インタビュー
ベトナムの風景・文化・政治――歴史といま(上)
二〇年この地に住み考えたこと
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中学・高校時代からベトナム戦争の中で政治や社会について考えはじめたUさんは一九九〇年代からベトナムで二〇年以上にわたって働き、生活してきた。ベトナムにとっては大きな変化を経験した時代。Uさんからベトナムに住み、働いてきた経験と、その中で日本との関係を含めて考えていることを語ってもらった。(聞き手‥編集部M)
中学・高校時代にベトナム戦争
――最初にベトナムに行ったのはいつですか。
一九九二年、ピースボート主催の東南アジア訪問一〇日間の旅。香港、フィリピン、カンボジア、ベトナムに立ち寄りました。南ベトナムのサイゴン陥落・解放から一七年目の四・三〇イベントも企画されていました。カンボジアの田園風景はまるで日本の弥生時代を見るかのような姿で衝撃を受けました。
ベトナム戦争は社会・歴史、そして世界観に関わる出来事でした。私は東京の多摩地区で生まれたので子どもの頃は身近に府中の第五空軍司令部や横田基地など米軍基地がありました。一九六四年、中学二年の夏休みの宿題で新聞を毎日読み記事を要約するという課題が出され、紙面には東京都の水不足とベトナムのトンキン湾事件の記事が連日続いていました。なぜかその宿題だけは怠けずにやったわけです。翌年には米海兵隊がダナンに上陸し、ベトナム戦争が激化の一途と報じられるようになりました。ベトナムに生まれていたらどうだったのだろうか。人を殺さなければならないのか、そんなことを思いつつニュースを見ていた。
高校生になると、ベトナム戦争で死んだ米兵の死体が横田基地に運ばれ、その死体を洗うバイトが一万円であるという噂が休み時間の教室でビートルズの来日コンサートの話と共に話されるような状況でした。社会の授業ではベトナム戦争と沖縄の米軍基地についての討論が行われ、「ベトコン」という名称で報道するNHKに抗議を続けていると教室で語る国語の教師もいました。
一九七二年、相模原補給廠でのアメリカ軍の戦車を修理し、ベトナムに送るのを阻止したM48阻止闘争では中学や高校の時の同級生と偶然再会したりもしましたし、ベトナム戦争への加担を拒否するという世論は恐らく世代を超えて一九七五年までは日本で支配的なものだったと思う。
それから一七年後の四月三〇日。ベトナムの地で集会に参加している時にベトナム戦争にまつわる過去の記憶が突然すべて蘇りました。ベトナムの今の人口構成に表されるように同世代のベトナム人は多くが戦争の犠牲となり、しかし自分は生きている。バオ・ニンの小説『戦争の悲しみ』の中に遺骨収集隊の運転手が「戦死者の血肉を吸った平和」を罵る場面があるのですが、その時自分もまた同じように罵られているような感情にとらわれていたのだと思います。この十七年間、どうやって生きて来たのかを自問し恥じ入る思いでした。
日本の新聞にはまだ「ベトナム難民」の記事が残る時代でしたが、もう一度ベトナムと向かい合おうと思いました。それから年二回ほどベトナムに行くようなり、一九九六年からベトナムの仕事に携わるようになりました。ちょうどベトナム投資ブームが起きていた時期でもありました。ベトナムでは日系企業の工場などの仕事に就きました。
――ベトナム語はどのようにして覚えたのですか。
ベトナムの大学で外国人向けの語学講座があったので参加しました。月一〇〇ドル。クラスには韓国、ドイツ、フランス、オーストラリア人、タイ人などが来ていて国際色豊かだった。ベトナム語はフランス植民地時代に漢字からローマ字表記に変えられているので読むのは比較的簡単になれることができました。単語は八〇%ぐらいは中国語起源のものだから、漢字に置き換えられるものが多い。例えば、革命はカクマン。東西南北はドン・タイ・ナン・バック。新聞の見出しの多くは漢字に置き換えられる。その代わり発音は情けないほど大変だった。日本語がひらがな表記の五〇音に簡潔化したせいで微妙な発音が消えたり、方言も少なくなっているので、聞き取りと発音は日本人にはむずかしい、と理屈をつけて正当化し居直りました。また、「秘書」と「書記」の意味は日本語とは反対だったりもして、同じ漢字起源でも日本で使われている意味とは異なるものもあります。
変化の中で暮らしはじめて
――ベトナムに居つくことになったのは初めから決めていたのですか、それとも成り行きだったのですか。ベトナムの良さ、特色は?
毎日の積み重ねで時が過ぎただけ。目の前のことで精一杯で先のことはほとんど考えずじまい。それまで日本の生活しか知らなかったから、当初は異文化にひかれるものがあったし、海外では日本でのストレスからは解放されます。
自分自身が日本人であると同時にどことなく普遍的な考えを身に付けた人間だと思っていたようで、それがもののみごとに打ち砕かれていく、日本の垢が削り取られていくような感覚もありました。
ベトナムとカン
ボジアの農村
一九七五年からドイモイに至る時代のベトナム社会はすごく大変だったようです。一九九〇年代に出会った人々からは、子供の頃にはメコンデルタでもコメが食えずクーシンサイ(中華などで出される野菜)やキャッサバ(芋)ばかり食べていたという話を何度となく聞きました。今はタイに次ぐ世界二位のコメ輸出国となっています。
湿地では空心菜栽培は容易だし、灌漑のない荒地ではキャッサバ栽培は手っ取り早い作物です。カシューナッツも今はベトナムが最大の輸出国であり、種子を採って果実は捨てられています。その時代の子供たちは他におやつがなかったのでよく食べたそうです。日系企業で働くIT技術者の知人もメコンデルタの実家では高校までロウソクの灯りで勉強したそうです。
メコンデルタ全域が電化されたのは二〇〇〇年代に入ってからでした。もっとも電力供給量は急激な経済発展に追い付かず、五年ほど前までは突発的な事故による停電の他に週一度の計画停電が続いていました。カンボジアの農村では今でも電化されてない地域が多く、充電のためにバッテリーを自転車に積んで運ぶ子供の姿もよく見かけます。小さなソーラーパネルを家々の屋根に取り付けている地域もありました。
「北」と「南」―
違いの体験
南北で人々の気質が違うと言われていますが、分厚い灰色の雲に覆われたハノイと南国の青空の下の南部では気質も異なるのは当然でしょうし、自然地理の差異に加え歴史的な経緯による文化的な差異は多く見出すことができます。
一九九〇年代に南部から北部に旅行した時には同じ中部でも一七度線を越えると強い違和感がありましたが、それは政治的な南北分断の結果ではないかと思いました。今はその違和感は徐々に少なくなりつつあります。
ハノイに暮らしているとハノイに愛着が湧くし、フエやメコンデルタでも暮らしましたがそれは何処でも変わらないものでした。今は都市にはスーパ―マーケットも増え九〇年代とは別世界の観があります。銀行のATMもあるし、クレジット・カードも使える。インターネット、スマホや衛星放送の普及で日本と変わらない生活を送ることができます。
食生活もイオンやロッテマートの進出で、日本や韓国の食材を買うことができます。北部山地の雑貨店にも「味の素」の缶コーヒーが置いてありました。
一九九〇年代に工場で働くと日本の中での常識的なものがことごとく違っていました。一番驚いたのは棚卸をすると、ほぼ一〇〇%在庫と帳簿が合う。経験的に棚卸で誤差が〇というのはあり得ないと思っていたので担当者を変えてもう一度やり直すとやはり誤差がでました。ごまかすのが当たり前となっていました。合ってないと担当者が責任を取らされると思い数字を合わせてしまう。それは社会の多くの分野に見られる傾向でした。官僚主義の弊害の一つかもしれない。
国会議員選挙をはじめ地方レベルの選挙もある。投票率は驚くほど高く、以前メコンデルタのある省では一〇〇%という数字も誇らしげに報道されていました。そういう社会だからそれが浸透している。しかし、それを「嘘」とは呼ばないらしい。日本の国会での政府答弁も似たようなものだとは思いますが。
一九九〇年代は外資系工場もまだ今ほど多くなく、インフォーマルな手数料を要求されることが多々ありました。警察に盗難を訴え、盗難品が戻って来た時はその価値の半額を警察に払うことが社会的な常識とされていました。法整備が遅れていたこととも関係するようで、徐々にではあれ社会的な不正も減りつつあることは確かです。九〇年代は列車や国内線航空運賃なども外国人はベトナム人の二倍に設定されていましたから、外国人には「高く売る」という考えが一般的であったようで、買い物をすると随分とボラれました。
急速な経済成長の実感
――一九九〇年代はほとんど国有企業でしたか。
数としては家族経営による小規模私営企業が圧倒的に多かった時代です。国営企業は老朽化した設備が多かったのではないでしょうか。フランス支配下で建設された北部ナムディン省の国営繊維工場が倒産したと、ナムディン省出身の学生が自嘲的に語っていたのを覚えています。
ホーチミン市とハノイ・ハイフォン周辺で外資導入が活発化して工業団地の造成が進んでいた頃で、北部だとホンダやトヨタの組立工場が作られ、同時に日本語能力検定試験などもハノイで開始されました。ホーチミン市周辺ではタントゥアンの輸出加工区やビエンホアの工業団地に日系企業が増えていました。この外資導入は今も継続し、工業団地は全国各地で建設されていいます。
工場のラインでは必ずミスがあるわけで、不良品を入れる箱が置いてあるわけです。しかし不良品を出したというのは不名誉なことで怒られたくないから、そこに入れない。どうするかというとトイレに流してしまった。詰まっておおごとになったこともありました。
工場の備品を持って帰ってしまうのも日常茶飯事で、トイレの石鹸やトイレットペーパーから換気扇や避雷針の銅線まで。当時外資企業の最低賃金は一カ月四〇ドルぐらいでした。まだ工場では中卒の労働者を多く雇用できた時代です。
――一〇年、二〇年と経ち変化は速いですか。
変化はすごいですね。カンボジアに三年ほど行っていてホーチミン市に戻ると道路事情の変化には戸惑いました。道路の拡張と新設、一方通行の増加。それでも通勤時間帯の交通量は増加し続けている感じです。当初出会った頃は二〇代の人たちが今は四〇代になっており、久しぶりに会って食事をするとおごってもらっていますからね。
当時出会った人たちは英語が上手だったり、日本語ができたりしていたので、外資系の企業で働いていたり独立して起業したりで、給料を聞くとベトナムの首相よりも多かったりするようです。公務員給料は名目的には非常に低いですから。外資系企業で二〇年近く働いている優秀なスタッフをつなぎとめるためには日本人と同じような給料を払わねばならないようです。国有企業の民営化・株式化も増えています。
一九九〇年代の初めだったか、ベトナム政府高官がタイを視察し、「貧富の差と公害を生み出すような経済発展は参考にならない」と語っていた記事を覚えています。統計的には「貧困層」の減少は進んでいます。中間層の形成も外資スーパーマーケットの進出を可能にするほどなのでしょう。それ以上に富裕層の形成が顕著のように思えます。
「資本蓄積論」の世界
――一九九〇年代に、ASEANに加入し外資がどんどん入ってくるようになり、現在はそれがより加速している。
ベトナムはTPPへの期待が大きいようです。農産物のすべてが輸出競争力を持っているわけではありませんが、米、コーヒー、胡椒、ゴム、カシューナッツや水産品は主力輸出農産物です。もちろんこの輸出のためには肥料や飼料の輸入も不可欠ですが。カシュ―ナッツなどは半数以上がインドやアフリカあるいはカンボジアからの輸入だし、ベトナムのような小規模農民による生産は原材料コストが高くなりがちです。特に精製砂糖は一九九〇年代まで輸入していました。
外貨不足の中で、砂糖ぐらいは国産化しようと砂糖国産化計画を作り、各省で砂糖の近代工場を導入しました。ところが工場誘致のために地方人民委員会のあげた数値が粉飾されていていざ操業が始まると操業規模に見合ったサトウキビが集まらず撤退する企業もありました。そういうことで地域によってはだいぶ工場が減り、今も統廃合が行われています。中国とタイからの密輸砂糖に押されているのが現状で、南部ではタイの文字が印刷された砂糖袋に入った密輸品を店先でみることもあります。
天然ゴムの輸出先はその半数以上が中国でタイヤの原料に使われています。中国に次ぐ市場がマレーシアで、マレーシアからアメリカに輸出されるためTPPによってベトナムからマレーシアへの輸出も増えるのではないかとの期待が語られています。
フランス支配下でミシュランのゴム農園が造園されてからの歴史を持つプランテーション農業で小規模自作農の経営形態には不向きです。国内のタイヤ生産やゴム手袋、コンドーム工場での需要もあります。数量的には国内生産を上回る輸出となっており、輸入数も少なくありません。カンボジアのベトナム国境沿いの地ではベトナム企業によるゴム栽培が増加しています。
収穫期の国境ゲートにはカシューナッツやキャッサバを積んだトラックが連なっている姿を見ることができます。これら輸出用農産物は、コショウ以外主に南米原産であることが興味深いですね。キャッサバやトウモロコシは奴隷貿易のために奴隷の食糧としてアフリカにもたらされたものだし、コーヒーはアフリカ原産。アフリカで児童労働が問題になっているカカオ栽培もアメリカの支援によってベトナムで始まっています。
生物の多様性を育んでいる中南米の自然の豊かさが今日の生活の基礎にあるわけですが、プランテーション農業のために自然林が破壊されていく姿をカンボジアで見た時には複雑な心境でした。ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」にある資本主義が非資本制生産領域を侵食していく過程、その現在的な一形態を目にしているかのように感じました。
戦争と開発――
自然環境に打撃
ベトナム戦争中の枯葉剤等による森林破壊に続き、戦後の人口増を支えるための耕地拡大でベトナムの森林は急減し、一九九〇年代からは植林が活発になり伐採規制も行われています。日本の製紙用木材チップも今はベトナムからの輸入が最大量となっています。植林された熱帯アカシアで、六年ほどで伐採されるようです。
ベトナム戦争終結後の南部での急激な経済改革による負の象徴とも呼ばれた「新経済区」は、当初は悲惨な状況にあったようですが、食糧配給制度もなくなり移動も自由になっている現在では気付くことは多くありません。それでもメコンデルタの湿原地帯には今でも粗末な小屋を建てた開拓者の姿を見ることができます。
氾濫原だった地なので雨期の末期には洪水被害を受けやすく劣悪な環境です。また中部高原地帯の入植地では乾期末になると旱魃被害が毎年のごとく報じられています。一九七五年に四八〇〇万人だった人口は今は九〇〇〇万を超えました。二人っ子政策で人口抑制が図られているとは言え年間出生数は一三〇万人で日本より三〇万人多い。この間の人口増加はホーチミン市やハノイなど大都市への人口流入をもたらしていますが、戦争後の中部高原地帯への流入も多く、今や中部高原四省合計で少数民族の人口比率は三三%ほどに低下しています。
ダクラック省の人口は一八三万人を数えるのに対し、国境を挟んだカンボジアのモンドルキリ州は面積はそれを若干上回るのに人口は僅か八万程度に過ぎません。外資を導入し輸出主導型の経済成長を図ることなしにこの人口を支えきれなかったことは確かです。
リーマンショックの前後にベトナムの金融・経済も厳しい状況がありました。今は新聞でも「不良債権」や「再構築」という単語がさかんに使われています。
共産党独裁の現実とは
――政治的な話。ベトナムはベトナム共産党が一党独裁。民主主義とか言論の自由とかが制限されているがどうなっていますか。
国会議員は共産党員でなくても立候補できる建前ですが、今年の選挙では定数五〇〇人、立候補者八七〇人中当選者四九六人、非党員当選者は四二人から二一人に半減しました。共産党中央委員会の推薦で落選したのは一五人。当選者中六四%が新人だそうです。
ちょうど今年は北部をバイクで旅行している時に選挙があり、街のスピーカーから当選者の氏名が読み上げられていました。ベトナム北東部は少数民族の居住比率が八〇%を超える省が多いにも関わらず、調べてみると省選出当選者に占める少数民族の比率はそれを下回るものでした。
まだ政治的な問題を自由に発言できる状況にはなっていないようです。政府への不平・不満を個人的には耳にすることは少なくありませんが、それをベトナム人社会の中で主張し、政治的にも表現するのは難しそうです。
社会的な歪みが集中した問題として二〇〇〇年には中部高原のバンメトートで少数民族の暴動が起きました。ゴムやコーヒーのプランテーション農業の拡大や全国各地からの入植者の流入と先住民の間での土地争いと言われています。こういう問題については報道も制限されるので実態はよく分かりません。一九九〇年代には少数民族の居住地に外国人が入るのには制限があり、国営旅行社のガイド付きでないと外国人は少数民族と接触することもできませんでした。
今はその制限はなくなったようです。ただカンボジアとの国境付近ではベトナム人の居住制限と外国人の進入を禁止した法令は、今も効力を持ち続けています。
長期政権と汚職・腐敗
――中国では指導部の不正・腐敗問題が追及され、マスコミをにぎわしているがベトナムの場合は?
政権を担う指導部は、質素なイメージを抱かせるものが多いようです。しかし政府要人の子弟たちを海外留学させてビジネススキルを身につけさせ、政治的情報を得て商売をさせていると噂されています。
毎年発表される「世界腐敗認識指数」(トランスペアレンシー・インターナショナル)でも示されるように世界的には汚職度は最悪のランクに属しています。法整備を含め多少改善される方向にはあるように感じますが、経済発展の原資が外資導入ということがモラル低下をもたらしているのかもしれません。マスコミが取り上げる地方人民委員会の汚職が問題にされることもありましたが、人々は氷山の一角と感じているようです。
カンボジアはもっと酷いレベルです。フンセン首相は「カンプチア人民共和国」時代を含めれば「首相」という地位を三一年も続けていることになります。
ベトナムは一期五年で長くても二期で代わるでしょう。ベトナムは、書記長、首相、国家主席の三人体制で、北部、中部、南部の出身地ごとに、そして経済、軍人などのバランスを取って配置されています。
一〇年前に就任し改革派と呼ばれたメコンデルタ出身のズン首相は、今年中部クアンガイ省出身で前期副首相のフック氏に交代しました。共産党書記長は党の思想・理論分野が専門のグエン・フー・フーチョン氏が二期目。国家主席には内務・公安出身のチャン・ダイ・クアン氏が新任という人事です。西沙諸島をめぐる中国との厳しい対立状況を反映していると思わせるものです。
植民地支配と領有権紛争
――中国の場合、指導部が交代すると派閥間の争いが表面化する。そうしたことは?
ベトナムの場合、保守派と改革派の違いがしばしば語られています。より「自由」経済を発展させようとする「改革派」とより内向きな「保守派」ですが、対立構造があるかどうかはわかりません。
――国名がベトナム社会主義共和国となっている。社会主義をめざすというようなことはあるのでしょうか。
国名から「社会主義」を外し、一九四五年独立当初の「民主共和国」変えようという意見が数年前に報道されていました。憲法改正に関わる国会論議に関係してのことだったようですが、議題として取り上げられなかったようです。
今、一番の問題はやはり対中関係でしょう。南沙諸島、西沙諸島問題。カムラン湾に中国軍船が寄港するなどだいぶ関係改善と言うか落ち着きは見られますが、一昨年は、反中国のデモや中国系工場を襲うなどの事件もありました。
一九七九年の中越戦争を経験もしているわけですし、歴史的にも反中国意識は根深いのものがあり外交問題であると共に内政問題としても政府は意識しているようです。「南シナ海は中国の海だ」との中国の主張にはベトナム人ならずとも驚くべき傲慢さを感じます。
しかしここで、かつて第二次世界大戦中にこれらの島々の領有宣言を日本が行ったという歴史があったことも思い出さねばなりません。「力のあるものが領有権を持つ」として武力を貫いた過去を持つ国家としての責任の上に日本は今、この領有権問題にどのように対応すべきかを主体的に考えるべきです。「日本にとっても南シナ海航路の安全は重要だ」といったレベルで語られるべき問題ではないはずです。
フランス領インドシナだった時代、日本軍の仏印進駐は太平洋戦争へと後戻りできない歴史状況を作り出して行きました。加藤隼戦闘隊はベトナムのフーコック島に築いた空港から出撃し、メコンデルタのコメは日本へと運ばれました。戦況悪化と共に当時、メコンデルタから北部ベトナムに輸送されていたコメが運ばれなくなり、それが二〇〇万人とも言われる大量の餓死者を出すことに繋がりました。そのような歴史を踏まえた上でベトナムの現状を見るべきと思います。
ベトナム戦争中はハノイ政府は西沙・南沙諸島問題については援助国である中国に対してあいまいな態度を取っていました。一九七五年の四・三〇の直前、ソ連も中国も南部の武力解放をやめるよう圧力をかけました。一方で米軍撤退後に中国は西沙諸島を占領しました。当時の南ベトナム政権は抵抗しましたが敗北しました。
それがあったため一九七五年の四・三〇の直前にハノイ政府は南沙諸島を制圧しました。領土問題となるとどの国でも国民感情としてゆずれないものがあるのが現状です。しかし、なぜ今この問題が顕在化しているのかを冷静に分析することが必要です。(つづく)
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