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沖縄闘争論の深化のために

沖縄自治・自立論を考える 「世界革命」1429号1996年3月25日

「国民国家の枠組み」を侵食する「完全自治」への可能性

アジア各国の闘いが展望を規定している

平井 純一

沖縄民族主義の歴史的根拠

 昨年九月に起こった米兵による沖縄の少女に対する性暴力事件をきっかけにした、在沖米軍基地に対する闘いは、「本土復帰」二十五年目を前にして三度目の「島ぐるみ」闘争の様相を呈している。沖縄の闘いは、在沖米軍基地の存在と日米安保に対する深い怒りを解き放っている。
 今回の闘いが、米軍政を直接の対象とした過去二度(一九五〇年代後半の土地取り上げ反対闘争と一九六〇年代後半から七〇年代初頭にかけた本土復帰闘争)の「島ぐるみ闘争」と大きく異なるのは、言うまでもなく二十五年目をむかえる「本土復帰」そのものを大衆的に問いなおす質を持たざるをえないからである。
 私は、一九八七年、当時の天皇裕仁の沖縄訪問を前にして、一九七〇年を前後する「本土復帰」闘争とそれと呼応したわが同盟の本土での沖縄闘争路線の総括を試みた(「われわれの沖縄闘争路線の再構築のために」、本紙八七年六月十五日、二十二日、七月十三日号に掲載。最近「討議資料」としてパンフレットにした)。
 この文章の中で私は、当時の沖縄「本土復帰」闘争が 一島的にはブルジョア民主主義の枠いっぱいまで闘いぬかれ、米日帝国主義に対する権力闘争の局面への飛躍に直面している とする、わが同盟の「沖縄労農自治政府」論を支えていた認識を、主観的願望にもとづく情勢の過大評価と「大衆運動主義的政治力学主義」につらぬかれていたものであったととらえようとした。同時に、「復帰」以後の沖縄人民の闘争について、その絶対平和主義的でブルジョア改良主義的な「沖縄民族主義」の克服が不可欠であるとして「日本社会主義革命の一部としての沖縄闘争」という視点を押し出した当時のわれわれの主張について、それが「労農自治政府」論の中にふくまれていた積極的な要素を清算するものであったと総括した。
 私は、沖縄民族主義が決して郷土意識や県民意識一般に解消されるものではなく、「ヤマト」との関係における被支配・被抑圧構造に歴史的根拠を持つものであるとして以下のように述べた。
 「沖縄『本土復帰』闘争は、確かに『日の丸』を掲げ、米軍政支配からの離脱と日本との一体化を求める運動としてくりひろげられた。しかし、それは『日本国家』との緊張関係をはらんだ沖縄人民の民族的自己意識の解消を意味したわけではない。この『本土復帰』闘争が、現実に『返還』が日程にのぼっていくなかで『反復帰』派を生み出していったことは、その明確なあかしであった。確かに『復帰』後、『反復帰』派は大衆的に一つの政治潮流として登場しえず『沖縄独立』論も公然たる政治表現をとることはなかった。しかし、そのことと沖縄民族主義にいかなる政治的・社会的基盤も存在しないと断定することとは全く別のことがらである」。
 「沖縄民族主義の結晶化は、米軍基地の再編強化と日米帝国主義による沖縄の前線軍事拠点化、それを支える日本帝国主義による沖縄の『民族共同体国家』への包摂攻撃の進行の中で、まさに現実的根拠を持っていると言わなければならない。本土=『ヤマト』における階級的闘いの衰退は沖縄人民の抵抗の拠点としての『沖縄人』意識を浮上させる役割を果たしている」。
 この視点の上に立って、もう一度いま沖縄の闘いの中から発せられている「自治」「自立」「独立」論に対して、本土のわれわれがどのようにそれに応えていこうとするのかを考えてみたい。

「独立」への意識の広がり

 いま沖縄の人々の間では、「もう日本政府にだまされないぞ」という思いからする「自立・独立」論が公然と語られはじめているという。それはどういう表現をとっているのだろうか。
 まず大田沖縄県知事自ら、昨年十月に沖縄県選出の照屋寛徳参院議員に対して「照屋君、そろそろ沖縄も琉球王朝を復活させんといかんのかな」と語ったという。この発言は、当時の宝珠山防衛施設庁長官が、代理署名拒否の意思を明らかにした大田知事に対して執拗に面会を求め続けて拒否されていた最中のことでもあり、皮肉をまじえた痛烈な批判だと思ったと、当の照屋氏は語っている(『世界』96年2月号の座談会「安保のくびきと沖縄の構想力」)が、一見冗談のような形で語られたこの発言の中に、「在沖米軍基地の維持」のみに汲々としている日本政府に見切りをつけた大田知事の感覚が表されているというべきだろう。
 この『世界』2月号の座談会に出席した筑紫哲也氏も、元コザ(現沖縄市)市長で復帰運動活動家の大山朝常氏が電話をかけてきて「もうこれから沖縄の生きる道は独立しかない」と語ったというエピソードを紹介している。
 また知花昌一氏は、『世界』96年3月号の対談(「火種がいま大火になった??沖縄反戦地主の志と論理」)の中で、「ぼくは、独立ということを思ってもなかった。これまで一度も言ったことないんです。でも、この間の動きを見ると、やはり独立ということをしなくちゃ沖縄が沖縄としてちゃんと自分たちを貫いて生きていくということができないんじゃないか、という思いになっています」と語っている。
 「独立」論は決して一過性の発想ではない。それはいっこうに減らない米軍基地の重圧と、本土政府による差別的統合支配のなかで、「復帰」以後の二十四年間に時間をかけて蓄積され、徐々に醗酵してきた思いが、少女への性暴力と大田知事自らの「代理署名拒否」の決断を契機に、明確な姿をとったものととらえるべきだろう。
 とりわけ一九八〇年代以後、とうとうたる「本土化」の波の中で、「ヤマト」に対置するものとして沖縄独自の歴史と文化を自らのアイデンティティーの原点として育てていく作業が続けられてきた。それは決して「沖縄民族主義」という言葉で了解されるものではなく、「ヤマト」への政治的対立を明確に意識したものではなかったにせよ、あるいはまた天皇訪沖を契機に公立学校の式典時における「日の丸」掲揚率が、ほぼゼロのところから一挙に一〇〇%近くになるという事実に表されるように「ヤマト」への両義的な感情を示すものであったにせよ、現実の経験の中で「自立」「独立」の意識は、底流において大きく育まれてきたと考えるべきであろう。

アジアに向けた経済的自立化

 またそこには、依然として在日米軍基地の七五%を背負わされ、かつ県民所得が全国最低、失業率は最高という「国内植民地」的に置かれ続けてきたことへの怒りとともに、基地依存経済の構造からゆるやかにではあれ脱却してきたという沖縄の側の「自信」が反映されている。
 沖縄研究会の太田武二氏は、「かつては思想的な動きとして沖縄の自立ということが表現されてきたんだけれども、この十年ぐらいは、経済界などからも日本の国境の枠内にいるよりも、アジアという枠のなかにいたほうが活躍できる、豊かになれるという意見がでてきている。経済成長を続けている台湾だとか中国沿海地域と結び付いた方が沖縄経済は良くなるという思いが強まっています」(「ACT」96年1月22日号)と語っている。
 こうして沖縄の「自治・独立」の意識は、「成長するアジア」との結合の中に経済的発展の展望を見いだそうとする沖縄のブルジョアジーの志向の中にも反響を見いだしているのである。それは基地返還の後に国際都市形成を構想する沖縄県の意図とも一致している。
 二〇一五年までに米軍基地の全面返還を求める沖縄県の「アクションプログラム」は、基地のない「自立的経済開発」をアジアとの結びつきの中から模索しようとする戦略に裏打ちされたものである。沖縄県が発行しているパンフレット「沖縄からのメッセージ??平和への出発(たびだち)」は「二一世紀の未来像?国際都市『沖縄』」と題して次のように記している。
 「いま東アジア地域は、21世紀の世界経済をリードするといわれている。/このときにあたり、本県のグランドデザインである国際都市形成構想を策定し、平和交流・経済文化交流・国際技術協力を通じて、これらの地域との交流をよりいっそう進め、本県を振興していきたいと考えている。/このため空港を始めとする交通インフラや、国際リゾート地、学術・研究の交流拠点などを含めた、高次の都市基盤の整備を図る必要がある。これには、広大な面積を占める米軍基地の計画的かつ段階的な返還により、その跡地が拠点施設の整備に供されることが必要である」と。
 われわれは、独自の「経済開発」の構想をふくめた沖縄の「自立」構想が、沖縄に米軍基地の重圧を押しつけそれを恒久化しようとする日米安保体制と全面的に衝突していることを認識し、平和と非武装をめざすことなくして「自立経済」の発展はないとする沖縄県の要求を実現するためにともに闘うことが求められている。
 この自立的経済発展の要求がそれ自体としてはブルジョア的なものであり、開発にともなう環境破壊や、貧富の差の拡大などの社会的諸矛盾を生み出すこと、あるいは資本によるアジアにおける権益確保のための競争の出撃拠点となることにわれわれはもちろん自覚的でなければならない。沖縄民衆は、このアジアに目を向けた「開発」路線に対して、アジアの民衆との連帯を広げつつ新たな闘いを開始するだろう。しかし、それを理由にヤマト国家からの「沖縄自立」の要求に留保条件を付すことは誤りである。

「国民国家」と「自決権」

 沖縄「自治・独立」論の新しい展開は、「主権民族国家形成の権利」として理解してきた従来の「自決権」論に対して再検討を要請するものである。われわれが「本土復帰」後、沖縄「自決権」のスローガンを下ろした背景は、それが日本国家からの沖縄の「民族国家的分離・独立」につながるものであって、そうした立場が積極的意義を持っていないという判断であった。
 しかしいまわれわれは、米ソ冷戦構造の崩壊と、旧ソ連・東欧「労働者国家」ブロックの崩壊と、資本主義経済の「グローバリゼーション」の進展の中で、主権国民国家の世界的体制が根本的な動揺を開始しているという情勢に直面している。そしてこの中で生じているエスニック紛争と分離主義の発展は、「民族自決権」がストレートに新たな「国民国家」の形成につながるとき、それが「民族」間の差別の再生産と流血の紛争をも惹起しうるものであることを目撃してきた。旧ユーゴ、とりわけボスニアの紛争はその悲劇的な現れであった。
 他方、先住民族の「自決権」要求のための闘いは、とりわけラテンアメリカのインディオ諸民族において、「国民国家の枠組み」の中での「完全自治」を求める闘いとして発展してきた。一九九〇年七月にエクアドルのキトで開催された第一回「インディオの抵抗五百年」大陸集会で発せられた「キト宣言」は、「国民国家とその下にある社会を根底的に変革せねばならない」と確認しつつ、「国民国家の枠組みの中で自決と自治を獲得」しようとする政治方針を打ち出した。
 宣言では「自治とは、地上、地下、領空にある天然資源すべてを管理し、運営することを含め、われわれ先住民族の領域管理に関し、われわれインディオ諸民族がもつ権利」として定式化され、また「われわれに関する諸問題をインディオ諸民族自らが取り扱い、そうすることで固有の政府(自主政府)を民主的に構成する」展望も提起された。すなわち現存する「国民国家の枠組み」の中での「自治政府」という方向性である。
 ここでは明らかに、当面「国民国家の枠組み」の中での「完全自治」をめざす闘いが、同時に現行の国民国家の「枠組み」そのものを止揚するものであることが含意されている。なぜなら「現行の資本主義体制を打破し、あらゆる形態の社会的・文化的抑圧と経済的搾取を一掃しないかぎり、自決権と完全な自治制度は獲得できないと、われわれ先住民族は確信している。民衆の力を基盤とした多元的で民主的な新しい社会を建設するため、われわれ先住民は闘争を展開している」ことも明示されているからである。
 軍用地強制使用をめぐる「代理署名」裁判における沖縄県側の主張は、日本国憲法の「地方自治の本旨」を活用しつつ、中央政府から独立して自らの責任において「公権力を行使する権能」を押し出したものであった。この主張自体は、限りなく「地方主権」「自治体政府」が「国家主権」「中央政府」と対等であるという「完全自治」の主張に接近する力学を秘めたものであると理解しうる。
 そして沖縄県の主張は、外交・軍事政策という「国民国家」の聖域に直接踏み込みその変更を促す質を有している。それは旧来の「地方自治」論の枠組みを超えるものにならざるをえない。沖縄県の「自立」の主張が、日本国家の軍事政策に異議を申し立てるものになり、日本国家がそれを拒否するとき、沖縄民衆の中から「独立」の志向が登場するのは必然的と言える。
 そしてこの「自立」「独立」の主張は、「主権民族国家」としての沖縄をめざすものと言うよりは、日本国家による国民国家的統合を拒否しつつ、東アジア・太平洋の中で独自の国際的展望を構想することで、日本国家の枠組みを浸食する「完全自治」に向かうベクトルを有しているだろう。沖縄の民衆が自覚的に選択しはじめたヤマトからの「自立」が、資本主義の成長センターとしてのアジアに参入するブルジョア的「発展」の道となるのか、それとも「キト宣言」が主張する資本主義体制の打破への道となるのかは、「成長するアジア」が不可避的に生み出す中国、台湾、フィリピン、ベトナムなどの若い労働者階級人民の闘い、そして日本の労働者階級人民の闘いの国際的展望と密接に連関していることは言うまでもない。沖縄の闘いの帰趨はアジアの階級闘争、民衆運動の国境を超えた新しい結びつきにかかっているのである。


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