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『トロツキー著作集』15 1932(上)かけはし3.8/15号

社会主義革命かファシズムかが問われた時代
情勢全体と格闘するトロツキー 高島義一

1932年を前後する時代

 『トロツキー著作集』第15巻(1932年上)が発刊された。掲載されているのは、1932年1月から8月までに発表された、トロツキーの論文、手紙、インタビューなどの諸文書である。
 1932年を前後する時代は、いったいどんな時代だったのだろうか。それはまさに「社会主義革命かファシズムか」「戦争か革命か」が鋭く問われ、日々情勢が煮詰まって行くという緊迫した時代だった。
 1929年に始まる世界恐慌は、世界資本主義を出口のない危機にたたき込んでいた。各国で失業者は街頭にあふれ、その絶望のなかでたとえばドイツでは、第一次大戦で形成された国際秩序の打破を叫ぶヒトラーひきいるファシズムが急成長をとげていた。ヒトラーの権力奪取は、新たな世界戦争の始まりを意味していた。1930年の総選挙では、ナチ党の得票は八倍に激増し、一気に第二党に躍り出ていた。
 1931年9月、イギリスが金輸出を禁止し、ポンド切り下げを行ったことをきっかけに、世界中に金本位制の崩壊が波及した。32年にはイギリスはスターリング・ブロックを形成し、世界市場は分割され、経済ブロック化と対立が進行した。
 追いつめられた弱小帝国主義は公然たる侵略戦争に乗り出した。31年9月には満州事変が始まり、日本帝国主義は15年戦争のドロ沼に足を踏み入れていく。軍部と右翼のクーデターの試みが繰り返され、32年には「5・15事件」が引き起こされた。そしてドイツでは、32年7月の総選挙でついにナチが第一党となり、ヨーロッパでも戦争の危機が現実のものとなりつつあった。
 左右へのジグザクを繰り返すスターリンとコミンテルンの破滅的政策によって、各国の革命運動は何度となく重大な打撃を受けていたにもかかわらず、労働者人民は階級的に団結して資本の支配と闘い、ファシズムと対決しようとしていた。ナチが640万票を獲得して第二党になった30年の総選挙で、ドイツ共産党も130万票を増やして460万票を獲得したのも、そのあらわれだった。
 スペインでは、31年4月、国王が亡命し第二共和制が成立した。31年11月には、中国・瑞金で中華ソビエト臨時政府の樹立が宣言されている。日本でも共産党への大弾圧が繰り返される中で、30年から31年、鐘紡や東洋モスリン、東京市電、芝浦製作所をはじめ、労働運動史に名を残す大争議が各地で起こり、農民の小作争議も全国に広がっていた。
 一方、スターリニストが支配するソ連邦では、右翼的経済路線が破綻し、強制集団化と超工業化という極左冒険主義路線へ急転換したことによって、政治的・経済的混乱が深まり、その中でトロツキーと左翼反対派へのすさまじい弾圧の嵐がますます強まりつつあった。
 同時に、たび重なるスターリニズム路線の破産を経験することを通して、トロツキーが体現していた真のボルシェビズムを継承しようとする左翼反対派の芽が国際的に形成され始めていた。
 『トロツキー著作集』第15巻はこのように、29年に始まる世界恐慌の中で文字通り「社会主義革命かファシズムか」が問われ、第二次世界大戦に向かう戦雲が暗く垂れこめつつあった時代状況と向き合って、全力で格闘しようとしたトロツキーの全体像を、くっきりと浮び上がらせている。
 本書の編集は、問題別ではなく時系列にそって並べられている。したがって、基礎的知識が足りないと最初はちょっと読みにくいかもしれない。しかし、巻末の詳細な注解を参照しながら読み進むうちに、トロツキーが緊迫した各国―世界の情勢をどのようにとらえ、どのように展望し、どのように闘おうとしたのかということが、リアルに実感されてくるだろう。
 しかもそれらはすべて、机上の空論ではなく、現実の生きた階級闘争をめぐる政治的・経済的な物質的諸条件から導き出されたものである。トロツキーのエネルギーに満ちた闘いに圧倒されるような思いを抱くのは、私だけではないだろう。

本巻に収録された諸領域

 本書で取り扱われている主要な領域は多岐にわたっているが、大別すれば以下のようになるだろう。
 Aソ連官僚支配体制の危機と労働者国家の経済政策について、そして国際スターリニスト体制に対する左翼反対派の闘いについて。
 B世界恐慌下の世界資本主義の危機とアメリカ資本主義論、アメリカ資本主義と対抗するヨーロッパ資本主義の行方について、そしてアメリカにおける労働党建設について。
 Cドイツファシズムとの闘いと反戦闘争、ナチスの国際政策と世界戦争の可能性、日本帝国主義が開始した中国侵略戦争の展望について。
 Dポーランド問題とファシズム論。
 Eアメリカ、フランス、スペイン、ギリシャ、ドイツ、南アフリカなど、各国における左翼反対派建設方針をめぐる各国での討論。それと関連してユダヤ人問題、黒人労働者の組織化、ギリシャの反対派とマケドニアのスラブ人少数派の民族自決権について――。

スターリニスト支配の危機

 最初に、スターリニスト官僚支配体制の危機と労働者国家の経済政策をめぐる領域について触れておこう。
 トロツキーと左翼反対派を追放したスターリン・ブハーリンブロックは、中長期的展望すら持たない「亀の歩み」の経済政策と富農優遇政策をダラダラと続けてきた。これに対してトロツキーと左翼反対派は、長期的展望と計画にもとづいた急速な工業化によって、人口の多数を占める農民への消費物資・工業製品の供給を大幅に増やす必要があると主張した。それなしに、農民を社会主義革命の枠組みにつなぎとめることができないからである。
 同時に、ネップと市場経済の全般化のなかで、不可避的に形成される資本主義的要素を統制することが必要であり、とりわけ富農層への課税強化が必要であると提起し続けた。
 このようなトロツキーと左翼反対派の提案を、スターリン・ブハーリンのブロックは「超工業化」「農民からの収奪」として拒否していた。しかし、二七年末から富農の経済的反乱としての「穀物調達危機」が始まったことによって予測は的中した。
 パニックに陥ったスターリンは右派を代表してきたブハーリンを切り捨て、国際路線において右翼日和見主義と極左空論主義のはげしいジグザグを繰り返してきたことと全く同様に、重工業に偏重した経済的冒険主義へと一八〇転換し、文字通りの「超工業化」路線に乗り移った。
 農民に対しても、政治的経済的準備のまったくないまま強制集団化による「富農の絶滅」へと乗り出した。消費財も供給できない重工業化は、耐え難い重荷となって労働者人民の背にのしかかり、強制集団化によって農耕用の牛馬から農機具まで収奪され、耕作意欲は崩壊した。農業生産は激減し、飢餓が広がった。
 党内でのスターリンの威信は低下し、危機が深まっていた。トロツキーは言う。「官僚の隊列は分散し始めている。小さな少数のグループが安全のための頼みの綱としてのスターリンにますます強くすがりついている。ほかの部分は保証を求めて周囲を見まわしている。……機構の中の正直な分子―幸いなことに彼らが多数である―は下からの声に耳を傾け、過去のさまざまな段階と投げ捨てられた1923、26、28、30、32年のスローガン―官僚的無分別によるすべてのジグザグ―を比較し、スターリニストの『総路線』が機構の作り話や幻想であり、機構の動揺の漠然とした反映にすぎないことを嫌悪の念をもって認識している。……スターリニスト体制は決定的危機を迎えつつある」。(「ソヴィエトの公民権を奪われて」本書80頁)。
 トロツキーは、だからこそスターリンによる凶暴な反対派狩りがますます吹き荒れているのだと指摘した。そして「スターリンは党を完全に絞殺しようとしている。いまこそレーニンの最後の闘争を受けついでスターリンを取り除け」と訴えている。
 トロツキー自身が考えていたよりも、このような指摘ははるかに真実をついていた。だからこそスターリンは、完全な自分の取り巻き以外のすべて、ロシア革命とその後の経過やコミンテルン指導下の闘いと論争を知る者のすべて、少しでも自主的に考えようとする者のすべてを、物理的に抹殺せざるを得なかったのだ。トロツキーがこの文書を書いたあとに起きたモスクワ裁判と大粛清の経過を知るわれわれは、トロツキーの確信に満ちた筆致を、恐るべき現実感を持って読むことになる。

戦争反対の闘いと統一戦線

 世界資本主義の危機と欧米関係、アメリカ資本主義に関するところでは、詳しく紹介する余裕はないので以下の印象的な一節を引用するにとどめよう。
 「全世界に対するドルの独裁を主張することによって、合衆国の支配階級は全世界の諸矛盾を自らの支配基盤それ自身の中に導き入れることになるでしょう。アメリカの政治と経済は、世界のあらゆる地域の危機や戦争や革命にますます直接左右されるようになっていくでしょう。『オブザーバー』としての立場を形式的にも長期間維持していくのは不可能です。アメリカは、考えられるかぎりもっとも大規模な陸、海、空の軍国主義体制をつくりつつあると思います」(『ニューヨーク・タイムズ』の質問に対する回答」本書62頁)。
 今日まで続く「パックス・アメリカーナ」をみごとにひとことで要約している。
 ヨーロッパで最も良く組織されたドイツ労働者階級とファシズムとの闘いは、文字通り世界情勢を決する位置にあった。「東方へ」のスローガンのもと、ヒトラーは対ソ戦争の意図を露骨に示していたし、ヴェルサイユ体制の打破という要求もまた、新たな世界戦争を不可避としていたからである。
 周知のようにスターリンとコミンテルンは、切迫するドイツファシズムの脅威を前にして、社会民主主義こそ社会主義の仮面をかぶった最も危険なファシストであって、それに「主要打撃」を加えるという「社会ファシズム論」をかかげ、反ファシズム労働者統一戦線を拒否するという致命的方針をとり続けていた。
 ついにドイツ共産党は31年春、社民が主導するプロイセン政府に反対する人民投票でナチスと共同し、32年末にはベルリン市電労働者のストライキをナチスと共同で指導するというところにまで行き着いた。トロツキーと左翼反対派は、スターリニストのこのような致命的誤りと徹底して闘いぬいた。
 トロツキーは、スターリニストがロマン・ロランやアンリ・バルビュスなど親ソ派平和主義文化人を押し立てて開催しようとしていた「反戦大会」を批判して言う。「ドイツにおける正しい統一戦線政策が、現在、戦争に反対する闘争の最も有効な手段である」(本書171頁)。
 日本帝国主義が開始していた中国侵略について、トロツキーはUP通信社のインタビューに答え、簡潔にその見通しを語っている。「日本の目的は中国を植民地化することである。これは壮大な計画である。しかし、即座に言えることは、それが日本の力を超えた目的だということである。日本は舞台に登場するのが遅すぎた。今や英国がインドを失う可能性に直面しているというのに、日本が中国を新しいインドに変えることに成功する見込みはないだろう」(本書69―70頁)。
 ポーランド問題とピウツスキ独裁体制をめぐってトロツキーが展開しているファシズム論や、ユダヤ人問題、黒人労働者の組織化の問題などについては、紙数の関係で触れる余裕がない。ただ、最も抑圧され、差別された部分の利益を防衛する立場を貫くことができるかどうかが、党が革命的であり得るか否かの核心のひとつであることを、トロツキーが強く主張していることだけを紹介しておく。      

原則を守る非妥協的な闘い

 本巻を貫く最大の特徴は、各国で誕生しつつあった国際左翼反対派の建設をめぐって、トロツキーが打ち出している厳しい姿勢が、各国組織や個人への手紙などを通じて浮き彫りになっていることである。当時の国際左翼反対派の中で、トロツキーの位置と権威はあまりにも突出したものだった。また各国で形成され始めた左翼反対派はいまだ未定形、未分化であり、路線的対立が繰り返されていた。各国のさまざまな組織的諸問題が、トロツキーのもとに持ち込まれた。トロツキーは、もちろん運動と組織の統一を望んだが、路線的純化についてはどのような妥協も許さなかった。
 20世紀が終わろうとするいま、とりわけ民主主義的感性の鋭い若い読者にとって、トロツキーがスターリニズムに対するドイツの右翼的反対派であるブランドラー派やイギリスの独立労働党、あるいはイタリアの極左セクト主義者であるボルディガ派に対して加えている、容赦のない徹底した批判は、むしろ大きな違和感を抱かせるのではないかと思う。
 トロツキーは、各国の左翼反対派がこのような諸傾向といささかでも妥協するようなことがある場合には、断固としてそれに反対した。しかしこのような諸傾向は、いずれにせよスターリンとコミンテルンの路線にさまざまな形で重大な疑問を感じ、その圧倒的権威から離反しつつあったのであり、それらを「大同団結」させることができれば、スターリンとコミンテルンに対する、ある程度の大きさを持った対抗勢力ができただろうと考えるのは、むしろごく自然なことかもしれない。
 トロツキーは、そのような原則をあいまいにした統一を徹底して拒否した。たとえば当時、いくつかの国の左翼反対派が提起していた反対派の国際会議をめぐって次のように述べる。
 「われわれに必要なのは真に考えを分かち合う者の会議、すなわち、共同の闘争の経験によってすべての基本問題に関する連帯をたしかめあった各国支部の会議である。会議はすでに達成された左翼反対派の隊列の線引きと浄化を出発点にしなければならず、全過程を初めからやり直すようなことをしてはならない」(147〜148頁)。
 そしてイタリアの極左セクト主義的左翼反対派であるボルディガ派との関係についてこう述べている。
 「極左主義者は改良主義との闘争において、しばしばマルクス主義の側にいるものである。官僚的中間主義(スターリニスト――引用者)が極左主義的ジクザクを始める時期になると、ボルディガ派は実際にはわれわれよりもスターリニストにはるかに近いことを証明した。……彼らが国際会議に参加することは、統一戦線政策を社会民主主義に適用すべきか否かといったテーマや、中国やインドについてはもちろんのこと、ファシスト・イタリアにおいても民主主義のスローガンによって大衆を動員すべきか否かといった政治的問題全般について、果てしない論争を再開することを意味するだろう。このような問題をめぐる論争は反対派を幼稚園の段階に引き戻すことを意味するし、国際会議をわれわれの信用を落とすカリカチュアにしてしまうだろう」(150頁)。

前衛党が果たす決定的役割

 スターリニズム支配のもとで国際階級闘争は繰り返し重大な敗北をこうむった結果、深刻な後退局面が始まっていた。しかし世界資本主義の危機は深く、労働者の中には階級的に団結して資本の支配と対決しつつ自らの生活と権利を守り抜くという、第一インターナショナル以来の体験に裏打ちされた歴史的連続性が、なお強固に保たれていた。したがって、たとえば33年〜36年のスペイン、34年〜36年のフランスのように、状況しだいではたちまち前革命的情勢が生じる可能性が存在した。
 前衛党は討論クラブではない。そのような前革命的情勢が生じた時、間髪をいれず的確な統一戦線戦術を駆使しつつ権力のための闘争を提起し、勝利を闘いとる方針を実践的に示さなければならない。そのような時、延々と「原則」をめぐる討論を繰り広げているようでは、とうてい歴史の試練に耐え得ない。原則をあいまいにし、中間主義的諸傾向と妥協することによってたとえ組織がひとまわり大きくなったとしても、かえって階級闘争の前進を妨げる役割を果たしかねないのだ。
 本巻には、スペインにおける左翼反対派の組織問題に関する文書がいくつか収められているが、トロツキーはその中で、スターリンに対する右翼反対派であったブハーリンを支持していたホアキン・マウリングループとの関係を断つように勧告している。
 しかしスペイン反対派の指導者であったアンドレス・ニンは、マウリン派と統一してPOUM(マルクス主義統一労働者党)を結成し、国際左翼反対派から分裂していった。そしてそのスペインで、トロツキーのそうした危惧は悲劇的に現実化した。
 36年7月のファシストフランコ将軍の蜂起に対して、労働者と農民は軍の基地を包囲し、武器庫を開放して武装した。そして工場を占拠し、生産を管理し、農地を解放した。たとえば大工業地帯だったカタロニアを、軍事的にも経済的にも支配していたのは、カタロニア反ファッショ市民軍中央委員会だった。しかしスペインには、武装した労働者農民の事実上の権力機関を、全国的な権力として確立しようとするボルシェビキが存在しなかった。
 人民戦線政府は、労働者と農民の闘いがブルジョア支配体制の枠を踏み越えることを絶対に許さなかった。土地の国有化や農民への分割も認めず、銀行の国有化も認めず、植民地モロッコの解放も認めず、市民軍を解体して共和国正規軍に代え、農民の土地闘争を禁止し、労働者の管理する工場を政府の管理に移すことによって、革命を圧殺していった。
 アナキストとPOUMの指導部は、中間主義的に動揺しつつ結局は人民戦線に屈服し、弾圧され、解体された。革命に向かうエネルギーが徹底して圧殺されたことによって、フランコとの闘いよりもイギリス・フランスブルジョアジーとの協調を重視したスターリンの路線のもとで、スペイン革命は血の海に沈んだ。POUMは、トロツキーと国際左翼反対派がスターリンと対決して守りぬこうとしたボルシェビズムの原則に対してあいまいな態度をとったことによって、スペイン革命の指導部としての役割を果たすことができなかったのだ。

ボルシェビズムの原則とは

 そのトロツキーが一歩も引かずに守りぬこうとした原則とは、改良主義や民族主義的左翼政党からの政治的独立を貫くということであり、労働者の意識を資本の支配との全国的対決へと導く過渡的諸要求をかかげ、的確な統一戦線戦術を行使することによって、資本の支配と対決する労働者の多数派を形成するということであり、同時に新しい権力機関としての労働者評議会(ソビエト)を作り出すイニシアチブをとることであり、その上で二重権力的情勢が生じた場合には、闘いの上げ潮の中でソビエトの側に権力を移行するための断固たるイニシアチブを発揮することである。同時に、このような過程そのものを、一国的な政治的枠組みを超えて国際的に波及させるために闘いぬかなければならない。
 このような諸原則は、コミンテルンの最初の四つの大会の諸決議に凝縮されており、その正しさは一1923年のドイツ革命の敗北、26年にイギリスの改良主義的労組指導部との取り引きでゼネストを敗北させた英露委員会、蒋介石の国民党軍の前で中国労働者を武装解除し流血の大弾圧を許した25年〜28年の第二次中国革命の敗北によって、悲劇的に実証されていた(山西英一『国際共産主義運動史』、ピエール・フランク『第四インターナショナル小史』いずれも新時代社・国際革命文庫)。
 もうひとつ、決定的に重大なものが、スターリニズムによる民主主義圧殺と運動内部における暴力の行使に徹底して対決して守りぬいた「プロレタリア民主主義」の原則である。日本の左翼運動内部で「内ゲバ」という形で凄惨な暴力が行使され、広範な民衆を絶望させてきたことを考えても、この原則は重要である。
 本書には、32年7月にフランス共産党が呼びかけたドイツの危機に関する公開集会で、意見を表明しようとした左翼反対派を共産党員が襲撃し、暴力で排除した事件についてのトロツキーの文書が収録されている。
 トロツキーは言う。「ロシア革命運動の歴史には激烈な分派闘争がとりわけ多い。私はこの闘争をごく身近なところで観察し、それに参加してきた。マルクス主義者のあいだだけでなく、マルクス主義者とナロードニキやアナーキストとの間でも意見の相違が存在していたが、そうした相違が鉄拳の組織的支配によって解決された例をたったひとつも思い出すことはできない。一九一七年のペテルブルグは頻繁に開かれる会議で沸き立っていた。ボルシェビキは、最初は取るに足りない少数派として、次には強力な党として、最後には圧倒的多数派として、社会革命党やメンシェヴィキを打ち負かすためのカンパニアを展開した。こうしたなかで、政治闘争が暴力的闘いにとってかわられるような会議を、私はたったひとつも思い起こすことはできない。……プロレタリア大衆が望んでいたのは、聞いて理解することだった。ボルシェビキが望んでいたのは、大衆を納得させることであった。このようにしてはじめて、党を教育することができ、革命的階級を党にひきつけることができる。……」(276〜7頁)。

新しい革命的攻勢のために

 スターリンとコミンテルンの破滅的路線のもとで、ドイツに続きスペインで、フランスで労働者階級の闘いは決定的な敗北を喫し、その結果として人類は第二次世界大戦という破局に突入していった。しかし、トロツキーと左翼反対派のスターリニズムや左右の中間主義に対する非妥協的な厳しい批判と闘いは、労働者階級と人類の遺産としてのマルクス主義とボルシェビズムの思想的・理論的な歴史的連続性を守り、維持することに成功した。そして同時に、その思想を体現する第四インターナショナルを作り出し、われわれに手渡した。
 このような闘いがなかったとすれば、91年のソ連邦崩壊に行きついた戦後のスターリニズムの分解と衰退の中で、世界の社会主義革命運動は思想的・理論的にゼロからの再出発と試行錯誤を余儀なくされただろう。
 もちろん、資本主義のあり方も社会の状態も一九三〇年代とは大きく変化した。たとえトロツキーのスターリニズム批判の正しさが歴史的にすべて実証されてきたとしても、それだけで今日の指針を導き出す上で十分であるわけはない。しかしわれわれは、トロツキズムという形で防衛されてきた確固としたマルクス主義の歴史的連続性の上に、21世紀に向けて社会主義革命運動の世界的再生の闘いに臨むことができるのである。
 こうした点に思いをめぐらせながら本書を学び、トロツキーのエネルギーに満ちた闘いを追体験してほしい。    


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