池田五律さん(有事立法・治安弾圧を許すな!北部集会実行委)に聞く @
派兵国家化と治安弾圧を撃つ
基地の再編・強化を見据えながら
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二〇一四年七月一日、安倍政権は閣議決定により集団的自衛権の行使を容認し、二〇一五年九月、戦争法を成立させた。具体的には南スーダンPKOで陸上自衛隊が駆けつけ警護で、武器使用を認めることになった。初めて自衛隊が「殺す」「殺される」関係に入った。一方、沖縄では高江・辺野古の米軍基地建設をめぐり激しい反対運動が行われている。そして、先島諸島防衛ということで、与那国島、石垣、宮古、奄美と自衛隊基地が建設、計画され、自衛隊の配備強化が図られている。長年にわたり、自衛隊練馬駐屯地に対する反対運動を行っている池田五律さん(有事立法・治安弾圧を許すな!北部集会実行委)に、首都圏の運動から見た、自衛隊基地の変遷、自衛隊はどこに向かっているのか、自衛隊員の姿を聞いた。(本紙編集部M)
――いつ頃、どのような理由から、自衛隊練馬駐屯地に対する運動を始めたのですか。
学生時代から反トマホークとか日米韓軍事一体化のチームスピリット反対闘争で横須賀や横田に行っていた。でも、朝霞での自衛隊観閲式反対闘争とかには参加していなかった。同じ日に重なることが多かった一〇・三一狭山闘争に行っていたから。一九八〇年代後半に連れ合いといっしょになり練馬に引っ越した。先輩から練馬に住んだなら、二つの駐屯地があるからちゃんとやらないとダメだと言われ、取り組むようになった。
――自衛隊練馬駐屯地は、一九三〇年に東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫として作られ、敷地一万坪。そして敗戦。米軍に接収され、一九五一年に警察予備隊が久里浜から移駐。敷地八万坪に拡大。一九五四年に自衛隊が発足、練馬第一師団司令部が置かれ、一九六五年に駐屯地とされた。現在は第一師団司令部、第一普通科連隊、第一後方支援連隊、第一特殊武器防護隊、偵察隊、通信大隊などが置かれているとされていますが、規模と役割はどのようなものですか。首都圏の基地との連携は? 朝霞、習志野、立川。そして米軍の横田・厚木・横須賀とは連携は?
防衛庁が六本木から市ヶ谷に移転し、玉突き的に基地が再編された。北区の十条に補給統制本部が置かれ、朝霞駐屯地に方面総監部が移ってきた。それへの反対を、練馬、北区の市民運動が連携して取り組んだ。その時は、「戦争に協力しない!させない!練馬アクション」(練馬アクション)ではなく、別の名の運動体だった。それが「開店休業」のようになってしまい、当時はまだ若手だった僕とかがが呼びかけ人になって、「練馬アクション」を一九九九年に立ち上げた。二〇〇〇年にビッグレスキューがあった。まだ開通していなかった都営大江戸線を使って自衛隊が光が丘の駐車場から乗り込むので、それに反対する闘争を行った。
その後、朝霞駐屯地で行われる観閲式、ヤマサクラ(日米共同方面隊指揮所演習)に反対する取り組みや、第一師団(司令部は練馬駐屯地)のイラク派兵に反対する取り組みなどをやってきた。朝霞駐屯地は、一九九〇年代のカンボジアPKOの時から最後の錬成訓練をする場になってきたから、東部方面隊以外の部隊の海外派兵の際にも、海外派兵反対の取り組みをしてきた。
また練馬には、一九七〇年代に革新首長を実現させようとした枠がそのまま残っていて、「何よりも人と自然を大切にする練馬区をめざす区民集会実行委員会」というものがあり、その「平和分科会」を、「練馬平和委員会」や「練馬アクション」などが担ってきた。
一方、東京北部(練馬、板橋、豊島)には、東水労の芝崎さんらの練馬駐屯地(練馬北町)に対する板橋側からのデモなど、いわゆる新左翼系の歴史ある運動が存在してきた。しかも、労働運動など他の課題での意見の違いを超えて、反戦平和課題では共闘関係が維持されてきた。
――横須賀の反基地運動だと、平和フォーラム系と共産党系が別々に集会をやっています。
いや、そういうことではなしに前からいっしょにやっている。いわゆる新左翼系は「有事立法・治安弾圧を許すな!北部集会実行委」がある。それは一九九九年にアクションをつくる時と重なっているのですが、周辺事態法と組織的犯罪対策法・盗聴法ができた時、これからの戦争は対テロ戦争だから治安と表裏一体だとしてつくった。
また練馬では、沖縄のことは「〈語やびら沖縄〉もあい練馬」でやるし、改憲問題については「憲法骨ぬきNO!練馬」で取り組んでいる。他地域の人には驚かれるかもしれないが、生活者ネットの方々とも一緒に取り組むことも多い。国民保護のことなども、生活者ネットの区議さんが区議会で反対の立場から質問してくれたりしている。
首都圏各基地
の機能と連関
――そうすると情報も広く入ってくる。
平和委員会の方々からも入ってくる。平和委員会は北町商店街にも朝ビラまいて、駐屯地前での情宣も継続的に取り組まれている。頭が下がります。
――練馬、朝霞、木更津基地の構造は?
朝霞駐屯地は住所が練馬区。練馬区、朝霞市、新座市、和光市、西東京市にまたがっている。九〇万九七一〇u。東部方面総監部の住所は練馬区大泉になっている。朝霞駐屯地の東部方面総監部があって、東部方面隊の隷下に第一師団と第一二旅団(相馬が原に司令部がある)がある。第一師団の司令部が練馬北町にある。二二万四一九四uある。第一師団はいろんな所に駐屯地がある。大宮や横須賀の近くの武山など。第一師団全部合わせると六三〇〇人。そのもとにある第一普通科連隊は七〜八〇〇人。政治経済中枢という位置づけで規模が大きい。直下型地震だと大規模テロがあった場合、都心に部隊展開する。政治経済の中枢を防衛するというのが第一師団の役割。かつての近衛部隊のような役目。だから、連隊というと六五〇人ぐらいだけれど、練馬駐屯地の普通科連はその定数を上回って配置されていると思われる。
朝霞は東部方面総監といって、東部方面隊の司令部がある。それに体育学校、「りっくんランド」という広報館もある。中央即応集団隷下の対特殊武器衛生隊など、いろんな部隊もいる。防衛大臣直轄の研究本部などの機関も置かれている。だから全部で何人かは分からない。防災の計画で朝霞駐屯地から出てくるとされている人数は五八八〇人となっているので結構な人数がいるだろう。二〇一四年のヤマサクラの時は自衛隊が三〜四〇〇〇人、アメリカ軍が千数百人、合わせて六五〇〇人。それくらいがテント張って野営した。
朝霞駐屯地の周りには都立大泉公園とか和光市樹林公園とかがある。いざとなったら、それらも含めて使うことになるのだろう。
それから座間との関係は歴史的にも深くて、天皇裕仁が軍事演習に来て、ここを相武台と名づくと言って相模原ができ、振武臺(しんぶだい)と?名づくと言って朝霞基地ができた。今でも振武館という建物がある。それは座間にあった戦前の陸軍将校クラブを移築したものだ。戦争中に朝霞に陸軍予科士官学校があって、そこで書かれた血判状などを今でも展示している。
今年、陸上自衛隊が総隊制に移行する。航空・海上自衛隊は総隊制だが、陸上自衛隊には各方面隊の上に立つような司令部機能がなかった。それを総隊制にして、その司令部が朝霞に置かれる。かつて朝霞には中央即応集団の司令部があった。それは、米軍再編に伴って座間に移った。米陸軍第一軍団司令部と一体化したわけです。ところが、座間移転総隊制に移行して、中央即応集団隷下の諸部隊は、総隊直轄部隊になる。では座間にあった中央即応集団司令部の後釜はというと、日米共同部になる。その他の基地との関係でいうと、PAC3が入間に配備されているが、北朝鮮の弾道ミサイルが発射されるとなると入間から朝霞に移動展開される。
――横須賀からぐるりと首都圏防衛線が配置されていますが。
あれからは朝霞は外れている。国道16号線は横須賀、横田、入間ぐるりと回って木更津まで。 (つづく)
1.26
朝鮮学校補助金裁判
不当判決許さない!
ねらいは民族教育つぶし
【大阪】二〇一〇年二月当時の中井拉致担当相が、「高校無償化」法から朝鮮学校を除外するよう文部科学省に要請していることが明らかになった。この年の三月橋下大阪府知事は、朝鮮総連を暴力団と同じだと発言し、「四要件」( @朝鮮総連と一線を画すこと A金日成・金正日父子の肖像画を教室から外すこと B学習指導要領に準じた教育をすること C財務状況の一般公開 )をクリアしなければ補助金を支給しない方針を表明、夏から秋にかけて立ち入り調査を行った。この年の四月に「高校無償化法」は公布されるが、朝鮮学校への支援金支給は未定となった。さらに二〇一一年三月、大阪朝鮮学園は四要件に対する回答書を橋下知事に提出。橋下知事は、教室の肖像画を外さなかった高級学校に補助金を支給しない方針を表明し、初・中級学校には補助金支給を決定した。この年の一一月、四要件に加えて、D肖像画を職員室からも外す、が追加された。
二〇一一年一一月、橋下徹は知事辞任の際、「行政としては四要件が満たされていると考えている。後は議会に委ねる」と発言。大阪府・市首長ダブル選の結果、橋下徹大阪市長・松井一郎大阪府知事が誕生した。その直後の府議会は、初級学校一校を除き、職員室の肖像画を外さなかった他の初・中級学校の補助金を停止する補正予算を可決した。そして翌二〇一二年三月、市が「五要件」を提示。大阪朝鮮学園は初・中級学校の職員室の肖像画を外し、府に八校分の支給申請書を提出する。松井知事は、中級学校生徒が平壌での迎春講演(二月)に出演したことを取り上げ、この講演が朝鮮総連の行事ではないことを大阪朝鮮学園が証明しなかったことを理由に、補助金を交付しないことを決定した。それに合わせるように大阪市も、大阪市内の初中級学校八校に補助金二七〇〇万円を交付しないことを決定。大阪朝鮮学園は、補助金復活を求めて二〇一二年九月大阪府・市を提訴した。
この年一二月末に第二次安倍内閣は、朝鮮高級学校への「無償化」不適用方針を決定。これについて大阪朝鮮学園は二〇一三年一月、無償化指定に関する不作為の違法確認を求めて国を提訴した。国はこれを逆なでするように、文部科学省告示を改悪して交付し、朝鮮高級学校には「無償化」を適用しないものとし、その旨を通知した。五月に国連社会権規約委員会が日本政府に対する総括所見を発表し、朝鮮高級学校の「無償化」除外を差別だと指摘した。二〇一四年九月には国連人種差別撤廃委員会が、朝鮮学校に「無償化」制度を適用し、地方自治体には補助金再開・維持を要請するよう、日本政府に勧告した。これら国連の指摘や勧告に日本政府は何も応えていない。
行政救済判決
は認められぬ
大阪朝鮮学園が補助金復活を求めて大阪府・市を提訴した二〇一二年九月から、四年四カ月。一審の大阪地裁判決は、今年一月二六日に出された。つまり、請求棄却。弁護団長の丹羽雅雄弁護士は、昨年八月の結審の時に四点を強調した。つまりこの裁判は、@朝鮮学園の子どもたちは、植民地支配という歴史に連なる歴史的存在であるということをしっかり認識すること。A憲法訴訟であると同時に国際人権訴訟である。国家の中の少数派の民族に対しては特に民族教育・アイデンティティ教育が必要である。保護者や子どもは学校を選ぶ権利があり、行政はそれを保障しなければいけない。B一九六〇年代以降大阪府は継続して、朝鮮学校の子どもたちも日本人の子どもと同等の社会の構成員であるととらえ、四〇年近くにわたって補助金を出してきた。その慣例は石原慎太郎と橋下徹により壊され、教育の場に政治や外交問題が持ち込まれた。民族教育を保障するのは国際的な流れであり、その流れの中にこの裁判もある。という四点だ。
丹羽弁護士は、「判決は、行政の作った枠組みの中で問題を整合させただけの、行政救済判決だ。こんな判決は絶対に認められない」と述べ、断固闘うと決意を述べた。
子どもたちに
未来を残す!
判決の概略説明の後、大阪朝鮮学園理事長により声明が読み上げられた。声明では、「政府・司法・行政・マスコミが一体となって行っている『民族差別』、『いじめ』はもう止めてください」と述べ、今後も補助金交付、「高校無償化」制度の適用を求めて闘うと宣言していた。オモニ会の代表は、「ハルモニたちは私たちのウリハッキョをつくってくれた。私たちの子どもにウリハッキョを残せないなどということには絶対にならない」と司法に対する幻滅と怒りをバネに子どもたちに未来を残す決意を述べた。朝鮮高級学校の卒業生のアピール、朝鮮高級学校無償化を求める連絡会・大阪の代表のアピール、韓国のウリハッキョと子どもたちを守る市民の会のメッセージが紹介された。また、判決に対する在日の人々の短いビデオメッセージがたくさん紹介された。口々に、最後に「ファイティン」(がんばる)と言っていたのが印象的だった。二〇一二年につくられた大阪朝鮮学園支援府民基金(ホンギルトン基金)に集まった寄付金(日本人・在日コリアン・韓国合わせて、総計一八六二万円)の贈呈が行われた。
訴訟は、大阪高裁に控訴されることになった。 (T・T)
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