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投 稿 かけはし1999.7.12号
トロツキーの芸術論について

たじま よしお

 1960年代、世界の画壇はニューヨークを中心に抽象絵画の花が咲き乱れ画学生の多くは渡米の熱病にうなされており、私もその一人でした。
 この抽象的な表現形態は西欧に萌芽してニューヨークで開花した、というのがおおかたの認識となっています。
 しかし正確には1910年代、ヨーロッパ・ロシア全土をおおっていた社会主義革命の機運が芸術家たちを大いに燃え上がらせて、自由への讃歌・未来への夢として抽象芸術が息づいていた……というのが正確なのです。そして1917年のロシア十月革命の高揚の中で特定の芸術家たちによってではなく、まさに大衆運動として開花してゆく、その大衆性をこそ見るべきです。

抽象芸術とロシア10月革命

 当時の革命の指導者達はこの現象にどう対応したのか。
 『革命の想像力・トロツキー芸術論』(杉村昌昭/金井毅訳、柘植書房)を見ながら私見をのべてみたいと思います。
 「レーニンは芸術の個人的な好みがやや`保守的aであったが、芸術的な問題には政治的には極めて用心深く、自己の無能を素直に認めていた。芸術・教育人民委員ルナチャルスキーによるあらゆる種類のモダニズム擁護はレーニンをしばしば当惑させた。しかし、レーニンは個人的な会話の中で皮肉な意見を述べるにとどめ、彼の文学的好みを法律に変えるようなことはなかった。新しい時代の曙である1924年に、この論文の著者(トロツキー自身)は次のように国家と芸術的グループや流派に対する関係を明確に表わした。『それらすべてに対して、革命のためのものか、革命に敵対するものかという絶対的な判断規準を設ける一方、芸術的決定の領域では完全な自由を与えること』」。
 この論文は1936年に執筆されたものですが『』内の見解は1924年でトロツキーが政治の中枢にいた時のものです。この年にはレーニンが没して、それを待ち受けていたように5月党大会はトロツキー派46人の「偏向非難決議」を採用しました。そして、1926年10月には政治局員から解任、1929年にはスターリンは遂にはトロツキーを囚人列車でコンスタチノーブルへ流刑してしまうわけです。そしてスターリンによって前衛的芸術作品はことごとく破壊・焼却されてしまうのです。
 「ソビエト芸術の歴史は一種の殉教史である。フォルマリズムに対する禁止令がプラウダの社説に掲載されて以来、作家・芸術家・舞台監督そしてオペラ歌手までさえも自説を屈辱的に撤回する宣伝が伝染病のようにひろがり始めた。続々と彼らは自分達の罪を認めたが、これから先また何が起こるかわからないので、自分たちの`フォルマリズムaの性質をはっきりと規定することは差し控えている。そして遂には政府当局は洪水のような撤回宣言を止めさせる指令を新たに出さざるを得なかった。スターリンが詩人マヤコフスキーについて二、三短い讃辞を与えた結果、文学的評価は数週間のうちに変わり、教科書は作り直された。街の名前もつけ変えられ、彫像を建てることが提案された。新しいオペラが聴衆の中の高官に与えた印象は直ちに作曲家への命令に変えられた。`コムソモールa(共産青年同盟)の委員長は作家会議で言った。『同志スターリンが提案したことはすべての人の法律である』。すると全聴衆は喝采した。もっとも何人かの人は恥ずかしさのためにいたたまれない気がしたであろう」。

革命と芸術の関係をどう見るか

 以上の文章は1936年のもので、トロツキーは流刑されてもいささかもひるむことなく文筆で反撃をつづけてゆきます。そして1938年1月「芸術と政治」と題して次の論文を「パーチザン・レビュー」「反対派ブレチン」に発表します。
 「略……一般的に言って、芸術は完璧で調和のとれた生活への人間の欲求、つまり階級社会によって奪われた主要な恩恵を取り戻す欲求を表現するものです。それが現実に対する抗議(意識的であれ、無意識的であれ、消極的であれ、悲観的であれ)がいつも真に創造的な作品の一部を構成している理由です。すべての新しい傾向は抗議から始まっています」
 「ブルジョワ社会が歴史にわたってその力を発揮することができたのは、抑圧と奨励・排斥と追従を混ぜあわせつつ、芸術におけるすべての`反抗的aな動きを抑制同化して、その動きを『公認』の水準にまで高めることができたためです」。
 異議ナシ! この「公認」とは「公募展」の文部大臣賞の受賞者が皇居の園遊会に招かれると、その作家の作品の価格は数段はね上がる仕かけ、そして反体制の作家も文化勲章を与えられるとメロメロになってしう。そんなことに思いをはせるとよくわかると思います。
 「略……芸術は文化の中で最も複雑で、最も鋭敏でそして同時に、最も保護を加えられることが少ないので、ブルジョワ社会の衰退と腐敗の影響を受けるのです。
 この袋小路からの出口を芸術そのものによって探り求めることは不可能です。それは経済的な土台から始まってイデオロギーの最も高度の領域に終わる文化全体に関わる危機なのです。芸術はこの危機を逃れることも出来なければ、分割することも出来ません。芸術は自分自身を救うことができません。現代の社会が再建されなければ、ギリシャの芸術が奴隷制に基づく文化の廃虚の下で腐敗したように、芸術が腐敗することを避けることはできません。これを避けるための課題は本質的に革命的な性質を帯びてきます。かかる理由で、我々の時代の芸術の機能は革命との関係によって決定されます」。
 この文章には芸術に対する深い慈しみが感じられてつい泣けてしまいます。まさに「表現者の父」という文字しか見当たらないのです。そのような短絡的な言葉は危険であるので、今後もっと深く読み込んでゆかなくてはならないと思います。


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