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再び考える87年労働者大闘争の歴史(2)        かけはし2007.10.15号

長い間、口にすることのできなかった「独裁打倒」を叫ぶ

厳しい情勢と新たな模索

 だが時間が流れるとともに方向を旋回した活動の兆しが現れ、現場では活動家たちの新たな模索が始まる。いくばくの活動家たちは光州のビデオ(外信記者が撮影したもの)を買いこみ自炊部屋を回り、ぶ厚い毛布で防音・防光装置(?)を作り、息さえも殺して光州に出会うことになる。
 ビデオの内容によって怒りを痛感した同志たちを集めて、光州の真実について討論するささやかな集まりが幾つも生じた。そして組合員を対象にギター講習をする一方、労働運動史を通して読後感発表の集まりを組織し、またタンタラ(大道芸人の意)というボーカルグループを組織した。このような活動の区分はもちろん、労働組合の福祉活動というタイトルを付けることによって初めて安定性(?)が保障された。
 一方、80年代中盤に進むにつれて、「プンムル・ペ(農楽に起因し、ドラ、カネ、太鼓などを用いて演じるグループ)」「ノレ・ペ(歌声サークル)」、「タルチョム(仮面踊り)と美術」などのささやかな諸サークルが大きなひとつの流れとして結集した。その集まりは「演友会」という名称へと拡張した。それぞれのグループは1週間に1回ずつ学習する時間を持つようになり、学習を主導するのは、公開されていない地域での活動家たちが担ったりした。演友会の会員は120人ほどだったが、演友会は以降、単位事業場や地域の「精鋭部隊」としての役割をはたす。
 企業別労組として強制された状態にあって連帯活動は極めて切実な課題だったが、労働運動についての悩みをひとつにまとめるのは困難だった。それでも他の事業場でギター講習を行うことなどを通して、連帯を模索するためのさまざまな努力が進められた。そうこうした中で大宇自動車の闘争や九老の同盟ストは活動の噴出口の役割として働いた。
 決して多いとは言えないが、少なからぬ「タンタラ・ペたち」と支持訪問を組織し、企業労組の限界を克服する道だけが、労働者たちが希望を持つことができるという、まだハッキリと形を結んでいるとは言えないが、そのような考えをともに交わしながら現場で連帯を行った。連帯性と階級性がどっしりと位置づけられていった(ともすれば、大宇自動車と大宇アパレルが同じ大宇グループに所属していたため連帯の隊伍を組織するうえで相対的に容易だったと覚えている)。
 単位労組の活動家たちは地域の活動家たち(主として学生出身)との交流を拡大しつつ、だんだんと自らの立場を正確に認識することとなり、その後の運動のあり方について模索してみることにもなった。そして組合員大衆と共に歩むために労働歌謡集(普及している労働歌に限りがある中で、大学街の社会科学の書籍から抜すいし、書き写して)を作り、普及させた。完全に公開された活動ではなかったけれども、チョン・ドゥファン政権の暴圧性や反労働者的ありように対して、それは怒りをまとめあげていく長い道程であった。
 このときから、労働者にはタブー視されていた「労働者の政治」に対する極めてささやかな声が生じるとともに、87年の労働者大闘争は予告なしに、変化の「合法則性」に基づいて、迫り来つつあった。

蔚山から吹く闘争の熱気

 労働組合の賃団闘(賃金および団体協約にかかわる闘争)が終わり、この総括をする場が終わりかける頃、プンムルをする演友会の仲間がやってきて慎重に言葉をかける。「きのう、ソウルで街頭闘争があったというが、きょう一緒に行ってみないですか?」。心よく同意する同志たち5人が明洞に向かった。
 慣れていない催涙弾は苦痛だったが、それを吸えば吸うほどにやりがいと誇りとを感じるというのは矛盾(あるいは逆説)ではなかっただろうか? 「長い間、口にすることのできなかった『独裁打倒』を叫びつつ、抑圧の鎖が解かれ、希望を見いだしている」と、一緒に参加した同志たちと思いを分かち合った。
 翌日も退勤直後、ソウルに行こうとしていると、安養の雰囲気には、ただならないものがあった。われわれはソウル行きのバスから降りて安養中央路の周りに集結している人々と合流した。
 道のど真ん中で赤いズボンをはいた女性が合図の仕草をすると、それを機に隊伍はあっという間にものすごい数に膨れあがり、警察署への進撃が始まった。店屋の空きビンを集め火炎ビンを作り続ける同志がいるかと思えば、舗道のブロックを壊して運んでいる同志もいる。警察署の塀の壁が壊れ、火炎ビンが投げ入れられるたびに「非暴力」を叫んでいる同志たちもいた。街頭闘争が吹き荒れ、そして過ぎ去った街には静寂が漂った。アスファルトのあちこちではたき火がたかれ、互いに見知らぬ同志たちと、その日の闘争について共に語り合いもし、このようにして6月の夜は深まっていった。
 ノ・テウの6・29宣言以後、街頭闘争の熱気は工場の塀の中に伝えられ始まる。労働組合のない工場では労働組合結成闘争がストを皮切りにして始められ、蔚山から吹いてくる闘争の熱気は全国を焼きつくした。
 それぞれの会社は弾圧や偽装廃業などによって対抗したが、闘争事業場を支援する連帯の隊伍は強固だった。女性だけの事業場の闘争現場で徹夜で糾察に立ち、そのまま出勤する同志たちもいたし、連帯闘争を使命感によって受け入れる大衆もひとり、ふたりと増え続け、闘争の連帯を通して労働組合の組織的課題についての討論も始まった。
 新しく作られた新規労組を土台として、偽装廃業事業場である「安養電子共対委(共同対策委員会)」代表者会議が作られ、廃業阻止闘争と地域労組連帯闘争を通じて地労協建設についての方案が模索された。安養、安山、水原地区協議会が作られ、また地域連合体である「京畿南部地域労働組合連合」が作られるとともに、遂に地労協の土台としての歴史的な全労協が建設されるに至る。

 苛酷な時期に建設される全労協は地域と業種の力量を結集したからと言って結成できるものではなかった。中央組織の建設過程は、企業別労組の限界を克服し、全国の各労働組合が自らの力量を中央に集中し指導の求心をうち立てていくものであり、そのような力量の確保は労働大衆の連帯闘争の経験によってこそはじめて可能だった。

ゼネストとメーデー闘争

 89年のメーデーは4・29前夜祭と4・30本大会とが結びつく激烈な闘いの場だった。
 100周年の世界メーデー集会を前にして、キム・ヨンサム政権は関係機関による対策会議を行い、内務省(省)、法務部、労働部長官の共同談話を通して不法集会の事前封鎖と厳重処断の措置を発表した。だが奪い去られたメーデーを、闘争によって闘い取ろうとする尽きることのない熱気は、現場から噴出していた。前夜祭の場所だった延世大は4月29日午前から封鎖された。それにもかかわらず、延世大の裏山を越えて5千人の同志たちが延世大に進入し、残りは西江大、漢陽大および東国大に分かれ、徹夜の労働運動弾圧糾弾大会とメーデー争取闘争の決意を貫徹した。
 私が属していた京畿南部地域の労働者たちは延世大進入をはかったものの、封鎖に阻まれて東国大に向かった。夜9時すぎには東国大にも2千人の労働者たちが結集し、校門に配置された警察部隊と3時間以上にわたって校門突破闘争を継続した。夜空を裂いてひっきりなしに飛んでいく火炎ビンから吹きつける熱い火花は、労働者の怒りを込めたひとつの芸術作品のようだった。
 夜明けまで、隊伍は各地域別の討論を通じて本大会への進入闘争についての討論で大部分、徹夜した。朝ぼらけの到来とともに校門突破闘争が始まった。
 校門を突破したそれぞれの隊伍は阿 洞(クルレバン橋高架を過ぎ梨大入り口)の大路を占拠し、延世大方向への進出を試みた。押しつ押されつの攻防は数時間も続き、自信感を持ち始めた現場労働者たちの手には、いつの間にか角材、石つぶて、火炎ビンが握られていた。
 阿 洞の大路を占拠した労働者たちは3500余人に膨れあがった。押しつ押されつの攻防の末に闘争の隊伍は京畿大付近で攻防を繰り返す中で、遂に警察を武装解除した。
 志気の上がった同志たちと共に清渓川と鍾路で夜遅くまで街頭闘争の熱気は冷めやらなかった。
 世界メーデーを迎えて進められていた1泊2日の闘争は独裁政権に奪われたメーデーを大衆闘争によって復活させたという成果と、メーデー闘争を通じて労働者・学生はもちろん民衆連帯の場を開いた、との評価がされもした。この闘争を通じて5500人の同志たちが連行され、100人以上が負傷し、そのうち30人は重傷という対価を支払わなければならなかった。
 そして翌日の5月1日、総会形式のストを決議し、全国13地域でゼネストを展開した。

現場ストと連帯闘争

 賃闘争と重なりはしたが、私が属していた事業場でも労働者たちはストを敢行し、争対委は文化活動を担っていた演友会を中心に編成された。緊張が漂っていたストを翌日に控え、工場全体が沈黙のような雰囲気に覆われた。単位事業場の賃闘に際しては必ずや公権力の侵奪・介入があったために、いつも決死抗戦の決意が必要だった、というのが当時のスト現場での一般的な雰囲気だった。
 スト時間が迫りつつある深夜、組織部長と私は誰にも知られず予備軍の武器庫に向かった。職場の予備軍武器庫には手榴弾、カービン銃、銃弾などが常備されていたし、そのようなものを予め確保しておく方がよい、というとんでもない発想だったが、その当時の労働者の気分としては、そんな極端な発想もあったということを理解してもらえれば、ということだ。足音をしのばせて用心深く近づいた武器庫は入り口が完全に開かれていた。驚いたのなんのといってなかった。よくよく考えてみれば、すでに気配を察したか、あるいは安全に備えた結果なのか分からないが、武器庫は既にすっからかんだった。

工場を占拠したストライキ

 「賃金引き上げに勝利し、最低生計費を闘いとろう」、「烈士精神を継承し、全労協を建設しよう」。
 工場を占拠したストでは、敵どもの侵奪に備えた糾察組が編成された。工場の塀にそって哨所が設置され、組織局が組の編成をし、ひと晩中の巡回を決め、糾察に立つ。
 夜11時すぎに哨所を巡回していた際、ある哨所で女性同志が、とてもうれしそうにしながら、ちょっと話ができないかと言ってきた。ぼんやりした街灯の下に見えるその同志は、明らかに顔見知りの同志で、実はちょっとよくない記憶の残っている同志だった。新入組合員教育の際に教えた「労働解放歌」という労働歌についての問題提起をしていた同志だった。その提起の核心は、「明るく健康な歌もたくさんあるのに、よりによってこんなにも暗く、やるせない歌を、なぜ教えるのか」というものだった。教育を終えて、その同志と何時間も討論したが、結局は理解を得られない、という結果だけが残された。
 その日、その同志はまず、おわびしたいと語った。地方で女子商業高を卒業と同時に大企業に就職することができ、胸には希望が満ち満ちていたのに、実際に工場生活をしてみると数カ月前の、あの歌が充分に理解できるようになった、というものだった。
 同じ哨所で糾察に立っていた5人の同志たちとともに交わした討論は、東の空が明るくなり始めるまで続いた。極めて短い討論ではあったけれども、資本主義の矛盾について心から同意する、そして労働解放の具体的イメージとは何を意味するのかについての共有の域を超え、実践を決意するという意味ある場だった。
 そしてわれわれ労働者の本当の中央組織である「全労協」が建設されなければならない理由と、建設闘争の中でわれわれは何をすべきかなど、多くの討論と決意とを寄せ合った。おそらくスト闘争でなかったならば自由に討論できる空間をなかなかできなかっただろうし、社会構造について考える固定した見方が変わることも、なかなか容易ではなかっただろう。当時の15日間のストは労働者の学校としての機能を完璧に担いぬいたと思う。そして闘いの中で確かめられるそのようにさまざまな決意が全労協建設の土台となったものと確信する。

全労協建設をめぐる攻防

 地域やTNDという日本の投資企業の電子工場でストが起きた。当時は常に救社隊と奴らの侵奪が憂慮される状況だった。ストの隊伍を死守するために、地域の連帯は強固だった。
 寒波が押しよせる12月、地域の連帯の隊伍は夜通しで糾察哨所を共に死守し、翌朝はスト現場からそのまま工場に出勤するという悲壮な連帯闘争が続けられた。工場で仕事をしている最中でも非常連絡網が働けば仕事の手を止めて、奴らの弾圧を阻止するために自ら振り切って出てきた同志たちの姿こそが、全労協の可能性を高めていった。
 87年大闘争の影響によって民主労組運動が活発になるとともに、暴力的な現代グループの労働者に対する敵対性が際立つこととなった。128日間のゼネストを展開した現代重工業の同志たちに対する出刃包丁や角材によるテロ事件が起こった。現代グループの解雇者協議会を襲い、野球のバットや鉄パイプなどによって、また労組運動家たちに無差別的な暴力行為をすることによって、労組破壊の専門家(ジェイムス・リー)を使うことによって民主労組を抹殺しようとしたのだ。     (つづく)
(「労働者の力」第132号、07年8月27日付、ヤン・ギュホン/不安定労働撤廃連帯・代表)

【訂正】本紙前号(10月8日号)5面「荒川・墨田・山谷&足立実行委」の記事最下段22行「池田五津」を「池田五律」に、同最下段「訂正」記事の「7面」を「10月1日号7面」に訂正します。同9月24日号4〜5面欄外の日付と号数「7月9日、1984号」を「9月24日、1994号」に訂正します。


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