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南北関係の発展と平和繁栄のための宣言―南北経済協力 (2) かけはし2007.11.26号

労働者民衆運動陣営の韓半島・
東北アジア戦略の樹立が急務だ



  経済協力がはらむ二面性

 南北経済協力問題は平和と統一を媒介する最も実質的な環として浮上しており、さらに単に平和と統一のための媒介または環の手段としてだけではなく、それ自体として南北どちらにも必要な独自的な領域としての位置を占めている。ただしこれまでは南北経済協力が平和と統一を積極的に推進させることのできる軌道に定着した段階ではなく、平和問題がどのように解決されていくのかによって影響を受けるレベルにとどまっている。つまり、今のところは南北経済協力が平和を決定づけるものではなく、平和がいかに帰結するのかによって展望は変わり得るという、そのような状態だ。
 そうであるものの、このような制約や限界にもかかわらず南北経済協力は、今や後戻りのできない一定の大勢を形成していることだけは明らかだ。米国は南北経済協力での速度調節を要求しており、中国や日本は南北経済協力の拡大に伴った利害・打算をしている状況だ。
 韓国の支配階級や資本は肯定的に南北単一経済共同体の形成を目標として想定しており、北もまた政権と体制の維持を前提にした南の経済支援や進出を必要としつつ、受け入れなければならない立場だ。南北経済協力が拡大し、進展すればするほど東北アジア、韓半島の情勢は新たなレベルへと踏み込むだろうし、その青写真はすでに相当程度に描かれている。
 韓米FTAが締結され、さらに韓日FTA、韓中FTAさえもが成立するならば、東北アジア(または東アジア)の自由貿易地帯の形成へと踏み進もうとするだろう。もちろんこれは、すぐさまのことではない。そのためには米国の対北敵対政策の撤回と「北核問題」の解決が必ずや前もって実現されなければならないということは自明のことだ。
 またここに至るとしても、北がはたしてそのような行為を政治的に受け入れるのか、あるいは経済的に受け入れができる状態に行き着けるのかの問題は極めて不透明であり、時間のかかる問題だ。韓国の支配階級や資本が南北経済協力を拡大・進展させていこうというのも、それに対する事前の備え・準備をしようというものだ。南北FTAまたはその前段階としてのCEPA(経済協力強化約定)を煽っているのも、このためだ。
 労働者民衆の立場から見るとき、南北経済協力の拡大・進展が持っている意味は矛盾的だ。まず南北経済協力は明らかに東北アジア、韓半島での政治、軍事的緊張を緩和することのできるひとつの過程または仕組みとなり得る。
 先に平和の議題においてすでに記したように、労働者民衆にとっても、よしんばそれが自らの直接的政治行為による結果ではないかも知れないにしても、韓半島での政治的、軍事的緊張が緩和されることは、一種の必要条件となる。そういつた脈絡において南北経済協力は肯定的側面を含んでいる。だが南北経済協力は結局、新自由主義の地球化の韓半島レベルでの拡大・再生産のための過程へと帰結する可能性がはるかに高いという点から見るときは、両手を挙げて喜ぶことのできる、そういった性格のものでは断じて、ない。
 政治は現実であり、階級間の力関係は冷静に貫徹される。そうであるなら、南北経済協力に対して労働者民衆が取るべき態度や立場もまた、そのような現実を無視しては、正しい解法を求めがたい。それについての問題意識を語るに先立って現在、労働者民衆陣営の内部で南北経済協力についてそれぞれが取っている態度や立場についての批判的検討を、まずしてみる必要がある。もちろん、それらのそれぞれの何らかの態度や立場をすべて明確に示したと見るには、まだ早い。今のところは暗中模索であるが、しばし見守っている状態だという場合もなくはない。ここでの批判的検討は、それらのことを勘案する必要がある。

 民族主義陣営の立場

 まず民族主義陣営の場合は南北経済協力に対して全般的に大体としては肯定的または積極的にその必要性を強調しているものと判断される。彼らの基本的認識は、北が今日の経済的困難に直面するに至った決定的原因を米国の対北封鎖政策のせいだと見ている。北の体制自体から発生した側面については、あえて無視するか、その意味を弱めようとしている。
 したがって米国の敵対政策が撤回され、経済活動が正常化すれば経済が回復する可能性は高いとの判断を下敷きにしている。ただし、北の現在の経済状態があまりにも劣悪であるがゆえに外部の支援や進出が必要であり、ひとつの民族として南がこれをうまくやり遂げなければならないということを当然のこととして考えている。
 彼らにとって最大の戦略的目標は南北統一であるがゆえに、資本の性格や意図は決定的に重要なものではない。彼らにとっての差し迫っての現実は、保守陣営が取っている、「見返りを期待しない一方的な援助」云々のような論議が広がらないようにすることだ。
 保守陣営がそのように振る舞おうとしているのは、南北経済協力それ自体に対するものというよりは、それによって米国との関係が悪化したり韓米同盟が揺らぐことになるのを憂慮・警戒しようとして遠回しに表現しているのだと考えるとき、一定のレベルではそうする必要性がある。
 だがここにとどまらず、南の支配階級や資本が流布している「共同繁栄」、「平和経済」、「事前の統一費用」、「統一経済強国」などについてさえいかなる批判をもしなかったり、それを一層、あおり立てるのは深刻な問題と言わざるをえない。労働者民衆に幻想や期待を植えつけることとなり、ひいては労働者民衆を南北の支配階級に依存させ、その結果、労働者民衆の独自的主張や要求を副次化させる危険が大きいからだ。

左派の中途半端な態度

 次に左派の場合、最も深刻なのは事実上の政治的棄権状態にある、ということだ。極めて中途半端な態度を示しており、外部にはどうしようもないぐらいに、明確な主張や立場の表明を留保している。開城工団(工業団地)、金剛山観光などについて、明らかに憂慮し警戒すべき必要があるにもかかわらず、どう対応するのかについての戦略的方向を決められないまま、ただ事案別または部分的にのみ語るという水準にとどまっている。このような水準は独自的な勢力としての政治力を形成していくことはできない。
 これらの場合、南北経済協力が拡大・進展することは、すぐさま新自由主義の地球化が韓半島の次元へと拡散するものだという側面を余りにも絶対化している。だからといって、そのような論理の延長上で南北経済協力を完全に否定しているわけでもない。さらに彼らは北の体制が労働者政府ではないとの認識に基づいていながらも、また北が独自的な力量では到底、経済回復が不可能であって外部の支援や進出が避けられず、北の政権が自らそのような方向へと進んでいっているという事実を充分に受け入れていながらも、むしろ北が、この点では民族主義陣営とは正反対に、資本の支援や進出をまるで拒否することができるかのように、北に対してそのような要求や期待を表す表現をしている。
 東欧が、西側の資本を導入して経済を再生するどころか、むしろ市場経済に編入された対価を存分に支払わされて労働者民衆の生活は改善されなかった、という歴史的事実を語ることは正しいけれども、これを今日の韓半島や北の現実にそのまま適用することは論理的、現実的飛躍だ。そのような未来が必ずしも予定されているわけではない。北は、もはやこれ以上、堕落しようにも堕落できないほどに経済的に深刻な状態にある事実上の破産国家だ。
 また左派は南北経済協力が東北アジア、韓半島の政治、軍事的緊張を緩和させるという側面がある事実を見ようとしていない。前に平和の議題で述べたように左派の場合、平和について極めて原則的かつ抽象的な立場を持っていることと無関係ではない。左派の場合は、ややもすれば政治的敗北主義または虚無主義に根深くはまっていると言える。表立っての主張や論議が原則的で抽象的であればあるほど実際には現実的な対応が全くできないか立ち遅れざるをえないのであり、戦略なき戦略主義へと流れる可能性が大きい。
 南の労働者民衆は反新自由主義の闘争の動力を反資本主義闘争へと進展させていかなければならない課題に遭遇している。南北経済協力に対する最も根本的な対応の戦略も、まさにこの点から求めなければならない。労働者民衆の闘争の動力に基盤をおいた政治力量に比例してこそ、南北経済協力に対する具体的かつ実質的な介入が可能なのであり、その試みを現実化することができる。
 南北経済協力は、すでに述べたように労働者民衆にとっては矛盾する意味を持っている。南北経済協力は一応、特別な事態が発生しない限り後戻りのできない状況へと踏み込んでいるのであって、それは拡大・進展していくだろう。したがって今や、賛成だの反対だのという問題は、すでに飛び越えた。
 労働者民衆にとって南北経済協力とかかわる核心的事案は、どのようにして独自の主張や要求を形成するのか、の問題だ。その一次的焦点は南北経済協力が原則的に北の人民の生活改善と経済的自生力を育む観点からなされなければならないということを前面に押し出さなければならない。
 当分の間、南北経済協力は国家レベルでなされざるを得ない。国家財政の投入が主となるほかはない、という意味だ。労働者民衆にとっても、まさにこの側面において介入することのできる政治的空間は開かれている。辛うじて残っている北の経済的可能性を根こそぎ奪いとるような、いかなる経済的プロジェクトに対しても、反対の声を大にしなければならない。もちろんこれは極めて早い時期に政治的要求を超えるのは容易ではない。だが具体的な対応のための方向設定のためにも、また同時に将来に備えるためにも、ぜひとも必要だ。南の新自由主義反対闘争、ひいては反資本闘争と脈絡が連なっている部分であるからだ。
 また南北経済協力は必然的に南の労働者や労働組合との連結の環と結ぶことになる。その中でも鉄道、道路、電力などの社会間接資本の進出部門は、とりわけそうだ。まさにこの地点において労働者民衆は観客ではなく当事者、つまり主体としての権利を行使しなければならない。
 このために労働組合は当然のこととして労働者民衆運動陣営全体の力量を総結集し、論議のテーブルに就くことを強力かつ持続的に押し出していかなければならない。このために先行または併行して備えなければならないことは、これらを推進することのできる労働者民衆運動陣営の体系を形成することだ。もちろんこのような体系は既存のマンネリで、かつ一部に存在する覇権的な態度を脱ぎ捨て、広範な意思の疎通や討論を経て準備していかなければならない。共同戦線の成立のためにも、ぜひとも経なければならない過程だ。
 さらに、南北経済協力との関わりで、労働者民衆運動陣営が掲げなければならない要求として、南北の自由往来がある。資本の進出だけが許容され、労働者民衆の往来は統制される現実を変えなければならない。北の受諾と関係なく、まず韓国政府に向けて、このような要求を貫徹させるための闘争を蓄積していかなければならない。これまでは、ある種の宣言やスローガン程度としてこの問題に対してきたけれども、今からはこれを現実化、実質化させるための闘争を始めることができるようにしなければならない。加えて、実践的なレベルではあっても南の労働者民衆が北に直接進出することのできるアイテムやコンテンツを開発することも考えてみることができよう。国家を媒介とした支援から踏み出し、独自的な支援や進出が全く不可能なことはありえない。(つづく)



 コラム
直径1・37
nrの宇宙

 晩秋の夜空を見上げると、都内でもそれなりに星を見ることができる。キラキラと輝く星のむこうには、暗黒の宇宙が無限大に広がっている。「宇宙の広さと時間を考えると、人類の営みや人の一生など、ほんの一瞬の小さなできごとにすぎない」というようなことを、耳にしたことがあるだろう。
 昨年だったか、宇宙の誕生であるビッグバンは、百三十七億年前だったという研究結果が発表された。これは、宇宙の時間が明らかになったということだけではなく、宇宙が光速で広がっているのだとすれば、宇宙の果てまでは、百三十七億光年だということも明らかにしたことになるわけだ。また、数年前に「宇宙は球型に近い」とする「ポアンカレ予想」も証明されているわけで、なんとかこの百三十七億光年の宇宙の広さを実感できないものかと、電卓を手にして計算を始めてみた。
 計算の基礎になるのは、光速―秒速三十万nrである。その速さは、地球から月まで一秒と少し、地球を七周半ほどするものだ。まずは一光年(光が1年間で進む距離)を計算する。三十万nr×三千六百秒(1時間)×二十四時間(1日)×三百六十五日(1年)。一光年は約九兆四千六百億nrである。これに百三十七億を掛けると、宇宙の果てまでの距離がキロメートルで表示できるわけだ。
 しかし、〇の数が多すぎて電卓では計算できないばかりか、桁すらわからないありさまである。キロメートル表示してみても、宇宙の広さを「実感」することはできないことが分かった。
 それでは何か「基準」になるようなものはないかと考えた。地球や太陽では、あまりにも小さすぎる。我が太陽系が存在する「天の川銀河」はどうだろうか。こいつが、またデカイのだ。円盤状で、横が十万光年、縦が三万光年もある。
 ちなみに十万光年は、一光年の十万倍だから、九兆四千六百億nr×十万で、九十四京六千兆nrである。これは地球を、約七十四兆個並べた距離である。かなりデカイが、「基準」になるかもしれない。
 キロメートルにこだわっていては、宇宙の広さを実感することができないわけだから、次に「ウルトラ」が必要になる。この巨大な天の川銀河を、直径一mrの「一円玉」に見立ててしまうというのはどうだろうか。十万光年を一mrにしたのだから、宇宙の果てまでの距離は、百三十七億÷十万で表示される。十三万七千mr=一・三七nrである。
 ようやく実感しやすい数値になり、これで宇宙の広さをイメージできそうだ。
 直径一mrの一円玉(天の川銀河)を中心にして、直径一・三七nrの球(宇宙)ができあがった。宇宙の「完成」である。宇宙には銀河が三千億個存在するといわれているので、この球の中に、一円玉が三千億枚フワフワと浮かんでいるのをイメージしてみよう。「あ〜疲れた!」。 (星)


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