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                            かけはし2007.11.5号

浜岡原発運転差し止め訴訟
不当判決に怒りの声

人命軽視の静岡地裁
なぜ安全だと言えるのか
原告団・弁護団控訴決定


 十月二十六日、中部電力浜岡原発の1号機から4号機の運転差し止めを求める静岡地裁判決が予定されていた。地裁前は、傍聴に数百人が並び、マスコミ各社のテレビカメラが列をなした。志賀原発の差し止め勝利金沢地裁判決(06年3月)、そして柏崎・刈羽原発を直撃した中越沖地震が起きて、原発の安全性が問われていた。今回浜岡原発でどのような判決が下るのか、全国的な注目を集めた。
 原告団長の白鳥良香さん(元静岡県議)は「浜岡原発は巨大地震に耐えられないことがいままでの事故の結果明らかになっている。今日の判決は勝利以外ない。地震大国日本において、原発震災の恐怖から解放される第一歩である」と勝訴判決をぜひともかちとりたいと決意を述べた。原告団・弁護団は「原発震災前停止判決を」「地震大国日本 原子力は無理 止めよう浜岡原発震災」と書いた横断幕を掲げて裁判所に向かった。
 午前十一時、注目の判決だ。「不当判決」の垂れ幕が弁護団によって示された。白鳥団長は「本当に残念だ。一日も早く原発を止めてほしいという願いが押しとどめられた。日本の司法には良心が残っていないのか」と厳しく不当判決を批判し、即時に控訴することを明らかにした。
 新潟選出の近藤正道参院議員(社民党)は「中越沖地震が起きてから、柏崎・刈羽原発に五回入った。普通の地震で三千近い損傷不都合、七十の重大な故障が起きたと国の保安院が認めている。判決要旨さえ読み上げなかったひどい判決だ。抗議し、さらに闘いをやりたい」と決意表明した。原告団代表の長野栄一さんは「怒りで体が震えた。チェルノブイリのような事故が起きたらだれが責任を取るのか。柏崎原発は崖っぷちで止まった。それの六十倍と予想される地震が浜岡にくる。安全などとなぜいえる」と強く判決を批判した。
 駿府公園での抗議集会で、弁護団の抗議声明が読み上げられた(別掲)。そして弁護団から、「複数カ所連鎖して壊れるから、安全でないと原告が追及した点に、判決では単一で充分であるとした。それは専門家が大丈夫と判断したから安全だというとんでもない判決だ。七月に起きた中越沖地震について判決では何も触れていない。それは原告の弁論の再開の要求を認めなかったからだ。全面的に中電の言い分を認めた判決を絶対に認めない。控訴審で絶対にひっくりかえす」と判決を批判した。
 福島みずほ社民党首は「美浜原発事故やJCO事故の後に現場に入って視察した。今回の判決は人の命を軽視したものだ。これから東京に戻り保安院と交渉する。原発を止めるのは政治の責任でもある」と語った。浜岡原発で働き被曝して死亡した島橋さんの母親は「私の息子は浜岡原発で作業中に被曝して死んだ。労災申請をしたがなかなか認められず、全国的に四十万人の署名が集まり、労災をかちとった。原発が稼動しているかぎり、われわれの命が危ない。ぜひ、全国署名運動を起こして原発を止めていこう」と訴えた。
 最後に全体で、「不当判決に抗議し、控訴審に勝利しよう、浜岡原発を止めよう」とシュプレヒコールを行った。地裁判決をはねかえそう。      (M)


浜岡原子力発電所運転差止敗訴判決に関する原告・弁護団声明

2007年10月26日

 本日、静岡地方裁判所民事第1部(宮岡章裁判長)は、中部電力株式会社浜岡原子力発電所1号機、2号機、3号機および4号機の運転差止め事件について、原告側の主張を全面的に排斥する判決を言い渡した。
 この判決は、地震大国日本において原発を設置運転することがいかに危険であるかについて、あえて目をつぶった極めて不当な判決である。巨大な東海地震の発生が極めて切迫していることは確実なことであり、そのとき浜岡原発が重大な事故を起こし、原発震災、すなわち巨大地震と原発重大事故の同時発生の状態となり、日本国民の生命身体に重大な被害が発生したとき、裁判所はどのようにして責任をとるのであろうか。
 私たち原告・弁護団は、この原発震災の発生をくいとめるために、今回の不当判決に屈することなく、即時に控訴し、勝訴、原発運転差止めを勝ち取るまで戦うことを宣言する。



浜岡差止不当判決糾弾
原発震災を絶対に止めよう
院内集会で控訴審勝利誓う

 十月二十六日午後三時半から衆議院第二議員会館で公共事業チェック議員の会主催による「地震と原発」プロジェクト発足&浜岡原発裁判報告会が開催された。静岡での判決報告集会から、原告団代表の長野栄一さん、塚本千代子さんらが在京の弁護団とともに会場にかけつけた。
 報告会には静岡県外の原告や支援者ら約五十人が集まった。議員の会事務局長をつとめる保坂展人衆議院議員の司会と経過報告ではじまり、原告団と弁護団からの報告、出席議員からの発言と続いた。公共事業チェック議員の会からは同会幹事長の松野信夫参議院議員、川田龍平参議院議員、大河原雅子参議院議員、岡崎トミ子衆議院議員、金田誠一衆議院議員、福島瑞穂参議院議員が参加。福島議員は静岡地裁から原告団とかけつけた。
 川田議員は「参議院で環境委員会に所属し、初めての質問を行った。時間切れとなり質問はできなかったが、原発を止めた後のエネルギーをどのようにしていくかが課題」と発言。大河原雅子議員は大地を守る会や生活クラブ生協などが共同で進めている六ヶ所再処理工場の本格稼動に反対する活動に触れ、来年二月に予定されている本格操業を阻止する決意を述べた。宮城県を地盤とする岡崎トミ子議員は「九九%の確率で宮城県沖地震が起こるとされている」と、プロジェクトを通じて地震と原発の問題を追及していく決意を語った。
 原告団の長野さんは「中部電力は判決の勢いでプルサーマル実施に向け攻勢を強めてくるだろう」と警戒し、裁判は控訴し、東京高裁に移るが、地元での活動を弱めずに闘っていく決意を述べた。弁護団、原告団ともに今回の静岡地裁による不当判決を詳細に読むと、高裁でつく矛盾がたくさんあると分析。法廷の内外で浜岡原発を止めていく行動を強めていこう。 (MK)


重利裁判闘争勝利報告集会
逢沢一郎自民党議員の同族企業と闘い全面勝利かちとる

 【岡山】十月十三日、岡山国際交流センターで「重利裁判闘争勝利報告集会」が開かれた。集会には四十人を超す労働者・市民が参加した。
 重利博巳さんは、六年前に会社の退職勧奨を拒否したところ、休職命令が出され、一カ月更新で解雇の圧力ととともに退職を強制され、給与も六割支給がつづいてきた。こうした状況に重利さんは、解雇通告に対しては、労働局の個別紛争調停を通じ撤回させてきた。そして長期にわたる自宅待機に対しては、職場復職と給与満額支給を求めて岡山地裁に裁判を起こし、約一年半にわたって闘い、六月末には判決を迎えることとなった。
 会社側は、判決直前になって弁護士を通して和解の申し入れを行い、さまざまな曲折のすえ、@六十歳までの給与を支払うAこれまでの給与未払分四割も払うB六十歳までの退職金プラス解決金を支払うC本人は和解成立によって退職する、など、六十歳までの雇用契約を全面的に守らせる形で和解が成立した。生涯賃金を保障させ全面勝利であった。
 重利さんが闘ったのは、建設工業のアイサワ工業で、自民党衆議院議員の逢沢一郎の同族会社である。公共事業の減少で従業員千二百人が肩たたきで六百人に減る中で、重利博巳さんはただ一人拒否し、六年間の闘いで会社に対し、休職の無効と謝罪をかちとったのである。
 和解成立は八月八日であり、参議院選の直後となり、社長も八月末で交代した。逢沢一郎議員は福田内閣でも入閣できなかったが、ただ一人の闘いが会社の全面的な譲歩を強いた意味は大きい。この闘いは、既存労組が右往左往する中で、地域の労働者が「重利裁判闘争を支援する会」を結成して応援した。 (吉村隆一)



コラム

「半世紀前からの贈物」

 蒲郡市は浜名湖を過ぎると愛知県側の二つ目の都市だ。私の出身地静岡県の旧小笠郡は遠州と呼ばれ、蒲郡とはそれほど遠くはない。蒲郡を知ったのは、中学を卒業した同級生たちが繊維工場に就職していったことからであり、競艇場があることぐらいであった。その蒲郡に生まれ育ったのが、内田雅敏弁護士である。内田さんはA級戦犯で処刑された七人を奉る「殉国七士廟」が近くの三ヶ根山に作られ、異様な雰囲気がかもしだされていることを問題にした文章(『憲法第九条の復権』樹花舎刊)を書いた。さらに、作家・杉浦明平が渥美の農漁民を見事に描いた『ノリソダ騒動記』の小説を紹介してくれた。
 私も一員であった一九七八年三里塚開港阻止決戦八ゲート突入被告団の弁護団に内田さんが加わってくれた。内田さんは冒頭の弁論で、フランス革命やアメリカ独立宣言を引用して、人民には権力に対して抵抗する革命的抵抗権がある。三里塚闘争はそうした抵抗闘争であり、被告は無罪であると胸がすっとするような主張をしてくれた。
 正義感がありあまる内田さんを知っている人から見ると、今回、内田さんが出版した『半世紀前からの贈物│いま蘇る小学校2年生の「文集」』(れんが書房新社)を読むと、別の内田さんを知ることとなる。
 私は内田さんより六歳下で、戦後から朝鮮戦争を過ぎて時代が戦後からの脱却と言われた時に幼い頃を農村で過ごした。内田さんが書いている「町」の進駐軍のことやトヨタの自動車、荷馬牛などのことは分からない。その分だけ新鮮であった。
 そしてあの頃の子どもたちの「純な心」が文集として残されていた。
 「お正月まちどぅしいな。まらそんでやってこい、いいにおいのするあたらしいげたがはけるのだ。」
 「学校のかえりみちでうまがくるまをひきながら『ボトン。ボトン。』うんこをまっていきました。『きたねえぞ』と言うとおじさんが『うんこをふむと大きくなるぞ』といいましたら、うまがひひんとなきました。」
 この本を読んでいて何度も本を閉じて笑ってしまった。幼い頃の遊びやいたずらで先生や大人に怒られた時のことなどを思い出してしまうからであり、内田さんの意外なシャイな面や一番勉強のできる子どもではない、いたずら小僧を見たからであった。
 そして、驚いたのは記憶力の良さである。八歳の時の同級生の人物像や起こったことを周りの風景・歴史と合わせて解説してあり、実にていねいに記している。そこに単なる懐かしさではなく、歴史観がちゃんと組み込まれている。味わい深い文章になっている。
 弁護士は公判が終わってから、打ち合わせなどがあり、いつも忙しく帰りも遅くなる。内田さんは何冊も本を出しているので、いつ書いているのか聞いたことがある。家に帰って寝る前に、あれこれ書くのだという。内田さんは酒を飲まないので、文章が書けるのだと納得した。    (滝)


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