松本耕三 全港湾委員長に聞く(上)
共闘は身近で実質的要求から
反合闘争も賃上げも現場が重要
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全港湾労働組合は毎年全国の港湾でストライキを行い、雇用・賃上げで春闘をけん引してきた。しかし同時に港湾荷役の自動化を推し進める合理化攻撃が始まっている。全港湾がこれにどう立ち向かおうとしているのか松本委員長に聞いた。インタビューは昨年末に行った。(編集部)
戦後の港湾運動と全港湾
――港湾では、全日本港湾労働組合(全港湾)も重要な役割を果たしながら極めて活力のある産別運動が展開されています。今日ではまれとなっているストライキも毎年港単位で展開され、一定の成果に結び付けているだけでなく、さまざまな運動の場面でも港湾労働者の姿が見られます。非常に貴重な運動だと思いますが、ただ港湾労働者の闘いは、港湾という職場の特殊性を含め、普通の人にあまり知られていないという事情もあります。そこでまず松本さんの活動経歴を含め、全港湾運動の紹介からお願いします。
私が労働組合運動を始めたのは一九七三年頃からです。七〇年安保闘争が終わって以降ですが、実際の活動家になるのは八〇年代です。たまたま福島県小名浜の地区労の事務局長を経験するのですが、一八〇〇〜二〇〇〇人位の地区労です。その時は自分で何をするのかといえば、四〇〜五〇の組合がありますから、その三役の名前と連絡先を覚えるために顔を合わせることが必要と考えて、月一回ぐらいは必ず直接組合をまわりました。
その一〇年間でもう一つ重要な経験をしました。大手組合がものすごい速さで世代交代をし、五〇歳代後半の大幹部が引退して三〇代の大卒の人が幹部になるわけです。みんな、旧態依然の労組運動では駄目だということを耳が痛くなるほど聞かされてきたんですが、じゃあ新しい労組運動としてその人たちが何をやったかというと、労金、労済の宴会とか、そういう妙に人付き合いのうまい形です。しかし、会社との団交はだめでした。そういう世代交代を見てきて、これではいけないという思いを強くしました。
一方で、全港湾は総評解散反対ということを当時の吉岡徳次委員長を中心にやってきました。そういう中で労働組合でいろいろ勉強してきました。自分がちょうど三二歳〜四二歳という一〇年間にあたりますが、ほとんど労働争議は負けてばかりだったけれども、地区労運動をずっと続けてきました。その中で全港湾運動も一緒にやってきたというのが私にとっては幸いでした。
次に一九六〇年代から八〇年代にかけて、全港湾がどう産別闘争を作ってきたかということについて話したいと思います。全港湾は一九四六年の結成の頃、一度海員組合と共同で港湾の産業防衛闘争を闘いました。そうやって産別の単一化をめざすのですが、そこでレッドパージ等々、戦後の労働運動の中でいったんは失敗します。そしてもう一回、一九六〇年を前後する高揚期、一九五九年に国際共闘も含めて港湾労協というのを結成します。これはすばらしい共闘だったのですが、やはりある意味理論先行があったのかも分かりませんが、いくつかの組合が脱退してこれも形骸化してしまいます。
ところが、組織が分かれていても、港の安全問題では、分裂した組合や対立関係にあった組合とも一緒に取り組みが行われてきたのです。その時の反省で、やはり産別を組織する時は、身近な要求、実際の要求から出発しなければならないということになりました。
表現としてはどう言うのが適当なのか分からないけれども、極端な言い方をするならば、いくら御用組合に組織されている労働者でも、休みたい、危険でつらい仕事は改善したい、雇用不安をなくしたいということ、これはもう一緒ではないかということで、一九六七年に、日曜日と祝日を休もうと共闘を作ります。その後一九六九年にコンテナが入ってきたのを契機として、反合共闘も作るわけです。それが港湾の、今の全国港湾のベースとなった全国港湾労働組合連絡会となります。しかし、この段階ではまだ共闘会議にはなっていません。
その中でいろいろな反合闘争を闘いました。一九七二年四月から、東京港の大井埠頭が技術的に世界でももっとも高い港として供用開始になりました。ところがそこは、全港湾がまったくいない港ですので、大井埠頭の荷役をどこの業者がやるのかということで大変な混乱が起きて、港湾荷役作業が四八日間、実質二カ月もできない状態になりました。実は裏に暴力団の介入などのうわさもあったぐらいです。
荷役会社同士の紛争という性格が色濃いものだったのですが、そこに連絡会議の議長になっていた全港湾の吉岡委員長が、これは雇用問題をめぐるストライキだということで、港を円滑に運営させるために、業界と運輸省と三者協議をやり、当時の全国港湾連絡会と港湾業界団体との間で産別協定を締結させました。
協定自体は立派なものですが、連絡会議では労組法上問題があるということで、七二年六月に産別協定を締結して一一月に協議会の形をつくることになりました。労働協約ができた後に組織が整理されるという、たたかいのあとから形ができるということでした。このことは、現在、労基法など法律に依存しすぎたり、理論だけが先行しがちの運動しか知らない世代には、真の意味での現場主義、大衆路線として学んでもらいたいですね。
産別協定は闘いの積み重ね
――産別協定にはどういうものがありますか。
今中央団交で決めている課題で、一番大きいのは年金です。港湾年金は、港湾で荷揚げされた貨物一トン当たり三円五〇銭を基金として集めています。年間三〇億ぐらいになるのですが、この基金を労資で運用して、離職後一五年間、年間二五万円ずつの無拠出年金です。産別年金として、港湾労働者に登録すれば、一八年港湾で働いた人には六〇歳から一五年間出ます。アメリカではもっと高い。トン当たり何百円も取っていますから。だから、トランプとこれからどういう闘いになるか、注目しています。
――休憩とかもありますね。
それは当然です。だいぶ前に作業体制、週休二日とか、残業単価を算出する際の分母とかの基本的なものを勝ち取り、後に年末年始の休みを実現しました。作業の労働時間、休憩とか、昔は大もめでしたが、労使で例外作業を限定して協定しているために安定しています。
――協定書をざっと見て膨大な項目がありますが、これだけの項目を協定化するには、専門委員みたいなものがいないと大変なのではないですか。
いや違います。専門委員会などを優先しないで協定を結ぶのは、先ほども言ったようにたたかいと力関係が先にならなければ、運動は前進しないからです。専門委員などを中心にやっていたらほとんどザルのような取り決めになります。
最初の四八日間闘争の時も、闘争をやっている間に団体交渉に関する協定はほとんど決めました。その後で、仕事の再開です。現在も、かならず団体交渉の場で仮協定をとることがベースとなって、協定に従って専門委員会などを開催しています。
それからの闘争では、港の積み出し、積み込みを阻止する港湾の出入り口封鎖ストライキをやるんですが、一九七六年に大阪港で逮捕者を出しました。しかし罰金刑は出たけれども、港湾という職場では封鎖することはやむを得ないみたいな判決を勝ちとって、それ以降全港封鎖のたたかいが多くなりました。
――七二年も七六年も大闘争やって勝ち取ったということですね。
そうです。七二年に産別協定結んでも、その後何度も何度も協定破棄、不履行がありました。その度毎にストライキを打って定着させてきました。年金でも、一回協定を結んでから実際にカネを集めるまで五年ぐらいかかっていると思います。毎年春闘時に修正、積み重ねがあり、決定してから協定に入れます。要求は大会で議論し、春闘前の中央委員会で確定します。一月下旬に全港湾は二日間中央委員会をやって、次の二日間は産別として全国港湾の中央委員会、ほぼ一週間缶詰めになります。
――話は変わりますが、議案を見ると愛媛県の三島川之江港の指定港化が問題になっていますが、何でこういう形になっているのですか?
さっきも出た新港建設問題の関係です。規制緩和反対闘争をやっている中で、政府の規制緩和攻撃というのは、すぐさま法律そのものを規制緩和する方法と、それとは別に法律を適用させない港を作っていって、いわば特区とかいろいろな形ですが、そういう港でも法律がなくても十分うまく動くのだからという既成事実を作って、こんな法律はいらないだろうともっていく手法があります。そういう手法結果として、いろいろ新港ができたとき、港湾運送事業法という法律に指定されていない港が出てきました。
三島川之江港と日立那珂港、それに北海道の石狩湾新港と九州の志布志港、でかいところではこの四つがあります。特に三島川之江港は、四国の港の中では高速道路が十字になって交わる交通の要衝、貨物量が非常に多い中心的な港です。そこが四国一の港になっているのに、指定されていないのはおかしいだろうと問題にしています。法の下の平等があるのに何だという主張です。それで行政闘争になっていますが、業界の同意もとって指定することを迫っています。
規制緩和反対闘争と全国港湾
――八〇年代と九〇年代の規制緩和反対闘争、また貧困化との闘いを話して下さい。
昔は日雇い港湾労働者は劣悪な条件におかれていました。日雇い労働者は悪質な手配師によって支配され、組合組織化は難しかったのです。全港湾も、港湾の民主化と日雇い労働者のために、法律の制定闘争を取り組みました。一九六六年に港湾労働法の施工を実現し、法律を活用し、日雇い港湾労働者のほとんどを組織しました。
そういう経過の中で、八〇年代に派遣法ができる時、港の場合は港湾労働法がありました。港湾労働法も職安関連法だから二重法適用をしないで派遣法適用を止めることはできたのですが、やはり派遣法はおかしいだろうということ、それにやはり規制緩和に反対しなければならないだろうと、八〇年代後半各組合にもちかけました。
全林野などは一緒にやりましたが交通運輸関係は決して十分なたたかいはできませんでした。そして八九年にトラックなど物流関係が規制緩和されてしまいました。港湾は手つかずにきたのですが、その規制緩和が一九九七年から始まります。これには、時限ですが、何度か規制緩和反対だけで全国ストライキをやりました。
――その場合はやはり港湾封鎖ですか
そうです。これは全港湾が中心で港湾を止めるための戦術でした。全国港湾という協議会では、全単産をストライキに入れることが難しく、全港ストまでいけない弱さを抱えた港湾封鎖闘争ですから、一定の限界もありました。
しかし二〇〇〇年に六大港が規制緩和され、その後二〇〇六年五月に地方港も規制緩和されました。その中で港湾労働者の労働条件への影響が出てくるにしたがって、産別組織である全国港湾の団結が強まってきました。現在の全国港湾のたたかいは全港ストライキです。
緩和の中味というのは免許から許可への移行です。免許というのは、需給調整や雇用とかを考えて免許を与えることが必要かどうかを判断するわけですが、許可というのは、書類申請して能力があれば行政手続き法に基づいて三カ月で許可が下ります。そういう許可になったことで事業参入に門戸が広がったわけです。
二〇〇六年に許可になった秋田で新しい会社が参入してきて、ともかく雇用がおかしくなると全国港湾が前面に立って全港ストライキを三波やって実際上進出を止めたということがありました。実は、全港湾だけのたたかいではどうにもならなかったと思います。港湾封鎖闘争から、全国港湾の全組合員の全港ストに発展したからこその成果でした。
このたたかいの結果として、二〇〇八年に全国港湾が組織強化され、協議会から連合会になりました。これは逆に言えば、規制緩和で苦しめられた労働者がもう一度立ち上がったということです。
――全港湾の組織化はどうなっていますか。新しい会社が入ってくるとそこに張り付いて組織化するのですか。
東北の塩釜・仙台港区では全港湾が四分の一ぐらいでした。一九九二年に未組織労働者の組織化がはじまり、全部全港湾に加入しました。常に組織化を努力しています。日本海は新潟から境港まで、これは最大組織です。組織規律が最も高く、労働協約も整備されている地区です。
実際問題としては新会社はあまり入ってこないのですが、隣に全港湾が一定の労働条件を保っていると、やはり自然と加入の動きは出てきます。しかし、最も大きいのは全国港湾という産別組織が港湾労働者を代表した産別交渉権を有しているということですね。もちろん、ちょっとしたきっかけを逃さない。だから組織化方法は千差万別、単にビラまいてティッシュ配って作れた組織はありません。
組合員の自覚とスト権投票
――産別のところに、たとえば財政とか要員を集中するといった方針を立てているということですか?
労働運動の流れの中で、単一組織というものを活かしてゼネラルユニオンという方向に行こうかという議論もあった。そういう中で職種としては港湾以外の労働者もいる。ただ港湾の産別としては全国港湾としてやる、という方針です。
――ストライキは港湾ごとに行われていますが、そこに向けた蓄積、訓練があるからですか? 大したものだと思いますが、意識的にやらないとできないことだと思います。現在では全体的にストライキ経験も乏しくなっています。
いつの間にかやっています。みんながついてくることがストライキです。今はストライキを呼びかけることのできる幹部が多くなりました。ストライキで一定の実績を上げてきたということもあります。たとえば最賃では、産別最賃を二〇一四年、一五年の二年間で七〇〇〇円上げてきました。このデフレと言われる中で、ほとんど他は上がっていない時代でした。その中では一定の成果だと思います。港湾年金も、最初は七五歳まででしたが、定年引き上げに伴って今は八〇歳まで、そういう制度改定もたくさんありました。
――最初のところで、共闘に向かう要求として休みの問題が上げられましたが、休みたいという要求は強かったのですか。
それは強かった。闘争を経て今はかなりの点で整備されています。週休二日で、全港湾は年休二五日とか、また残業割り増し六割、休日就労五割り増しとかも勝ち取ったこともあります。そういう意味でみんなも会社よりは組合に頼るという習慣があります。だから組合がストライキを打ち出せばききます。
――労働組合の団結というのは、本来ストライキをやるための団結だと思います。単に寄り集まっているということでは意味がありません。
対等の労使関係が何で成立しているかと言えば、ストライキができるかどうかですね。ストライキというのは、職場で業務命令を聞くのか、それとも労働組合の指令を聞くのか、職場の支配権の問題だと思います。今の若い人は何かペーパーを出せばそれでストライキができるという錯覚があるようですが、やはり職場を支配すること、その争奪戦です。
二〇一五年九月の全国大会で、戦争法制の強行採決前日である九月一八日のストライキを決定しました。実は失敗した支部が多かったのです。やれなかった。しかし、幹部が、役員が組合員に向かって戦争法でストライキをやってくれと声を上げたのは非常に大きかった。それは幹部にとってプラスでした。あの時、三〇分だけですが、やれたのは一〇%、二〇%がいいとこだと思います。しかし大きな経験になりました。
――形式的なことですが、スト権投票はどうしていますか?
スト権は全国の年間スト権としてとってあります。大会時期に無記名投票をやります。しかし年間スト権はとってありますが、弾圧対策と組合員一人一人にストライキを自覚させるために、春闘の時とか必ず確認投票はやります。
――産別協定崩しの攻撃は昨年も含めて毎年あるのではないですか?
いや、ここ五年手を変え品を変え産別交渉に対していろいろ介入してくるのは、むしろ連合体になって全国港湾が非常に戦闘的になったということがあります。協定も今まで曖昧なところもありましたが、徹底した協定遵守闘争が始まっています。だから業界も放っておけないし、政府の方も港が止まったのでは困るわけでしょう。ここ数年のストライキでは相手の方もまいったのではないだろうか。だから今は別の法律を引っかけて、全国港湾の中央団交を潰そうとしています。
――どんな法律ですか
独禁法に引っかかると言っています。問題が微妙で詳細は話せませんが、結構大変です。普通頭のいい組合は、この法律問題の話に入ってしまうわけですね。そうすると組合員はしらけてしまう。だからわれわれとしては、こんなことは団交つぶしだ、ストライキをやると言って相手を引っ張り出して、いかなる介入も労使で共同してはね返すという確認書をとって対抗しています。(つづく)
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