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炭素排出、珊瑚礁の喪失、アマゾン川流域の森林破壊    かけはし2007.9.24号

多くの領域で破壊は加速度的に進行

環境破壊--なぜエコ社会主義なのか
商品ではなく自然と共存できるオルタナティブが問われている
                          ジョエル・コーベル


環境の時代の
到来と限界

 ホモ・サピエンスは旧石器時代以来、そして狩猟集団によってなされた最初の大規模な破壊行為以来、自然に対するその影響と闘ってきた。しかし一九七〇年代以前には、これらのことが種の未来を脅かす巨大な生態系の危機としては経験されてはこなかった。現代の環境運動はこの時に生まれた。アースデー、緑の党、そして数えきれないほどのNGOは、新しいエコロジー的に覚醒した世代が、この地球的危機と取り組むために立ち上がったことを示した。
 こうした初期の楽観主義は、もはや全く姿を消した。ゴミの大規模なリサイクルやグリーンゾーンの発展といった一定の有益な介在にもかかわらず、政府による規制、環境NGOや学界のプログラムが、エコロジー的荒廃をチェックすることに失敗したのは明らかである。実際、最初のアースデーが宣言されて以来、炭素排出、珊瑚礁の喪失、アマゾン川流域の森林破壊といった決定的領域での破綻は加速し、幾何級数的破壊という性格を帯びはじめた。
 それを自覚することによって現在の環境主義の限界を超えた最も力強い努力を啓発するような、この厳しい現実をいかに説明するのか。おそらくここでマーガレット・サッチャーに注意を向けるべきである。一九七〇年代後半、まさに環境の時代の到来を告げたこの時期に、英国の首相である「鉄のレディー」は、「TINA」の登場をうたいあげた。「TINA」とは、今ここにある社会に「オルタナティブなど存在しない」(There Is No Alternative )という彼女のスローガンの頭文字であり、環境主義者 の第一の波が描いた方法にはオルタナティブは存在しなかった。
規制を認めない
新自由主義の台頭

 実際に起こったことは、環境主義がこの点を捉えそこない、資本主義の基本的な欠陥としてではなく外部的症状として扱ったことであった。サッチャーはそれを細部まで詳しく説明しなかったが、彼女が何を心に描き、支持したかについて誤りはなかった。すなわち資本主義、より正確に言えば、二十世紀の多くの期間に一世を風靡した福祉国家資本主義に代わって一九七〇年代に立ち上げられた、生まれ変わった、より非妥協的な資本主義へのオルタナティブなどない、ということだった。
 これは、われわれが新自由主義として知っているものを立ち上げるようグローバル経済の指導者たちに確信させた、深刻な資本蓄積の危機に対する熟慮の上での回答だったのである。サッチャーは米国のロナルド・レーガンと並んで、その政治的相貌の象徴だった。
 新自由主義は資本の純粋な論理への回帰だった。それは束の間の嵐ではなく、われわれが住んでいる資本主義世界の真の状況だった。それは資本の攻撃性を抑え込んできたいかなる措置をも一掃し、それを人間と自然へのむきだしの搾取に置き換えた。資本蓄積に課された境界線や制限の破壊は「グローバリゼーション」として知られており、トーマス・フリードマンのようなイデオローグによって、自由貿易と足かせを外された商品化の翼に乗って運ばれる普遍的進歩の新たな時代として祝福された。この猛爆撃は、一九七〇年代の環境運動がエコロジー的荒廃にチェックを加えるために行った僅かなリベラル的改革をあっさりと打ち負かしてしまった。そしてこれらの運動が、資本への批判をほとんど、あるいは全く行わなかったことにより、それは加速化した破壊の時代に、救いがたいまでに行き場を失って漂流しているのである。

エコロジー的危
機と資本の責任

 かくして今や、環境主義の第一の波の基礎的な前提や組織形態の完全なまでの不適切さを認識すべき時である。この認識への一定の緊急性が存在する。エコロジー的危機によって、人類の存在そのものの深刻で、まさにかつてなかったような変化が警告されているからである。そして今やわれわれの面前に開かれているこの道は、資本にその責任が帰せられるものであり、それはわれわれをエコロジー的混沌の原因をさぐる道に接近させることになる。
 エコロジー的危機への資本の責任に関しては多くの複雑性が存在するが、一つの支配的な傾向がある。資本主義は、経済生産の継続的成長を求めるのであり、この成長は資本のためであって真の人間的必要のためではないがゆえに、その結果は自然との必須の関係の継続的な不安定化である。この本質的な原因は、純粋に抽象的で、内的な限界を持たない数字で表現された実体である資本それ自身の生産に由来する。したがってそれはきわめて明確に限界を有する物質的な自然界を、価値と剰余価値のための度はずれた探索に引きずり込むだけで、他のなにごともできないのである。
 われわれは、エコロジー的危機がラディカルな変革の前兆であるという事実に関して、えり好みできない。しかしわれわれは、生か死かという変革の性質を選択することはできる。イアン・アンガスが彼のメーリングリスト「気候と資本主義」で書いているように、選択はきわめて単純なのである。「エコ社会主義かバーバリズムか、第三の道はない」のだ。
 これは偉大なローザ・ルクセンブルクが二十世紀の初頭に、人類の前に提出された選択は「社会主義かバーバリズムか」だと述べたことの言い換えである。これは全く真実である。
 社会主義革命の敗北(ドイツにおけるルクセンブルクとスパルタクス団の蜂起のケースのように即時につぶされた場合、そして後に起こったような二十世紀の社会主義の敗北、とりわけソ連と中国を中心に組織された社会主義の敗北の双方)は、終わりなき戦争、悪夢のような消費社会、富める者と貧しい者との間の格差の永続的な拡大、そして最も顕著な形で示されているエコロジー危機といった現在のバーバリズムの凱歌の条件となってきた。したがって、資本主義的バーバリズムが今日ではエコ破局を意味するということを除けば、選択の中身は全く同じである。それは人間による生産の影響を緩和する地球のキャパシティーが、生産システムの混沌によって圧倒されるようになったからである。

自然と融合可能
な人間関係が必要

 われわれの時代における社会的変革のためのあらゆる運動は、この課題を前面に押し出さなければならないだろう。未来は、この問題を解決できるか否かにかかっているという概念そのものによるのである。この理由のために、その名に値する社会主義はエコロジー的なものでなければならない。より正確に言えば、「エコ中心的」方向性を持ったものでなければならない。すなわち、それは自然とわれわれとの本来の関係の回復に貢献する「エコ社会主義」でなければならない。エコ社会主義と前世紀の「第一時代」社会主義との区別は、あたかも単にエコ社会主義のためには産業機構への労働者統制とある種の良好な環境規制が必要だというような、用語上のそれではない。
 われわれは「第一時代」の社会主義がそうであったように、エコ社会主義における労働者統制を必要とする。生産者が自由でなければ資本主義を克服できないからである。しかしエコロジー的側面もまた、生産それ自身の性格そのものに疑問を投げかける新しい、よりラディカルな課題として提出されている。
 利潤を無限に追求する資本主義的生産は、すべてのものを商品に転化しようとする。この方法によってのみ蓄積の継続的拡張が可能になる。第一世代のそれであろうとエコ社会主義であろうと、社会主義は、生産手段の私的所有の専制からわれわれを解放することによって、さらに多くの市場シェアのための資本間の競争によって効率的に駆り立てられる、ガンの拡大のような死をもたらす流れを中断させることが可能となるのである。しかしエコ社会主義社会内部で何が、いかにして生産されるべきかという問題が残される。
 生産を、交換――商品への道――のための目的に支配されたものから、「使用」、すなわち人類の必要に直接に適合したものへと転換しなければならないということは、明らかである。しかし次にそれは明確な定義を必要とするのであり、エコロジー危機の文脈の中で、「使用」とはエコロジー危機を克服するのに必要な不可欠な需要のセットのみを意味することができる。それが文明全体としての、したがってその内部に存在するすべての女性と男性にとって最大の必要なのである。
 たとえば炭素の大気への放出を止めることによって、資本がもたらした自然へのダメージが克服されるような環境の中でのみ、人類は繁栄することができるということが、そこから導かれる。「自然」はエコシステム全体の相互に結びついたセットなのだから、エコ社会主義内部の生産は、エコシステム的な打撃を修復し、咲き誇るエコシステムをつくり出すように方向づけられるべきである。それは、たとえばエコロジー的に合理的な農場、あるいは――われわれ自身がコミュニテイーの中でエコシテスム的に生きる自然の被造物なのだから――子どもの生育、ジェンダー間関係、生命の精神的で美的な全側面をふくむエコロジー的に方向づけられた人間関係を必要とする。

生産のラディ
カルな変革

 この論文は、こうしたテーマを展開するためには余りにも短かすぎる。しかしこれまで述べてきたことから、エコ社会主義について語る中で、われわれの経済や技術を変えなければならないということ以上のものをわれわれが語ってきたことは明らかである。エコ社会主義は、マルクスの目に映った社会主義や共産主義以上に、純粋に経済的な事象ではもはやない。
 それはまさに、マルクスが人間の進化の次の段階として想定したような、社会――そして人間存在――のラディカルな変革を必要とする。実際、われわれがエコロジー的危機を生き延びようとするならば、そうでなければならないのだ。エコ社会主義は、自由に結合した労働の生産物が商品ではなくエコシステムを咲き誇らせるような全体的生産様式への先触れである。
 最も確かなことは、それが回答よりも多くの疑問を提起することであり、それ自身としてエコロジー的危機がどれほど深刻なのかのものさしである。結局のところ、もしわれわれが炭素の大気への放出を止め、気候のエコシステムの平衡を取り戻す、つまり治癒されるようになれば、生活はどうなるのだろうか。われわれの社会システムに組み込まれた恐るべき恐怖の中で、実際のところわれわれは自然と調和した人間生活を、どのようにして十全に生きるのだろうか。その結果について確実なものはない。しかしわれわれがそれを作りださなければならないということは確実である。オルタナティブは存在しないに違いない。
 来る十月七日にパリで、国際エコ社会主義組織を創設するための会合が行われる。連絡先はjskovel@earthlink (ジョエル・コーベル)、あるいはecosocialism@.gmail.com (イアン・アンガス)まで。
(初出は「ニューソシアリスト」07年夏号)

bジョエル・コーベルは、ベトナム戦争中に政治活動に関わるようになった。彼は、反核運動、平和キャンペーン、中米・カリブ海連帯運動、民主的メディア運動、環境運動などの積極的メンバーとなった。彼はキャンペーン活動のために短期間ニカラグアに住んだ。彼の最新の著作は『シオニズムの克服』と『自然の敵』である。
(「インターナショナルビューポイント」07年7―8月号)



投書

『私たち、日本共産党の
味方です。』を読んで

           SM


 日本共産党は、スターリン主義を革命的・全面的に克服してはいないかも知れない。しかし、だからと言って「日本共産党は今でもスターリン主義政党だ」というように規定するのは間違っているのではないか。
 憲法改悪を阻止するために、日本共産党や社民党と進歩的な市民団体や「内ゲバ派を除く新左翼」などは、民主主義的で統一戦線的な新党を結成するべきではないか。現在の組織は維持したままで一致する部分で共闘するようなタイプの新党を結成するべきではないか。同時に『朝日新聞』や『読売新聞』などの保守的な新聞よりも多くの人に読まれる大衆的で革新的な週刊政治新聞を発行するべきではないか。新党は憲法改悪に反対すると同時に、新党こそが「生活者の党」なのだと主張するべきではないか。反軍インターナショナルというような国際組織を作り、その日本支部となって、反軍政権を樹立するために闘うべきではないか。トロツキスト(インター)は反帝反スタ派(中核派や革マル派)などの諸君と違って、「日本共産党は反革命的だから打倒するべきだ」などとは主張しなかった。自派の候補者がいない状況下の選挙では「社共への投票を」などと呼び掛けたりして来た。だが新党が出来たら、選挙では「新党への投票を」というように呼び掛けるべきではないか。ぼくは、そう考える。このような考えは間違っているだろうか。「反資本主義派の左翼による新党」作りという考えと矛盾するだろうか。
 『私たち、日本共産党の味方です。』(筆坂秀世×鈴木邦男、情報センター出版局)を読んだ。この本は、保守的立場からする日本共産党改革論だ。ぼくは、そう思った。ぼくの誤解でなければ、この本の191ページには、「精神障害者」を差別する表現があった。1260円損した、と思った。ただ、筆坂秀世さん(元・日本共産党幹部)の次の主張は面白い、と思った。ぼくは白川真澄さん(『季刊ピープルズ・プラン』編集長)の主張(現代企画室発行『「改憲」異論C 体験的「反改憲」運動論』の第1章)にも共感を覚えるが、筆坂さんの次の主張にも共感を覚える。筆坂さんは主張する。「たとえば、『憲法9条には最低5年間は手をつけません。消費税の税率アップは最低5年間は据え置きにしましょう』ということを小沢一郎さんに呼び掛けて約束させ、国政選挙で民主党と選挙協力することがあってもいいと思います。民主党と……協力すれば、自民党の候補を負かすことができる選挙区もあるでしょう。民主党と協力態勢を敷いた5年後に小沢さんが憲法や消費税に手をつけると言うのであれば、そのときは協力態勢を解消すればいいだけの話です」。このような主張に共感を覚えるのは間違っているだろうか。保守(民主党)に対する屈服だろうか。
 憲法改悪反対派は如何(いか)に闘うべきか。それが問題だ。(2007年8月19日)

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