寄稿
日本共産党27回大会をどう見るか
樋口 芳広(日本共産党員)
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一月一五日から三日間の日程で、日本共産党の第二七回党大会が開催された。日本共産党が安倍政権の戦争国家法案との闘いで野党共闘のけん引者的役割を果たしたのは、まぎれもない事実であり、その成果は昨年の参院選でも表現された。同時に問われているのは革命の綱領・戦略の問題である。日本共産党員の樋口芳広さんに問題点を寄稿していただいた。(編集部)
はじめに
日本共産党は、一月一五日から一八日にかけて、第二七回党大会を開催した。この大会では、民進党の安住淳代表代行、自由党の小沢一郎代表、社会民主党の吉田忠智党首、沖縄の風の糸数慶子代表が来賓としてあいさつを行ったことが大きな注目を集めた。党大会で他党の代表があいさつするのは、九五年の党史上初のことである。
このことに象徴されるように、今回の大会は、一昨年九月の「国民連合政府」構想提唱以来の「野党共闘」路線を一層強化する方針を確定させるところに、その最大の眼目があったといえよう。志位和夫委員長は中央委員会報告で「綱領、理念、政策が違うものとは一緒にやれない」という議論に強く反論し、「野党連合政権」の実現をめざすことを強調した。二〇一四年一月に開催された第二六回党大会で「自共対決」路線が打ち出されていたことからすれば、劇的な転換である。
しかし、中央委員会報告のなかで「全党討論では、『野党共闘はうまくいくか』という心配の声も寄せられました」と述べられているように、「自共対決」路線から「野党共闘」路線――単なる共闘ではなく政権をともにすることの呼びかけを含むことが決定的である――への転換に対して、党内に少なからず疑問の声があることは間違いない。いくら安倍政権打倒という「大義」があるとしても、「綱領、理念、政策」の大きく異なる民進党などと政権をともにするという目標を掲げることがそもそも妥当なのか。「綱領、理念、政策」の大きな違いが云々されるなかで、共産党の「綱領、理念、政策」を修正せよという圧力に抗しきれるのか――こうした疑問が生じてくるのは当然である。大会決議あるいは中央委員会報告は、こうした疑問にどのような解答を与えているのであろうか。また、その解答は果たして妥当なものといえるのだろうか。本稿ではこれらの問題について検討したい。
1 「野党共闘はうまくいくか」という疑問にどう答えたか
中央委員会報告は、「野党共闘はうまくいくか」という疑問に、「うまくいくように知恵と力をつくすということにつき」る、と答える。その上で、前途に曲折や困難、政権与党からの攻撃があるであろうことを認めつつ、これらを克服するための「二つの力」として、「新しい市民運動の発展」と「日本共産党の政治的躍進」を挙げるのである。困難だけれどうまくいくように力を尽くす、大衆的な運動の高揚とともに革命政党たる共産党を強大なものにしていくことがカギだ――抽象的なレベルでいえば、全くケチのつけようのない解答である。
そもそも、二六回大会の「自共対決」路線から二七回大会の「野党共闘」路線への転換を正当化する根拠となっているのが、この三年間の「二つの力」の発展なのである。しかし、それらは、民進党などとの連合政権の構想を妥当なものとするほどに強力なものであったといえるのだろうか。
「新しい市民運動」について、大会決議は、第3章・第二一項において、「安保法制=戦争法に反対するたたかいを通じて、多くの市民が自覚的に立ち上がる戦後かつてない新しい市民運動がわきおこり、市民革命的な動きが始まった」と評価している。「多くの市民が自覚的に立ち上がった」のは確かであり、その意義は正当に評価されなければならない。しかし、「市民革命的な動き」とまでいうのは妥当であろうか。安保法制に反対する市民運動は安倍政権を打倒することはできなかったし、安倍政権が六割もの内閣支持率を得るという状況すら突き崩せていないことも直視すべきであろう。
「日本共産党の政治的な躍進」についてはどうか。確かに、国政選挙での日本共産党の得票数・率は増大している。しかし、支持の質はどうだろうか。共産党の「綱領、政策、理念」が積極的に支持されてきているといえるのだろうか。安倍政権への批判票がある程度集中しただけという側面はないのだろうか。そして何よりも、党組織の高齢化・弱体化が進んでいること、「わが党の労働者階級のなかでの組織的影響力はごく一部にとどまっており、六〇〇〇万人の労働者階級全体から見れば、組織的にはほとんどの職場が空白という状況」(大会決議)を見逃すわけにはいかないだろう。
こうした状況の下で日本共産党は、「政権に加わるというなら『綱領、理念、政策』を右寄り(現状を追認するもの)に修正せよ」という圧力に抗しきることができるだろうか。単なる「野党共闘」はともかく、民進党などとの連合政権の可能性にまで踏み込むのは危険ではないか、という疑問は簡単に払拭できるものではない。
2 危惧される「党独自の立場」の主張の弱さ
「野党連合政権」をめぐって、とりわけ焦点となるのは、日米安保条約および自衛隊をめぐる民進党などと共産党との立場の違いであろう。政権に加わるというのなら日米安保条約も自衛隊も認めろ――こうした圧力に対して、大会決議は「二重の取り組み」という予防線を張っている。すなわち、「いま問われている真の争点は『海外で戦争する国』づくりを許さないことにあることを太く押し出すとともに、日米安保条約や自衛隊に対する党独自の立場を広く明らかにしていく」(大会決議)ということである。
この「二重の取り組み」というのは、理屈としては実にもっともに聞こえる(安保条約についてはともかく、自衛隊についての「党独自の立場」が自衛隊活用論を含む問題の多いものであることについて今回は措く)。しかし、実際には、“アレはアレ、コレはコレ”と機械的に振り分けているだけであり、両者が具体的にどのように統一されるのか、すなわち、「『海外で戦争する国』づくりを許さない」という一致点を日米安保条約廃棄・自衛隊解消という合意につなげていくために、党としてどのような積極的な取り組みを行っていくのか、具体的に踏み込んだ提起はなされていないのである。これでは、現実の運動の場面において、「野党と市民の共闘に、日米安保条約や自衛隊についての独自の立場を持ち込まない」ということが一面的に強調されることになりかねない。本来ならば、「党独自の立場」を「野党と市民の共闘」に積極的に持ち込み(押しつけるのではない!)、本質的な議論を喚起する姿勢こそが求められるのではないだろうか。そうした主体的な努力なくして、日米安保条約を廃棄し、自衛隊を解消するという世論の形成がはかられるわけがない。
「党独自の立場」の押し出しの弱さを象徴的に示すのが、大会決議および中央委員会報告を通じて、天皇制をどうするかという問題についての言及が一切ないことである。今まさに「天皇退位」問題の浮上によって、天皇制の是非そのものを問う絶好のチャンスが到来しているにもかかわらず、である。党綱領は「一人の個人が世襲で『国民統合』の象徴となるという現制度は、民主主義および人間の平等の原則と両立するものではなく、国民主権の原則の首尾一貫した展開のためには、民主共和制の政治体制の実現をはかるべき」としているのであるから、「天皇退位」問題と具体的に絡めつつ、こうした「党独自の立場」を積極的に展開して、天皇制廃止の世論形成に努めるべきであろう。そうした提起がなされないのは、「野党共闘」の障害になるような「党独自の立場」の主張は控える、という配慮が働いていると考えるほかない。
3 社会主義・共産主義については正面から語られず
決定的な問題は、今回の大会決議の全体を通じて、社会主義・共産主義という将来の展望について、正面から積極的に語られていないことである。近年の党大会における大会決議と比較してみると、その差は歴然としている。二〇一四年の二六回大会の決議は、第六章(最終章)を「日本における未来社会の展望について」とし、いわゆる「社会主義をめざす国ぐに」と対比させながら、日本における社会主義・共産主義の展望をそれなりに詳しく展開していた。また、二〇一〇年の二五回大会の決議は第五章(最終章)を「激動の世界と未来社会への展望について」とし、世界の資本主義の矛盾の深まりで科学的社会主義への注目が高まっていることに触れながら、「社会主義・共産主義をめざす綱領の展望が、世界の現実の中で実証されつつあることに、深い確信をもって、未来にのぞもうではないか」と呼びかけていた。二〇〇六年の二四回大会の決議は、第二章の世界情勢論のなかに「資本主義をのりこえる新しい社会への展望」という節を設け、貧富の格差の拡大や南北問題などに触れながら、「世界の資本主義の現実と矛盾そのもののなかに、わが党がめざす未来社会――社会主義・共産主義への発展の条件が存在している」と強調していた(二〇〇三年の二三回大会は綱領改定が行われた大会であり、大会決議は「必ずしも体系的・包括的にわが党の日本改革の提案をのべるという構成にしていません」〔二二大会期・第八回中央委員会総会での志位報告〕ということなので、比較の対象から除く)。
これらに対して、二七回大会の決議は、第六章(最終章)の「九五年の歴史に立ち、党創立一〇〇周年を展望する」のなかで、綱領の文言を引用することで、日本共産党が「発達した資本主義国で社会変革をめざす政党」であることを確認するにとどめている。世界情勢論と絡めつつ大会決議として独自の言葉で社会主義・共産主義の展望について語るということは行われていないのである。
一方、二七大会の中央委員会報告においては、「党独自の立場」を「野党と市民の共闘」に持ち込むことはしないという文脈のなかで、社会主義・共産主義の将来像について語られている。ここでは、「社会の進歩は、一歩一歩、階段をあがるように、段階的に発展する」ものであり「日本社会がいま求めているのは、社会主義・共産主義でなく、『資本主義の枠内での民主的改革』である」こと、「私たちのめざす未来社会――社会主義・共産主義の日本は、崩壊した旧ソ連のような体制とはまったく異なり、『人間の解放、人間の自由』を最大の特徴とする社会」であること、「社会進歩のどのような道をすすむか、そしてその道をすすむ場合でも、いつどこまですすむかは、主権者である国民の意思、選挙で表明される国民自身の選択によって決定されること」が力説されている。社会主義・共産主義の将来像をもっていることが、何か後ろめたいことであるかのように、必死の弁明に終始している、という印象を与えられるものになっている。
そもそも二七回大会決議の世界情勢論には、資本主義の矛盾の深まりという観点からの突っ込んだ分析がない。せいぜい、トランプ勝利の背景として「アメリカ社会は、長年続いた多国籍大企業の利益を最優先するグローバル資本主義、新自由主義の経済政策のもとで、格差と貧困が広がり、深刻な行き詰まりと矛盾に直面している」と指摘し、「欧米では、グローバル資本主義の暴走――世界中を最大利潤を求めて動きまわる多国籍企業や国際金融資本の横暴のもとで、格差と貧困の拡大に反対する幅広い市民運動が発展している」などと記述している程度である。問題はあくまでも「グローバル資本主義」なるものであり、「資本主義の枠内での民主的改革」で対処すればよいのだ、という姿勢をにじませている。資本主義そのものの是非が問われているのだという提起は――近年の党大会における決議には極めて不十分ながらも一応は存在していたにもかかわらず――この二七回大会の決議からは見てとることができないのである。
おわりに
以上、日本共産党第二七回大会について、「野党と市民との共闘」と「党独自の立場」との関係がどのように論じられたかということに焦点を当てて、検討してきた。
結論的にいえば、二七回大会は、「野党と市民との共闘」に「党独自の立場」を持ち込まない、として両者を機械的に切り離そうとする姿勢を示したといえよう。確かに、安保条約廃棄や自衛隊解消といった「党独自の立場」を積極的に宣伝すること自体は謳われていたが、天皇制の廃止という「党独自の立場」には一切言及されず、社会主義・共産主義の将来像については言い訳がましく触れられるにとどまっていた。
しかし、本来ならば、安保条約や自衛隊のみならず、天皇制や資本主義そのものの是非についても、積極的に「党独自の立場」を宣伝し、「野党と市民との共闘」のなかに持ち込んで――もちろん、押しつけるわけではない――本質的な議論を喚起していくべきであろう。そうした共産党の主体的な努力なくして、安保条約廃棄や自衛隊解消、天皇制廃止、社会主義的変革に向けた世論が自然に成熟していくことなどあり得ない。さらにいえば、混沌とした世界情勢に対して、社会主義・共産主義の展望を積極的に打ち出すことなしには、若い世代を党に獲得していくことは困難であろう。
二七回大会で提起された「野党連合政権」は、安保法制廃止と立憲主義回復という「大義」をもち、「新しい市民運動の発展」に支えられるという形をとっている限りにおいて、一九九八年のいわゆる不破政権論に比べれば、合理的な根拠をもつものであるといえる。安倍政権に対抗するために、野党間の政策的一致点を可能な限り広げることを大前提に、来るべき総選挙において「相互推薦・相互支援」の協力を進めていくことも必要なことであろう(もっとも、政権との関わりは、総選挙後の国会における首班指名選挙で野党統一候補に投票することまでにとどめておくべきであり、閣内に入る可能性を云々するなど論外である)。
しかし、市民運動の発展の度合、世論の成熟の度合、日本共産党の政治的力量などを踏まえるならば、この「野党共闘」路線は、日本共産党が右転換への圧力に全面的に屈する危険性を劇的に高めるものであることも直視しなければならない。
とはいえ、「野党と市民の共闘」に背を向けることができないのもまた確かではある。革命運動においては、労働者・市民が、自らの諸要求を実現するために自らの力で運動を押し進めるということが何よりも大切なことであり、この力を創り出して根本的な体制変革の方向へとつなげていくことこそ、革命政党に負わされた任務である。日本共産党は、実態的にはともかく名目的には、安保条約廃棄、自衛隊解消、天皇制廃止を掲げ、共産主義社会の実現を掲げる「革命政党」であり続けている。「野党と市民の共闘」の一致点の尊重と「党独自の立場」の積極的な宣伝という二つの要素を“アレかコレか”的に並列させるのではなく、両者の相互浸透を的確に図っていくことができるか否か――共産主義者であることを自任する個々の日本共産党員にとって、このことがこれまで以上に鋭く問われる局面が到来しているといえよう。
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