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再び考える87年労働者大闘争の歴史(3)        かけはし2007.10.15号

自主性・民主性・連帯性・解放性に支えられた労働運動を

全国で「現代」と対決

 全労協の建設を前にした状況にあって深刻な問題であることを認識し、全国の各民主労組が蔚山で包丁・角材テロ糾弾の労働者大会を太和江の河原で開催した。既にソウルを中心として首都圏の駅ごとに警察部隊が配置されていた。首都圏労働者たちの大部分はソウル南方の水原駅に押しよせた。一挙に押しよせたおびただしい数の労働者たちが駅に入ることになるとともに切符を買うことも改札口を通ることもできなくなった。水原で乗れなかった同志たちは、さらに南の平澤で列車に乗ることにした。
 ほとんどが無賃乗車で蔚山・太和江に到着した全国の労働者たちは現代資本の無差別の暴力性に怒りつつ、今後の連帯ストと現代グループへの打撃闘争についての決意を高めた。太和江集会を終えて帰った労働者たちは各地域で現代グループを打撃した。現代自動車販売店に火炎ビンが投げ込まれ、現代系列社の事務室につぶてが投げ込まれ、労働者弾圧の代名詞である現代を懲らしめつつ、「闘争によって建設する全労協」の雰囲気は、誰言うとなくかもしだされていった。
 久しい断絶の歴史を継承・発展させていくという全労協、その断絶とは何だったのだろうか? そして、どこまで発展させていくという意識だったのだろうか? 90年の全労協建設は、さまざまな評価や診断があったけれども明らかなことは、全労協はその時代の労働者の希望だった。むごい弾圧をつき破って建設された全労協を感動の涙で迎えたというのが、その当時の多くの同志たちのありようであっただろう。
 闘争事業場に対する強固な連帯は組織の内外を分かたず、階級的観点で一貫していた。
 全労協は全国各地域で歴史的成果を集め、歴史的な旗を掲げることとなる。
 90年1月22日、全国の同志たちがソウルに結集した。まるで秘密結社の組織を作るかのように、通信の疎通が円滑でなかった時期に目配せで大会場があっちへ、こっちへと移動されていくのを伝えるのは容易ではなかった。ソウル大で予定されていた全労協創立大会は2万5千の警察が大会場の周辺を完全封鎖した状況であり、市内の至る所では随時に検定検索が強化され、まるで戒厳令下の時期をほうふつとさせた。
 全労協準備委は事前に秘密連絡体制を構築し、第2、第3の場所を物色し準備する一方、前日から上京した代議員たちは10〜15人ずつにグループを編成し、厳格な行動の統一をなしとげた。粗末で小さな紙切れが秘密裏に手渡され、ソウル市内の全域で追跡の手をまいた代議員らに、大会の場所が変わるごとに伝えられていった。全く予想もしていなかった成均館大・水原キャンパスに場所が定められるとともに、わずか1時間にして1500人が結集し、歴史的な全労協は力強い旗を上げた。
 後になって開催場所に感づいた京畿道警は白骨団(機動隊の最強部隊)を動員して学内進入を試み、これに立ち向かい先鋒隊員たちが決死闘争をもって、手配中の指導部が無事に脱出できる時まで闘いぬいた。その後、増員された警察部隊が大会場を侵奪し、全部で141人が連行された。

公安弾圧の暴風

 われわれは全労協を大衆の熱情と援護の中で建設した。だが資本と権力は絶えず全労協を瓦解させるために、あらゆる手段や方法をすべて動員していた。「建設、全労協」は「死守、全労協」に変わり、全労協の中央委員は常に拘束と手配とがつきまとい、全労協加入の事業場は、とんでもなくかつ執ような弾圧を受けなければならなかった。
 正常の中央委員会は「懲役」に行ってこそ定足数が満たされるという状況であり、全労協加入事業場に対して政権は業務調査などによって組織自体を瓦解させようとした。資本と政権の弾圧の中で集団的に全労協加入を決議するために結成されていた大企業連帯会議は、パク・チャンス烈士が安企部の工作によって他殺される状況の中で、全労協加入が実現できないまま各個撃破されてしまった。
 全労協の建設元年である90年春、民主労組の旗じるしを掲げ労組結成闘争をしていた京畿地域の金剛工業で、死によって労組を組織していくとしていたウォン・テジョ、パク・スンホ同志が全身にシンナーを注いで警察と対峙した。ライターを奪おうとした警察ともみ合っている中で、ぱぁんという音とともに炎が2人の同志を飲みこんだ。地域では共闘委が組織され、「未必の故意による殺人」と規定し、連帯闘争を組織した。真昼に展開された街頭闘争で安山・ラソンホテルの交差点を労働者たちの火炎ビンが覆い、デモを鎮圧し白骨団を指揮していた警監(警視級)が耳の後部に負傷し突然、死亡してしまった。
 死因がキチンと究明もされないうちに、死亡翌日、警察は急いで火葬し、当時の共闘委共同代表を担っていた私は「傷害致死」というレッテルをつけられて手配者となった。われわれの判断としては、警監の死因は機動隊が撃った催涙弾にあたって死亡したものだった。以降、法廷闘争を行ったものの、さしたる効力はなかった。この事件は数十人の拘束者を作り出し、地域の民主労組などを委縮させる政権の逆攻、弾圧手段として作用した。
 全労協に対する総体的弾圧が展開されている時期に地労協の事務室を借りるのも徹底した保安が必要であったし、全労協の事務室もまた同様であった。事務室の用途を出版社などと偽装して家主がすでに全労協だということを知り、契約金だけでなく相当のカネを付けるから契約を解除しよう、という訴えもしょっちゅうだった。そのために全労協の事務室移転は特殊作戦を駆使しつつ、闘いによって押し入るほかない状況だった。

全労協内の路線をめぐる葛藤

 当時の全労協の組織的課題は「階級的産別建設」だった。各民主労組や連帯闘争の経験を通じて産別建設のための土台を準備しなければならなかったので、全労協建設後、ILO共対委を構成して業種と製造業の日常的連帯と労働悪法に対する共同闘争を展開した。
 「死守、全労協」の過程は苦難と逆境の連続だった。これは労働運動史において、かつて経験したこともないほどの弾圧だった。敵どもからの弾圧は組織の展望を通じて耐えぬくこともできるが、内部だと自称している連中からの攻勢は多くの活動家たちを困難にさせた。

 進歩を自任している知識人たちの中の一部は「社会発展的労使関係論」を持ち出し、「作るべきではなかった全労協」、「労働運動発展のために解散されるべき全労協」などの主張が乱舞し、民主労組内部でも次第に、このような基調に同意する、さまざまな気流が作られていた。もう10数年も前のその時の記憶だが、その当時のそのような主張を論じていた人々は、今どこにいるのだろうか? そして何をしているのだろうか、と気がかりだ。
 このような気流とともに、93年になると全労協内部に組織発展の展望をめぐる論議がおおいにはびこるようになる。つまり産別労組を建設するための経路や性格についての問題として台頭していたが、より明確に言えば理念についての葛藤の問題でもあった。
 「全国労組代表者会議」が立ちあげられるとともに早発論争は一層の加速度がつき、民主労組建設という組織的課題が現実の問題として深く刻み込まれていた。全労代には民主労組を目指していた各労組の大部分が参加していた。全労協と業種、グループ協議会と地域が結合することによって、それは民主労総の総体と言っても無理ではなかった。当時、量的に最も多くの民主労組の集合であることを否定することはできないけれども、質的には下向平準化されるとの印象をぬぐいさることはできなかった。労働者大会を前にして、全労代の内部で中味の乏しい論争が続けられていた。
 大会の基調とイメージについての意見の違いはもちろん、全国労働者大会の前に「チョン・テイル烈士精神継承」という文言を削除しようという主張が相当に幅を利かせていた。その主張の根拠としては「烈士精神」を云々すれば組合員らにとって重荷となり、労働者大会への参加が難しい、というものだった。街頭行進についても、いつも内容の伴わない論争で一貫しなければならなかった。このような状況の中で全労協の選挙が競選を迎えることとなる。

選挙の勝利と路線の敗北

 その時の全労協選挙には3人の候補が出馬した。民族主義勢力を代弁する候補と市民主義傾向の候補、それに階級陣営の候補、したがって労働運動の諸傾向が、すべて網羅されたわけだ。
 各候補らの政策は選挙遊説が繰り返されればされるほど同じような様相を帯びることとなり、早発の展望についての争点は違いがあった。早発の展望についての主張は2つだったが、階級陣営の場合は階級的産別建設の労組組織として民主労総を建設するという主張であり、他の候補たちの場合は民主労組陣営の大同団結を通じて外縁を拡大した中で産別を建設しよう、という主張によって対立していたが、争点はむしろハッキリしなくなっていたと記憶している。
 いずれにせよ、紆余曲折の末に、階級陣営を代表していた私が委員長に当選したものの、結果的に見ると路線においては敗北したというのが正確な評価だと思う。そして、その敗北の責任から最も逃れがたいのは私自身となるだろう。
 当時、民主労総の準備委に属した各労組の面々は驚くべきほどの違いを示していた。連帯闘争の経験がほとんどない労組、ストの経験が一度もない各労組、労組内部での民主的手続きや過程が省略された労組などが全労代と民主労総準備委に共に参加し、民労総準備委は民主労組運動の性格に対する論争というよりは「大同団結」を名分として速度を増していった。
 議論の中では民主労組の原則というべき自主性、民主性、連帯性、解放性については意見が違うというよりは、むしろ同意に近いものだったが、いざ事業活動の中で実践的にどう反映させるのかについては明らかな限界があった。
 95年の賃団闘の時に電機協のストによって、民労総準備委の共同代表だったクォン・ヨンギル委員長と私に逮捕状が出された。これをめぐって内部では民主労総建設に対して資本と政権の大々的な弾圧攻勢と規定する分析が多かったが、結果的にそれほど厳しい情勢ではなかったことが思い出される。95年11月、民主労総が建設され、その年の12月に全労協は自らの組織課題を民主労総に移管し、解散代議員大会を最後として全労協の旗は労働者の胸の中にたたき込まれた。
 民主労総の建設が労働運動において新たな場を開き出したという点についての異見はない。韓国労総という労働組合の中央組織があるにもかからず民主労総を建設することになった根拠には、韓国労総は歴史的に見ても現実的に見ても、自主的な労働組合の中央組織とは認められないということ、したがってもうひとつの労働組合中央組織を建設するというのが民主労総の方針だ、というよりは、階級の利害を徹底して代弁する真の労働者組織のひとつを作るという基調の下に民主労総は建設された。

大闘争を記憶し継承しよう

 新自由主義の構造調整は、すでにキム・ヨンサム政権の時から始まったと記憶している。日本から導入した勤労者派遣制を貫徹させるためのキム・ヨンサム政権の労働政策は、さまざまなシンドロームの中で新労使関係、新文化フォーラム政策、新人事管理などの制度を導入しつつ、国際競争力強化の名分の下、法的制度的補完策を定着させるために、こん身の力を尽くしていた。民主労総の建設直後、「整理解雇」と派遣法は巨大な争点となった。
 民主労総がゼネストを組織して立ち向かったものの結局、超国籍資本の新自由主義攻勢は制度的試みとともに定着しつつ、労働者の内部は正規職と非正規職として対立的構造を持つに至った。そしてそれから10年が過ぎた今日、非正規保護法案が非正規職を街頭に追いやる様相を帯びて労働者階級の首を締めあげており、すでに10年前に民主労総が追認した派遣法によって、整理解雇の威力によって、多くの非正規労働者たちが困難な闘いを続けている。
 このような時期に87年の話を語るのは「歴史は記憶している者たちのもの」という飛躍した言語の延長なのだろうか? それとも継承発展に具体的実体を求めるためのあがきだろうか?
 民主労組運動は、ちらっとかすめて過ぎてしまう霧のようなものではないだろう。民主労組運動の中には、身を捧げ闘った烈士たちの精神と非妥協の闘争精神を継承するために凄絶に自らを捨てた同志たちの精神と息づかいとが込められている。今日の民主労総においては、70年当時のチョン・テイル烈士の解放精神は色あせた姿としてスクラップ化される。85年の九老同盟ストの連帯精神や87年労働者大闘争の喊声さえ次第に消滅していく感じを拭いきれない。

階級的労働運動の復元を

 労働解放の展望に向けて力強くなびいていた、血にまみれ千切れ千切れの全労協の旗は選挙のシーズンになると思い出のように、間けつのようになびいているばかりだ。5千人の解雇者と2千人の拘束者を量産した全労協の苦痛と恥辱と怒りは民主労総の歴史から消え去って久しい。
 熱情の中での激烈だった運動の記憶たちは無視され、自主性、民主性、階級性、解放性の欠如した民主労組の精神は、民主という単語自体が歪曲であるがゆえに、憂慮は一層深まるばかりだ。
 新自由主義の構造調整は階級性を無力化させ、連帯と闘争、そして解放性を棄損させようとする基本的戦略をベースとして、長期的利潤の極大化と資本の開放に血まなことなっている。
 同じ労働者階級を分割しぬき、さまざまなやり方の違いを通して階級内部を競争の構図に作りあげている。「抑圧と搾取、そして低賃金にうめいている労働者」というのは87年以前の表現だけれども、今日なお有効だと言ったら強引だろうか?
 労働者階級にとって、闘争の歴史がレンズの焦点からはずれる時、民主労組運動も労働者の政治も、その意味を失わざるをえない。そうであるかゆえにチョン・テイルや80年ソウルの春、九老同盟ストや87年の労働者大闘争は現在進行形として復元し、階級的労働運動の新たな場を開きぬくものこそが労働者の政治勢力化の真の希望となるだろうし、87年労働者大闘争の真の意味となるであろうと確信する。
 したがって87年労働者大闘争20周年を迎える今日、民主労組運動の精神である自主性、民主性、階級性、解放性を復元しぬくことだけが87精神を継承する道であり、この時期の労働者階級の主要な任務となるであろうと考える。(おわり)(「労働者の力」第133号、07年9月11日付、ヤン・ギュホン/不安定労働撤廃連帯・代表)


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