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政治的経済的特権を手放さないファタハ          かけはし2007.7.9号

仕組まれたクーデターは失敗

「パレスチナ内戦」はイスラエルの希望を語っているに過ぎない
                     ミシェル・ワルシャウスキー


米とイスラエル
が武器を供与

 アリエル・シャロン(前イスラエル首相)の古い夢が現実になろうとしいる。パレスチナ人同士が殺し合い、イスラエルは死者の数を数えながら大いに満足している。イスラエルの指導者が流す涙はワニの涙であり、ガザにおける悲劇的事態の発展を遺憾に思うと言っているのは単なる偽善である。この流血の対立は予測できたし、イスラエルと米国の責任と活発な関与はきわめて明白である。
 多くのイスラエルのジャーナリストは、イスラエルの責任は間接的なものであると分析している。「百四十万人がガザのような狭い領土に密集し、正常な経済的生活を営むことも、逃げ出すこともできず、互いに殺しあうべく運命付けられている。……箱に閉じ込められたネズミたちのように」。この動物にたとえた説明は、典型的な人種差別主義であるだけでなく、はなはだしい軽視に基づいている。なぜなら、現在の対立におけるイスラエルと米国の役割は、パレスチナ人の内部対立の単なる「条件を作り出した」ことよりもはるかに大きいからである。
 何カ月にもわたって、米国国務省はファタハ指導部に、ハマスに対する軍事的攻勢を開始するように圧力をかけ続けた。二週間前には、イスラエルはガザ地区のファタハ民兵に大量の武器を送ることに青信号を出した。この意味において、現在の状況におけるイスラエルの役割は、推測にとどまらない積極的役割を演じているのである。

ファタハを背後
からけしかける

 「ハマスが奪取した」、「ハマスのクーデター」――この間のイスラエルの新聞の見出しにはこのような文字が並んでおり、テルアビブとワシントンの政権は大嘘を繰り返している。事態を明らかにすることが必要であるようだ。最近のパレスチナの選挙で、ハマスはファタハに対して圧勝した。この選挙の過程は、ワシントンを含む国際社会全体が「中東でこれまで行われた中で最も民主的」とたたえたほどであった。疑問の余地のない民主的な過程と圧倒的な民衆の支持、このような正統性を主張できる体制は少ない。
 このような圧勝にもかかわらず、ハマスは、サウジアラビアとエジプトの庇護の下に形成された民族統一政府においてファタハと権力を共有することを受け入れ、ワシントンとイスラエルを除く国際社会全体の喝采を浴びた。新政府の政治的綱領は、イスラエル国家を事実上承認し、オスロ合意の枠組みに基づいた和平交渉の戦略を認めるものであった。
 新政府の優先事項は、火急の国内問題(経済の改善、ガザ地区の法と秩序の回復、古いファタハ主導行政機構の固有の腐敗との闘争)に対処することであったが、同時に、イスラエルがその更新を受け入れる場合は、マフムード・アッバス大統領とPLOが交渉の過程を継続できるようにすることでもあった。
 しかし、ハマスの穏健な政府綱領に対して、二つの強力な敵が立ちはだかった。一つは、政治権力の独占とその独占に伴う物質的特権を放棄しようとしない一部のファタハ幹部たちであり、もう一つは、イスラム政治勢力に対する世界十字軍遠征を行っている米国とイスラエルの新保守主義政府であった。マフムード・アッバスの前予防治安責任者で現在安全保障担当顧問であるムハマド・ダーランは、この両方を代表している。彼らは、パレスチナ指導部内におけるワシントンの計画の執行者であり、同時に、自らの経済的資源を守るためにはなんでもする腐敗したファタハ指導者の代表でもある。
 ハマスの選挙における勝利以降、ダーランの民兵は政府を挑発し、ハマスの民兵を攻撃し、政府がパレスチナ警察を支配することを拒否してきた。ダーランの攻撃にもかかわらず、ハマスは、ダーランとの合意に到達するために最善を尽くし、ハマスの活動家に反撃を差し控えるように要請した。しかし、ダーランが妥協を求めておらず、まさにハマスの解体をもくろんでいることが明らかになったとき、ハマスは、自己を防衛し反撃する以外に選択の余地はなかった。

膨大な犠牲を出した
アルジェリアの先例

 米国とイスラエルの計画は、地域住民の意思に逆らって彼らの利益に忠実な政府を押し付けることを目的とするグローバル戦略の一環である。アルジェリアの例は、このような戦略の一例であるが、失敗と膨大な人的犠牲を出した例でもある。一九九一年の選挙において、腐敗し信用を失ったFLNに対するFIS(イスラム救国戦線)の疑問の余地のない勝利の後、フランスと米国の支持を受けたクーデターが行われ、これによって内戦への道が開かれ、この内戦は十年以上続き、十万人以上の市民の犠牲者を出した。
 ハマスは、アルジェリアの悲劇から明確に学んでおり、ダーランの力による権力奪取の計画を成功させない決心をしていた。ハマスの民兵は、地域住民の多数の支持を受けながら、二日もかからずにファタハを粉砕した。ファタハはイスラエルから間接的に武器の供給を受けていたにもかかわらず、である。民衆の支持のない腐敗した民兵は、相対的に規律のある士気の高い組織の敵ではなかった。
 ファタハに対するこの圧勝後においても、ハマス指導部は民族統一政府を維持する意図を捨てず、ファタハのクーデター失敗を、組織の撲滅や政府からの排除の口実として利用しようとしなかった。しかし、ファタハ指導部は、ハマス指導部とのあらゆる関係を断ち、西岸地域にハマスなしの政府を設立することを決定した。アリエル・シャロンのもう一つの夢が現実のものになろうとしている。すなわち、西岸地域とガザの完全な分離である。ガザは希望のない「ハマスタン(ハマスの国)」とみなされ、市民が存在せずテロリストばかりの本質的にテロリストの国で、完全な包囲の下に置いて餓死を運命づけることができる、というわけである。
 ワシントンはこの方針を全面的に承認し、マフムード・アッバスと西岸地域における彼の新しい「祖国」の全面的支持を約束し、エフド・オルメルト(イスラエル首相)は、イスラエル政府が握っているパレスチナ人の資金の一部の封鎖を解除することを決定した。

ガザで起こっている
ことは内戦ではない

 しかし、イスラエルと米国政権の目的の一つは失敗した。ガザには混乱は存在していない。反対に、パレスチナの治安担当者の一人がハーレツ紙(イスラエルの日刊紙)に対して語ったように(6月17日)、「長い間町は平穏ではなかった。私には、現在の状態の方が以前より望ましい。ついに、外出できるようになった……」。ガザからファタハのギャングどもが一掃されたことにより、長い間の無秩序が終わり、一定レベルの正常な生活の回復が可能になった。最近の出来事は、ハマスがこれをもたらすだけの権力を掌握したことを確認するものである。
 イスラエルの言う「パレスチナの内戦」は、希望を語っているに過ぎない。武力衝突は武装民兵の間だけのことであり、不幸にして市民の負傷者が出たとしても、それは、米軍が言うところの「付随的な被害」である。実際、住民は、西岸地域においてもガザにおいても、政治的には分かれているが、少なくともここしばらくの間は、双方の間に戦闘はなかった。
 ガザが敵性団体で全住民がハマスにつながっていると規定されれば、近い将来、イスラエルの残忍な侵略の対象になり、最終的には軍事侵攻、爆撃と餓死の事態になることは疑いない。
 イスラエルと全世界におけるわれわれの最優先課題が、ガザとその住民との連帯を組織することである理由が、ここにある。

(この記事は、最初にwww.alternativenews.orgに発表された。)
(ミシェル・ワルシャウスキーはジャーナリスト・著作家で、イスラエルのオルタナティブ・インフォーメーション・センター設立者の一人である。日本では『イスラエル=パレスチナ民族共生国家への挑戦』(つげ書房新社刊)が翻訳・出版されている。)
(インターナショナルビューポイント07年6月号)



フランス総選挙―LCRの成果
得票数が前進、この闘いを継続することが必要

                        ギローム・リエガール


 総選挙では、LCRの得票結果は二〇〇二年に比べて大幅に増大した。今回の場合、独善的な自信過剰の総括はふさわしくないのであり、この結果はささやかな前進でしかないのだが、続いているその発展力学はとりわけ興味深いものであって、今後数年間に向けた展望を指し示している。

02年総選挙より
66%も票を延ばす

 総選挙が大統領選挙の第二回投票を確認する役割しか果たさないという情勢のもとでは、すべての左翼勢力と同じく、LCRにとっての総選挙の結果も、困難なものになることが予想されていた。右翼陣営の青い稲妻のような躍進と左翼有権者の意気沮喪は、五月六日の大統領選挙第二回投票でのサルコジの勝利の時点からすでに予想されていたものであった。
 われわれにとっては、選挙戦全般の低調さに加えて、メディアがわれわれの選挙戦をほとんど取り上げないこと、さらには、われわれの当選を妨げる選挙制度という要素が重なって作用していた。われわれは、棄権した有権者の内訳をまだ十分に調査していないが、あらゆる点から見て、勤労者層と最も若い層の間で、棄権の割合が大きかったように思われる。ところが、オリビエ・ブザンスノーが大統領選挙第一回投票日の四月二十二日に最良の得票率を獲得したのがまさにこれらの有権者の層だったのである
 LCRの四百九十二人(注)の候補者は、五十二万九千票弱の票を集めた。思い起こすならば、二〇〇二年の前回の総選挙では、LCRは四百四十一の選挙区に立候補し、その時には全部で三十二万票を獲得した。したがって、われわれは五年間で、二十万九千票、すなわち、六六%だけ票を伸ばし、前進したことになる。二〇〇七年の総投票者数が二〇〇二年のそれとほとんど同じであった(正確に言うと、02年に比べて5万票少ない)ということからすると、この選挙結果はそれだけによりいっそう興味深い。
 この得票数の前進は、得票率の前進としてもまた表現された。たとえ、二〇〇二年と同様に、われわれはたったひとつの選挙区でしか五%を突破できなかったとしても(これはクルーズ県第二選挙区であり、共産党との選挙協定にもとづく候補者であった)、六つの選挙区では四%から五%の間であった(02年の選挙区では1選挙区だけ)。七十一選挙区で三%から四%までの間であった(02年にはたった4選挙区だけ)。多くの選挙区が(253選挙区)二%から三%の間であり(02年には85選挙区)、一%から二%の間の得票率であった選挙区は百五十九であった(02年には306選挙区)。最後に、われわれが一%の得票率にまで達することができなかった選挙区は五つであった(02年には38選挙区)。
 前回の二〇〇二年に候補者を立てた選挙区について、今回の結果と比べてみると、われわれが後退したのは、十選挙区での〇・五%以上の下落を含めて、三十九の選挙区であった。反対に、前進したのは三百七十一の選挙区であった。これらの増大のうちで、十の選挙区では二%以上も得票率が伸び、一・五%から二%までの票の伸びを示したのが、三十三選挙区であり、一%から一・五%までの伸びのところは八十二選挙区であった。
 全体的には、たとえ一方におけるオリビエ・ブザンスノーへの支持層やその人気と他方におけるLCRの支持層との間の隔たりがいぜんとして存続しているとしても、それでもやはり、今回の選挙結果はこの差が縮小していることを示している。総選挙と大統領選の間の得票率の比は、二〇〇二年で一対四であったのに対して、今回は一対三となった。この問題をめぐる全体的な条件は、大統領選挙への投票率の上昇(プラス11%)、総選挙への投票率の減少(マイナス4・5%)という事実によってさらに強められることになった。

各地で地域に
根をおろす

 この五年間のLCRの基盤の強化がこの前進を可能にした。LCRの活動家の地域における実際の浸透なしには、この大きな成果はあり得なかった。この点は、全般的に、LCRが最も大きな勢力になっている、オート・ガロンヌ、ジロンド、イゼール、セーヌ・サン・ドニなどの地域に当てはまる。このことは、同時に、オリビエ・ブザンスノーの大統領選挙時の得票率を上回ったパリのいくつかの選挙区にも当てはまる。
 パリ地域では、有効投票という圧力がないか、より弱いということが主要な理由であったことは確かである。最後に、LCRが二〇〇二年以来、純然たる発展を遂げて来た、ブッシュ・デュ・ローヌ県のようなケースもある。この県では、共産党が長年、大きな存在であったが、今回の選挙結果は、とりわけマルセイユで、革命派の歴史においてかつてないものとなった。
 それに対して、フランスの伝統的な工業地域であった北部地域と東部地域で大統領選挙においてオリビエ・ブザンスノーが実現した躍進は、総選挙では再現されなかった。これらの選挙区では、とりわけ北部のパ・ド・カレーやモゼルでは、得票結果は全体として増えてはいるものの、同時に、大統領選挙を下回っている。
 もちろん、勤労者層の動員が少なかったことやLCRの地域基盤が不十分であるという点を考慮に入れて慎重な評価を下さなければならないだろう。二〇〇二年以降試みられてきた活動が展開されたために、総選挙でのこのような前進を可能にした介入をさらに強化し、築き上げることができたのである。二〇〇七年でのオリビエ・ブザンスノーの得票がわれわれに来るべき時期の優先課題を示唆している。すなわち、われわれが再び挑戦すべきである、と。

「100%左翼」を
旗じるしに闘う

 今回の選挙で、LCRは約四百七十五の選挙区で、「LCR 100%左翼」という旗じるしのもとに立候補した。そのうちの約二十人の候補者はそれよりも広い枠組みのもとで立候補した。過去の選挙協定の多様性のために、これらの選挙区の投票結果の全般的な分析は困難である。
 しかしながら、いくつかの例外を除けば、厳密な選挙結果の観点からすると、その結果はかなり控え目なものであって、量的な観点からすると、LCRの候補者とほとんど変わりはなかった。要するに、率直に言うと、その結果は期待はずれだった。最後に、LCRは、約十五の選挙区で、統一候補への投票を支持するか、呼びかけるかした。ここでもやはり、選挙結果は非常に不均等であり、LCRと共産党との間の協定がなされたケースのうちのいくつかでは、その得票は両組織の支持者の合計に達しなかった。
 社会党よりも左に位置する他の左翼勢力の選挙結果を詳しく分析するには、時間が必要であろうが、総選挙結果が大統領選挙の結果を確認するものであったように思われる。これはとりわけ「労働者の闘争派」について言える。大統領選挙におけるアルレット・ラギエの少ない得票は、総選挙での「労働者の闘争派」の候補者の選挙結果によって確認されることとなった。このことは、ジョゼ・ボベを支持した「二〇〇七左翼オールターナティブ」の数十人の候補者についても当てはまる。
(「ルージュ」2210号、2007年6月14日)
*(注記) この候補者数は、LCRが支持したすべての候補者を含んではいないのであって、この数字はむしろLCRに属する候補者数(495人)にほぼ対応している。 


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