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全港湾副執行委員長・松本耕三さんに聞く         かけはし2007.1.29号

規制緩和による新規参入を二波のストライキで阻止した

 新自由主義的「規制緩和」は、港湾で働く労働者の雇用と労働条件への攻撃である。全港湾小名浜支部書記長として闘い、昨年から本部副委員長となった松本耕三さんに話をうかがった(編集部)。

共闘組織の軸
としての役割

―― 現在の全港湾の状況がどうなっているか、教えてください。

 昨年から本部役員の立場になりました。結構大変だというのが率直な感想で、現在は全国の全港湾の実態を勉強しているというところです。
 全港湾には、全国港湾労働組合協議会(略称全国港湾)という共闘組織がありますが、これが極めて分かりづらい。全港湾と六大港の船内を中心とする日港労連、元請の全倉運、検査業務の検数労連、検定労連そして大港労組などの地区単組、各地区の地区港湾協議会で構成する結構大所帯な組織です。それこそ、産別として確立している組合から企業内組合までさまざまで、職種も、役員の雰囲気もまったく違う。もちろん組織事情もまた千差万別。よくこれだけ結束しているなと思うぐらいです。
 この共闘組織が、産業別労働組合として港湾関係の業界団体との交渉権を確立しており、産別としての労働協約を協定しています。
 港湾で荷役する船社負担による基金で、港湾労働者のための福祉施設の建設や独自の年金制度の確立など、他産業にはない制度があります。また、不十分ながら作業についての大枠のルールも協定されており、全国の港湾労働の最低限の歯止め策もとられています。
 全港湾というより、港湾産別のたたかいの特徴はこの全国港湾の産別闘争、産別協定にあります。全港湾自身非常に小さい組織ですが、このような共闘組織の軸としてたたかってきたからこそ、対資本にも、対行政にも大きな力を維持してきたといえます。

地方港での新
規参入の動き

――港の規制緩和はどのように起こってきましたか。

 港の荷役作業は昔から、埠頭や船という職場に人を派遣する一種の派遣業でした。そこは、暴力団傘下の手配師などの人出し稼業が暗躍しやすい職場でしたし、貿易の玄関口である港は、様々な犯罪が惹起しやすい職場だったのです。そのために港の職場は、港湾運送事業法によって、免許制で貨物・仕事・労働者の量を調整し、認可料金制によってダンピングを抑止し、一定の労働条件を保護してきました。
 しかし、一九六〇年代後半から三十年の間に港の貨物は九割がコンテナになり、多くの労働者が港から追い出され、物流は日本Aの自宅から米国Bの自宅までの「国際複合一貫輸送」が主流になってきています。大手の物流資本は新規参入が許されないように港を直接支配し、自分のテリトリーにしたいと考えるようになりました。
 そこでじゃまになったのは当然、免許制と認可料金制という「規制」です。一九九六年十二月当時の運輸省は 、免許制を許可制にして仕事があろうがなかろうが一定の条件を満たしたら新規参入を認めることと、認可料金を届出料金にする規制緩和を打ち出しました。二〇〇〇年十一月にまず六大港を中心とした九港を先行して実施し、二〇〇六年五月十五日には地方港の規制緩和施行となりました。
 地方港を後にしたのは、規制緩和に反対する全港湾の主力との激突を避けるためでしたが、規制緩和を先行実施した六大港を中心とした九港には新規参入がありませんでした。このことによって地方港を規制緩和してもどうせ新規参入はないと、港湾の労使も行政も錯覚を起こしました。
 先行した九港に新規参入がなかったのは、歴史的に港を支配してきた業界団体の結束と力があったからなのです。地方港への規制緩和には、過当競争に苦悶するトラック業者が港の利権に群がるように参入してくる懸念があり、事実東北の秋田港で参入の動きがありました。

ついに進出申
請を取り下げ

――秋田港の問題はどのように取り組まれましたか。

 規制緩和の法律の施行を待っていたかのような秋田港における新規参入は、全港湾の労働者に激震を起こすものでした。これまでの労働条件・雇用が危うくなることは当然として、労働組合さえもこの中に埋没させられるという危機感がありました。
 新規参入をもくろむ業者は「ストライキを行う組合がある会社は、お客に迷惑をかける、是非自社に仕事を」と反ストライキキャンペーンをはり、今の「規制緩和こそ改革」などという情勢の中で労働者の孤立感は大変なものでした。
 その中で情勢を転換させたのは、先ほど説明した全国港湾という共闘組織全体の統一ストライキでした。九月下旬から二波に渡って、日本の主要港湾の荷役をわずかな時間とはいえ止めたのです。地元労働者にとっても、全国の労働者にとっても大きな力になり、そして、進出業者にとっては大きな圧力となりました。十月十九日進出申請の取り下げという形で決着しました。
 闘いはきわめて不器用に取り組まれましたが、闘いによって労働者は成長する。愚直なまで仲間を信頼し闘い続けたことによって、得た成果自体はささやかでも、全国港湾に結集する労働者にとって「強固な団結と連帯して闘う力」という大きな財産を得たのです。

原点に立ちか
えった闘いを

――現在の労働運動全般の状況をどう思われますか。

 二十世紀は、ロシア革命のエネルギーが国際的な二重権力状態を引き起こし、国際労働運動を引っ張ってきたんですね。資本の利害に抗して闘えるのは、社会主義の理想以外にはない。新しい社会を作ろうとする夢、世直しに燃える情熱が今日までの労働運動の基礎だったと思います。仕事や義務的な活動では大きな飛躍を作ることはできません。
 また、いわゆる資本主義陣営、とくに先進国といわれる国にとって、後進国の国々が八時間労働、医療・教育の無料化を社会主義という名で実現したのですから、否応なしに、労働条件の確保や福祉を確立しなければならないところに追い込まれました。御用組合の存在はそんな環境の中だからありえたのです。
 発展途上国への対応も同様です。今日のWTOが進めるような発展途上国の借金漬けは、当時だったらいつ革命が起きるか分からない状況で、対応も今とはまったく違っていたと思います。規制緩和など出来ない時代だったのです。
 ソ連邦の崩壊によって、資本はあらゆる制約が取り除かれたと思いましたが、ただひとつ逃れられない制約がありました。それは無秩序で破壊的な資本の本性です。利益という自己蓄積だけを目的とする資本は、環境も人権も平和も省みることなく、その無尽蔵な欲望のままに暴走し、自らの基盤である経済さえも混乱させてしまっています。今、戦争、環境破壊そして規制緩和の中での長時間で劣悪な労働環境は十八世紀に戻ってしまったかのような状況です。
 解決策は明快になってきています。私たちももう一度原点に戻って、酒場から「ユニオン」を作り上げた時代の気持ちで、働く者の団結をめざす以外ありません。




反対同盟が07年旗開き
住民追い出し、北側延伸工事着工との闘いへ

開発による発展
ではないあり方

 一月十四日、三里塚芝山連合空港反対同盟は、横堀研修センターで〇七年旗開きを行い、五十人が参加した。
 山崎宏さん(労活評現闘・横堀地区)の司会で旗開きが始まり、「今年も初心を貫いて頑張っていこう」と呼びかけた。
 開催のあいさつが反対同盟世話人の柳川秀夫さんから行われ、「反対闘争は四十年を過ぎたが、依然として空港問題の課題は続き、反対同盟の使命は続いている。北側延長とともに南側も含めて四千メートル滑走路をねらっている。空港が大きくなることや、過剰な消費によって潤うという考え方は、環境問題も含めて深刻になっている。開発によって発展するというあり方を変更していかなければならない。空港は大きな矛盾を抱えている。これまでの反対運動の延長から百年の計のレベルで長期的に考えていきたい。様々な課題を取り組みながら、ともに頑張っていこう」と発言した。
 加瀬勉さん(多古町農民)の音頭で、参加者全体で新たな決意を打ち固める乾杯を行った。続いて加瀬さんから発言が行われ、「昨年の暮、共生委員会主催の反対闘争歴史展が成田で開催された。かつての反対闘争の中心的な人物が会場でドラム缶を叩きながら『政府も反省をしなさい。農民も反省をしなさい』と説明していた。三里塚で起きた一切の問題の責任は、政府にあって、われわれにはない。これははっきりと述べておきたい。だから権力史観に基づいた展示会だ。歴史を過去の博物館に並べてしまうものだった。これは許しがたい」と批判した。
 さらに、「われわれの主催で『たすきわたし』の集会を行った。靖国・従軍慰安婦・南京大虐殺問題について決着がついていない。ましてや三里塚は七三一部隊の石井中将が生まれた地だ。四十年闘ってきたけれども、闇に葬られたままだ。人民史観によって評価を下していかなければならない。そうしないと安倍首相の『美しい国 日本』に巻き込まれてしまう。きちっと対決していかなければならない」と呼びかけた。

これからも自
立した闘いを

 石井紀子さん(東峰地区)は、「東峰の森の木々の伐採に対して現状保全の仮処分申請を千葉地裁に部落五軒が一体となって行った。近々判決が出る予定です。部落の総有的所有の観点から司法にどれだけくい込んでいけるか重要な局面に入っている」と報告した。
 また、ワンパック運動の取り組み上の問題を紹介しながら、「闘う皆さんのおかげで三十年もワンパック運動を取り組んでこれた。出荷場はとても大切なところだ。東峰の拠点として出荷場を守り抜いていく。闘争はまだまだ続いている。私は負けない」と強調した。
 平野靖識さん(らっきょう工場・東峰地区)は、「東峰神社裁判に続いて、東峰の森の裁判においても主体性を保って闘い続けることができた。そういう中で二五〇〇メートル滑走路を北側に追い込み、一定の成果があった。しかし、騒音直下で航空被害を受け、厳しい状況が続いている。空港会社の嘘とペテンを許さず、これからも自立した闘いを行っていきたい」と発言した。
 次に、空港はいらない静岡県民の会からのメッセージが読み上げられ、「……約二十年にわたって闘い続けてきた地元農民、住民が闘う主体として自立し抜くという大きな課題が問われてきました。権力の暴力に抗して、土地収用といかに闘うかが問われてきました。昨年十二月十八日、茶畑の明渡期日、そして一月十日、山林の明渡期日に際して、こらえきれない無念、痛切な思いをかかえながら、しかしどうしても静岡空港の絶望的将来を前にして屈することはできないという決断のもとに、強制代執行との対決から一歩退き、あくまでもこの空港の廃港を勝ち取るべく、新たな闘いを決意したところです。……三里塚の皆さんの不屈の闘いと、その姿勢に学び、生活の中から民主主義を守り、民衆運動が再び時の権力の横暴を打ち倒す力を得るよう、ともに奮闘する」ことなどが紹介された。また、一月八日の県民の会総会に参加した仲間から直近の行政代執行をめぐる論議を報告した。
 続いて、三里塚40年`たすきわたしa集会事務局、長野から駆けつけたたじまよしおさん、関西・三里塚闘争に連帯する会、田んぼくらぶ、高見圭司さん(スペース90)、横堀団結小屋維持会から連帯発言が行われた。       (Y)


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