「暗黒の時代」の希望を描く「現代」に対する批判的現実感覚の欠如も
ロベルト・ベニーニ監督・脚本・主演の「ライフ・イズ・ビューティフル」は、1998年カンヌ映画祭審査員グランプリ、今年の第71回アカデミー賞の主演男優賞、外国語映画賞、作曲賞などすでに40以上の賞を受賞している評判の作品である。1997年末にイタリアで公開された時、「あまりの評判に、各紙が一面で報じる騒ぎ」となり、有力紙「レプブリカ」の見出しは「(すばらしい映画を)ありがとう、ロベルト!」だったという(武山康煕「ゲバラ、ラテン音楽、イタリア」、『カオスとロゴス』11号)。
題名の「ライフ・イズ・ビューティフル」(「人生は美しい」――イタリア語ではLa Vita E Bella )は、トロツキーの1940年2月の「遺書」の中の「人生は美しい。未来の世代をして、人生からいっさいの悪と、抑圧と、暴力を一掃させ、人生を心ゆくまで楽しませよ」からとったものだ。ロベルト・ベニーニはトロツキーのこの言葉と出会うことによって、苦難の中で希望を持って闘いつづけようとする人間を描く、作品のイメージが広がっていったのだという。
そんなわけで、あらゆる意味で「折り紙つき」ということになっている作品なのだ。
トロツキーの遺書との出合いから
作品の舞台はムソリーニ政権下のイタリア・トスカーナ地方の都市アレッツォ。この町に書店を開業する夢を抱いてやってきたユダヤ人の主人公グイドが、女性教師のドーラに一目惚れし、ファシストの官吏と意に沿わない結婚を強制されようとしていたドーラとあの手この手を使って結ばれるまでが前半。
後半は、すでにドーラとの間に五歳になる男の子ジョズエを設けていたグイドが、ユダヤ人狩りによって親子もろとも送られた強制収容所が舞台となる。グイドは、この過酷な運命にさらされた息子のジョズエを不安から救うために、収容所の生活が一つの「ゲーム」であることをジョズエに信じさせようとする。つまり、「悪役を演じている」ナチスの刑吏が彼らに課す試練を一つ一つクリアすることによってゲームの「得点」が加算され、その「得点」が1000点に達すれば、本物の戦車がご褒美として手に入り、家に帰ることもできるし、母親との再会も可能になる、というフィクションで、収容所生活の絶望の中に希望の光を作りだそうとしたのである。
最後にグイドは収容所内で銃殺されるが、ジョズエは救出され、収容所から生き延びた母親のドーラと再会を果たして「ゲームに勝ったよ」と叫ぶ。
作品全体は、追い詰められた弱者がありとあらゆる知恵を総動員して強者をやりこめるという古典的ドタバタ喜劇の手法で一貫している。ファシズムに対する抵抗の表現も、チャップリンの「独裁者」をほうふつとさせるものだ。テーマも手法も、その意味で一種「時代離れ」したと言えるほどの「人間讃歌」なのだが、イタリアの超人気俳優・映画作家がこうした作品を作り、それが各種の映画賞を独占するほどの賛辞をかちとるということの中に、日本との社会・文化状況の違いを感ぜずにはいられない。
トロツキーが「人類の共産主義的未来に対する私の信念は、私の青年時代におとらず熱烈であり、事実、今日それ以上に確固としている」と語り、「ライフ・イズ・ビューティフル」と書き綴ったのは、ファシズムの席巻と帝国主義戦争による人類と文明の大殺戮に直面し、スターリニストによる暗殺を予感した「暗黒」のただなかにおいてであった。私たちは、それとは全く位相の異なる歴史的文脈の中で、「希望」を復権させなければならないのだろう。
状況設定の誤りと解放への古い図式
ところで私が、この作品に持った違和感は、実はこの歴史的文脈の位相の違いという点にある。つまりトロツキーの「遺書」と同時代のチャップリンの「独裁者」が持っていた切迫したリアリティーに比べて、この映画には「冷戦後」期の私たちの「希望」を見いだすためのリアリティーが希薄なのではないか、ということである。
それは作品の状況設定によるところもあるだろう。たとえば、イタリア降伏後、ナチスの手によって救出されたムソリーニを擁して作られた「サロ共和国」内に設置されたとおぼしき収容所が映画後半の舞台なのだが、ここはユダヤ人のガス室での大量処刑がなされる「絶滅収容所」でもある。そしてこの収容所が「絶滅収容所」でもあるということは、映画全体のプロットにおいて決して小さくない要因になっている。しかし、イタリアにガス室処刑を行った「絶滅収容所」があったという事実はない。こうした描き方はナチスの犯罪を相対化しようとする「歴史修正主義」の攻撃に口実を与えかねないだろう。
また、収容所からジョズエを救出した「解放者」はアメリカ軍である。すなわちファシズムの重圧から人間の「希望」を回復し「ライフ・イズ・ビューティフル」を体現させる救済者は米軍なのである。ナチズムのユダヤ人大虐殺という人類史的犯罪の対極にたつ、ヒューマニズムの担い手としての「連合国」という古い図式が、今日の「希望」にそぐわないことは言うまでもない。
この映画のパンフレットの中で、秦早穂子さんは「ユダヤ人の多いアメリカ映画界、ましてアカデミー賞」が、ユダヤ人虐殺への告発を「笑いの中で描いた」この作品にどういう評価を下すか、が問題だったと書いている。そして、この作品がアカデミー賞の3部門で受賞し、最高の評価を得たという事実そのものの中に、われわれの時代に対する批判的現実感覚の欠如がうかがえるのではないだろうか。
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