのむかし、狭山差別裁判に抗議し、部落解放同盟青年部の活動家が浦和地裁の建物を占拠(旧建物で瓦葺だった)し、屋根の上を駆けまわり、垂れ幕などを掲げた「事件」があったことを思い出しました。
なお、辺野古ですが、二二日水曜日は、集中行動日で県内外から四〇〇名位集まり、機動隊も手出しをしませんでしたが二三日、二四日は、座り込む人も少なく午前九時、一二時、一五時と三回排除されています。取り急ぎご連絡迄。
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