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世論の過半数が国防軍の「国境外」への配置に反対    かけはし2007.9.3号

残忍な反社会的緊縮政策が「左翼」への支持を拡大

ドイツ左翼政党の合同
新しく生まれた党「左翼」をめぐる動向とその可能性  マニュエル・ケルナー


希望と順応のはざま

 二〇〇七年六月十六日をもって、左翼党・PDS(左翼党・民主社会党、旧東独政権党の後継政党)とWASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)はもはや存在しなくなった。二年間の準備を経て、これら二つの党は正式に合同し、新しい党であるディ・リンケ(「左翼」)を作った。その前日、最後の党大会が別個に開催され、圧倒的多数で両党の統一が承認された。
 左翼党・PDSは、特に東ドイツに基盤を持ち、党員数は六万人、WASGは党員数ほぼ一万一千五百人である。合同大会の前に、両党の党員たちは合同に賛成か反対かを投票で示すように要請された。左翼党・PDSにおいては、圧倒的多数が賛成した。WASGにおいては、非常に不明確であった。投票に参加したのは五〇%をわずかに下回ったので、この約半数の中で圧倒的多数であったとしても、事実上、合同に積極的に賛成したのは党員の少数派に過ぎないことになる。
 これは、WASG下部党員の中の二〇〇四年創立時の熱気が冷めていることを反映しており、WASGの党員の一部が新しい党に参加しない可能性が大いにありそうである。一部のWASG党員は、自分たちの若い党への特別のアイデンティティとルーツを意識しており、合同を、党員数でまさり広範な支配機構と連邦議員フラクションを持ち旧東ドイツの行政指向タイプのメンバーを抱える強い党による植民地化と考えている。

ブレーメンにおける成功

 しかし、小さな州であるブレーメンの地方選挙以降、合同は既成事実とみなされ、「左翼」の影響力と力は新たな高まりを示している。まず、二〇〇七年五月十三日のブレーメン地方選挙の結果を見ておこう。
 与党CDUとSPDは、それぞれ四・一%と五・五%得票率を減らした。野党は得票率を拡大した。FDPの得票率増加はわずかであったが、緑の党は三・六%増やして一六・四%に達し、「左翼」(左翼党・PDSとWASGの統一候補)は六・七%増やして八・四%へと躍進した。選挙前日の世論調査では「左翼」の得票はわずか五%と予想されていた。
 「左翼」にとって、この結果はいくつかの点で重要である。一九七〇年代末に、ブレーメンの選挙での緑の党の明確な勝利が連邦レベルでの躍進のさきがけとなったことを思い出す必要がある。「左翼」は連邦議会でフラクションを二年間維持し、世論調査で常に八〜一〇%の支持を記録していたとしても、東部地域の選挙では根付くことに成功しているが、多くの西部地域では「左翼」(左翼党・PDSとWASGを合わせたもの)は依然としておおむね五%障壁を下回っていることは、誰もが知っていることである。西部地域でこの障壁を大きく上回る結果になったことによって、われわれは選挙における新たな前進を予想することができる。
 ブレーメンの結果については、選挙キャンペーンの内容も重要である。内容は明確に野党的であった。これに対して、ベルリン都市州でSPDと連立政府を構成している左翼党・PDSは地方選挙で半分近い得票を失った(が連立を維持している!)。ブレーメンの結果は、新党の中でミルラン主義[原注1]と闘おうとする人々を勇気づけるものである。
 創立大会後の最近の世論調査は、選挙における「左翼」の上昇傾向を確認している。フォルサ研究所によれば、SPDの支持率は二ポイント減って二五%、CDU/CSUは一ポイント減って三七%であるのに対し、「左翼」は一ポイント上がって一二%に達し、FDP(10%)と緑の党(10%)を上回って最大野党になった。二〇〇七年六月十九日のエムニド研究所の調査によれば、CDU/CSUは三六%、SPDは二八%、「左翼」は一三%で、やはりFDPと緑の党を三ポイント上回っている。

影響力の拡大と様々な傾向

 別の世論調査は、ドイツの有権者の二五%が左翼党への投票を「考えないことはない」という驚くべき結果を示している。さらに別の世論調査によれば、SPD党員(いまや50万人をやや上回る程度にまで減っている)の一〇%が離党して「左翼」に加入することを「考えないことはない」。
 SPDの労働組合における影響力が侵食を受けるとすれば、そこから利益を得るのは「左翼」である。かなりの数の組合活動家だけでなく、役員の一部や専従でさえ、「左翼」に向かい始めている。全国連合レベルの組合指導部の一部でさえ、「左翼」を政治的レベルにおける少なくとも第二の対話の相手として扱い始めている。すべては未だ傾向に過ぎないが、これはわれわれの組合活動家の経験によって、とりわけ金属労働組合(IGメタル)やサービス産業労働組合(Ver・di)において確認されている実際の傾向である。
 旧WASG党員の一部(2〜3千人)が統一新党に参加しないとしても、その大多数が社民党系を起源とする新党員の一定の流入を予想することができる。党の進化にとって、より正確に言えば党の明確な反資本主義的傾向にとって、これは何を意味するだろうか。これは結論の出ていない問題の一つである。
 なぜなら、そこには考慮する必要がある矛盾した要素が存在するからである。たしかに、特に自治体レベルや州レベルのキャリアの展望にひきつけられてやってくる人々が存在する。このレベルにおける議会活動は党の体制順応への傾向を強める危険をともなう。他方では、この党員の流入は、左翼に向かう政治意識の前進を反映するであろうし、したがってこれらの新党員を「獲得する闘い」は、一貫した反資本主義的傾向にとって前もって負けと決まっているわけではない。
 したがって、われわれのような傾向、すなわち、党内で支配的であるがしかし現代資本主義の文脈の中では非現実的な新ケインズ主義的展望に向かう過渡的要求の戦略に反対する傾向にとっても、前もって負けではない。

G8反対で動員が復活

 多くのことが、いつものように、社会的情勢、動員、そして階級闘争の展開にかかっている。G8サミットに反対する動員は、否定しがたい成功であったし、過大評価をしてはならないが、急進的な反資本主義的展望にひきつけられる新しい若い世代の部分もおそらく存在した。しかしまた、テレコムにおける数週間にわたるストライキ行動に象徴的に示されるように、猛烈な賃金切り下げと不払い労働時間の増加に直面した被雇用者の防衛的闘争の復活もあった。これまでの長い間で初めて、ドイツでストライキ日数が増加している。これに加えて、(少なくとも世論調査に示される限り)ドイツの人口の過半数が、ドイツ国防軍の「国境外」への配置に反対している。ドイツ国防軍は、少なくともドイツ憲法に従えば、考えられる攻撃者に対して国を防衛する以外の使命を持っていない。
 厳しい新自由主義的政策、尊大な雇用主の攻勢、残忍な反社会的緊縮政策や羽目を外した民営化の大騒ぎが、「左翼」への支持を作り出し、急進的改良主義からローザ・ルクセンブルグ式の「革命的現実主義」に至るマルクス主義や社会主義的戦略の思想を含む、急進的政治思想への道を開く動きを、部分的に積極的にもたらしている。
 同時に、参加者があきらめから抗議運動や防衛的運動に落ち込む大きな危険も依然として存在する。勝利できないからである。彼らは敗北し、あるいは賃金生活者やその同盟者を弱めることに寄与するみすぼらしい妥協を受け入れる。
 今日、力関係を逆転し、新自由主義と雇用主の攻勢を終わらせ、新しい獲得物を実現するには、真の階級闘争、大衆ストライキを含む数百万人の動員、そしてそのような動員の内部における活動的で民主的な自己組織化が必要である。そのような運動は、同時に、資本主義体制を超える展望を日程にのぼせるであろう。今後数年間にそのような動員があるかどうかは、だれも予言することはできない。

急進的議論とその限界

 いずれにしても、党の政治的レベルにおいては、現在のところ、急進的態度は利益をもたらす。とりわけ、政治屋としての本能がよく発達したオスカー・ラフォンテーヌは、新党「左翼」の頂点にいるすべての指導者よりも反体制的で急進的なレトリックをよく理解し駆使しており、自らを最左翼に、ドイツの既成の政治世界にとって公式に受け入れられる枠組みをおそらく超える位置に置いている。
 ベルリンにおける「左翼」の創立大会での演説の最後に、「信頼できる」こと、あるいは「信頼できる」ようになることの必要性を強調した理由がここにある。それは、ベルリン都市州においてSPDの新自由主義的管理に従属的立場で参加しているPDSの、そして今日の「左翼」の、連立政策に彼が同意していないことを外交的に表現する方法であった。この政策が「左翼」の選挙における前進を損なう可能性があることを、彼はよく理解しているのである。
 しかし、このことは、連邦レベルにおいておそらく二〇〇九年からでさえ考えられる将来のSPD(およびおそらく緑の党)との連立に同じオスカー・ラフォンテーヌが賛成することを妨げるものではないことを言っておく必要がある。もちろん、これにはSPDが「変わる」必要があることを、彼は常に付け加えている。これは、現世代のSPD指導者たちに対する彼の個人的勝利となるだろう。SPDの指導者たちは、彼が大臣と党を辞めて以来、彼を宿無し扱いしてきたが、今や自信をなくし、キリスト教保守派のジュニアー・パートナーとして左翼に対して圧力をかけるという居心地の悪い役割から抜け出す道を見つけられないでいる。しかし、SPDがどのように変わるのだろうか。二〇〇九年にキリスト教保守派とリベラルより左の数的多数派として、だれがこの変化を「十分である」と診断できるのだろうか。おそらく、それは巧みな政治屋にして華々しい伝達者であるオスカー・ラフォンテーヌ自身である。

ISLの闘い

 われわれは、ISL(国際社会主義左翼、ドイツの二つの第四インターナショナル加盟組織の一つ)として、「左翼」の建設に参加している。われわれのメンバーの一人であるティエス・グライスが、創立大会において連邦役員に選出された。もう一人のメンバーであるヴォルフガング・ツィンマーマンは、ノルトライン・ヴェストファーレン州の党のスポークスパーソンである。他のメンバーも、州レベルおよび地方レベルで公式の役割を担っている。特に、ヘルマン・ディエルケスはデューイブルグ地方議会における「左翼」議員フラクションの指導者である。われわれは、革命的マルクス主義の信念を放棄することなくこの党の建設に参加することを決定した。
 このことは、党内で反ミルラン主義的多数派を形成するために闘い、「反資本主義的左翼」傾向に参加することを意味する。同時にわれわれは、賃金生活者や社会の弱者の利益を一貫して防衛するためには体制に疑問を呈する必要があることを理解させるために、長期的戦略的論争を助長するように試みる。
 この目的のために、われわれはSALZeV(WASGに近い政治教育のための協会)を支持し、また別のレベルでは「マルクス主義者の対話」に参加している。二〇〇七年四月二十日〜二十二日にベルリンで開催された第二回マルクス主義者会議では「マルクス主義者の対話」は七百人の参加者を集め、この対話を継続し二〇〇七年十月十三日にベルリンで行われる会議後に十月革命およびレーニンの『国家と革命』九十周年集会を組織するために、固定した多面的調整委員会を設置した。
 確かに、現在、革命的および急進的左翼サークルは崩壊と分解の気分の中にある。これはある程度「左翼」の成功に結びついており、「左翼」の成功によって彼らがさらに取り残されてしまう可能性がある。党の外部には常に、そして今も、このようなサークルが存在する。ベルリンでは、ベルリンにおけるWASGの反乱の後継者であるBASGが、PDSと全国指導部多数派の意見に反対して地方選挙に立候補し、「左翼」には参加せず、引き続き新しい形で連立政策反対の闘いを続けている。ベルリンの同志アンゲラ・クラインと同様、われわれもこの方向を支持する。
 われわれは他の人々とともに、二〇〇七年十月十四日にベルリンにおいて、党の「内外」の一貫して反資本主義的意識を持つ潮流と個人の集会を開催することを呼びかける。この集会では、この合同の最初のバランスシートが討論されるだろう。また、議会外行動のレベルにおける共同活動、教育活動、資本主義体制を連帯に基づいた経済と社会主義的民主主義に置き換えることを望むドイツに存在する諸勢力や個人の永続的な協調を作り出す可能性について討論されるだろう。

▲マニュエル・ケルナーは、ドイツの二つの第四インターナショナル加盟組織の一つであるISL(国際社会主義左翼)の調整委員会のメンバーで、ケルンの新党「左翼」のメンバーである。彼は連邦レベルで活動している教育協会SALZeVの教育ディレクターである。SALZeVはノルトライン・ヴェストファーレン州では「WASGに近い」と認識されているが、現在、「左翼」による公認を要求している。

原注
[1] アレクサンドル・ミルランに由来する。アレクサンドル・ミルラン(一八五九〜一九四三)は、法律家でジャーナリスト、一八八五年にセーヌ県から社会党下院議員に選出された。一八九九年のピエール・ワルデック=ルソー内閣への入閣は、ローザ・ルクセンブルクやジュール・ゲードの反対に遭遇した。彼はさらに右への進化を続け、一九一四年には共和国国民同盟を結成し帝国主義戦争を支持した。一九二〇年一月にはジョルジュ・クレマンソーに代わって首相となり、一九二〇年九月にはフランス共和国大統領に選出された。(「インターナショナル・ビューポイント」07年7・8月号)


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