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 映評「硫黄島からの手紙」クリント・イーストウッド監督作品                           かけはし2007.1.15号

初めに流れるメロディーの切なさ

ヒューマニストというより戦術は冷徹に計算されたもの

太平洋戦争の3大激戦の一つ

 この映画は「父親たちの星条旗」とセットの映画で、いずれもクリント・イーストウッド監督作品である。硫黄島守備隊である小笠原兵団の最高指揮官・栗林中将とその部下たちが、玉砕の運命を背負ってどのように過ごしたのかを描いたものである。
 太平洋戦争が始まってから半年ほどたった一九四二年六月、ミッドウエー海戦で日本の連合艦隊は大敗北を喫し、それからは敗退へと追い込まれ、四四年になるとマーシャル諸島・マリアナ諸島が米軍に占領される。米軍はそこに長距離重爆撃機B29の基地を建設し、十一月には東京が空爆され、これより連日東京・名古屋・大阪・神戸への空爆が続くことになる。硫黄島はB29の基地のあるサイパン島と日本本土の中間に位置する。これを米軍が手に入れれば、B29を護衛する戦闘機の同行が可能になると考えられた。
 従って、日本軍にとって硫黄島の防衛は本土防衛のため不可欠のものとなった。とは言っても、戦力において日本軍を圧倒する米軍から硫黄島を防衛することは不可能であったから、実際上は少しでも多く米軍に出血を強い、本土空爆を少しでも弱体化させることが目的とされた。大本営は四四年八月頃に戦闘が始まってからは食料・弾薬・飲料水・医薬品などの補給はせず、一回の特攻機による体当たり攻撃を除けば、支援の軍隊を派遣しなかった。
 硫黄島の戦いは、太平洋戦争の三大激戦の一つに数えられる。この戦争で投入された兵力は、日本軍が二万千人、米軍が上陸軍七万人を含めて総兵力二十五万人、それと空母十一隻、戦艦六隻をはじめとするおびただしい戦力と爆弾、弾薬である。硫黄島にはいまだに一万三千柱の遺骨が眠っているという。
 四四年八月頃から硫黄島空爆が始まり、米軍上陸は四五年二月十九日。米軍の予想では上陸後五日間で占領が終了するはずであった。ところが総攻撃で栗林中将が戦死するのは三月二十六日である。その後は組織的な戦闘は終わったが、小規模な戦闘が単発的に継続した。日本軍の戦死者は一万九千五百人、米軍の戦死者は六千八百人と二万三千人の戦傷者。星条旗が揚がったときは歓喜した米国民だったが、戦死者が増えるにつれて、上陸部隊の指揮官スミス中将を更迭しろという声が高まったという。

戦場から頻繁
に家族へ手紙


 敵が上陸する場合、普通は水際作戦をとるものらしいが、栗林は持久戦を採用し、延べ三十キロメートルのトンネルを掘って、壕とトーチカを網の目のように結んだ。幕僚たちは猛烈に反対した。毎日歩いて陣地を見回り、部下への理不尽な体罰を戒め、兵士と同じものを食べ、決して威張らない栗林は一般兵士たちには絶大な人気があったという。米国・カナダで五年間の武官勤務経験のある栗林は合理的な思考の持ち主であった。映画では、栗林のヒューマニストとしての側面が印象に残るが、彼のとった戦術は冷徹に計算されたものであった。栗林が兵団長として着任して全員に下達した「六戒」には、「我々は最後の一人となるともゲリラによって敵をなやまさん」という文言がある。栗林自身も総攻撃に参加している。
 栗林は米国相手の戦争には反対だったという。しかし玉砕以外に方法のない硫黄島防衛の最高指揮官にされた。ひと思いに突撃して果てることもできただろうが、栗林はそのような清く玉砕する「美学」をではなく、どこまでも生きて敵を苦しめるという苦しい死を生きた軍人だった。栗林は「命をムダにするな」といって、部下の自決を許さなかった。一般兵士たちは次第に栗林と目標を共有するようになっていく。
 敗戦間近の戦争だから、学徒動員でにわか士官になった少尉、日中戦争に徴兵され満期除隊となった後、四十歳ぐらいになって再び硫黄島に召集された下士官、徴兵検査で丙種合格(軍人としては不適格)で兵隊にはとられないと安心していたところを補充兵として召集された人たちが多かった。米兵は生きて帰れる可能性にかけることができ、負傷すればすぐに治療をしてもらえたが、日本兵は死を覚悟して闘わねばならなかったし、治療の体制は貧弱だった。
 栗林が実行したもうひとつの重要なことは、島民千百五十人を引き揚げさせたことである。この点は沖縄戦とは異なる。戦闘が激しくなると手紙が家族に届く可能性はほとんどなかったが、栗林は戦場から頻繁に家族に手紙を書き、部下にも奨励した。手紙には差し出し人の住所がなかった。それは、軍事機密だった。映画では、玉砕の日に栗林中将が部下の兵卒に書類を消却するよう指示するが、兵卒が手紙だけ布袋に詰めて土に埋め、戦後遺骨収集に来た人たちがそれを発見するという筋書きになっている。それが映画の題名だ。

「命をムダにす
るな」の言葉


 太平洋戦争で日本軍がやった戦争には元々無茶な作戦が少なくないが、硫黄島の場合もその一つで、その矛盾を現場の将兵が一身に引き受けて戦わざるをえなかった。愛する家族のために戦ったとよく言われるが、それは硫黄島の場合は、少しでも本土防衛の役に立ち、本土空襲を弱体化して、本土の家族が受ける被害を少なくするという意味にとれる。死を強制できた戦時体制を思えば、結局のところそれは、理不尽さを自分に納得させるための自己暗示の言い方だったと思う。
 太平洋戦争時には、部下を犠牲にして自分だけが生き延びることを考えた司令官や高級将校もいたようだが、彼らと比べると栗林中将という人は異色の軍人で、人間としては魅力的な人物に思えた。「命をムダにするな」という彼の言葉には、少しでも本土空襲を遅らせるためには一人でも多くの兵力が必要だという意味と、こんな理不尽な戦争で命をムダにすることはないという意味の両方が含まれていたのかもしれない。
 戦記によると、総攻撃になる前に米軍側は栗林閣下という尊敬語を使って、拡声器で投降を呼びかけている。しかし彼はそれに応じなかった。当時の日本ではそれは絶対にできることではなかったのだろう。映画の初めに流れる静かな憂愁のメロディーは硫黄島攻防戦の悲劇をかき消してしまうほどに切なく感じられた。       (津山)


国家賠償を求めて横浜地裁に提訴
免状等不実記載弾圧を許すな
裁判闘争に支援を! カンパを!
                       被弾圧者A

 免状等不実記載罪(運転免許証に記載されている住所と現住所が違うだけで不当逮捕)によって神奈川県警察公安三課に逮捕され(06年10月24日)10日間の勾留と人権侵害に満ちた取り調べを受けた私、さらに全く関連がないにもかかわらず不当な家宅捜索が行われた越境社(初台)と関西新時代社は、06年12月25日、神奈川県と国を相手取り、国家賠償を求める訴えを横浜地方裁判所民事部に起こしました。訴訟代理人は、川村理弁護士、内田雅敏弁護士です。また、原告の被害は金150万円、原告越境社の被害は50万円、原告関西新時代社の被害は50万円として、国家賠償法に基づき損害賠償請求しています。
 私の逮捕及び自宅、越境社、関西新時代社への捜索差押の違法性について訴状は、嫌疑の不存在、必要性の不存在、目的の違法性の三点から国、神奈川県、公安警察を厳しく批判しています。それぞれ簡単に説明しておきます。
 免状等不実記載罪の嫌疑の不存在について。
 実家の住所を届け出たとしても、道路交通法上の趣旨に全く反することはない。なぜならば道交法において運転免許証には住所を記載することを求めているのは、運転免許を受けている者を特定するために必要であること、運転免許の取消、停止、反則行為等に対する反則金の納付等の手続きを適正、円滑に行う上で必要だからです。
 つまり、運転免許証に記載すべき住所としての「生活の本拠」といえるかどうかは、このような住所の記載を求める目的に従って判定すべきなのです。結局、私の実家の住所は、「自己の住所」といいうるものであり、逮捕は違法なのです。
 私への逮捕の必要性の不存在について。
 免状等不実記載罪は、その法定が「1年以下の懲役または20万円以下の罰金」(刑法157条2項)というものであり、特殊な事情のない限り、公判請求のなされることのない軽微事案です。ほとんど、逃亡の必要性がないのです。
 争点となりうるとすれば、私の真実の住所がどこであったかという程度のものです。しかし、私の自宅が主たる住所であり、実家は従な住所です。そもそもこんなことは客観的事実です。罪証隠滅の恐れが全くないのですから、逮捕そのものの必要性は全くなかったのです。
 越境社、関西新時代社各捜索差押の必要性の不存在について。
 私への不当弾圧の「関連」と称して権力は、無理やりこじつけて越境社、関西新時代社への家宅捜索を強行しました。不当な捜索によって、各社の業務が妨害され、必要もないコンピュータデータのコピー、書類等の押収を行いました。各社への不当捜索を強行することによって免状等不実記載を組織的に行っているのだということを印象づけようとしていたのです。ところがなんらそんな事実は出てこなかったのです。不当な捜索令状の請求、発布自体が違法であるほか、執行行為が違法なのです。こんな横暴な国家権力を許してはなりません。
 10・24弾圧に対して訴状は、「憲法改悪や『戦争国家』作りの機運が高まる中で、立川反戦ビラ入れ事件等のように、労働運動や反戦運動を行う市民への微罪逮捕が相次いでおり、公安警察のあり方そのものとあいまって議論の対象とされているところである。本件もまた、かかる市民運動に対する規制の流れの延長線上にあるものであって、かかる規制は、市民運動の破壊を目的とした違憲、違法なものである」と断罪しています。
 安倍政権と与党は、派兵大国化と新自由主義政策の強化にむけて、臨時国会で教基法改悪と防衛省設置法成立を強行し、通常国会において憲法改悪を射程にした改憲手続き法、共謀罪新設法、民衆に犠牲を強いる予算案を成立させることをねらっています。この路線とセットで治安弾圧体制の強化が行われているのです。10・24弾圧にみられる微罪逮捕の拡大、横行は、その現れだといえます。
 国家権力と公安政治警察を許さない闘い、包囲していく陣形作りがますます重要になってきています。10・24弾圧糾弾!国賠訴訟原告は、その一翼を担い、勝利判決を勝ち取っていきたいと思います。
 すべての闘う仲間の皆さん! 「共同声明 こんな弾圧は許されない 神奈川県警による不当逮捕と住居・事務所捜索に抗議する」に賛同署名してくださった皆さん! 今後の裁判闘争に注目を、そして、裁判闘争支援カンパをよろしくお願いします。
 カンパ送り先は、郵便振替か、新時代社スタッフに手渡しでお願いします。
 郵便振替口座 00150―8―157442 新時代社 かならず「裁判カンパ」と記入してください。             


ロシア
希望を抱かせる政治的再編
「前進」グループがフランスLCRと緊密な協力を取り決め

在ロシア通信員

 十一月二十二日から二十八日にまで、アラン・クリヴィンヌ同志が、ロシアの「前進」グループの招待でモスクワを訪れ、同グループの大会に参加した。

 「前進」グループは、基本的に青年から成るグループで、イギリスの「ミリタント」グループと最近、決別したばかりである。このグループは、数的には多くはないが、グローバリゼーションに反対する運動の中でも――このグループの代表は、アテネで開かれたヨーロッパ社会フォーラムにも参加した――ロシアの労働者の闘いへの支援の中でも、非常に活発に活動している。新聞を中心にして結集している同グループは、サラトフ、ヤロスラフ、サマラ、サンクトペテルブルクに、さらにはチュメニにも存在している。フランスの青年組織も参加したその大会の中では、自分たちが置かれていているきわめて困難な情勢の解明が行われた。
 メディア、議会、諸機関、労働組合を絶対的に支配しているプーチンは、民衆の受動的態度をよりいっそう強めることに成功してきた。人々は、市場法則の悲惨な結果による打撃を受け、個々ばらばらに自らの生活手段を確保しようとしている。反資本主義的で民主的なオルタナティブの立場に立つと認められているのは、少数の活動家だけである。しかしながら、反社会的攻撃や自立的な労働組合に対する弾圧の拡大は、将来に大きな希望を抱かせる抵抗を生み出し始めている。二つの自立的な労働組合が官製組合に抗して組織化に努めている。そのうちの最も急進的な組合「ザシータ」は、約九万人の組合を擁しており、労働同盟の方は、百万人近くの組合をもっている。
 「前進」グループの大会に参加した四十人の活動家は、大学改革に反対するキャンペーンならびにこれら二つの労働組合への支援の強化、これら二組合のすべての労働組合員の声を結集できるような新聞の発行計画への積極的参加、を決定した。最近ようやく、数多くの民衆抵抗委員会(ソヴィエト)が、住宅、医療、年金の問題を軸に結集し始めている。大会には、さらに、ウクライナの「オルタナティブ情報センター」の代表や、一九六〇年代活動家を結集している「チェ・ゲバラ・サークル」の代表も参加した。
 われわれの同志、アラン・クリヴィンヌは、ロシア滞在中、いくつかの集会を開いたが、そのうちのひとつはモスクワで唯一の左翼書店で行われたもので、これには約五十人の人びとが集まった。クリヴィンヌはまた、一九〇五年の最初のストライキが勃発した町、オリゴボ・ズエフスキーで解雇された「ザシータ」労働組合の組合員の裁判闘争にも参加した。この機会を利用して、クリヴィンヌ同志は、民営化されたバス製造工場で、ザシータ労働組合の指導者との間で長い討論を行うことができ、組合指導者の一人は「前進」グループの大会に参加した。クリヴィンヌが、モスクワへの帰途、民営化されたツゥーラの金属工場――工場の管理者は投獄されている――の労働者の記者会見にも出席した。この工場の労働者たちは、数カ月間の賃金未払いに抗議してハンガーストライキを展開していたからである。
 ロシア滞在中、困難ではあるが不可欠の闘いを展開しているロシアとウクライナのこれらの最初の革命派活動家グループと第四インターナショナル・フランス支部であるLCR(革命的共産主義者同盟)との間に相互のより緊密な結びつきを確立することが取り決められた。「ルージュ」(06年12月14日)


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