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    かけはし2012.年10月29日号

原理主義と対決し「国家と宗教の分離」を

ジルベール・アシュカルへのインタビュー

「宗教を批判する自由」は「自由
な表現の権利」の決定的な試金石

 ムスリムは「愚劣な挑発を無視するだけでよい」とジルベール・アシュカルは語る。「ムスリムの無知」ビデオに対する暴力的抗議に加わっている人々は、ビデオ制作者集団が自分たちの挑発の結果として望んでいるまさにそのことを行っているのだ、とアシュカルは考えている。彼は、イスラム憎悪の偏見に満ちたメディア媒体を強く非難する一方で、神への冒涜(ぼうとく)の名の下に、自由な言論を奪おうとするいかなる試みをも退ける。彼は、『インターナショナル・ビューポイント』パキスタン版のオンライン上で、ファルーク・スレリアによるインタビューに答えて、「宗教を批判する自由」は、自由な表現の権利の決定的な試金石である、と述べている。

主犯は依然と
して世界の大国
――あなたの著書『野蛮の衝突』(邦訳作品社刊)が「九・一一」直後に刊行されてから一〇年経った今日、事態はよりいっそう悪化しているように思われる。余り知られていない新聞紙上の風刺画、幼稚なビデオなどあらゆるものが「文明の衝突」に見せかけた「野蛮の衝突」の引き金となり得る。ビデオ「ムスリムの無知」に対してイスラム世界各地で現在進行している抗議の波をあなたはどう分析するのか?

 私が分析した「野蛮の衝突」をそのような事件の眼鏡を通して見るのではなくて、むしろ、グアンタナモの収容所、イラク侵攻、イラクのアル・グレイブ刑務所での拷問、米国が超法規的殺人にますます頻繁に訴えるようになっていることといった今回よりもはるかに深刻な諸問題を通してみるべきだ。そうした出来事は文明化過程の後退を表している。
 イスラム世界に見出されるそれに対する反発として起こっている「野蛮」は、主としてアルカイダや(どのような傘のもとであろうと)タリバンなどの他のウルトラ原理主義的諸潮流によって体現されているのであり、それは、最近の一連のデモに比べるならば、たとえば、イラクにおける終りなきセクト間の悲惨な殺し合いのような、そうしたデモよりもはるかに深刻な出来事の中にはっきりと示されている。
 以上のような対立し合う「野蛮」は互いに相手から栄養を得て生きている。もちろん、主犯はいぜんとして最強力であり続けている世界の大国である。すなわち、西側とロシアであり、これら大国がまず何よりも有害な「野蛮」のこの発展力学を作り出しているのだ。

西側のダブル
スタンダード
――パキスタンでは、少なくとも、基調となっている言い方は、言論の自由が問題となる場合には、西側とりわけアメリカの欺瞞を指摘しようとするものである。西側は「ホロコーストの否認を犯罪としている」のであるから、西側も無制限に言論の自由を認めているわけではないという点が共通して繰返し指摘されるのである。この点はどうだろうか?
 まず最初に事実をありのままに言っておこう。ホロコーストを否認することは、西側の一部の諸国においてのみ罰せられるべき法律違反に過ぎないのであって、西側のすべての諸国において罰せられるわけではない。アメリカ自身では、それは処罰の対象とはならない。ホロコーストを否定する者がアメリカでは自らの愚劣な著作を自由に出版している。この事実は、ホロコースト否認の禁止をアメリカに反論する論拠として持ち出しているすべての人々によって無視されているのだ。
 実を言えば、アメリカを除くすべての西側では人に対する憎悪を煽る言論に反対する法律が存在している。アメリカでは、合衆国憲法修正条項修正第一条は言論の自由に対するいかなる制限をも禁じている。この原則を弁護するために、アメリカの最高裁は、一九七七年に、村民のかなりの割合がナチの強制収容所の生存者で占められているスコーキー村を通るアメリカのナチ党のデモ行進の権利を認めた。とりわけ九・一一の後とその後のイスラム憎悪の高まりの中でアメリカでイスラム系の人々に対する権利の侵害があったのは事実である。だが、法律によってそれに反撃することはいぜんとして常に可能であり、市民権運動がそのような問題について活発に活動している。
 ヨーロッパでは、もしあなたがそのような憎悪発言の犠牲になっていると感じたなら、法的措置に訴えることができる。西側のダブルスタンダードの問題は常に生じている。それは、イスラム憎悪の発言をすることに比べると、反ユダヤ人的、反ユダヤ主義的な発言を公然と主張することの方がはるかにずっと困難であるという形で現れているのである。この事態は二つの要因によるものである。第一の要因は、第二次世界大戦中に多くのヨーロッパ諸国との共犯のもとにナチス・ドイツによって犯されたユダヤ人大量虐殺に対するヨーロッパの罪悪感である。


イスラエル批判
と反ユダヤ主義
 第二の原因は、ヨーロッパには強力なユダヤ人諸機関が存在するということである。これらの機関は、自分たちが反ユダヤ主義だと信じるいかなる暗示的表現に対しても警戒怠りなく反応するのであるが、それはしばしばイスラエル批判を反ユダヤ主義と同一視することによって、乱用されている。これらの機関は強力だが、それはどのように反応しているかに注意すべきである。かえって反ユダヤ主義を実際には強めることになるような暴力的なデモを展開することによってではなく、合法的な手続きを行い、論文を発表するなどの方法によってである。ときとしてこれらの機関は、イスラエル国家やシオニズム批判を反ユダヤ主義だと非難するぞと脅迫することによって、知的テロリズムと呼ぶことができるような手段に訴えることもある。
 そうは言っても、西側では反ユダヤ主義の表現にはそれほど寛容でないのであるから表現の自由が反イスラムの方向にバイアスがかかっていると言っている人々は、西側では圧倒的多数派の宗教がユダヤ教ではなくて、キリスト教であるという点を忘れている。西洋人は、ローマ法王やイエス・キリストや神さえをも報復を恐れることなく自由に風刺することができる。西側における主要芸術作品や文芸作品の一部は、イスラム世界でイスラムに対してはなし得るとはおよそ想像できないようなやり方でキリスト教や宗教全般を風刺している。
 反宗教的作品に対して時々暴力に訴えている一部のキリスト教原理主義グループが存在していることは事実である。だが、それはごく少数の存在にすぎない。こうしたグループの暴力は法によって罰せられ、今日宗教の名において今日展開されているようなレベルに達することはけっしてない。このようなレベルに匹敵するのは、パレスチナにおけるユダヤ教原理主義の入植者による暴力だけである。さらに、われわれは次の点をも忘れるべきではない。すなわち、西側における表現の自由は、とりわけイギリス国内では、われわれが今議論の対象としているような挑発的行動をおこなっている人々が享受できる権利に比べて、ムスリム諸国での抑圧を逃れて亡命を求めたさまざまなイスラム原理主義者にとってはるかに有利である、と。
 アメリカでのビデオやフランスでの風刺画などの象徴的暴力に憤激する人は誰であれ、同じようなやり方の象徴的暴力や平和的デモで反撃すべきである。物理的暴力によってではなくだ。象徴的行為に対して物理的暴力に訴えることは、知的弱さを表している。あなたは、タリバーンがバーミヤンでいかに巨大な仏像を破壊したのかを覚えているだろう。これらの仏像群は世界遺産の遺跡であった。仏教徒たちは暴力的にそれに対して反撃しただろうか? エジプトとナイジェリアで、ここ数ヶ月、キリスト教徒と教会は、繰り返し流血の攻撃を受けて来た。われわれはキリスト教徒によるイスラム教国に対する世界的規模の報復の暴力的デモを目撃しただろうか? 人々は、キリスト教徒に対する攻撃を展開している偏狭で一方的な少数派と一般のムスリム住民との違いを正しく識別している。イスラム教徒もまた、西側諸国にいる暴力的なイスラム憎悪の偏狭な少数派が、極少数派であり、イスラム諸国における暴力的なイスラム原理主義の偏狭な少数派に比べてもずっと少ないということを認識している。


映画の制作者は
愚劣な挑発者
 映画「ムスリムの無知」や変わり者テリー・ジョーンズによるコーランの焼却のような愚劣な挑発は無視するのが最良である。それらは余りにも愚劣なのでおよそ反撃するに値しない代物である。このような挑発者に対してわれわれが提供する最大限のサービスは、その挑発に対して乱暴な反撃を展開することである。扇動者は、呼びかけ対象とする集団の感情をかきたてることができた場合に成功をおさめる。たとえば、一部の人々は、フランスにおいてホロコーストを否定する言動を禁止しているのが逆効果になっていると主張しているが、それは正しい。その禁止があるおかげで、フランスのホロコースト否定論者はフランスでは非常に有名になっているが、それに対してアメリカのホロコースト否定論者をアメリカでは誰も知らないのである。もしテリー・ジョーンズの忌まわしい愚行に対して誰も反応しなかったとしたら、世の中の数多くの反イスラムの発言と同様に、それは知られないままにとどまっていたことだろう。誰も彼に注意を払わなかったとしたら、彼はこのひどい茶番劇を演じていなかったであろう。これらの偏狭な連中はイスラム憎悪をかきたてることを使命としている。われわれが現在目撃しているような、暴力的にそれに反撃しているイスラム政治勢力は、自分たちの抗議の対象である反イスラム勢力それ自身を実際には強化することになっている。
 もちろん、サルマン・ラシュディのような作品はそれとは異なったカテゴリに属している。それをがらくたとして片付けてしまうことはできない。彼は現代の主要作家である。しかしながら、彼の『悪魔の詩』は西側では自由に出版されているキリスト教に対する風刺に比べても、あるいはユダヤ教に対する風刺文学に比べてさえも、この点では実際にまったく無害なのである。


一部の政治勢力が
その出来事を利用
――ラシュディ事件以降、デンマークの風刺画やゲート・ワイルダーズの映画があり、そして今日のアメリカで制作された映画と、その度にわれわれは激しい大衆的な反応に遭遇することになる。これはなぜなのだろう?

 事態は、まったく明白に、ラシュディ事件の場合に(イランの)ホメイニがしたように、一部の政治勢力がそのような出来事を利用して自分たちの大義のための煽動を行っているということである。反イスラムの映画に反対している大部分のデモ参加者が映画を観たことがないのと同様に、ホメイニもサルマン・ラシュディの本などまったく読んだことはない。これもまた同じ筋書きなのである。一部の政治勢力が自身の政治的問題を強引に論議の的にするためにそのような機会を利用して政治的に無知な民衆の素朴な感情を煽動しているのである。原理主義勢力は常にそのような機会を捉えてきた。このようにして原理主義勢力は自身の影響力を作り上げていくのである。

宗教的デマゴギー
に対し屈服するな
――パキスタンでは、政府やイスラム派や主流マスコミによって撒き散らされている共通した考え方は、神への冒涜(ぼうとく)を禁じる世界的規模の国連の法的規制を要求している。この要求についてはどう思うか?

 私はそれには百パーセント反対だ。神への冒涜という考えは中世の考えだ。そのような要求をしている人々はわれわれを中世の時代に戻したいと思っているのである。もし宗教への批判を禁じたいと望むのであれば、すべての宗教に対する批判を禁止しなければならなくなるだろう。神への冒涜の禁止を実施するためには、何世紀にもわたって蓄積されてきた、もちろんアラビア語をも含むすべての言語で書かれた膨大な数の文学、芸術、哲学の作品を禁じなければならなくなるだろう。そうした作品は現在アラブ世界では禁止されているが、これはこの地域で表現の自由が欠如していることを証明している。
 宗教を批判する自由は、自由な表現の権利の決定的な試金石である。社会がこの自由を認めないかぎり、その社会は表現の自由を実現していないことになる。愚劣な挑発に対してなされている暴力的な反撃に対して反対する声を挙げることは、民主的自由の実現を目指すすべての人の責務である。宗教的デマゴギーに対する屈服はあらゆるレベルでの巨大な代償を必ずや伴うことになるだろう。自由な言論のこのような制限過程がひとたび作動し始めると、それには制限がなくなるだろう。何が神の冒涜で何がそうでないかを誰が決定するのだろうか?

原理主義者の
反動的政治利用
――パキスタンのデモ参加者は、富(銀行、車、ATM)や西側文化(映画館、劇場)の象徴を攻撃対象にしていた。イスラム世界のこれらの暴力的行動を西側世界とイスラム世界とのより広範な政治的対立の一環であるとみなしている人たちもいる。これについてのあなたの意見は?

 私はその見解には同意しない。人々が自分たちの生活に対する社会的、経済的攻撃に反対したり西側大国によってなされている実際の殺戮や大量虐殺や侵略や占領やパレスチナへのシオニスト占領に抗議する場合に、一定の状況のもとでの暴力は理解し得る。それでもやはり、実際のところ、西側大国やシオニストによって犯された多くの実際の大量虐殺がそれに匹敵するような暴力的反撃をもたらさなかったというのが事実なのである。本当のところは、現在示されている暴力はとりわけ原理主義者たちによってまったく反動的な目的の挑発のための政治的利用である、ということなのだ。

今こそ国家から
宗教を分離せよ
――大部分のイスラム諸国の左翼は小さな勢力で、このような危機の際には奇妙な状況にしばしば陥ることがある。たとえばパキスタンでは、左翼は人種差別主義的な挑発を非難する一方で、宗教に関する自由な言論の制限を訴えている。この態度についてどう思うか?

 われわれは長年にわたる左翼の破綻の結果を受けて、今日、国家からの宗教の分離という非宗教性の基本的要求を提起している。思想信条、宗教、無宗教の自由を含む非宗教性は、民主主義の初歩的条件である。したがって、それは左翼のプロジェクトであるばかりでなく、すべての民主的プロジェクトの中の初歩的一翼となるべきである。しかし、世界の中のこのアラブ地域の左翼の大部分は、この問題について屈服している。たとえば、エジプトでは、急進的左翼を含む左翼の広範な部分が自分たちの使う言葉から非宗教性という用語をほとんど取り下げてしまっている。皮肉なことに、「イスラム主義者」であるトルコのエルドアン首相がエジプトを訪問した時、彼は、非宗教性の立場に立つと公然と語って、エジプトのムスリム同胞団をくやしがらせた。
 もし左翼がイスラム勢力のヘゲモニーに挑戦し、政治、社会、文化の分野でそれに対抗するヘゲモニーを形成する運動を発展させたいと望むのなら、非宗教性を支持するとともにジェンダー抑圧に反対して断固として闘わなければならない。ジェンダー抑圧は、左翼の多くの人々もまた信者の「感情を傷つける」ことを恐れて避けてしまっているもうひとつの闘いの分野である。これはひとつの自衛戦略である。

▲ジルベール・アシュカルは、レバノンで育ち、現在はSOAS(ロンドン大学東洋・アフリカ学院)の政治学の講師を務めている。彼の著作のひとつは、『野蛮の衝突』(作品社)であるが、増補改定されたその第二版が二〇〇六年に刊行されている。その他にも、『中東をめぐるノーム・チョムスキーとの対談』、『危険な権力』、『中東とアメリカの外交政策』(二〇〇八年に第二版)、最新の著作は『アラブとホロコースト:物語 アラブ=イスラエル戦争』(二〇一〇年)である。アラブの春を分析した次の著作が二〇一三年春に刊行予定である。

▲ファルーク・スレリアは、著名な急進的ジャーナリストであり、パキスタン労働党の指導的メンバーである。彼はパキスタン労働党のブックレット『政治的イスラムの台頭』の著者であり、タリク・アリ著『原理主義の衝突』のウルドゥー語版の翻訳者でもある。

 


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