もどる

    かけはし2011.7.4号

われわれは一切払わない

チュニジア

若きフェミニストたちへのインタビュー

日常的課題での幅広い運動で
女性にエネルギーを与えたい

 以下に紹介するのは、チュニジア第二の都市で活動する若い女性三人に対するインタビュー。これらの女性たちは、革命前から非合法活動を続けて来た若き左翼の活動家である。とりわけチュニジア、エジプトに代表される今回のアラブの民衆蜂起の重要な担い手は、こうした若い左翼活動家、労働者活動家である。チュニジアでも、男女を問わず全国的に若い左翼活動家層が、革命前の非合法活動のもとで形成され、それがジャスミン革命の勝利の後、さらに若者の覚醒をもたらし、勢いを増しているものと思われる。
 また、このインタビューの中で示されているベール着用問題についての彼女たちの見解は、フランス国内で学校での女生徒のベール着用禁止を支持するフランスの一部の左翼や一部のフェミニストの主張に対するチュニジア女性活動からの重要な反論とみなすことができるだろう。(「かけはし」編集部)

 チュニジア第二の都市、スファックスで、チュニジア労働者共産党(PCOT)のメンバーである若い女性たちが、女性団体、「出会い」の結成を望んでいる。
 それぞれネディア、アッザ、ヴィームという名の彼女たちを中心に活発に活動するまったく若い女性のグループが存在する。その最も若い女性は、一七歳の高校生である。最初に語ったのはこの一七歳の高校生だったが、その後、答が入れ替わり立ち代わり次々と爆発するように飛び出した。

他の左翼政党と
共に選挙準備へ


――どうしてあなた方はチュニジア労働者共産党(PCOT)に入党するようになったのでしょう? 家族の活動の伝統なのでしょうか?

? 私は革命前にPCOTに入党した。共産主義の目的にひかれたからだ。レーニンとカール・マルクスをすでに読んでいた。私は、PCOTの一人の女性同志に出会ったが、彼女が私に入党したらどうかと勧め、われわれは非合法で活動していた。私はブルジョア的家族の出身である。父は活動に反対しているし、とりわけ共産主義に反対である。人民に近い党がよいということを私は知ったのだ。
? 私は今失業中だ。大学生だった。三年間英語を勉強した。一年前にPCOTに入った。PCOTはチュニジア学生総連合(UGET)の中で活発に活動している。
? 私の家族も左翼ではなく、むしろ「ブルジョア」家庭だ。

――あなた方の見解によれば、PCOTと、フランス反資本主義新党(NPA)とのつながりがある労働者左翼同盟(LGO)との間には、どのような違いがあるのでしょうか?

? われわれはLGOのパンフレットを読んでいる。
? 外から見るかぎり、違いは見られない。

――「一月一四日戦線」(戦線については「かけはし」二〇一一年二月一四日号のインタビュー記事参照)を構成する左翼政党は(七月二四日に予定されているが、もっと後の時期後に延期される可能性がある)選挙に向けていっしょに活動するのだろうか?

? 当面、すべての人が選挙の実施という考えを擁護したいと考えている。というのも、革命前はわれわれは非合法だったからだ。しかし、われわれは選挙の実施を後の時期に延期したいと願っている。というのも、選挙を準備するだけの十分な時間がわれわれにはないからだ。われわれは他の左翼政党といっしょに活動している。

女性には固有
の要求がある


――チュニジアで若い女性が政治活動をするのは困難でしょうか?

? 以前はすべての人にとって政治活動をすることはとても困難だったが、とりわけ女性にとってはそうであった。伝統、宗教、家族のせいである。しかしながら、革命には宗教問題は出て来ていない。
? ともかく最初はそうだった。だが、今や事態はイスラム主義運動の「エンハッダ」のために変わった。この運動は、われわれを、反宗教的であり、人々を無神論に改宗させたがっているとして、非難している。
? われわれは非宗教性(宗教と国家との分離)を支持しているが、われわれの側が宗教に対して問題を起こしているわけではない。各人は信仰の自由をもつべきである。PCOTには、スカーフを被っている女性がいる。スカーフを被っている人もPCOTを代表することができる。そのことで問題を生じさせてはならない。宗教にもとづいて人々を選別することはできない。党は大衆的なものでなければならない。

――女性にとっては宗教とベールの意味がある……。

? ベールを被っている女性たちはベールを被ることを選んだにすぎない。それを強制的に脱がすことはできない。私はベールに反対だ。だが、各人は自由だ。
? 私たちにはベールを被っている同志がいる。私はそうした女性同志を尊重すべきだ。ベールを被っているこれらの女性たちは男女の平等を同時に擁護している。一部の同志たちは、われわれはベールを被っていているがPCOTの党員であることを誇りに思っているとさえ言っている。
? 髪しか隠さないのがベールであり、それはニカブではないのだ。ニカブについてはすべての人が反対だ(一同、爆笑)。

――あなたたちは自分をフェミニストとみなしているのか?

? もちろん、大いにフェミニストだ。
? われわれは不平等に反対して男性と共に闘っているが、女性にとって固有の要求が存在する。女性たちが団結すべきだ。いくつかの権利は認められていない。法は不十分かあるいは適用されていないかだ。たとえば、遺産相続権がそうだ。この点では女性は男性の半分の価値だということになるのだ! 産休はまったく不十分だ。
C 賃金も同じ職でも平等ではない。職業に就ける可能性も男女間では異なる。
A それに、肉体的、性的な攻撃がある。われわれは同時に堕胎の権利を要求している。チュニジアでは、しばしば、女性は存在のない隠されたものにとどまっている。女性たちが政治生活に参加し、集会を行い、夜間に外出し、旅行したりすることが認められることは容易ではない。反対に、農村では、女性は労働の場では男性とより平等である。そして、夫が都市で働いていることも多い。

――チュニジアにはフェミニストの運動は存在するのか?

? チュニジア民主女性協会(ATFD)が存在している。だが、われわれはそれに入ってはいない。AFTDは、女性が男性の半分の財産しか継承できないということに反対し、遺産相続の平等のために闘っている。
? われわれの構想はスファックスでフェミニスト団体を結成することである。ATFDは、たとえいつもイスラム主義者や警察から攻撃されたり、叩かれたりしているとしても、とりわけより知的な階層の人々に呼びかけている。われわれは、民衆の中の女性のもとで、日常的課題で、たとえば、乳がんと関係するような課題で、活動したいのだ。われわれは、働いている女性も働いていない女性もあらゆる種類の女性を団結させたいと思っている。
? 女性のもとに接近するには段階が必要だ。たとえ食事の支度やレシピーについてであっても、日常生活に関心を寄せたいと考えている。

――結成を考えているのは、PCOTと結びついたフェミニスト運動かそれともそれよりももっと広いフェミニスト運動なのか?

? 広い運動だ。われわれは、そこにはすべての人が、すべての左翼が、非政治的な女性さえ、参加することを望んでいる。われわれの目的は、チュニジア民衆の中の女性にエネルギーを与えることである。
? 自由な運動を作らなければならない。
? われわれは、PCOTだけでこのプロジェクトを開始するようなことは望んでいない。そんなことはまったく望んでいない。だが、LGOや民主愛国派などすべての人とともに進めたいのだ。有効なものになることを目指さなければならない。(仏NPA機関紙「トゥテタヌー」二〇一一年六月九日号)

 

映画紹介

フィンランドのドキュメンタリー映画
『 一〇〇、〇〇〇年後の安全 』

未来の人類へのメッセージ


 現在全国で上映されているこの映画、五月九日の毎日新聞によると、宣伝なしの緊急公開(上映開始は四月二日)だけど、連日満員の盛況だという。一八億年前の地層につくられる世界で唯一の高レベル放射性廃棄物の最終処分場オンカロに初めてカメラが入ったドキュメンタリー映画である。森と湖の国フィンランドの映画である。私は知らなかったが、NHKで今年二月に紹介されようだ。
 
オンカロ:当地
語で隠し場所
 オンカロの建設地がフィンランドのオルキルオト島に選定されたのは二〇〇一年五月のこと。エネルギーをロシアに依存しているフィンランドにとって原発は安全保障上の選択であり、核廃棄物永久埋蔵は国民合意に達した、と新聞記事は語っている。二〇〇四年、建設に着工し、現在地下四四〇mまでトンネルが掘られており、最終的には五二〇mの深さに達する予定だという。オンカロとは、フィンランド語で「隠し場所」という意味だそうだ。このような処分方法は地層処分と言われる。オンカロは二〇二〇年に運用を開始し、二一二〇年までの一〇〇年間、使用済み核燃料をガラス固化処理し、格納器に入れて埋設処分していく。満杯になったら坑道を埋め完全に封鎖してしまう計画になっている。
 高レベルの放射性廃棄物は最終的にどこに捨てればいいのか。ロケットで宇宙にばらまく、深海の海溝に捨てる、ロケットで太陽に打ち込む。これはいずれも安全上問題がある。そこで考えられた方法だ。しかし安全だというわけではない。とにかくどこかに捨てなければならないからだ。現在のところ、放射能を火を消すように消してしまう方法はない。
映画の題名になっている一〇万年というのは、使用済み核燃料に含まれるプルトニウムは半減期二万四〇〇〇年なので、生物にとって安全なレベルになるまでに少なくとも一〇万年かかることに由来している。映画は、ゆっくりとしたテンポで進んでいく。詩的な自然描写があちこちに登場する。オンカロの地下トンネルをさらに掘り進めるためダイナマイトを仕掛けて爆発させる。そのとき地上の銀世界にたたずむトナカイ(?)が、爆発の音が聞こえたのか、オヤッという顔をして遠くを眺める。印象的なシーンである。
 映画は、放射能の恐さを観客の心にそれとなく深く染みこませていく。このオンカロは埋めて森林の状態に戻し、その後は人の手は加わらない。映画では、自己完結型施設という言葉を使っている。しかも、その場所にオンカロが埋まっていることを子孫代々まで伝えていく。危険だから、掘ったりなどしないように。でも一〇万年後の人類にまでどうやって知らせるか。これを真剣に論議していることに感動した。

未来にいかに
して伝えるか
 過去一〇万年といえばネアンデルタール人が生活していた時代。彼らは今の人類を理解できないだろう。これからの一〇万年の間には、戦争や自然災害もある。氷河期だってあるかも知れない。そもそも現在の人類が存在しているかどうかもわからない。未来の人類は現在使われている文字を理解できるのか。エジプトのオベリスクの小型のような警告標識を立てて、文字よりも絵で伝える方が効果的だ。
 「ここは二一世紀に処分された放射性廃棄物の埋蔵場所です。決して入らないでください。……放射性物質は大変危険です。透明で、においもありません。……地上に戻って我々より良い世界をつくってほしい」。
 そのことを、文字ではなく簡潔に絵で伝える、例えばムンクの絵(恐怖に呆然とし両手で頬を覆う人?の絵)がいいのでは。でも、本当のところは、どうしていいかわからない。一番わからないのは、人類は何をするか予想がつかないということだ。宝が埋まっているといって掘り出すかもわからない。それは大いにありそうなことだ。いっそうのこと、埋蔵の事実そのものを忘れる方がいい。忘れることを忘れるな。
 このような話を、オンカロ建設にかかわった人々がさまざまな観点から真剣に論議をしている。ただただ感動的で喜劇的ですらある。日本という国では(外国でもそうかもしれないが)、重要な事実は隠蔽するという体質が強い。
 映画は、日本という国を映す凸レンズのようだ。原子力にかかわる話は、「安全で、直ちに健康には害がない」ばかりで、隠し通せなくなる度合いに応じて少しずつ事実を認めていく。わからないと思ったら嘘をつく。ばれたら、「ゴメンナサイ」だ。沖縄問題に至っては、ばれてもなお真実を公表しない。民主主義のレベルの低い国だ。映画は、福島原発事故が起きても使用済み核燃料の処理について問題にならない日本の状況に警鐘を鳴らしているように思える。六ヶ所村の再処理工場のことも問題にならなければいけないはずだ。
 
日本の使用済
み核燃料は今
 六ヶ所村には、再処理工場の他、ウラン濃縮工場、低レベル放射性廃棄物埋設センター、高レベル放射性廃棄物埋設センターが併設されていて、核燃料サイクルのための核燃料コンビナートを生成することになっている。再処理工場は〇九年二月試運転が終了し、二〇一〇年本格稼働の予定だったが、一〇年九月になって、さらに二年延期されることになった。完成までの延期は、これで一八回に及ぶ。建設費は、当初予定の二・八倍の二兆一九三〇億円に膨らんでいる。
 原発からでる大量の使用済み核燃料はどうするのか。使用済み核燃料は核分裂しないから安全と思っている人もいるが、そうではない。新燃料に比べ放射能量は一億倍もあり、大量の放射性物質を含んでいる。日本に貯蔵されている使用済み核燃料は二万トンを超えていると思うが、やがて貯蔵プールもパンクしてしまうだろう。原発が停止すれば、連鎖的な「核分裂」は収まるだろうが、放射性物質は核崩壊し熱を出し続ける。
 原子炉で使用された後の燃料は、(六ヶ所村が一杯になるので)原発内にある貯蔵プールで三年〜五年保管されたあと、核燃料サイクルに用いるために再処理工場に送り処理するか、高レベル放射性廃棄物処理場で長期間保管することになっている。しかし、再処理(現在はフランスで)してできたプルトニウム燃料も、もんじゅが運転できないので消費できない。もちろん、もんじゅは普通の原発以上に危険だから、運転させずに廃炉にすべきだ。再処理したプルトニウム燃料が使えないから、ウラン燃料にプルトニウムを混ぜMOX燃料にして、ウラン燃料用に設計された福島第一原発三号機のような原発で使っている。結局、原発は全部停止すべきだが、停止しても高レベル放射性廃棄物処理の問題が最後に残る。これが日本の状況だ。
 
われわれより
良い世界を!
 モンゴルに使用済み核燃料の世界初の国際的な貯蔵・処分施設を建設する計画を米エネルギー省と日本の経済産業省が秘密裏に進めているということが五月九日の新聞で報道された。かつて日本が、自分が出した核のゴミを南太平洋の国に、安全だから捨てさせてくれと言ったが、当然にも断られた。安全なら、東京湾に捨てたらどうか。この当時と同じことをまたモンゴルでやろうとしている。恥ずかしいことだ。金には力があるが、金よりも価値があるものが他にあることを日本の支配層は頭に入れるべきだ。必要なら、自国でやるべきであって、嘘をついてだましてはいけない。
フィンランドは原発を認めている、あるいは認めざるを得ない地政学的事情を抱えている。でも、放射性廃棄物の危険性について、子孫代々のこと、さらには一〇万年後の人類のことまで心配している。「我々より良い世界をつくってほしい」というメッセージがすごくリアルに感じられる。まさに、東日本大震災・福島原発事故を経験したわれわれに向けられたメッセージだ。    (津山時生)

 


もどる

Back