学 習
アジ連公開講座:「資本論」で読み解く危機と失業(下)
活動家自身の集団的課題だ
森田成也(資本論研究) |
以上、「生産的資本蓄積論」の三つの理論的基軸を中心にすれば、生産過程の限界内で相対的過剰人口の発生がかなり説得的に論証されている。しかし、そこにはなお限界がある。そこで次に、『資本論』第1巻における理論的・歴史的限界を越えて、相対的過剰人口の発生論についてもう少し踏み込んで考察しておこう。
有機的構成の高
度化に伴う剰余
価値率上昇問題
まず第一は、有機的構成の高度化に伴って普通は剰余価値率が上昇するのに、『資本論』第1巻の蓄積論ではこの剰余価値率上昇問題が考慮に入れられていないことである。なぜ資本の有機的構成が高度化するかというと、まず客観的過程としては、資本が特別剰余価値を生産するために競争して機械化を進め、労働生産性を上昇させ、生活手段の価値を引き下げ、結果的に労働力価値を引き下げる。また主体的過程としては、より直接に労働者の熟練を解体して彼らの大多数を単純低賃金労働者にするか、あるいは労働者の賃金要求を抑え込むために機械化を進める。どちらの過程においても間接的にか直接的に労働力価値が下がるのだから、これは剰余価値率が上昇することを意味する。したがって、資本の有機的構成が高度化していく過程は同時に剰余価値率が上昇していく過程でもあるということだ。さて、有機的構成の高度化率と剰余価値率の上昇率が同じである場合、他の諸条件が同じならば単位資本あたりの可変資本の絶対量はずっと同じである。
マルクスが剰余価値率の上昇を考慮に入れず、あたかも剰余価値率が一定であるかのように議論を進めているのは問題だ。マルクスが有機的構成の高度化によって剰余価値率の上昇が生じることを知らなかったわけではない。『資本論』第3巻の利潤率の傾向的低下論のところではこの問題についてかなり詳しく論じているし、1巻レベルでも蓄積論以前の部分では言っている。ちなみに、有機的構成の高度化率と剰余価値率の上昇率が同一である場合、利潤率は低下しない。剰余価値率が上昇しても、利潤率が低下するためには、有機的構成の高度化率よりも剰余価値率の上昇率が低いことの証明が別途必要だ。マルクスは、利潤率の傾向的低下論においてもなぜそうであるのかを十分に論証していない。
『資本論』では、どんなに剰余価値率を上昇させたとしても、人間が働ける労働時間には二四時間という絶対的限界があるので、労働者を減らすことによる剰余価値量の減少を剰余価値率の上昇で補填することはいずれ不可能になるという形で説明している。これはたしかに、究極的には不可能になるということの証明にはなっているが、有機的構成の高度化によって可変資本が相対的に減っていくということの一般的論証としては弱い。究極的な場合の想定としてではなく、有機的構成の高度化率より剰余価値率の上昇率のほうが総じて低いことの論証が別途必要であろう。 投資率の問題
と過剰蓄積
二つ目は投資率の問題である。『資本論』1巻の蓄積論では、剰余価値から資本家の個人的消費用支出を引いた分(蓄積元本)がすべて次期の生産的投資に回ることが前提されている。つまり、ここでは過剰蓄積の問題が無視されている。その時の市場の利潤率が低いがゆえに、あるいは投資しても平均利潤率が稼げないと予期されるときに、資本家は蓄積元本を次期投資には回さず、内部留保しておく、あるいは投機資本にするということがある。この状態を過剰蓄積という。
これは景気循環の不況期には一般に起こることであるが、ここで問題になっているのは、景気循環の一局面で起こる循環的過剰蓄積ではなく、その循環の波を通して持続的に存在する構造的過剰蓄積である。『しんぶん赤旗』などで、企業の巨額の内部留保が問題にされている。この「内部留保」の中味はいろいろと複雑なので、単純に全部が過剰蓄積によるだぶついた資本(過剰資本)というわけではないが、それでもそのかなりの部分は必ずしも次期投資に回らない過剰資本である。
この過剰蓄積問題を入れてくると、相対的過剰人口の発生がよりリアルに解ける。マルクスの想定では、どんどん蓄積されていったものが、個人消費用の支出を除いて次期投資に回り、したがってその一部が可変資本に回ることになっている。そうすると可変資本の絶対的規模は、有機的構成の高度化にもかかわらず、かなり増大していくことになる。しかし、当面する生産利潤率が資本家の目から見て十分高くない場合、資本家は蓄積元本を次期投資には回さず、内部に留保する。労働者を雇える絶対額の資本が存在するにもかかわらず、それを生産的投資に、したがって可変資本に回さないことで失業が生じるのである。これはまさに相対的な過剰人口の発生である。手持ちの資金を少し取り崩せば、現在の失業者を救えるのに、十分な利潤が稼げないという理由だけでそれをしようとしない。『資本論』の第1巻ではこの過剰蓄積の問題は出てこず、第3巻になって初めて登場する。しかしこれは、相対的過剰人口問題と不可分に結びついているので、第1巻レベルでも論じておくべきだった。
ちなみにこの問題は今日の金融資本主義と深く結びついている。手持ちの蓄積元本を生産・サービス部門に投資しないと、雇用労働者にお金が回らない。ところが生産・サービス部門に投資しても、利潤率が低い、物があまり売れない、あるいはまた利潤として返ってくるのに、あまりにも時間がかかりすぎるという問題がある。資本は無限に自己増殖する価値であり、できるだけ多くの、できるだけ速やかな自己増殖こそが資本の本質であり、その規定的目的と推進動機である。生産はそのための単なる一手段、やむをえない回り道にすぎない。ところが金融市場、投機市場に投資すれば、あっというまに利子やキャピタルゲインを獲得することができる。産業資本として生産に投じるよりも、金融市場に投じるほうが、よっぽど短期かつ確実に(金融市場が膨張し続けているかぎり)資本の自己増殖という使命を果たせる。これがまさに過剰蓄積による金融資本化というメカニズムである。 信用の問題
第一巻のレベルをもっと超えてしまうのが、三つ目の契機である「信用の問題」である。これは、先の「投資率の問題」とは逆に、生産的投資によって獲得された剰余価値を上回る資金が信用によって獲得でき、したがってそれが生産的投資に回されるなら、有機的構成の高度化による可変資本部分が相対的に縮小しても、可変資本の総量を、有機的構成の高度化以前よりも増大させることさえできる。
これは表面的に見ると相対的過剰人口の発生を説明する要因ではないように見える。むしろその逆であるように見える。しかし、これは実は相対的過剰人口の発生メカニズムを理解する上で決定的に重要な要因なのである。なぜ資本の有機的構成が高度化しているのに、すぐに失業者が溢れないのか? 逆に大量の労働者を雇うような資本の拡張力はどこから生じてくるのか。この問題に一つの回答を与えるのが信用である。資本主義の発展とともに資本の有機的構成が高度化して、ただ可変資本が相対的に縮小していくだけなら、剰余価値を生み出すのは可変資本だけであるから、資本の蓄積力は相対的にしだいに弱くなっていくということになるだろう。またどんどん資本主義が発展すればするほど、ただ一方的に労働者の力が弱くなり、機械的に失業者が増えていくだけになるだろう。しかし現実の資本主義はそんなことにはなっていない。むしろ資本主義が発展する時には、大規模な機械化と平行して、労働者の大量雇用、大量出現が進むのである。
このパラドックスを解く一つの鍵が信用にある。今、生産的に投資すれば非常に儲かる時期だと判断されれば、資本は信用を通じて大規模に資金を調達するから(あるいは銀行も積極的に貸付しようとするから)、一方で有機的構成を高度化させるのに必要な資金(大規模固定資本に向かう資本)を獲得すると同時に、他方では大量に労働者を雇うことを可能にするような資金をも獲得するのである。
たとえば日本の大企業は高度経済成長期にものすごい設備投資を行なった。設備投資は不変固定資本だから、それは有機的構成の高度化をもたらす。だったら高度成長期の日本は、絶えず失業者で溢れかえっていたかというとそうではなかった。逆に農村から都市部への大規模の人口移動があり、資本蓄積も労働者の絶対数も急速に進展した。当時の大企業は系列の大銀行からオーバーローンを通じてたくさんのおカネを借りて、総量としての資金を増やした。有機的構成は高度化しているが、労働者を雇う力は衰えるのではなく、逆に増していた。したがって労働者が大量に雇われ、剰余価値を大規模に生産して、それらが次の蓄積資金に回るという好循環が発生したのである。
これがまさに、有機的構成の高度化にもかかわらず、なぜ労働者が急速に増大するのかを説明する。そのことによって、先に述べたようにプロレタリア人口が外延的にも内包的にも急速に拡大する局面が発生するのであり、農村住民だけでなく、女性や子ども、外国人労働者も大量に動員されるわけである。
ところが、この過程は永遠ではない。ある一定の時点で潜在的に過剰蓄積が進み、市場が飽和状態にいたり、利潤率が低下しはじめる。そうなると今度は信用が収縮しはじめ、生産が縮小するという反転過程が発生する。それまで信用拡張で雇用されていた人々が仕事を失う。いったんプロレタリア化した人々が今度は過剰人口へと投げ込まれる。そもそも、労働者を大量に雇い入れる過程がなければ過剰人口も増大しない。農民や自営業者がプロレタリアにならず、自立したままであれば、そもそも彼らは相対的過剰人口に入ってはこない。この層がプロレタリア化するためには、資本が既存のプロレタリア層だけでは蓄積が進まないような大規模な拡張過程が必要なのであり、そのような爆発的拡張力を作り出すのが信用なのである。しかし、その後、状況が変われば信用が収縮し、生産が収縮する。いったんプロレタリアとなった農民、自営業者は、もはや元の仕事には戻れない、あるいは部分的にしか戻れない。これらの人々が過剰人口となるのである。
『資本論』1巻には実を言うとこうした信用の問題にも触れられているのだが、その取り上げ方は弱い。信用そのものについて論じるのが『資本論』第3巻の範囲であったということが原因している。しかし、それでも相対的過剰人口問題を論じる上で信用問題は決定的なのであり、1巻の範囲内でもより積極的に信用問題について論じるべきだったろう。もしマルクスがもっと長生きして資本蓄積論をその後書き直したとすれば、信用問題をもっと強調したのではないか。
以上、『資本論』第1巻のレベルを超える3つの問題を取り上げ、それらが相対的過剰人口問題を理解する上で決定的に重要であることを明らかにした。『資本論』で論じられている3つの基軸とこの3つの追加的問題を総合することで、相対的過剰人口問題をより説得的に解くことができるだろう。 結語として
最後に『資本論』から読み解くということの意味について再度強調しておきたい。現代の諸問題に対する出来合いの答えを『資本論』に探すのではなくて、もちろんヒントになるものはたくさん書いてあるけれども、むしろわれわれは現代の問題を見て『資本論』に足りないもの、あるいは萌芽的なものはあるが十分には展開されていない部分を見つけ出して、それを『資本論』の精神、マルクスの精神にのっとって理論そのものを発展させていくことが必要である。
だから『資本論』から現実を読み解く過程と、現実から『資本論』を読み解き発展させる過程という相互循環、絶え間ないフィードバック作業が必要なのだ。そもそも『資本論』は一五〇年前の著作である。もしそれが聖書でも教典ではなく、科学の書ならば、一五〇年分の理論的発展が本来はなければならない。しかしその作業はほとんどされてこなかった。正しい解釈はもちろん必要だが、解釈だけで終わらせるのは問題である。
そして『資本論』そのものの理論的発展は一部の学者、研究者だけの課題ではなく、現実の変革に取り組んでいるすべての活動家、運動家の集団的課題でもある。『資本論』は、ブルジョア経済学と違って高度な数式などを使っていない。今の経済学は数式だらけで、物理学の教科書だか何だかわからない。しかし、『資本論』はそうではない。それは多くの労働者や市民が直面する具体的な諸問題と格闘しており、闘いの武器、変革の武器たらんとしている経済学の書である。そうした観点から多くの活動家に『資本論』を研究し、積極的に発展させてほしい。 (了)
全国の教育労働者が集会・デモ
「君が代」条例はいらない
大阪府庁に抗議の声響く
【大阪】八月二二日、全学労組(全国学校労働者組合連絡会)主催の「君が代」条例撤廃、「君が代」不起立処分条例阻止を掲げた決起集会とデモが行われ、大阪府庁「『君が代』条例はいらない!」「橋下もいらない!」のシュプレヒコールが浴びせられた。
教育労働者の独立系組合が組織している全学労組は、二一日から二日間、エルおおさかを会場に「全国学校労働者交流集会」を開催していた。その交流集会に参加した組合員を中心に、約一〇〇人が大阪城公園教育塔前広場に集まり、橋下知事の「君が代」強制条例および教職員処分条例に反対する決起集会を行ったのである。
教育・自治体
リストラやめろ
二二日の新聞各紙は、橋下知事の私党・大阪維新の会が「教育基本条例案」「職員基本条例案」の九月大阪府議会、大阪市議会への提出を決めたことを大きく報じていた。この二つの条例案は、単に「君が代」不起立教職員への免職という処分ルール化にとどまらず、教育内容をも含めた教育行政のあり方を橋下知事と大阪維新の会の政策の下請け化するものであり、同時に公務員の整理解雇の明文化を含めて、公務員労働者への全面的なリストラ、競争原理に基づく排除の論理に貫かれたものとなっている。集会では、こうした条例案の成立阻止の大きな運動を大阪と全国で作り上げていくことが確認された。
炎天下で始まった集会では、まず最初に全学労組を代表して、吉田晃代表世話人(千葉学校合同委員長)が、全国から力を結集して、橋下知事の「教育基本条例案」「職員基本条例案」を阻止しようと呼びかけた。
続いて、「日の丸・君が代」強制反対ホットライン大阪事務局員でもある大阪教育合同労組の寺本勉執行委員から大阪府議会での動きなど現状分析やこれまでのホットライン大阪の闘いが報告され、あわせて9・24「君が代」条例はいらない!全国集会への結集と緊急署名活動への協力が訴えられた。
さらに、大阪全労協の石田俊幸議長と全国学校事務労働組合連絡会議(全学労連)の銅(あかがね)則夫副議長(大阪学校事務労働組合委員長)が連帯のあいさつを行った。教育塔を考える会の吉田文枝さんからは、「教育の靖国」としての教育塔・教育祭批判があり、全学労組の増田賢治・前代表世話人から全学労組が大阪府へ申し入れを行ったことについて報告が行われた後、最後に大阪教育合同労組の竹林隆書記長が決意表明を行い、集会を終えた。
参加者は、手に手に「君が代」強制条例反対!と書かれた大阪教育合同労組制作のうちわを掲げながらデモに移った。大阪府庁前から出発したデモ隊は、一〇数本の組合旗を先頭に、府庁周辺の官庁街をデモ行進した。「君が代条例はいらない!」「橋下もいらない!」というシュプレヒコールが府庁や府教委に向けて浴びせられ、道行く人々の注目を集めた。解散地点でも再度、府庁に向けたシュプレヒコールが行われ、この日の行動を終えた。
橋下知事と大阪維新の会が大阪府議会、大阪市議会に提出しようとしている「教育基本条例案」「職員基本条例案」は、まさに大阪都=関西州構想に向けた教育リストラ、自治体リストラを目指そうとするものであり、何としても阻止する必要がある。そのための今までの枠を超えた広範な闘いの陣形が何より求められており、大阪府議会内の力関係を外から揺さぶるような大衆運動を作り上げていかなければならない。(O)
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