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    かけはし2013.年8月26日号

「現実主義」か、EU現行枠組みとの衝突か


ギリシャ

新SYRIZA創立大会、9+1項目の論評

欧州急進左翼に提起された問題
の心臓部での対立が再度明白に

スタティス・クーヴェラキス

 この論文は、一四の組織の連合というものを超えるむしろ一つの政党としてのSYRIZA創立大会について、SYRIZA内左派の観点から批判的に考察を加えている。大会が定めた路線は依然両義的である。あるいは筆者の解説によれば、主流派が路線論争を回避した。しかし同時に、主流派が画策した左派封じ込めは失敗し、左派はむしろ内部での重みを増したことが分析されている。大会は今年七月一〇〜一五日に開催された。(「かけはし」編集部)

危機の再発展と大会議題の乖離


1.SYRIZAの大会は、公共テレビ・ラジオ放送局(ERT)のアントニス・サマラス政権による閉鎖、およびその政権を構成する三政党の一つ(民主左翼党、DIMAR)の離脱に続いて生まれた、政治的不安定性の成長を背景に開催された。新民主党とPASOK(全ギリシャ社会主義運動)の新たな二党連立政権は今、公共部門に向けられる予算の削減という新たな政策パッケージに関する七月一七日の議会投票が示したように、極めて僅かな差の多数派(三〇〇の内一五三票)に依拠できるだけだ。それ以上に、ERT閉鎖に対する公民の反応の規模は、以前のメモランダムに関する昨年一一月の投票以来社会の前線にはびこっていた相対的しらけが終わったことを知らせていた。支配的陣営はこの衝突から疑問の余地なく、衰弱した姿を現してきた。民衆的圧力の下での政権倒壊は、二、三ヵ月前の状況に比べ、より現実性のある目標となっているように見える。しかしただ一つ欠けているものは、この問題に正面から取り組むことになる戦略と戦術だ。
 SYRIZAの立場はこの点に関し、一種呪文のようなレベルにあり、最近の時期にわたる社会的衝突(地下鉄や港湾のストライキ、また政府が講じた徴用という方策のゆえに中止され打ち破られた中学教員のストライキ)の鍵を握る局面で具体的に取られた路線と、相矛盾しあいまいな言い回しとの間の落差を特徴としている。SYRIZAの指導部は各々の場合に、大きな慎重さを示し、抗議の強力な高揚という目標はどのようなものも回避してきた。この姿勢は、教員ストライキに対する支持の撤回で頂点に達した。しかしこのストライキは、例外的に大衆的な全体総会の中で、九〇%以上の多数で承認されていたのだ。

2.党大会を五月に告知することによって指導部は、ただ一つの目標を考えていた。それはすなわち、統一された政党としてのSYRIZAの確立を、「ものごとを処理する」機会とすることだ。そこでは、内部の反対派を周辺化すること、および、急進左翼の政治的組織的文化の決定的側面に対する断絶を印すことになるように党の政治形態を安定化させること、この双方が狙われていた。換言すればその目標は、「党の形態」にさっと移行することだった。そしてその党形態は、二〇一二年の秋以来指導部が容赦なく押し進めてきていた「再調整」という路線――その表現が鍵を握る課題(メモランダや債務の取り消し、ユーロ離脱、私有化の拒否)に関するSYRIZAの諸々の立場(そして彼らを信頼している社会層によって保持されているそれらに関するものの見方)を一層ぼんやりとさせることとなるような路線――を組織的実体の中に固定させるために、特別に設計されていた。
 これを行うために党指導部は、大会に向けた力づくの進行(大会準備文書の配布と地方支部での票決との間には、一ヵ月以下の猶予しかなかった)を押しつけた。そして議題は、戦略や綱領への集中とはかけ離れて、また先のようにもろさを深める危機が要求するものに応じた綱領を発展させる必須的必要とはかけ離れて、完全に内部問題を中心にしていた。
 この内向きの「議事設定」は、次の中心的三点をめぐって組み立てられていた。
 *SYRIZAの「統一」過程の枠組みの中での解散に対する二ヵ月ないしは最大限三ヵ月という最後通牒を伴った、「構成部分」と呼ばれたものの問題(注一)。
*実質を抜き取られた潮流の権利。そこには、いわゆる「分離名簿」という形を借りた抑圧、指導機関内への少数派の比例的表現を選定するという間接的やり方が一体化されている。
*党首選出の方法、つまり、指導機関(中央委員会)によってではなく大会による選出という方法。

選挙勝利が生んだ危険な力学

3.この内部的な議題設定は、多数派ブロックの代表者たちによるSYRIZAについてのより幅広い見方、過去の年月にわたって党が経験してきた内部的進化についてのより幅広い見方の中に位置づけられた場合にのみ意味をもつ。
 メディアやシステムの一部となっている政治諸勢力にとっては、SYRIZAの「構成部分」や「諸潮流」、その名高い「不協和音」は、SYRIZAの急進主義に対する暗号的な言葉だ。そしてそれをこれらの「諸潮流」が、「現実主義」と再中道化を表現している一つの指導部(チプラスが体現)と面と向かう形で体現している。指導部、特にチプラスは、異議を差し挟む声を取り除くことによって党を「浄化」し、彼の権威を断固として押し通すよう、システムからの恒常的な圧力の下に置かれている(「チプラス、何人かの頭を切り取れ」は、権威あるメディア評論家の特に好む訓令の一つだ)。
 SYRIZA内部ですら、二〇一二年春の選挙におけるみごとな成功が矛盾した動きをつくり出してきた。一方では、党加入のかなりの波が出てきた(党員数は二、三ヵ月の内におよそ二倍化し、現在では三万五〇〇〇人に達している)が、それと並んでいくつかの分野で、特にSYRIZAの伝統的な弱点であった労働者運動での成功――しかしながら、その配置はギリシャ共産党(KKE)のそれよりも相当に小さい以上、相対的に見た成功――もあった。ちなみにKKEは、SYRIZAのおよそ六分の一、五%以下しか得票できなかった。
 しかしこの波には、はるかに両義的なもう一つの側面もある。経済的陥没によって傷を負った社会においては、また何十年間も続いた「党人政体」(一九七四年の大佐たちの失墜以来、権力の座を交代してきた新民主党とPASOKが打ち固めた「システム」)によって形成された社会の中では、権力の入り口にいるように見える政党への加入はまた、カリスマ的指導者に対する従順からなる関係と組になった、奉仕と見返り関係の再構築をも意味し得るのだ。この現象はまだ一つの多数派を表すことからはかけ離れているとしても、それでもそれは、今や重要なやり方になっているものの中で、党の構成を変え、「受動的な党員」の急増を基本的に勢いづけている。その「受動的な党員」は、大会に向けた投票日にのみ現れ、組織に対する彼らの結びつきは主に、一人あるいはもっと多くの地方活動家との間で彼らが結んでいる個人的な関係に基礎を置いている。

一切合切を呑み込む選挙党?

4.部分的に自然発生的だが、しかしまたギリシャの現実に慣れ親しんでいる者すべてには完全に予測可能なこの現象はそれにもかかわらず、必要な「拡大」の名目の下に、二〇一二年秋以来党指導部によってはっきりと鼓舞されてきた。当時行われた選択――何らかの実体ある活動家の関与や党建設戦略の欠落、全国あるいは連合指導機関の数に似せて肥大した代表数に基づいて大慌てで組織された全国評議会や大会という選択、何人かの指導的活動家(通常は議員でもある)を中心とする強力な個人型ネットワークの建設――は不可避的に、政治学者が言うような、いわば「一切合切を呑み込む」政党に導いている。換言すればそれは、主要にその指導者たちと上からの議論を中心に接合され、党内生活の萎縮と一体化した、選挙党だ。そして上からの議論とは、主要に「全国的聴衆」向け――メディアを通じて――であり、しかし常に、さまざまな「公民」を喜ばせる目的で調整(活動家たちに語る際はより「急進的」、より「叙情的」に、IMFやショイブル(独財務相/訳者)との会合に現れる時にはより「穏健」、より「プラグマチック」に)されるのだ。

5.前記した底深い諸傾向から生まれ、この国を管理する準備ができた「政権党」への転換に導きつつある一つの統一された政党としての、「新SYRIZA」創立大会のもっとも問題となる側面は、以下にあげるものだ。すなわち、内部論争への参加者数との比較で釣り合いのとれない有権者数、統制不可能な三五〇〇人という代議員、最初の二日間(代議員が発言できた時間)に行われたバラバラな議論、現行指導機関の活動に関する報告の完全な欠落、党の審議機関向けの演説ではなく、選挙集会に求められるものにふさわしいチプラスによる開会あいさつだ。
 これらに加えられるべきものとして、特に党内反対派(「左翼政綱」に結集)(注二)に向けられた攻撃的な雰囲気があった。そしてそれは、討論の焦点となった内部機能に関する三点を対象とした表現(構成部分の解散、諸傾向の代表性、党首選出方法)についての票決が行われた、大会最後の議事日程の夕刻に頂点に達した。急進左翼の全国評議会としては衝撃的な光景が起きた(「左翼政綱」の代表者たちにはブーイング、無礼な仕草、侮辱が向けられ、チプラスには、演壇に向かう際はいつも、発言する前からさえ拍手喝采が送られた)。そしてそれが、「左翼政綱」代議員や相当な数の多数派代議員の、議場からの退出に導いた。

左派の綱領的挑戦は依然未達成


6.この大会のバランスシートはどういうものだろうか? 綱領的内容と戦略の発展という観点から言えば、それは極めて貧弱、ないしはゼロだ。採択された文書は、昨年一一月の全国評議会で採択された(再度、むしろ素っ気なく)諸定式を、単に、しばしば逐語的に繰り返している。ややこしく両義的な諸定式で満ちているこれらの妥協的文書はいずれにしろ、現実には決して広められたことなどなく、指導部の多数分派からは、公衆に向けた支持を示されたこともない。そしてこの多数派はいつも、「再中道化」と「現実主義」の路線と一致する「解釈」を提供すべく、躍起となっている。このようなわけで昨年一二月、それは、選挙に勝利した暁には、議会の票決によってメモランダの即時取り消しを行う、というSYRIZAの立場を確認した全国評議会の僅か数日後のことだったが、経済問題の責任者、並びに指導部内のチプラスに続く中心的人物たちは、以下のような全一連の言明をメディアに行った。すなわち、「取り消し」あるいは「廃棄」といった用語の使用を一貫して避けつつ、「われわれの欧州のパートナー」との「交渉」への言及でそれを置き換え、SYRIZAが「一方的に行動することはない」という言明だ。チプラス自身は、特に海外、何よりもドイツへの訪問の際に、この類の「懐柔的」言明をより頻繁に行ってきた。ちなみに彼はドイツではショイブルと会談し、米国では国務省とIMFの代表者と会談した。

7.「左翼政綱」は、事実上は消された綱領討論に対して政治内容を与えようと挑み、もっとも注意を要する戦略的な諸点に触れた四つの修正案を議題に載せた。つまり、債務(債務それ自身の正統性を疑問に付し、現存の協定を厳しく非難し、その取り消しの実現を目的として、必要ならば返済の棚上げに訴える)、ユーロ離脱の可能性(もしあるいはむしろ、SYRIZA政権がキプロスのように、EUとECBからの脅迫に直面することを見極めた場合は、そこに向け真剣に準備すべき実行可能な選択)、全体としての金融部門の国有化、現在進行中の私有化すべての取り消し、そして民衆的統制の下で行われる経済の戦略的部門(情報通信、エネルギー、道路と空港インフラ)の国有化、「中道」あるいは独裁主義である右翼とは一切関係をもたない、左翼反緊縮政権を固める連携戦略、この四点だ。
 これらの修正案はすべて拒否された。しかし投票数の三分の一から四〇%の支持を受け、債務とユーロに関する修正案はもっとも幅広い支持を受けた。この意味でわれわれは、指導部は政治路線の問題に関してはその観点を押しつけることができた、と言うことができる。

多数派の左派周辺化戦略は破綻


8.しかしながら指導部が設定した目標を前提とした場合、この大会は重大な後退を意味している。党内部の「秩序回復」に焦点を絞った上述の三点に関する議題は、「新SYRIZA」創立というこの機会では、難渋な道をたどった。
 構成部分の解散と彼らに告げられた最後通牒の問題に関しては、指導部は妥協(採択された記述は、合理的な時間内の、各組織への諮問を経た後の「解散」について語っている)に頼らざるを得なかった。それは、マノリス・グレゾスの極度に断固とした姿勢から生じた。国民的ヒーローにふさわしい者として計り知れない威信と地位を誇る、「抵抗」の象徴的人物であるグレゾスは、構成部分の彼らの自律性を保持する権利を単に防衛しただけではなかった。彼は、直接的かつ個人的やり方でチプラスを攻撃し、「大統領制的」党という、こうして指導性とその指導者の道義的権威と象徴的権威を掘り崩すモデルを、強い調子で拒絶した。
 少数派の代表性という問題に関しては、指導部がその重みを秤に投げ入れ、チプラス本人が率いる力づくの急襲と呼ぶこともできるものを遂行した。すなわち多数派ブロックは、「技術的」ごまかしによって多数派リストへの加点を自動的に与えるシステムを提案した後、自身を一つのブロックとして表現したいと願う(少数派)諸潮流に、さまざまな投票用紙に名前が現れる、別々のリストを作る義務を押しつけた。
 単一の投票用紙の上でリストを選択しそれから投票するという、一定の限界内で現在まで存在してきた可能性は、候補者がさまざまなリスト上に現れることと引き換えに取り除かれた。多数派リストに関しそれは、一つの傾向あるいは諸傾向間の合意としては提出されず(実際はそうなのだが)、あるがままの「党の多様性」を表現する個々の候補者の単純な合算、そのような「統一されたリスト」として提出された。もくろまれたことは鮮明であり、それは、少数派は単に大目に見られているにすぎないある種の「異質の体」として現れるべきであり、多数派リストは党の正統性の単一表現という象徴的地位を与えられる、ということだ。
 それにもかかわらずこの作戦は、その仕掛け人たちに反する方向に転じた。「左翼政綱」は、弱体化する代わりに、相当に強化された(下記を参照)。そして「独立した」諸リストの存在に助けられて、多数派リストを六七・五%にまで引き下ろした。それは、昨一一月全国評議会におけるよりも七ポイント低い数字だ。
 最後の点の大会による党首選出という問題に関しては、指導部が成功した。しかしそれは、党首の選出方法を大会毎に自由に決定することを可能にするという、「柔軟な」条項の党規約への採用という対価を払ってのことだった。驚くことではないが今大会はその後、党首の直接選出を支持する決定を行った。しかし無記名投票の中でチプラスは、合計七二%の得票(有効票の七四%、並びに、手続きないしはチプラス個人への拒絶をさまざまな形で表す全面的な白票と無効票)として、結果とは逆のものと見なし得るものを得ることとなった。

9.しかしながらわれわれは、指導部にとっての主な後退は「左翼政綱」の強化だった、と考えることができる。「左翼政綱」は、三〇%という象徴的な垣根を越え、昨一一月全国評議会と比較して五%近く支持を伸ばした(二五・六%に対し三〇・一六%)。そしてこれは、彼らを周辺化しようとの狙いを基に全体的に思い描かれた高度に対立的な雰囲気の中で達成された。疑いがないこととして、威嚇の空気は、この政綱の立場を最初から支持してきた人々の隊列を超えて、代議員のある者たちからの強力な抵抗に直面した。
 この結果は指導部内にショックを生み出した。指導部はどのような公式コメントも避けた(最初の結果公表の後、その代表者たちは姿が見えなくなった)。新聞とメディアは、多数派隊列内部の明白な当惑を伝えた。もっとも彼らは全般的に、チプラスには厳しく当たらないように努めている。来たる時期にしたがうことになる路線に関し、また妥協を求めるか、あるいはこの時期に長期化する党内危機を引き起こす危険を冒して、さらなる党内対立を求めるかに関し、それを問題とすることがより急を要するものとなりつつある。
 「左翼政綱」としては初めて、別個のコミュニケを発表した。それは、「急進化とSYRIZA左翼への定着並びに急進左翼全体の統一」を実現する努力が「より良好となった諸条件の中で遂行されつつある」と明言していた。これは、党内外でもっと可視化されたやり方で彼らの関与を展開することに向け、その成功が一つの激励として見られるようにする一つのサインだ。

大会は問題の核心をより明確化

9+1.結論としてわれわれは、創立大会はおそらく、それが解決するあるいは解決しようと意図したものよりももっと多くの問題をつくり出した、と言うことができる。SYRIZAは今や、規約と綱領的諸文書と選出された指導部をもつ統一された一つの政党として創出されたが、そうであっても、全国的なまた欧州規模の論争では中心を占める、そのような鍵を握る諸々の戦略的な点に関し深く分裂している政党であるように見えている。明白になっていることとして、「現実主義的」姿勢の支持者たち、つまり「古い」やり方で権力を得ようと切望し、欧州の枠組みとは絶縁せず、支配的諸勢力の戦略的部門とは衝突を避けようと切望する者たちと、EUの今ある枠組みとの断絶およびそれとの公然とした衝突を主張する者たちとの間の対立は、今日欧州で急進左翼に提起されている諸問題の心臓部へと向かっている。
 SYRIZAの、またこの勢力が昨春つくり出すことができた駆動力の本質的な貢献は、急進左翼の内部に、代わりとなる国家権力の問題を具体的な言葉で提起することができたことだ。そのような事業が急進性を犠牲にしたものとなるのかどうか、あるいはそれが、システムの管理の中で急速に泥沼にはまり込むことになった、そのような左翼政権の経験の長いリストに連なることになるのかどうか、それは今後分かることとして依然残されている。SYRIZAの今大会は疑いなく、以下の点で有益だった。すなわちその大会は少なくとも、解放の構想に取り組んでいる社会諸勢力と政治諸勢力がよりはっきりより容易に理解できるやり方で、問題の諸分野を明確に整理された形で表現することを可能にした。

▼筆者はロンドンのキングカレッジで哲学の教鞭をとっている。SYRIZA全国指導部の一員。

注一)SYRIZAは、その創立の年である二〇〇四年から昨一一月全国評議会まで、急進左翼のほぼ全広がりを網羅する一ダースの別個の諸構成要素による連合として存在してきた。これらの構成諸要素の中でもっとも重要なものは、アレクシス・チプロスの党であるシナスピスモスだが、それ自身が、穏健な社会民主主義(現在の「民主的左翼」はそこから派生しているが、この潮流の重要な部分はシナスピスモスの中に留まっている)から「左翼潮流」のネオコミュニズムまで広がる、別個の諸潮流から作り上げられていた。
注二)「左翼政綱」は、昨一一月全国評議会において、さまざまな輪郭を取って一〇年以上存在してきた二つの主要構成要素の合流によって、潮流形態に確立された。その二つとはまず、シナスピスモスの「左翼潮流」であり、それは基本的に、一九九一年の分裂の中でKKEを離れた戦士たちから構成されている。この部分は、職場支部のほとんど、労組部門を支配し、主要にギリシャ北部のいくつかの支部と地方連合に強力な配置を維持している。もう一つはSYRIZA内のトロツキスト起源三構成組織(コキノ、DEA、APO)であり、今はアンブレラとしてのRプロジェクト/レッドネットワークの下に結集している。大会において、PASOKからやって来た構成部分であるDIKKIも、一九九五年にKKEを離れた労組活動家組織(KEDA)と同じく政綱に合流した。全体で七〇人のSYRIZA議員の内およそ一ダースが政綱を支持している。そこには三人の議員団スポークスパーソンの内の一人、パナイオティス・ラファザニスが含まれている。彼はKKEの元指導者であり、この国ではもっとも労働者階級的な伝統的選挙区であるピレウス第二選挙区から出ている議員として長い経歴を持ち、政綱のもっとも著名な公的人物でもある。(「インターナショナルビューポイント」二〇一三年八月号)

 


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