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映 評 かけはし1999.5.24号

『鉄道員(ぽっぽや)』

中井 弘

「一生懸命働いた人たちの今の

世の中への怒り」は描かれたか

強調される「忍耐の美学」

 映画産業が長い停滞を経て再び活況を呈しているなか、本作も当初の予想を上回る人気で上映を続けている。ベテラン男優高倉健と、当世トップアイドル広末涼子の初共演。私はこの異色の組み合わせに興味をひかれ、何の前知識も持たずに映画館に入った。
 高倉にとって本作は実に五年ぶり202本目の出演。広末は二作目。わき役の大竹しのぶと小林稔侍は昨年の「学校W」(98年11月2日号に紹介記事)以来の共演で記憶に新しい。原作者の浅田次郎は本作で直木賞を受賞した。
 北海道の台地を力強く走るD51の映像で幕が開く。スクリーンいっぱいに雪が降り注ぐ。顔をススだらけにして石炭をくべる佐藤乙松(高倉健)は、廃線間近のローカル線幌舞駅の駅長に昇格する。かつては炭鉱町として栄えた幌舞も、いまは高齢者ばかり200人足らずの過疎の町。雪に埋もれた小さな終着駅が物語の舞台となる。
 乙松には妻静江(大竹しのぶ)と娘雪子(広末涼子)がいた。旧友で同僚の杉浦仙次(小林稔侍)は定年後、リゾートホテルの重役への転身が決まる。辛苦をともにしてきた彼は「ずっと一緒にいたいんだ」と乙松にも熱心にホテルへの再就職を勧める。「おれは鉄道以外なにもできない」。乙松の決意は固く、黙々と独りホームにたつ。
 一人娘を病気で失い、妻にも先立たれてしまった。雨の日も、吹雪の日も、たった一人で駅を守っている。ある日、一人の愛らしい少女がホームにあらわれる。「今度一年生になるの」とあどけなく語る少女は、人形を駅に忘れ消えていく。その後、姉とおぼしき少女が二人、乙松の駅に現れるのだが……。
 わき役たちも日本映画ではお馴染みの顔ぶれ。仙次の息子秀男役に吉岡秀隆、妻明子に田中好子。他に奈良岡朋子、平田満らがキャスト。流れの炭鉱労働者役には、コメディアンの志村けんが登場する。高倉は以前から志村のファンで、今回じきじきに出演を依頼したという。志村演じる吉岡肇は父子二人暮らし。流れの炭鉱労働者吉岡は「スト破り」の立ち回りで、閉山のウサ晴らしから酒を飲み、労働者と乱闘になる。これは原作にはないエピソードだというが、本作の大きな見どころになる。
 総じて「高倉健の映画」である。無口で不器用な駅長役は彼の真骨頂。仕事のため娘の死も、妻をみとることもしなかった。ただただ「仕事一筋」に生きた乙松。「おれはぽっぽやだから」と何度も繰り返し自分を納得させる。杉浦と彼の息子秀男は「エリート」を演じ、乙松の存在感を一層きわ立たせている。
 降旗は本作について「原作への多くの共感は戦後、一生懸命働いた人たちの今の世の中への怒りや寂しさだと思いながら撮った」(毎日新聞6月5日付)と語った。国鉄時代のストライキのモノクロシーンでは、腕章と鉢巻きだけに赤く色がつく。「中学生の集団就職の列車は止めなかった」と乙松は胸をはる。国鉄の長い歴史が随所に散りばめられているが、登場人物は物語のなかで決してその時代や社会を問うことはない。高倉は「旧国鉄やJRの人が観て、思わず拍手を送ってくれるような乙松でありたい」(キネマ旬報6月下旬号)と語っている。  
 風景は特に美しい。鉄道ファンにも垂涎の作品に仕上がっている。ひたすら雪を待ち続けた撮影スタッフの苦労が実を結んだ。雪子と乙松の「父娘愛」が涙を誘う。若者たちに圧倒的な人気を誇る十八歳の広末涼子は、透明な存在感でベテラン高倉と互角に渡り合う。クライマックスは二人だけで過ごす一夜。どこか不安定な空気が流れ、それが独特の神秘性を醸し出している。
 JR札幌本社の若き幹部候補生秀男から「廃線」の電話を受ける乙松。高倉は歴代「じっと我慢したあげくに、爆発する」という「正義派」を演じてきたが、このシーンでは自ら「ハジケたい」と監督に申し入れたという。結局受け入れられず、仕事一筋の老駅長は最後まで耐え忍んでしまうのだ。
 深い混迷の現代に信念を貫いて生きる乙松の「非現実」、ここでも息ぴったりと「兄弟愛」を演じる仙次の「現実」、そして広末の「神秘性」。この三者が織りなすドラマが、美しい風景とともに、観客を幻想と叙情のベールで包みこむ。
 ラッセル車を待つホーム。しんしんと降る雪に埋もれてその人生を終えた乙松は、かつて娘と妻を送ったように、仲間たちの手で「キハ12形気動車」に乗せられる。「大往生だべさ。俺が運転する」。仙次がつぶやくラストシーンは明るい。最後まで乙松の身を案じていた彼の安堵した表情が、この物語に最高の「現実味」を添えている。
 しっとりとした情感に溺れた後、しかし何かが心に引っかかる。上映中に感じた「違和感」が、時間を経て冷静に振り返ると、くっきりと浮かび上がる。日本映画のスター高倉は、寡黙で律儀で禁欲的な「男のなかの男」を演じ続け、ファンを魅了してきた。だが乙松の生き方は、仕事のために家族を犠牲にした、ただの「会社人間」「男のわがまま」なのである。
 駅長とはいえ乙松はたった一人で業務のすべてを任されていた。国策としての赤字ローカル線の廃止、徹底した人員削減の結果が、悲劇をもたらした。充分な「交代要員」の配置や安全衛生対策が施されていれば、また違った結末になっただろう。
 家族が死んだとき、自分は仕事を優先した。その乙松の「悔恨の念」が、一夜の幻影を呼ぶ。しかし、そこにも体制や厳しい現実に対する「怒り」はない。むしろ、自分の選択を正当化したり免罪する展開になる。この倒錯した虚飾のシナリオが、神秘的なムードに溶け込みながら、ラストシーンへと収束していく。
 愛する家族を「企業の論理」によって失ったり、傷つけられた人々は少なくない。かくいう私も、仕事で親の死に目に会えなかったという苦い経験がある。乙松の置かれた状況はすなわち、極めて非人間的で反労働者的なのである。こうしたことはあらゆる労働現場で絶対に許されてはならないことなのである。いまなお闘い続けている国労闘争団を先頭にした「旧国鉄やJRの労働者」は、決して乙松に拍手を送ったりしないであろう。高倉は「廃線の連絡」にハジける前に、妻子を失った時にこそ、怒りを表現すべきだったのではないか。
 東映側は当初、高倉に仙次役を計画していたという。しかし監督の降旗が高倉を主役に据えた。その結果皮肉にも、降旗の言うような「今の世の中への怒り」は消え去り、相反する「忍耐の美学」ばかりが強調されてしまった。
 芸術や文化への評価というものは、人々の価値観や、時代によって変わってくるが、私は「反動的な作品だから絶対観るな」とは思わない。実際に観ずには作品の真価を問えないからだ。
 本作について、大方の論評は賛辞を送っているという。たしかに高倉健と広末涼子のファンなら楽しめるだろう。映像も素晴らしい。しかしストーリーや設定は、あくまでフィクションである。そして、乙松の「滅私奉公」的な生き方、企業や国家のために家族を犠牲にすることを美化した演出には、やはり同意することはできない。


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