スペイン
ポデモス第2回大会、次は
階級横断的穏健路線の拒絶を
社会運動に根ざす政治確立へ
ラウル・カマルゴ
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【解説】
スペインのポデモスは、アラブの春からあまり時を置かずスペインで勃発した反既成政党、反エリート、反緊縮の広場占拠運動、15Mを政治的に引き継ぐ新政党として、自他共に見られている。そして二〇一四年の欧州議会選挙での成功を機に、世界各地で新しい主体による新しい姿で広がっている民衆的抵抗運動の政治的展開を考える参照例として、特に右翼の台頭との対抗という点でも、各方面からの注目を集めている。
しかしポデモス自身は、特に既成の支配的政党である国民党(PP)と社会労働党(PSOE)を押しのける可能性があると見られた二〇一五年一二月の総選挙で結局第三政党にとどまり、二〇一六年のやり直し総選挙でもその位置を変えられなかったことを直接の契機に、内部的に路線をめぐる対立を激化させてきた。そして、ある種選挙至上主義的なこの間のポデモスの取り組み(紹介の論考ではビスタレグレTモデルと総称されている)を主導してきたトップの二人、イグレシアスとエレホン自身の対立が公然化した。
そこでは、街頭における反抗にエネルギーを求めるイグレシアスと、より制度的な対抗を追求するエレホン、という対立図式も提示されている(週刊金曜日二月一七日号に掲載された童子丸開氏記事参照)。ただ、ポデモスが抱える問題は、ここに現れた二人の対立よりはるかに広いものがあり、紙面の都合で今回は割愛せざるを得ないが、IV二月号にはホセ・マリアによるその大会前の分析が掲載されている。
その中で二月一一・一二日にポデモスの第二回全国大会が開催され、エレホンの路線が退けられる結果となった。ここに紹介したスペインの同志による報告は、この大会結果が意味するものを速報的総括として提示し、急進的なオルタナティブとしてのポデモスを追求する第三勢力の押し出しに成功したことを足場に、新たな決起のサイクルに向けた準備という、この第三勢力の集団的任務を確認している。
ビスタレグレU(ポデモス第二回全国大会、第一回がマドリードの同じビスタレグレ総合競技場で開催されたことからこう呼ばれている:訳者)が終わった。会場を圧するような騒音を経て終幕が来た。予想外の結果の原因を分析し、将来の行動、その時は見せ物と心理劇が政治に道を譲る時だが、そこに向けたいくつかの路線を示すために、以下では、この第二回市民総会について、とりあえずの考えを五点明らかにする。
パブロ軸に急進路線への道確保
1.マドリードにおける地域指導部の刷新に導いた内部的進展が、今回の全国大会では大きな程度で繰り返され、拡張された。マドリードでの力関係は、エレホン派(注一)にもっと有利だった。そしてそれは、それがマドリードで勝利することになったとすれば、全国規模の大会でも止められないと見られていた、と思われる。
「パブリスト」(ポデモスの最高指導者であるパブロ・イグレシアス支持者:訳者)潮流と共にレイニシア・ポデモス(ポデモス再起動)を創出するという、アンティカピタリスタスがマドリードで採用した戦術は、時間を稼ぐためにわれわれはわれわれがもつ一定の可視性と自身の場を放棄する必要がある、との仮定に基づいていた。私は正しい決定を行った、と考える。
その時もっとも急を要した任務は、もっと制度主義的な、またもっと穏健な主張が支配的影響力をもつようになることを阻止することだった。この進展は、パブロ・イグレシアスに対する支持が民衆層内では考えられていたよりも強く、この部分はポデモス内部でも、主に都市的な環境においてすら強い、ということを示した。
マドリードでの結果は、参照基準として指導部候補者リストに対する平均を取り上げた場合、信じられていたほどには接戦ではなかった。つまり、フンタス・ポデモス(ポデモス連合、親イグレシアス+アンティカピタリスタス)支持が五一%に対し、エレホン支持者への支持が三九%だった。ポデモス内部におけるマドリードの比重を考慮すれば、この状況はビスタレグレUでも複製される可能性がある、という兆候がすでに存在していた。
エレホン派はものごとを同じようには評価しなかった。そしてすべてを全国大会に投げ込んだ。それゆえそれは、相当な後退を喫するよう彼らを導いた過ちだった。つまり、パブロという人物に基づいてポデモスに所属している実体、というより大きな部分の規模と自己識別と対比しての、仮想的な関係性とソーシャルネットワークに対する過大評価だ。この意味で、下部基層とのポピュリズム的関係は、逆説的だが、エレホンよりはイグレシアスにはるかによく効力を発揮した(注二)。
重大な問題は第1回大会モデル
2.この大会を包んできた全体的なくっきりした紛争は、ビスタレグレTのモデルによって非常に大きく決定されたある種の政治文化に関係づけられなければならない。つまり、活動家ではなく、メディアとネットワークで接触されることになっていた、そうした有権者を勝ち取るための公開的論争というものだ。
責任ある地位が先のような要素にしたがって配分されるにつれ、メディアへの出現とネットワークでのフォロワー蓄積が、指導部候補者すべての基本的な特質の一つとなっている。このポデモスの全体文化は最大限まで染み込まされている。そしてそれは最後には、ただ一つの政治行動の方法として、通信とその派生物について協議することで終わるのだ。
このようにして、通信メディアは、その役割が最後の段階ではほとんど象徴的なものとなったポデモスの地方サークルに代わって、内部論争すべてに対する道具立てになっている。ポデモス構想への支配をめぐる一つの闘争の追加的な過剰と共に、最後の二、三週間の見せ物に色を添えた諸要素は、すでに少なくとも二年半存在していた。
3.パブロ派(注三)は、ポデモスの全国規模の機構に対する全面的な支配を確保した潮流として、その立場を打ち固めることになった。彼らは、組織の根付きを改善し拡張するための民衆的基礎を確保している。しかし彼らは他方で、彼らの組織問題文書が無視するか拒絶している脱中央集権化という定式を適用しなければならない。彼らが絶対多数を当てにしている国家市民評議会の先では、これからの時期における対抗となるおもりは諸々の地域から出てくるだろう。
しかしながらうまくいけば彼らは、現在まで欠けていた集団的な指導部を統合し建設するやり方を知ることになるだろう。そしてその指導機関は、秩序あるやり方で諸論争を深く考え、それを全活動家と全サークルに移すための役割を務めるだろう。
4.エレホン派はこの戦闘で多くの船を焼いた。相次ぐ内部的な過程で敗北する際の、「勝利中」という形容詞と「勝利」という言葉両者の乱用は、外部にいる者たち内部での離反、さらに彼ら自身の支持者内部の挫折感を生み出すことで終わる可能性がある。
エレホンの構想は、この国における過去と現在の社会的かつ政治的伝統の蓄積された重みを過小評価した。そして南欧というこの地域に対するラクラウ(エルネスト・ラクラウ、アルゼンチン出身の英エセックス大学政治哲学教授を務める政治理論家:訳者)理論の彼による適用は、うまく機能しなかった。ここはラテンアメリカの一国ではないのだ。
ポピュリズム的な諸々の仮説は議論のそうした使用の上で興味を引く創意を引き込んだ。しかしそれはその創意を、有効な物質的諸関係から極めて遠くに引き離した。そしてそのことは結局、実際的な結果をほとんどもたない数多くの騒音をつくり出すことで終わった。彼らは、永続的なスローガン操作やツイッターキャンペーンを超えて彼らの潮流の略図を書くことを必要とするだろう。もちろんこれらは必要だが、彼らの場合、他のすべての者を彼らの抱いた絶対に誤りのない切り分けに対比して時代遅れの敗者と考えるよう導いた、そうした勧めのいくつかを再考した方がよいと思われる。
急進派は正統な勢力の位置確立
5.そして大事なことを一つ言い残したが、ポデモス・エン・モビミエント(運動するポデモス)およびアンティカピタリスタスがある。それら自身の空間を表現するという決定は一つの成功を見た。しかしその成功は、マドリードおよびアンダルシアでの諸結果の後でも明確ではなかった。それはリスクをはらんだ決定だった。そこでわれわれは、可視性を獲得する目的で場を譲歩したのだが、その可視性こそ、急進的で諸運動を基礎とし、しかし思慮深く責任をもった第三の部分を押し出す目的においては本質的だった。
あらゆる犠牲を払っても勝利するという圧力が高まり続けていた時期のビスタレグレTに向けて採用されたモデルに照らせば、その成果の借り入れは先延ばしされるだろう。候補者リストはみごとであり、キャンペーンも同じだったが、システムだけは、どのような比例システムでもわれわれには九人か一〇人を獲得していた可能性があった中で、われわれに代表を二人しか残さないほどに不公正なものだった。
15Mの教訓の一つは、人は言うこととやることが違ってはならないということだ。われわれは、はるかに民主的ではない内部システムを抱えつつ、スペインの選挙システムを批判はできないのだ。われわれのこの内部的手法が国民議会に適用されていたならば、ポデモスには、現在確保している議員の半分以下しかいないことになるだろう。
この大会を経てアンティカピタリスタスは、良好なキャンペーンをたたえることができる。そこではチーム精神が示され、対立する観点が尊重された。そしてポデモス構想への忠誠がある種の「道義的勝利」へと結実した。たとえばそれは、さまざまなメディアの報道によって指摘されることになった。
この正統性のゆっくりとした蓄積は疑いなく、今後現れるものにとっては有益だろう。諸決起の新しいサイクルを勇気づけることが、われわれが対処しなければならない本質的な集団的任務の一つとなるだろう。そしてこのためには、ポデモス・エン・モビミエントおよびアンティカピタリスタスが諸々の社会運動との間で確保する諸関係が鍵となるだろう。
二〇一七年二月一四日、マドリード。
▼筆者は、マドリードのイスキエルダ・アンティカピタリスタ(反資本主義左翼、スペインの第四インターナショナルメンバーにより組織された:訳者)の指導的メンバー。現在はアンティカピタリスタス運動の一員であり、ポデモスに参加している。
注一)イニゴ・エレホンを中心とする潮流。エレホンは以前、ポデモスの書記長であるパブロ・イグレシアスに次ぐナンバーツーだった。しかし彼らの間の政治的違いは過去数カ月を通じて一層明らかとなってきていた。そして彼らはこの大会に異なった提案を提起した。
注二)ソーシャリスト・レジスタンス(英国支部機関紙)の「ポデモス、ビスタレグレUで穏健路線への転換に反対の票決」を参照。そこでは、「〔エレホンの〕政治文書は、イグレシアス支持五六%、ACs(アンティカピタリスタス)支持九%に対して、三三・七%しか支持されなかった。『組織、倫理、平等』諸文書に関する票決も似たようなものだった。決定的な勝負となったもの――指導部名簿に関する投票――に関して、イグレシアスはエレホンの三七%に対し、議席の六〇%を獲得した」と書かれている。われわれはそこに、その後者の投票では一三%を獲得した、と加えることができる。
注三)パブロ・イグレシアスの潮流。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年二月号)
アルジェリア
年初から各地で社会的爆発
社会的・政治的沈滞あらわ
情報革命が悪魔視策略食い破る
カミル
社会的爆発隠す
「操作と陰謀」
一定数のアルジェリアの地域――ベジャイア、ブイラ、ブメルデ、ブリダ、ティアレット――における二〇一七年初頭の治安部隊との諸衝突、および他の地域における社会的不満に続く、政府の財政法草案反対の社会的爆発の後、問題は次のように提起されている。つまりそれは、政府やメディアがわれわれに告げるような、噂や操作の結果であるのか、と。
この体制は、この体制の特権的有力者たちが自身を富ませている中で、暴力がなぜ表現の一様式とまでなっているのか、若者たちはその展望がなぜ閉ざされているのか、公立学校が毎年なぜ五〇万人以上もの子どもたちを街頭に放り出しているのか、と問うことはない。諸々の社会的爆発、暴動、ストライキ、そして社会運動は底深い政治的かつ社会的沈滞を暴き出している。
エル・ワタン紙論説にしたがえば「二〇一七年の年明けを飾った近頃の社会運動、暴動、ストライキは、一つ以上の理由からやっかいなものになっている。それらの匿名性とウィルス的伝染性(ニュースや噂の伝搬の急速さ)があらゆる効果的な行動を麻痺させている……ソーシャルネットワークの卓越性という現在の背景においては、もっとも小さな噂でも、緊張という空気と組になって、非常に素早くどこにでも広がることができ、同時に即座に行動するよう社会的主体を動員できる」(注)。
体制と結びついたほとんどあらゆるメディアと政党は、起きたことについての公式的説明、「操作と陰謀」、「内部の手」と「外部からの脅威」というそれ、を受け入れてきた。これらは体制が、それに固有な蔑視と家父長主義を白日の下にしつつ、あらゆる社会運動を悪魔視するために何十年間も使ってきた策略だ。
情報革命が政治
を激しく揺らす
アルジェリアのシステムは、この国が明らかに必要としている政治的で社会的な変革を始めようとは思っていない。ある種のソーシャルネットワーク恐怖症は、アラブ諸域、特にチュニジアとエジプトにおける民衆運動の背後にそうした諸々のネットワークが存在して以後、二〇一一年を境に一つの強迫観念となるにいたっている。
この多様な形態をとる民衆運動で起きたことを注意深く観察している者たちにとっては、できごとには豊かな教訓がある。アラブの春の運動は、さまざまなアラブ諸国を貫いてその諸限界を示すことになった。そして最終的に、大衆反乱からなる諸運動におけるソーシャルネットワークの役割が理解されることになった。
ソーシャルネットワークは、社会運動に乗り、この運動に奉仕できる諸々の仲介者を適切に位置づけた。しかしそれらも、自身を運動に位置をもつ社会的諸勢力に変えることはできないのだ。エジプト革命の経験は、それらを特性づける政治的、社会的無定見を示すことになった。
それではソーシャルネットワークのこの無定見の理由は何か? その理由は、アルジェリア社会――そして一般的にマグレブ社会――が、噂に影響されやすいとして知られていることによる。社会的調教の専門家はそれを分かっている。体制は、一九九〇年代のイスラム勢力との闘いの中で、このテクニックを利用し乱用してきた。
情報革命と現代の通信技術は、「アラブの春」として知られるようになったものを特性づけた社会運動と政治運動に対して鍵だった。その時以来政治は、新しい技術とアプリケーション、インターネット上での電子的な交流、対話ボックスを備えたeメイルとテキストの送付、電子新聞の新方式に対する直接的な接触に関するプログラミング、そして異なったメディアの様々な補足的サイトという、「オルタナティブジャーナリズム」や個人的サイトとブログの発展と一体的なこれらすべてによって、激しく揺さぶられてきた。そしてそれらのすべては、一九九七年以来めまいがするような速度で広がってきた。
ウェブログは、古典的メディアを特性づける検閲と監視という制約を逃れる社会的現実となった。二〇〇〇年代これらのネットワークは、伝統的メディアの報道に批判的なある種の「民衆報道」という地位を獲得した一つの演壇となるべく、それらの主観的な特性を放棄した。諸々のブログはこうして、政治生活と経済生活に影響を与え、理念と見解を形作る点に達した。
予備力喪失から
モスクを頼りに
メディアが過度に強調してきた他の側面は、ベジャイア、ブイラ、ブメルデで発展した反政権派の運動が、一定の暴動的性格を帯びたという点だ。政府首脳のアブデルマレク・セラルは、二〇一七年初頭のいくつかの暴動は、「アルジェリアに敵意をもつ諸部分による正体不明の操作」から引き起こされた、と言い張った。また「われわれのところにはアラブの春はなく、アラブの春もわれわれには無関心だ、したがってわれわれはまもなく、イエナイエル(北アフリカ、ベルベル地方で古くから使われてきた農業歴年の新年初日、西暦の一月一日とは二週間内外のずれがある:訳者)を祝うことになるだろう」と付け加えた。体制のスポークスパーソンと彼らのメディアはその一方、反政権派の運動をカビリだけの地域限定事件と描こうとしている。
現実には、ティアレット、ブリダ、ティパサ、アルジェ、さらにコンスタンティーヌのような、他の町や国の諸地域に広がった不満をはらんだ運動に関しある種の報道管制が起きてきた。体制はこうした社会運動の伝染を前に、予備力のすべてを失うことになり、モスクをも動員することになった。宗教問題相は、二〇一七年一月六日の金曜日礼拝説教では、分別への訴えを中心に置くべきであり、二〇一七年財政法撤回を求める正統性ある要求よりも、社会的決起の暴力や略奪に向かう動きに光を当てるべき、との指令を全モスクに送った。
政府首脳の家父長主義的主張は、「アルジェリアの諸々の敵」に対決する世論を動員しようと試みるこの国のあらゆるモスクの中で中継された。体制はあらためて、彼らがその保護者として想定されている憲法に対し、それを侵犯する第一の者となっている。
▼筆者は、アルジェリア社会主義労働者党(PST)の指導部メンバー。
注)エル・ワタン紙、二〇一七年一月六日号。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年二月号)
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