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    かけはし2017.年2月6日号

新たな女性運動へ息吹き溌剌


米国

女性行進2017

大胆不敵、そして幅広く

ナンシー・ホルムストロム


 私はワシントンDCの女性行進から疲れ切って戻った。しかし感動を覚え、われわれは新しい女性運動の誕生を今見ている、と確信した。その規模、包括の幅広さ、大胆不敵だが良く調和の取れた精神、そして進歩的政治、これらすべてが、これからが挑戦となるとしても、私を極めて楽観的にしている。

あらゆる年代の
女性が全国から


まず今回の規模から始めよう。五〇年以上昔高校生だった時から、一九六三年の「職と自由を求める行進」、数知れないベトナム反戦デモ、さらに二〇〇四年の「女性の命行進」を含み、ワシントンDCのデモに出かけてきたが、その私の考えでは、今回の行進の数はここまでに見積もられた五〇万人をはるかに超えていた。私がさまざまな発言を聞いていた場所では、文字通り私が動けないほど群集がぎっしり詰め込まれていた。ある時点で私は、人々があまりに多すぎるために、行進にはなりそうにないと聞いた。われわれはまさに街頭を埋めていたのだ。
プログラムは、計画された三時間ではなく四時間以上続いた。それゆえ終了時刻は遅くなり、ある人たちは帰宅の交通手段を確保するためにその場を離れざるを得ないほどだった。こうして、全体を視覚で捉えることは困難だった。
行進参加者の社会的構成は、改善されるべき余地はあるとしても、心を鼓舞するものだった。圧倒的に女性が占めた(男はおそらく二五%――一つのプラカードには「すべてではないが、本当の男は仲間」と書かれていた)参加者は、全土から集まり、あらゆる年齢層を含んでいた。私と同年齢層の何人かは、「こんなことのためにまだ闘わなければならないなんて信じられない」と書かれたプラカードを掲げていた。しかし参加者は圧倒的に、中年層、そして極めて若い少女を含んだ若年層だった。
プラカードのほとんどは手製で攻勢的、また多くは極めて遊び心に溢れ、しばしば性的に両義的な意味が込められていた。LGBTQの人々とその課題は、過去のどれよりもはるかに目立つものだった。残念なこととして、参加者は圧倒的に白人だったとはいえ、発言者、出演者、組織者は、少なくとも五〇%が有色の女性たちだった。
行進の鍵となった建設的なテーマは、女性にとっての自己決定権、社会的包摂、そしてプラカードが示した(「私はムスリム・メキシコ人・不法移民の男には恐ろしい女」)ように、諸課題の組み合わせだった。「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命も大事)」は人気を博したプラカードと唱和だった。そしてそれは、白人の参加者から上がることですばらしい感じを与えた。

極めて急進的
戦闘的発言次々


私は当初、抗議すべき課題がまさに多数ある中で、トランプの就任を軸に女性の行進として特殊化されたただ一つの行進が計画されたことに関し、熱が入らなかった。加えて、それは単にヒラリー的リベラル派のイベントになりそうだ、と私が考えたことも理由だった。
しかし女性の課題に他の諸課題が結び付けられた――そしてこれは、次の時期には鍵となるだろう。「クライメートジャスティスを求める女性」の隊列があり、(いくつかの)反戦や多数の人種/刑事事案に関する公正の課題、また他の多くの課題が掲げられた。
確かに、多くの参加者と発言者はリベラルだった。しかし政治的現実は、基本的なリベラルの諸成果が右翼の台頭により脅かされているというものであり、社会主義者は諸闘争という姿でそこに存在している必要があり、民主党への依存の先まで推し進める必要があるのだ。全国共同議長の一人であった若い黒人女性のタミカ・マローリーがそこで語ったように、「あなた方は今怯えている。いいでしょう、しかしこれは」クリントンの下で、またオバマの下であってさえ「常に変わることなくわれわれの現実となっていたのだ」。
発言者の多くは、ほとんどが人種とジェンダーの課題を中心としていたとはいえ、極めて急進的かつ戦闘的だった。そこには、レイプ被害を乗り越えてきた人たち、クイアーやトランスの女性、投獄を経験した女性、公職に選出された黒人女性、その他が含まれ、私たちは国外追放から私たちの家族を守るために愛の鎖を今構築中なのだ≠ニ発言した、あどけない六歳の少女、ソフィー・クルスもいた。多くが(マドンナも含め!)、通常は愛の革命として説明される、「革命」という言葉を使った。少しも驚くことではないが、アンジェラ・デイヴィス(一九四四年生まれの政治活動家、一九六〇年代は米共産党の指導者の一人、ブラックパンサー党とも密接な関係をもった:訳者)がもっとも急進的だった。

今回の行動は
単なる始まり


登場中に見えるこの新しい女性運動は、まさにこの行進同様、イデオロギー的には混在したものになるだろう。女性行進ウェブサイトに掲載された「原則の定義と指針的ビジョン」は、もっと改善することができたと思われるとしても、まったく良好だ。それらは、人権と女性の権利に関する諸言明から始まり、次いで「ジェンダー公正は人種的公正であり、人種的公正は経済的公正」としている。
しかし後者に関してはもっとも弱い。それらは、「透明性、説明責任、社会的保障と公平……差別を減じた職場の機会が駆動する経済」、「生計賃金のために組織化する」権利を求めている。しかし一五ドル最低賃金や「同一労働同一賃金」への言及はまったくない(二人の労働組合活動家の発言者は、家事労働者連合のアイ・ジェン・ポーと米教員連合のランディ・ウェインガルテンだった)。
しかし他にどれほどを期待できただろうか? われわれは大衆的な社会主義運動とはかけ離れたところにいるのだ。少なくとも、オキュパイ、ブラック・ライヴズ・マター、サンダース・キャンペーンのおかげで、経済の課題と人種の課題が設定課題になっている。
共和党がオバマケアを無効にし、代案をまったく用意していないとすれば、トランプ追随者の多くは驚かされ、失望させられるだろう。これはわれわれに、住民皆保険がどれほど女性の課題であり、人種の問題であるかを強調しつつ、新たな女性運動の中でリベラルに、「全員のための生殖医療」という彼らの要求を単純に「全員のための医療」へと拡張するよう圧力をかけ、住民皆保険に向けた要求を掲げるために、一つの突破口を与えるだろう。
主流のフェミニストは今日、一九七〇年代の女性解放運動のはるか右へと移行を遂げている。しかしながら、多くの女性行進諸原則の中にはもっと急進的な政治が暗に示されている。そして社会主義者は、その諸矛盾を明らかにし、そこにあるもっと急進的なオルタナティブを成長させるために準備していなければならない。環境の諸課題もより急を要するものになる以外ない。それゆえわれわれはこの課題を、「母なる地球の防衛」の先に、そこにある反資本主義の含意へと推し進めなければならない。
発言者が次々と語ったように、今回の行動は始まりにすぎない。抵抗が日程に載っている。(二〇一七年一月二四日、「アゲンスト・ザ・カレント」より)

▼筆者は、ニュージャージー州立ラトガース大学(米国で八番目に古い大学:訳者)の哲学名誉教授。(「インターナショナルビューポイント」二〇一七年一月号)

キューバ

フィデル・カストロの死

フランソワ・サバド

 以下の論評は、フランスNPA週刊機関紙、「ランティカピタリスト」二〇一六年一二月一日号向けに書かれた。キューバ革命の特質を概括し、それが容易に屈する性格のものではないことを明らかにしている。(「かけはし」編集部)
 われわれは当時の世界、すなわち冷戦が最高潮であり、スターリン主義が国際主義的労働者運動を氷漬けにしていた世界、を想像しなければならない。キューバ革命は新しい希望をつくり出すことでこの情勢の枷を外すと思われた。

国際主義的革命
の駆動力の再起


最初は数十人、その後でも二、三百人の民兵からなる「ゲリラ」は、血なまぐさいバチスタ独裁打倒に、民衆全体をどのようにして巻き込むことができたのか? 一〇〇〇万人の住民が、米帝国主義に向かって立ち上がり、こうして世界情勢を分極化することに成功したということを、われわれはどのように説明できるのか?
ここでこそわれわれは、フィデル・カストロの指導性がもつ諸々の質を認識しなければならない。これは、北米帝国主義に対決して民族解放を求める闘争の擁護者、キューバの革命家であるホセ・マルティの伝統と調和したものだ。
しかしわれわれは、キューバ革命の二重の特性に留意する必要がある。まず、フィデルと彼の同志たちは、当時の労働者運動を支配していた民族ブルジョアジーとの連携という戦略の中でも、ゲリラ諸行動、大衆の諸運動、諸々のデモ、そして反乱的ストライキを組にしつつ、ある種の武装闘争戦略を開発した。第二の特性は、「ヤンキー帝国主義」に反対することにより、キューバ指導部がこの国の主権を確保した、ということだ。指導部はそうするために、主要資本の保有物、特に北米資本のそれを国有化した。そしてこの国を、低開発の状態から、特に教育と医療において、引き上げ始めた。
キューバは小さな国だとはいえフィデルは、西半球それ自身の中で革命的運動を推進した。フィデルとチェ・ゲバラ間の魔力的作用は、労働者運動の最良の国際主義的伝統を生き返らせた。ベトナム民衆への支援をはじめとして、その発端から闘争中の民衆に対する支援の訴えは数を増した。キューバは一九六六年一月、「三大陸」という名の国際会合を組織した。そしてそれは、アフリカ、アジア、ラテンアメリカの反帝国主義勢力を結集した。この会合は、一九二〇年代の大規模国際会合以後では最初のものだった。
この政策は、ラテンアメリカ(ボリビア)とアフリカ(コンゴ)でチェが取りかかった武装闘争に体現された。その政策はまた一九七〇年代に、南アフリカ部隊の攻撃を撃退するアンゴラの民衆を助けるためにキューバ兵数千名を派遣することによっても現れた。
われわれは、このキューバの戦略内部にある一定の軍事主義的偏向について議論できる。また議論しなければならない。しかし、この時期に本質的であったものは、ある種の国際主義的革命の駆動力における再起だった。

ソ連の圧力と
官僚制的変形


キューバ革命は一九六〇年代末に、力関係の現実と世界市場の現実にぶつかった。それは、ロシア革命以来革命運動に与えられてきた警告、つまり「社会主義は一国内だけでは建設されない」……、という事実に自らの肉体で支払った。キューバ指導部は、孤立させられ、封鎖と北米の禁輸によって締め付けられ、自身の政策を実行する地歩を次第に狭められた。
米帝国主義との対決に必要とされたソ連との戦術的な諸協定は、政治的従属に変えられた。フィデル・カストロは一九六八年には、チェコスロバキアへのソ連介入を支持した。経済分野では、砂糖単一栽培強化という選択が、国を相当程度弱め、一九七〇年の「ゼフラ」――サトウキビ刈り取り――の失敗に導いた。それは、特に北米の封鎖がより過酷になりつつあった中で、キューバのソ連依存を高めた。
こうした全体関係の中でソ連モデルは、一つの参照モデルとしてより一層役目を果たすことになった。ソ連モデルに加えて、キューバ政治に刻まれた軍事主義的な痕跡がもつ上意下達的諸概念も、キューバ国家の官僚制的変形、すなわち諸々の民主的自由の制限、政治的多元性の欠落、諸々の敵対者に対する弾圧、一党体制の打ち固め、キューバ民衆の社会的あるいは政治的諸組織の欠落……を加速した。

革命継続への
重圧下の挑戦


こうした諸条件の下で多くの者たちは、ソ連や東ブロック諸国のような、キューバ革命の崩壊を予測した。しかし、北米の禁輸と組になった、ソ連の援助の終わりを特徴とした「特別な時期」という恐るべき年月にもかかわらず、キューバは持ちこたえたのだ! そこに数々の過ちがあったとしても、キューバ革命は決してソ連からの輸入物ではなかったからだ。
それは、キューバ民衆に特有な一つの歴史的運動なのだ。その「反ヤンキー」という推進動因、その革命の達成成果――たとえ弱々しくとも――、そして主権に対する断固とした意志は、より強いものになっている。
しかしそれはいつまでか? 力関係は恐ろしいほどに不利だ。北米政権は何をするつもりだろうか? 諸商品でキューバを圧倒するつもりだろうか、それとも禁輸を続けるつもりだろうか? フィデルの死後、キューバ共産党内のまたキューバ民衆の諸勢力は、どのように再組織化することになるのだろうか? 中国の道あるいはベトナムの道の支持者たちは、優勢となるのだろうか? キューバの人々はあらためて、革命継続のための道と手段を見出すだろうか? われわれはそう期待し、そしてこの闘いで彼らを支援する。


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