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    かけはし2013.年10月28日号

政権ともイスラムグループとも対決


シリア

闘争の中に民衆の自己組織は存在している(上)

解放地区には自立した新聞が激増

闘いの中で女性が大きな役割を果たす

ジョセフ・デハー

解説

シリアの民衆は民主主義を
求めて今も闘い続けている


 二年以上の間、ほとんどの評論家たちは、シリア革命の進展を地政学的側面で上から分析し、その底に潜む民衆的政治力学や社会・経済力学を無視してきた。西側の介入という脅威は、二陣営間の対立というこの考えを単に強めただけだった。
 すなわち一方における西側諸国家と湾岸首長国、他方のイラン、ロシア、ヒズボラという配置だ。われわれはこれら二陣営間での選択という観点を拒絶する。われわれは、シリア革命とその目標、つまり民主主義、社会的公正、宗派主義の拒否の敗北に導くにすぎない、そうした「最小の害(悪)」というこの論理を拒絶する。われわれの支援は、自由と解放のために闘っている革命的民衆に向かうものだ。実際に、闘っている民衆のみが、体制の打倒だけではなく、世俗的な民主的国家の創出と社会的公正の登場をも可能とするだろう。それが可能とする社会は、彼らの宗教的実践に対するすべての人々各自の権利を尊重し保証する社会であり、宗教、民族的背景、ジェンダーその他を基礎とする差別のない各自の平等を尊重する社会だ。
 自身の決起への潜在力を発展させる大衆のみが、彼らの集団的行動を通した変革を実現できる。これは革命的政治のイロハだ。しかしこのイロハは、西側の数知れない左翼潮流からの底深い懐疑を前にしている。われわれは、現実と願望を取り違えている、二年半前のシリア革命は早過ぎたのかもしれない、あるいはその時以来ものごとは変わった、などと告げられている。われわれは、反体制の戦闘を引き継ぐことになったのは聖戦主義者たちだと、今あるものはもはや革命ではなく戦争だと、そして具体的な解決策を見つけるためには陣営を選ぶ必要があるなどと告げられている。
 左翼側の「論争」すべては、こうした「陣営主義」の論理に汚染されている。それはしばしば、左翼と右翼――特に極右――の間にある本質的な違いを曇らせる陰謀論を伴っている。反乱が支配するそこここの地域で彼や彼女が現場で見たものをジャーナリストが証言する際は、またこの証言が聖戦主義者のヘゲモニーに関する支配的な説明を払いのける際は、彼あるいは彼女は無視されている。ある者は、これらの話はメディアが放つ嘘の一部であり、その狙いは帝国主義の介入を正当化するために反政権派を見苦しく見せないようにするもの、そしてそれゆえわれわれはそれを信じてはいけない、とさえほのめかす。
 われわれはシリアの革命的左翼潮流メンバーであり、現在はスイスで暮らしているシリア人革命活動家のジョセフ・ダハーに、彼の国における民衆運動の状態、特に解放された地域における大衆の自己組織、宗派主義とイスラム勢力に対する闘争についての説明を求めた。ここから出てくる結論は明確だ。すなわち、まさしく革命はシリアに生きており、それはわれわれの連帯を必要としている。

注)ここに紹介する記事は、ブログ「シリアの自由永遠に」二〇一三年九月八日付に掲載された。ベルギーの革命的共産主義者同盟ウェブサイトに同九月四日フランス語で書かれたものの英訳。

 

民衆委員会、選挙、市民統治

 革命の最初から組織の主要形態は、村落や都市や地域レベルでの民衆委員会となってきた。この民衆委員会は、抗議に向けて人々を動員する運動では本物の先頭部隊だった。次いで体制から解放された地域は、大衆の組織を基礎とした自己創出の諸形態を発展させた。次いで、解放された地域を管理するために選出された民衆評議会が登場し、無政府状態を引き起こしたものは政権であり民衆ではない、ということを証明した。政権の武装部隊から解放されたいくつかの地域では、国家の不在を穴埋めし、学校、道路、病院、給水システム、電力、通信といったさまざまな分野で国家の義務を引き受けるために、市民管理機構も設立された。そうした市民管理は諸選挙と民衆的な合意を通して実施に移され、市民サービス、安全の確保、市民間の平和の提供を主要な任務としている。
 「解放された」地域での自由な地方選挙は、一定の地域、居住地域、村落では四〇年間で初めて実施された。これは、デイル・エッゾル市で二〇一三年二月後半に行われた最初の事例だ。そこでは一人の有権者、アーマド・モハンマドが、「われわれが欲するものは民主国家でありイスラム国家ではない、われわれはムッラーではなく市民が管理する世俗国家を求めている」と言明した。
 こうした地方評議会は、彼らの管理スタッフ、経験、そして清新なエネルギーに依拠して彼らの問題を管理する主導性を引き受けようとする、市民の能力と責任感を反映している。まだ政権の支配下にある地域、またそこから開放された地域双方にさまざまな形態がある。
 自己管理に関するこの動きのもう一つの具体的事例は、六月初めにアレッポで実現した、シリア革命的青年連合の創立会合に見ることができた。この再統一は、シリアでの革命の始まり以来現地で重要な役割を演じてきた調整委員会と委員会活動家の広範な広がりを結集した。彼らは、この国のさまざまな地域からかけつけ、シリア社会の大きな部分を代表した。その評議会は、委員会すべての革命的青年を代表する決定的な一歩としてもたらされた。
 上述したことは、それらの民衆評議会にはいつでも限界がまったくないということを意味するものではない。たとえば、女性や一定の少数派の代表を欠いている。先述の目的は現実を飾ることにはなく、真実の再確認にある。
 大衆による自己管理の鮮やかな事例は、政権から解放された唯一の州都、ラッカ市だ。ラッカは、今も政権の砲撃下にあるが完全に自律的であり、市民サービスすべてを集団的に管理している主体は当地の民衆だ。革命の民衆的推進力におけるもう一つの等しく重要な要素は、民衆諸組織が発行する自立した新聞の激増だ。新聞の数は革命以前の三紙――それらは政権の支配下にあった――から民衆グループの書く六〇以上へと変化した。
 ラッカでの民衆組織はほとんどが若者たちによって率いられている。それらは、五月末には四二の社会運動が公式に登録されるほどに増大している。この諸々の民衆委員会はさまざまな運動を組織してきた。一つの事例は「われわれを代表するのは革命旗」でありそれは、黒のイスラム旗を強要するイスラム勢力の運動に反対して、市の居住区と街頭に革命旗を描くことだ。文化の戦線では、六月初め、アサド体制を嘲笑する演劇が市中心部で上演され、民衆諸組織がアート作品や当地の工芸品の展示を組織してきた。戦争の結果としての肉体的障害を処置し若者たちの療養を行うためのセンターが設立された。六月と七月には、年度末シリア学士終了試験がボランティアによって完全に組織された。
 自己管理のこうした種類の諸経験は、多くの解放地区で見出される。述べる価値があることだが、これらの運動と一般的に抗議活動では、女性たちが大きな役割を果たしている。
 たとえば今年六月一八日にはラッカ市で、イスラム主義グループのジャブハト・アル・ヌスラ本部前で、女性が率いる大衆的抗議活動が決行された。そこでは抗議に参加した人々が、監禁されている人々の解放を要求した。抗議参加者たちは、ジャブハト・アル・ヌスラ反対のスローガンを大声で叫び、彼らの諸々の行為を強く非難した。行為参加者たちは、二〇一一年二月にダマスカスで使われた最初のスローガン、つまり「シリア民衆は侮辱されることを拒否する」を叫ぶことに躊躇しなかった。多くの女性がその一部であるグループ「ハクナ」(われわれの権利を意味する)はラッカで、イスラムグループに反対する、中でも「ラッカは自由、ジャブハト・アル・ヌスラ打倒」を叫ぶ多くの集会も組織してきた。
 ダイル・アッズー市では六月、当地の民衆評議会の実践に対する監視と記録過程に参加するよう市民を鼓舞することを追求する当地活動家たちによって、一つの運動が始められた。中でもそれは、彼らの権利と社会での人権文化を促進するよう彼らを力づけた。そこには全員にとっての公正と諸権利という理念に関する強調があった。

イスラム主義勢力への反対


 武装したイスラムグループにもっともたびたび反対してきた人々は、同じ民衆諸組織だ。前者は、民衆運動内部に何一つ根をもっていない中で、また彼らが革命から生まれているわけではないという事情の中で、解放地帯での支配を確保するために力を使おうとしている。
 ラッカ市はたとえば、イスラムグループに反対する継続的で不動の抵抗を経験してきた。二〇一三年三月にこの市が政権部隊から解放されて以来、イスラムグループの権威主義的実践とイデオロギーを拒否して多くの抗議活動が組織され続けた。
 イスラム派が設けた監獄にとらわれ拉致された活動家たちの解放を求める連帯集会があった。この抗議は何人かの活動家の解放を可能にしたが、他の数知れない人々がこの日までまだ牢獄に留められている。その中には、有名な教父のパオロ、また知識人のヤシン・ハジ・サレーの息子であるフィラスがいる。
 イスラム派の権威主義的かつ反動的な実践に異議を唱える似たような抗議は、アレッポ、マヤディーン、アル・クサイル、マタカフランベルのような他の都市でも起きた。これらの闘いは今日も進行中だ。
 アレッポのブスタン・クァスル居住区で当地の住民は、多くのイスラムグループを結集する「アレッポシャリア評議会」の行動を厳しく批判するために、数知れない回数の抗議活動を行ってきた。たとえば八月二三日、ブスタン・クァスルの抗議参加者たちは、一方で東部グータの住民に対して政権が行った化学兵器を通した虐殺を糾弾しつつ、同時にまた、「アレッポシャリア評議会」によって再び投獄された有名な活動家、アブ・マリャムの解放を要求していた。
 彼らは今日まで彼の解放を要求し続けている。二〇一三年六月終わり同じ居住区では、同評議会の抑圧的かつ権威主義的政治に抗議しつつ、活動家たちが「イスラム評議会は自ら立ち去れ」と声を上げた。民衆の憤激は、「イラクとシリアのイスラム国家(ISIS)」グループに所属する外部の聖戦主義者による一四歳の少年の暗殺後にもまた表明された。この少年は、冗談としての不敬なコメントを、預言者モハンマドに関係させたと見なされたのだった。
 一つの抗議活動は、イスラム評議会並びにイスラムグループに反対してブスタン・クァスル民衆委員会によって組織された。活動家たちは「何という恥、何という恥、革命派がシャビハ(政権支持派民兵:訳者)に成り果てた」と叫び、彼らの権威主義的実践に対するはっきりとした当てこすりとして、イスラム評議会をシリア政権の秘密警察に対比した。
 金曜日には毎週の抗議活動がある。二〇一三年八月二日に行われたその一つの中では、革命に向けた重要な教育的役割を、しかしまた住人並びに避難民に対して食料、物品、またサービスを供給することで支援の役割もまた果たしている地方調整委員会(LCCs)が、以下のような宣言を発表した。すなわち、「われわれは、全世界に対する革命からの統一したメッセージとして、活動家や革命の基本的な主体の拉致は、彼らが専制に奉仕しているのでないならば、自由と革命の尊厳の妨げとなっている、と確認している」と。このメッセージはそれらの反動的なイスラムグループに直接届けられた。同年七月二八日にはLCCsは同じ思いで、「専制は、宗教の名前であれ世俗主義の名前であれ一つだ」との標題で、政権とイスラム派双方を拒絶する発表文を書いた。
 われわれは次のことにもまた留意しなければならない。すなわちジャブハト・アル・ヌスラやISISのような聖戦主義勢力は、体制に対し戦闘するというよりもむしろ、いくつかの解放地域でヘゲモニーを伸ばそうと挑むことに集中し、活動家や自由シリア軍(FSA)に攻撃を加えてきた。一方イラクやレバノンのような国々からシリアに殺到する多くの聖戦主義者たちは、前線に集まっているわけではない。その代わりに彼らは、この国の北部での、反乱が起きている地域での支配を打ち固めることに彼らの努力を集中しているのだ。
 多くのジャブハト・アル・ヌスラの戦闘員たちは、二〇一三年三月にその州都がひとたび陥落するや、ラッカ州に進むために、ホムス、ハマ、イドリブにおける進行中の反乱作戦の中心部をそのままに残した。五月遅くのクァサイルに向けた戦闘期間中、ジャブハト・アル・ヌスラの不在は目立つものだった。六月はじめ反乱の増援部隊がタルビセーの町を確保するために結集したが、その間ジャブハト・アルヌスラの戦闘員たちは、FSAの支隊が後に残した真空を埋めるために解放地域にとどまる方を選んだ。
 われわれは再度伝える。これらの聖戦グループとイスラム反動グループは、宗派主義や拉致や拷問や殺人をけしかけるグループすべてと並んで、革命の敵である。それは、大国の行為が闘うべき革命の敵と見なされなければならないことと同じだ。   (つづく)


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