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ラテンアメリカにおける左翼の戦略(上)         かけはし2007.9.3号

グローバリゼーションに対抗
するオルタナティブモデルを

クラウディオ・カッツ



 二十一世紀の社会主義を建設しようという呼びかけは、ラテンアメリカ左翼の戦略的討論を再開させることになった。社会主義の性格付けと行動の路線が、社会主義の目標を前進させるために再び分析の対象になっている。
 この再考には六つの大きなテーマが含まれる。物質的諸条件、社会的諸勢力の関係、社会的主体、民衆の意識、制度的枠組み、そして抑圧された人びとの組織化である(注1)。

生産諸力の成熟

 第一の論議は、古典的論争を再び取り上げている。ラテンアメリカにおける生産諸力は、反資本主義的変革を開始するのに十分なまでに成熟しているのだろうか。現存する資源、テクノロジー、能力は、社会主義的プロセスを始めるのに十分なものなのだろうか。
 この地域の諸国は、先進諸国に比べて準備の度合いは少ないが、この変革に直面する必要性においてはより緊急性が高い。これらの諸国は、先進諸国の経済よりも厳しい、栄養、教育、衛生面での惨害に耐えているが、こうした諸問題を解決するための物質的前提は弱体である。この矛盾は、グローバル経済の中におけるラテンアメリカの周辺的性格がもたらした結果であり、農業の後進性、細分化された工業化、金融的依存性がもたらしたものである。
 こうした状況に直面する中で、左翼の側には二つの伝統的回答が存在する。すなわち、進歩的資本主義の段階を促進・支持するのか、それともこの地域の不十分性・欠陥に適合した社会主義的移行を主導するのか、である。最近の文書では、われわれは第二の選択を支持するさまざまな主張を表明してきた(注2)。
 しかしもう一つの同様に関連した議論では、それぞれの路線にとって有利なチャンスを中心に据えて論じている。生産力の衰退と銀行破綻という深い傷を負わせる一時期の後に、ラテンアメリカは経済成長、輸出の増大、企業利潤の再構築という局面を通過している。こうした諸条件の中で、反資本主義的変革を正当化しうる破綻は予見できないということには、誰も反対できない。
 しかし社会主義的選択は、不況サイクルを克服するための危機解決のためのプログラムではないし、この点でそれはケインズ主義とは厳密に区別されるものである(注3)。その目標は、資本主義を特徴づける搾取と不平等を克服することにある。それは、貧困と失業をなくし、環境災害を根絶し、悪夢の戦争に終止符を打ち、金融的激変を止めることを目指している。
 この分極化は、今日のラテンアメリカの危機的情勢の中でなされている。利潤の増大と裕福な階層の消費の増大は、悲惨な貧困の恐るべき指標と対照をなしている。経済的惨害の頂点においていっそう明らかとなったこうした苦難は、社会主義への闘いを正当化している。崩壊の情勢は、システムを一掃する唯一の適切な時期であるというわけではない。反資本主義的転換は一時期全体にわたって開かれた選択であり、このサイクルのどのような状況の組み合わせにおいても開始することができる。二十世紀の経験はこの事実を確証している。
 経済的危機の頂点と一致した社会主義革命は存在しない。それらのケースの多くは、戦争、植民地の占領や独裁体制の弾圧の結果として噴出した。こうした文脈の中で、ボルシェビキは権力を獲得し(ロシア)、毛沢東は中国の支配を実現し、チトーはユーゴスラビアで勝利し、ベトナム人たちは米国を追放し、キューバ革命は勝利の凱歌を上げた。こうした勝利のほとんどは、戦後の全面的な好況の中で完成された。すなわち資本主義の記録的な成長段階のただなかで実現されたのである。したがって社会主義のデビューと経済的危機との間に自動的なつながりはない。システムの周期的変動のどのような段階においても、資本主義が生み出す貧困は、それを逆転させるものを支えるに十分なのである。
 社会主義的プロセスを開始することへの異論の一つは、グローバリゼーションが作りだした障がいである。今日の資本のグローバル化は、ラテンアメリカにおける反資本主義への挑戦を実践不可能なものにしている、と主張されている。
 しかし、その障がいとは一体どこに存在するのか。グローバリゼーションは、社会主義といった普遍的広がりを持つプロジェクトへの障がいとはならない。国境の氾濫は、資本主義の不均衡を広げ、社会主義的変革のためのより良い客観的基盤を作りだしている。
 オルタナティブなモデルを不可能にする段階としてのグローバリゼーションという説明は、右派のモデルにとってオルタナティブは存在しないと主張する新自由主義的ビジョンの派生物である。しかしこの理由によって社会主義を投げ捨てるのであれば、あらゆるケインズ主義的構想や調整資本主義のオルタナティブをも拒否することが必要となる。グローバリゼーションの全体主義は反資本主義的構想を埋葬してしまったが、蓄積に介入する形態は許容すると主張するのは、自己矛盾である。社会主義へのすべての選択を閉ざしてしまったならば、新開発主義の開幕もない。
 しかし現実には、グローバリゼーションは歴史の終焉ではなく、すべてのオルタナティブの可能性が開かれている。グローバリゼーションは、抑圧された人びとを犠牲にした利潤の再構築、そして主要な国際的不均衡の最も弱体な経済への移転によって支えられた、蓄積の新しい時代が始まったことを意味するに過ぎない。このような後退的方法は、新しい段階に対する民衆の唯一の回答としての社会主義の必要性に、新たな生命力を吹き込んでいる。社会主義は、国民国家の枠組みの下でのグローバル資本主義の拡張が生み出した不安定や、金融投機の氾濫、帝国主義の分極化、市場と技術的進歩の乖離によって作りだされた緊張を矯正しうる、唯一の出口なのである。

諸力の相互関係

 抑圧された人びとに有利な力関係が卓越したものになっていることは、社会主義的変革の一条件である。民衆の多数派がきわめて不利な力関係に直面しているのであれば、彼らは支配階級の敵対を圧倒することはできない。しかしわれわれはどのようにして、こうした諸要素を判断するのか。
 ラテンアメリカにおける諸力の相互関係は、地域の資本家階級、抑圧された大衆、アメリカ帝国主義という三つのセクターが獲得したり、あるいは脅かされたり失ったりした立場によって決定される。一九九〇年代、労働に対する資本の大規模な攻撃は、グローバルな規模で頂点に達した。最初のサッチャー派のこうした一斉攻撃の力は弱まったが、それは国際的な規模で労働者にとって全般的に不利な機運を残すことになった。ラテンアメリカでは何が起こったのか。
 ラテンアメリカ地域の資本家たちは、この攻撃に積極的に参加したが、このプロセスからさまざまな付随的結果をこうむることになった。商業部門の開放とともに彼らは競争的地位を失い、生産機構の非国有化とともに彼らは海外の競争相手に対して自らを護ることをあきらめた。後に、金融危機が体制を打ち負かし、彼らの直接的影響力を取り除いた。その結果、右派は少数派となり、中道左派政権が国家の支配において多くの保守派に取って代わった(とりわけ南米南部の三角地帯において)(注4)。資本主義的エリートたちは、もはや罰を受けずに地域全体の課題を設定することができなくなった。彼らは、この構想の構造的衰退という結果となった新自由主義の危機の影響を被ることになった。
 地域の力関係も、大規模な民衆的高揚によって修正を受けることになり、南米ではさまざまな国家元首の退場に拍車がかかった。ボリビア、エクアドル、アルゼンチン、ベネズエラの反乱は、支配階級全体に直接の反響をもたらした。彼らは、企業への攻撃に取り組み、多くの国では大衆とのある程度の順応を強制した。
 闘いの衝撃は、きわめて不均等である。ある諸国(ボリビア、ベネズエラ、アルゼンチン、エクアドル)では民衆の中心的役割が顕著だが、他の諸国では、期待外れの結果として退潮状態が蔓延している(ブラジル、ウルグアイ)。新自由主義の序列に導かれた国(チリ)や、社会的腐敗や移民の大量流出が圧倒的な国(メキシコ)での労働者や学生の闘争の目覚めという新たな発展もある。諸勢力の相互関係は、ラテンアメリカの中できわめて異なったものだが、この地域全体を通じて民衆的イニシアティブの全体的な流れが再確立されている。
 一九九〇年代の初頭、アメリカ帝国主義は自由貿易と軍事基地の設置を通じて、自らの裏庭で再植民地化政策を出発させた。このパノラマもまた変化した。米州自由貿易協定(FTAA)の当初の案は、内部市場におけるグローバル化された企業と従属的企業との対立、輸出業者、工業経営者、この構想への民衆的拒否の拡大の間の衝突によって失敗した。米国務省が開始した二国間協定による反撃は、この後退を埋め合わせるものではない。
 ブッシュの国際的孤立(選挙での共和党の敗北、イラクでの失敗、欧州での同盟国の喪失)は、単独行動主義のスペースを閉ざし、米国に反対する地政学的ブロック(非同盟諸国会議のような)の復活に拍車をかけた。このアメリカの後退は、ベネズエラの挑戦に対する軍事的対応がなされないことに鋭く反映されている。
 したがって、諸勢力の相互関係はラテンアメリカにおけるさまざまな重要な変化として記録されてきた。支配階級はもはや新自由主義の戦略的羅針盤に頼れず、民衆運動はその街頭での地位を取り戻し、アメリカ帝国主義は介入の能力を失ってしまったのである。

主体の多様性

 社会主義的変革の主役は資本主義の支配の被害者たちだが、ラテンアメリカにおけるこのプロセスの特殊な主体は、きわめて多様である。一部の地域(エクアドル、ボリビア、メキシコ)では先住民族コミュニティーが抵抗の指導的役割を占めており、また別の地域(ブラジル、ペルー、パラグアイ)では農民が抵抗を主導してきた。ある諸国では、闘いの主役は正規の都市労働者(アルゼンチン、ウルグアイ)や、不安定でインフォーマルな都市労働者(ベネズエラ、カリブ海諸国、中米)だった。先住民族コミュニティーの新たな役割と、工場労組の役割の弱体化が目立っている。諸セクターの多様性は、それぞれの国の差異化した社会構造と政治的固有性を反映している。
 しかしこの多様性は、社会主義的変革の参加者たちの多様性をも確認するものである。資本主義の発展が給与労働の搾取と、抑圧の派生的形態を拡大するにつれて、社会主義的プロセスの潜在的主役は、すべての抑圧され、搾取された人びととなる。この役割は、企業利潤を直接的に生み出す給与労働者にのみ宛てられるものではなく、資本主義的不平等のすべての犠牲者にふりあてられるのである。不可欠なことは、反乱の変転極まりない焦点をめぐって拡大する、共同の闘争の中でのこれら諸セクターの合流的結集なのである。民衆陣営を分割して支配する敵に対するこうした行動に勝利がかかっている。
 こうした闘争の中で、給与労働者の特定の部分が、経済の決定的部門(鉱山、工場、銀行)で彼らが占めている位置ゆえに、より中心的な役割を果たす傾向がある。資本家はすべての奪われた者たちの窮乏から利潤を得るが、彼らの利潤は、搾取された人びとの直接的労働力と、特定の活動によって特殊に作りだされる利潤に依存しているのである。
 この中心的問題は、経済的復活の今日的な局面の中で立証されており、それは給与労働者の重要性を再形成する流れとなっている。アルゼンチンでは、二〇〇一年の危機の中で失業者や中産階級が果たした役割と対比して、労働組合が街頭での卓越した役割を回復している。チリでは鉱山労働者のストライキが指導的な位置を果たしており、メキシコでは特定の労組がある役割を確立し、ベネズエラではクーデターの企図(二〇〇二年)に対決する闘い以後、石油労働者の中心的位置が持続している。(つづく)

(注1)この意欲的な理論的文書は初めて英文に訳されたものである。ラテンアメリカにおける社会主義の未来に関する活気に満ちた討論の中で行われたクラウディオ・カッツの発言は、ラテンアメリカとスペインの左翼の雑誌、評論誌、ウェブサイトなどで多くの論議の対象になってきた。カッツの最新の論文の翻訳を掲載するにあたって「ニューソシアリスト」誌(第四インターのメンバーをふくむカナダの社会主義者が発行している雑誌)は、現在ラテンアメリカを土台に行われている二十一世紀の社会主義の建設をめぐる討議の雰囲気を北米の読者に紹介しようとしている。同誌の編集者は、原文に説明的な脚注を付けている。クラウディオ・カッツは、ブエノスアイレス大学の経済学者で、アルゼンチンの「左翼エコノミスト」のメンバー。この論文は、「ニュー・ソシアリスト」の編集者ジェフリー・R・ウェバーが翻訳し、同誌の61号(2007年夏号)に掲載された。
(注2)クラウディオ・カッツ「社会主義か新自由主義か」。
(注3)ケインズ主義は、ジョン・メイナード・ケインズの改良主義的経済理論。ケインズ主義は第二次大戦の終了から一九七〇年代まで最も影響力があった。
(注4)「南部三角地帯」とは、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ、パラグアイを指す。


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