もどる

  結成60周年               「かけはし」1999.2.1号より  

われわれが第4インターナショナルを出発させたのはなぜ正しかったのか

創立大会参加者 チャーリー・ヴァン・ゲルデーレン

 98年は、1938年に第4インターナショナルが結成されて60年にあたっていた。第4インターナショナル各国支部は、危機深める資本主義の新自由主義的政策と対決する労働者の闘いの先頭に立つことを通して、社会主義革命運動の世界的再生をめざす闘いを推し進めている。以下は、98年7月、デンマークで開かれた第4インターナショナルヨーロッパ青年キャンプで行われた創立大会参加者の講演である。

第2次世界大戦の切迫の中で

 「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分の選んだ環境のもとでではなくて、すぐ目の前にある、与えられ、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)。

 1938年9月、私は、第4インターナショナルの南アフリカ組織からのオブザーバーとして第4インターナショナル創立大会に参加するという栄誉にあずかった。
 大会がその歴史的時点で行われたということは偶然ではなかった。第2次世界大戦の開始に先立つこと一年だったが、その脅威はヨーロッパの頭上に薄気味悪い姿を現していた。
 国際労働運動は完全に混乱しており、そのスターリニストと社会民主主義の指導部は来るべき破局に対する労働者階級の抵抗を組織することができなかったし、そうする意思もなかった。彼らは実際、戦争に抵抗するどころか、戦争の熱心な支持に向けて大衆を動員するために精力的に活動していた。
 こうした状況に抗して、その年の9月に30人の代表がパリで会合したのである(しばしば結成大会はスイスで開催されたと述べられてきたが、それは安全上の理由からだった)。
 われわれはブルジョア国家の警察とスターリニスト体制の秘密エージェントであるGPUの双方を恐れる真の理由があった。実際、組織委員会書記のルドルフ・クレメントは大会の前夜に誘拐され、殺害されたのである。
 大会それ自身にも、ロシアの代表として参加していたエチエンヌという名で知られていたGPUのスパイがもぐり込んでいた。彼の本名はマーク・ズヴォロウスキで、巧みに取り入ってトロツキーの息子のセドフの信任を得たのである。
 振り返ってみれば、安全がまったく欠如していたことに私はぞっとしている。パリにはアメリカ支部の青年組織のメンバーがたくさんいるように思われた。彼らはすべて会議が行われていることに気づいており、代議員とともにしばしばカフェを訪れた。
 後にレオン・トロツキーの頭脳にアイスピックを打ち込むことになる、その時はベルギー人のスポーツ・ジャーナリスト、ジャクソンとして知られていた男が、もっぱら楽しい時を過ごすためにパリにいた若いアメリカ人同志のシルビア・アジェロフと関係を結ぶようになったのは、こうした雰囲気の中でであった。
 もちろん彼はGPUのスパイのスペイン人、ラモン・メルカデルだった。私は何度も彼を見た。彼は見たところ政治にはまったく関心がないように思われた。彼は、自由に使えるカネをたくさん持っているようだった。
 世界大戦に導かれていったこの運命的な月日における第2、第3(共産主義)インターナショナル指導部の振る舞いは、1914年における第2インターナショナルのそれよりもさらに臆病なものだった。
 第2インターナショナルのすべての重要な諸党−−ドイツ、フランスの党、そしてイギリス労働党は、ひとたび実際に戦争が勃発するや、それぞれの国の資本家階級と「城内平和」を結んだ。
 しかし1914年8月に敵対関係が始まる以前は、彼らは少なくとも騒ぎ声を立てて、破局の脅威を止めようとしているかのように大衆を欺いたのである。彼らはブリュッセルで会議を行い、労働者を動員するために何ができるかについて討論した−−気が乗っていなかったことは確かであり、完全に確信を抱いていなかったのであるが。
 ノスケとエーベルトは同胞とともに「世界に冠たるドイツ」を歌うために息を殺して待機していた。イギリスでは、ヘンダーソンが戦争内閣に参加するために待機していた。

 しかし1938年9月には、こうした偽善的ジェスチャーさえ失われていた。行動の可能性を討議するための社会主義インターナショナルの書記局会議はなかった。英首相のネヴィル・チェンバレンがミュンヘン協定に調印するためにヒトラー、ムッソリーニ、ダラディエとの会談に向けて出発したとき、労働党の指導者クレメント・アトリーはチェンバレンの「成功」を祈った。
 第3インターナショナルの指導部は、そのより急速な愛国的熱中においてのみ第2インターナショナルの指導部と異なっていた。彼らは、独裁に対する民主主義の聖戦を即時行うよう呼びかけた。
 イギリスでは、共産党はヒトラーに対する即時の宣戦を布告しなかったとしてチェンバレンを非難するデモを組織した。アイルランドにおいてさえ、いわゆる共産主義者は、イギリス民主主義を防衛するためにすべてのよきアイルランド人が結集するよう呼びかけた。
 トロツキーが新しいインターナショナル、第4インターナショナルを呼びかけたのは、2つの現存するインターナショナルには革命的国際主義指導部がまったく存在せず、その指導部が実際には反革命的になったこうした状況においてであった。
 1933年、直近の総選挙で600万票を獲得していた第3インターナショナル最強の支部だったドイツ共産党がヒトラーの権力掌握に対していかなる労働者階級の抵抗も組織できなかった時、トロツキーはすでにコミンテルンは死んだと批判した。
 1200万票以上の支持を得ていた社会民主党は、共産党と同様、一発も撃たずに降伏した。ともに統一戦線を組めば、彼らはヒトラーを阻止することができた。そうなれば戦争も強制収容所もホロコーストもなかっただろう。
 当時の歴史的諸条件は、新しいインターナショナル、全世界の労働者と被抑圧人民の新たな革命的総司令部を強く求めていた。トロツキーに強く促されて、われわれが第4インターナショナルを出発させたのはこうした条件においてであった。

創立大会と「過渡的綱領」

 いま、あれから60年後にわれわれは過去を振り返り、そしてわれわれは正しかったのかと自らに問うことができる。あるいは、その機はまだ熟しておらず、コミンテルンの内部で活動する可能性がなお存在していると考えたアイザック・ドイッチャーのような人が正しかったのか。このような疑問は、われわれの歴史全体を通じてわれわれにはね返ってきている。そして後で私はこうした問題に立ち返る。
 創立大会の主要な課題は、おそらく「過渡的綱領」という名前でよりよく知られている綱領「資本主義の死の苦悶と第4インターナショナルの任務」を採択することだった。
 メキシコに亡命していたトロツキーは創立大会に参加できなかったが、1938年の春に彼は「過渡的綱領」の草案を準備し、それは第4インターナショナルの前身である国際共産主義者同盟の全支部で討議された。
 彼は、その採択が、レーニンの時代以来の革命運動の「最も重要な成果」だと考えていた。おそらくそれはやや大げさな主張だろうが、その重要性を過小評価してはならない。
 「過渡的綱領」の重要性は、文書の衒学的な研究によって判断してはならない。その要求の多くはもはや適切なものとは言えないが、もちろんそれは「共産党宣言」の最後の部分についても言えることである。その歴史的重要性は決して減少してはいない。初めてこの文書に接する人びとは、その多くが依然としていかに新鮮で現代的なものであるかについておそらく驚嘆するだろう。
 この綱領は、それが出された時期の徹底的で完全な分析を行っている。それは国際労働者階級、農民、植民地諸国の貧しく抑圧された人民、ソビエト連邦においてスターリニスト官僚に対して闘っているボルシェビキの革命的中核に向けて提起されており、彼らが直面する生活と闘争のすべての緊急問題に関する即時の行動のための綱領である。
 それは、その過渡的アプローチによって以前の綱領とは異なっている。第2インターナショナルの綱領は、相互に独立した2つの部分に分けられていた。
 最小限綱領は「それ自身をブルジョア社会内部の改良に限定」していた。そして最大限綱領は「不定の未来における社会主義」を約束していた。最小限綱領と最大限綱領を結ぶ架け橋は存在せず、社会主義はメーデー集会でついでのこととして言及されるだけだった。
 同様のアプローチは、「二段階革命」というスターリニストの修正主義理論の背後にあるものである。第一に民主主義のための闘争、それから−−しかしいつのことか?−−社会主義へ。この最近の例は南アフリカである。
 過渡的綱領は、現にある闘争を、今日の労働者階級の具体的意識を、権力の獲得と社会主義へ持っていくものである。それはローザ・ルクセンブルクによって書かれた処方せんに従ったものであった。
 「われわれの全綱領は、それが闘争のあらゆる偶発事やあらゆる瞬間に役立つことができないものであるならば、そしてそれが棚に上げられることによってではなく、実践に付されるということによってわれわれに役立つものでないならば、みじめな一片の反故になってしまうだろう」。
 「もしわれわれの綱領が、資本主義から社会主義にいたる社会の歴史的発展の歴史的定式化であるならば、それはこの発展の過渡的局面をも定式化したものでなければならないことは明らかである」。
 「それゆえまた、どのような瞬間にもプロレタリアートに、社会主義への前進を意図したその場に応じてとるべき態度を、指示できなければならないことも明らかである」。
 「だからいやしくもプロレタリアートにとって、彼らの綱領を見捨てることを余儀なくされ、あるいはその綱領に見放されるという瞬間は存在しえない」(『社会革命か改良か』)。
 ローザ・ルクセンブルクはトロツキーの「過渡的綱領」に賛成していただろう。
 われわれは現在、イギリスでは労働党政権を擁しているが、それはかつて政府与党が保持していた議席の中で最大の多数を持っている。フランスでは、いわゆる社会主義政権を持っている。しかし彼らは社会主義に向かって前進するどころか、いまなお残存している国有企業を解体することに必死となっており、彼らの前任者であった右派政権よりも躍起になって「自由市場」を採用している。彼らは、自らの改良主義的綱領さえ、その大部分を見捨ててきた。
 中国とベトナムのスターリニスト化した共産党は、同じ方向にすごい速度で進んでいる。労働者国家のスターリニスト的歪曲は、自らの矛盾と「一国社会主義」を建設するというユートピア的幻想によって打ち負かされてしまった。
 「過渡的綱領」の出発点は、社会主義革命の経済的必要条件は一般的にはすでに達成されている、ということである。
 たしかに資本主義は、いまなお新しい発明や、より高レベルのテクノロジーを生み出している。資本主義はマルクスとエンゲルスが百五十年前に「共産党宣言」の中で予言したように、地球のあらゆる隅々にまでその触手を延ばしている。しかしそれは、いわゆる開発途上国(第三世界)の飢えた大衆の腹を満たしてはこなかった。

資本の支配と闘うプログラム

 経済危機は依然として資本主義の避けることのできない特徴である。資本家階級にとって出口はまさしく存在していない。
 このことは、現在と同様に、第4インターナショナルが創設された1938年においても事実であった。社会主義のための歴史的諸条件は成熟しているだけではなく、「過渡的綱領」の言葉を使えば「いささか腐り始めている」。
 私が先に述べたように、「過渡的綱領」に初めて出会う人びとは、社会をさいなむ病に対するその処方せんの多くが依然として有効であることに気づくだろう。綱領が、資本主義制度の不条理の増大としてまとめあげられる二つの経済的苦痛−−失業と高物価−−として記述しているものは、今でもわれわれに重くまとわりついている。
 当時と同様に現在でもわれわれは、工業先進国だけではなく収奪された低開発地域においても、すべての人びとの労働への権利と、ふさわしい生活条件への権利を要求している。
 ヨーロッパやアメリカでは冷凍庫に肉や魚があふれかえり、農民たちが高い補助金をもらって生産をしないよう奨励されている中で、子どもたちが飢餓の中で死んでいく状況を終わらせたいとわれわれは望んでいる。
 1938年の綱領は、物価の恒常的高騰に対して闘うために賃金のスライディングスケールのスローガンを提起した。これは、消費物資の値上がりと連関させて集団協約によって賃金の自動的上昇を確保すべきだということを意味している。このスローガンは、今日でも十分に使えるスローガンであり、生活コストの上昇に合わせて国家の年金給付額も変動させるべきだという項目もそれに付け加えるべきである。
 現在、何年にもわたってだれも職につけない労働者家族が何百万もいる。労働者階級は、慢性的に職のない貧窮者の増大を許容することができない。ヨーロッパでは2000万人以上が失業しており、まだ仕事のある人びとの週労働時間は増加している。
 アメリカでは、1950年の時点で企業経営陣の給与は従業員平均賃金の30倍から40倍だったが、1990年までにそれは140倍にもなった。
 いわゆる開発途上諸国では、仕事のない人びとは計り知れないほどの数であり、若者たちは売春に追いやられ、家族は児童労働に依存させられている。こうした基本的諸事実は、「過渡的綱領」の要求の一部をきわめて今日的な関連のあるものにさせている。
 1938年と同様に、公共的仕事のプログラムと労働時間のスライディングスケールの要求は、すべての労働組合の綱領となるべきである。資本家たちは多額の給与とボーナスの取り分を自分たちのために決定している。
 イギリスでは、民営化されたヨークシャー水道の経営者たちは、昨年の干ばつと消費者からの記録的な不満に渦にもかかわらず、40%以上の給与増大を自ら決めてしまった。それに対して、水の供給を確保してきた労働者たちの賃上げは5%に制限された。
 商業銀行家のゴールドマン・サックスは企業を売却することを決定した。190人の共同出資者は、それぞれこの取引によって少なくとも5000万ポンドを手に入れる−−なんらの特別の仕事もしないでである。
 しかし彼らは、労働者たちが自分の労働によって生産した富のより大きな分け前を要求することは不可能だと強調している。それは失業と破産の増大につながるというのだ。そのために労働者は、「過渡的綱領」の中で押し出された要求を取り上げなければならない。さあ、帳簿を調べよう!
 もちろん1938年に有効だった「過渡的綱領」は、今日の条件に合わせて、そして労働者と被抑圧者の当面の意識に関連づけて現代化させなければならない。しかしその方法論は、以前と同様に適切なものである。
 私は、ここで私が初めに述べたマルクスからの引用をもう一度参照する。われわれはわれわれ自身の歴史をつくるが、それは「直接に立ち向かう諸条件の下」においてのみそうすることができる。
 1938年には、世界が直面する最も緊急の危険とは、帝国主義、ファシズム、そして戦争であった。こうしたものは資本主義が続いているかぎり依然として危険であるが、改定された「過渡的綱領」は、女性とゲイの権利や環境という課題を含みこんだものになるだろう。
 われわれはアフリカ、アジア、カリブ海・ラテンアメリカの貧しい国々の国際的債務の廃止を要求しなければならない。
 利潤追求のために躍起になっている資本は、地球の資源を、それが含む人間生活のコストにかまうことなく急速に破壊している。

世界社会主義革命に向かって

 もし結成大会で綱領が採択されたことがそれほど正しかったのならば、なぜ第4インターナショナルは強力な組織へと発展しなかったのだろうか。なぜ第4インターナショナルは労働者階級の運動の中に深く根づくことに成功しなかったのだろうか。それが結成されて以後の6十年間の役割と影響とはなんだったのだろうか。
 もちろんわれわれは、絶対確実な正しさを主張するものではない。われわれは確かにつねに正しかったわけではない。われわれは結成以来の60年の中で、そのことを認めなければならない。第4インターナショナルは自らを大衆の運動の中に根づかせることに成功しなかった。手にしうる空間の中で、それに対する違った説明を行うあれこれの理由を見いだすことは不可能である。
 われわれは、わずか一年もたたないうちに戦争がやってきたことを知っている。それはわれわれが真の影響を持ちうる以前のことだった。労働者階級は、ドイツ、スペイン、オーストリアで一連の敗北をこうむっていた。ソ連邦では十月革命を行ったボルシェビキ・カードルの生き残りは肉体的に絶滅されていた。
 スターリニストの修正主義的マルクス主義と改良主義者の社会愛国主義的教義のために、ファシズムに対する闘いはドイツに対する戦争の支持へと変形された。もちろんスターリニストにとって、それはスターリン・ヒトラー条約後に変化した。
 われわれは流れに逆らって船を漕いだ。われわれのちっぽけな勢力は、スターリニストと社会民主主義官僚が大量生産するプロパガンダに効果的に対決することができなかった。
 そしてもちろんのこと、労働者階級が後退していた時期には、われわれの隊列やわれわれの運動の周辺には、持ち場を維持することができない人が多数存在した。彼らは反動の年月を革命の決定的な敗北と同一視したのであった(今日われわれは、「歴史の終焉」と描かれているいわゆる自由市場の凱歌の中で同様の兆しを見ている)。
 トロツキーの暗殺も強力な打撃だった。当時においては彼の指導性は決定的であり、他に置き換えられないものだった。
 われわれはトロツキーとともに、戦争がどのように始まろうともソ連邦は不可避的にそれに巻き込まれ、その結末がどのようなものであろうとスターリニスト官僚制は崩壊すると予測していた。事態の成り行きの中で赤軍の軍事的勝利はスターリンの支配を強化し、彼に新たな威信を付与した。
 このことは、われわれの隊伍や、スターリニズムを見捨ててオルタナティブな綱領を求めていた人びとの間に落胆をもたらし、ブルジョア民主主義に向かわせた。
 私は再度、われわれがあの時点で第4インターナショナルを出発させたのは正しかったのか、われわれは何を達成したのかという疑問に立ち返る。
 われわれが決定を下した歴史的時期の特徴を眺めてみよう。われわれの目標は何だったのか。
 客観的条件は革命的なものだったが、労働者階級、革命の手段となるべきプロレタリアートはイデオロギー的に後退し、スターリニズムと改良主義につなぎとめられていた。
 われわれの綱領である「過渡的綱領」は、労働者階級をこうした鎖から解放し、彼らを客観的現実に対応したスローガンと要求をもった闘争へと導く行動の路線を規定していた。なによりもそれは、労働者階級をブルジョアジーに結び付けているイデオロギーから彼らを切り離し、階級的独立を復活させることを目的としていた。

 私がすでに言及した理由−−戦争への急速な接近は、ブルジョア民主主義諸国の労働者の反ファシズムをドイツに対する愛国的戦争へと変形した(その路線は、ヒトラー・スターリン協定の調印まではスターリニスト諸党によって強力に支持され、ソ連邦への侵攻以後は、新たな熱意をもって復活した)−−によって、われわれはいかなる真の影響力も作りだすことができなかったのだ。
 しかしわれわれは、客観的条件に責めを負わせるところに逃げ込むことはできない。われわれの活動は、われわれが自らを見いだす環境の中に封じ込められているが、人類は自分自身の歴史を作るのである。
 われわれはトロツキーとともに、ソビエト連邦の官僚的スターリニスト体制の崩壊は、プロレタリアートに刷新された革命的マルクス主義指導部を与えるために、第4インターナショナルを有利な位置に置くことになるだろうと信じていた。
 おそらく、そして私は「おそらく」という言葉を強調するのだが、もしわれわれが強力な指導部と統一されたインターナショナルを持っていたならば、1989年以後ソ連邦の体制が解体しはじめた時、われわれはソ連内に残っていた革命的カードルに一定の影響を与えることができただろう。
 彼らの多くは、彼らが入手できるようになるにつれてトロツキーの著作に注目しただろう。トロツキーの著作に加えて、第4インターナショナルはマルクス主義に価値ある理論的貢献を行ってきた。
 しかし彼らは、統一された第4インターナショナルに向き合うのではなく、すべてこれこそ本物のトロツキズムだと主張する一ダースにものぼるまったく別々のグループを見ることになった。
 セクト主義的分裂は、われわれの運動の慢性的病だった。少数派はインターナショナル内部に止まり自らの立場のために闘うのではなく、ささいな口実で分裂し、自分たちはトロツキーよりもトロツキストであると信じて、無能力でいかなる未来もないちっぽけなセクトを作った。1933年、ドイツ労働者階級が完全に敗北するまで第3インターナショナルへの忠誠に固執し続けたトロツキーとどれほど違っていることか。
 われわれのインターナショナルは死んではいないし、瀕死状態でもない。こうした敗北と裏切りの暗い日々の中で、われわれは革命的マルクス主義の旗を高く掲げ続けたのであった。
 全世界の労働者階級と被抑圧人民は、資本主義の下では彼らの運命である失業、貧困、抑圧の破滅的な重圧にこれ以上耐えることはしないだろう。資本主義には出口がない。
 私が描いてきたように、新たな経済的衰退の兆候は明白なものになっている。リベラル派のエコノミストたちは、「ダウンサイジング」や「生産の再組織化」や「レイオフ」について語っている。こうしたことは解雇の遠まわしな表現である。
 現実的な意味で、社会サービス・保健サービスの支出は恒常的に減少している。今なおホームレスが路上で生活している。唯一増大している支出は次の戦争の準備のためのものである。
 全世界の労働者と低開発諸国におけるその同盟者のみが、こうした錯乱した現実に終止符を打つことができる。
 そうするためには、国際的指導部と、闘争に推進力を与える綱領が彼らに必要である。私は、今日的なものにされた第4インターナショナルの「過渡的綱領」が、そうした指導部を与えることができると確信している。
(英「ソーシャリストアウトルック」98年12月号)


もどる

Back