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パキスタン「赤いモスク」突入とムシャラフ政権      かけはし2007.7.30号

軍事評議会も宗教的原理主義も労働者階級の敵である



アメリカへ
のメッセージ

 パキスタン全土にわたる地域的豪雨と洪水の中で、政府の無為無策のために数百人が死んだその時、ムシャラフ政権は、公式声明によれば八十人を殺害して、ついに「赤いモスク」の「アルカイダとタリバン」の支持者を一掃することができた。
 体制批判者のだれも、八十人の死者という主張を認めてはいない。一触即発の雰囲気の中で、数千人の軍による包囲は九日間にわたった。ムシャラフ政権は、どんな犠牲を払っても宗教的原理主義者と対決することができることを、国際的支援者に対してその力で見せつけると決意した。
 アメリカ帝国主義へのメッセージは鮮明なものだった。「われわれを信じてくれ。あなた方は来なくていい。われわれはあなた方のために、自分のやるべきことができる」。「沈黙の作戦」という不適切な名称による数十人の無実の学生たちと一握りのファナティックな信徒の殺害によって、ムシャラフ将軍はアメリカ帝国主義とその同盟勢力から過分な尊敬を獲得した。軍事作戦における「沈黙」とは、九日間にわたってイスラマバード中に銃声が聞こえ、おびえた子どもが両親に「なぜひっきりなしに騒がしいの」と聞いたときに返ってきた反応のことである。
 専門的観点から言えば、軍事作戦は完全な失敗だった。二人の士官をふくむ十人の兵士が死亡し、この失敗の代価を支払うことになった。それは間違った判断と間違った情報の結果である。それはこうした作戦におけるモラル的価値の完全な崩壊だった。それは一国の大統領でもある将軍の心理のリアルな表明であった。「言うことを聞かなければ殺せ」である。首席聖職者のアブドル・アジズ・ガジを無抵抗のまま逮捕することに成功した当初、軍事作戦の成功話は、それが数時間で終わるだろうという見方をもたらした。政府当局は、三日間の軍事作戦の後に、数時間後には「幕引き」を迎えると主張した。最後まで戦った次席聖職者のガジ・アブドル・ラシドでさえ決定的な時には投降する準備をしていた。しかし貴重な時間を失ったのは、軍事支配者の絶対的な硬直した思考によるものだった。
 自らの生命を救うためにモスクから出てきた人びとは、「テロリスト」というレッテルを貼られ、「投降」した者と見なされた。完全な恥辱にさらされた彼らは、シャツも着せられず、両手を挙げて公衆の中を行進させられた。それは一部の兵士が降伏した軍隊間の作戦のようであった。逮捕後にブルガのパキスタンTVでインタビューを受けたアブドル・アジズ師の絶対的とも言える恥辱は、いまだモスクの中にいた人びとの思考を変化させるパターンの転換点となった。この出来事は、もしモスクから出ていったら彼らも同様に最悪の取り扱いを受けるという印象を与えたのである。
 軍部当局は、モスクから出てきた人びとを丁重に扱って最初の勝利を利用するのではなく、高揚感に駆られて暴走した。彼らはすべて「聖職者に公衆の面前で屈辱感を与えるのを見せつけて、奴らに教訓を与えればよい。それでいい。それで終わりだ」と確信した。
「沈黙の作戦」を計画した者たちのこの残虐な振舞いは、決定的な局面において、モスク内部に残っていたファナティックな信徒たちを、全く反対の思考に導いた。「こんな屈辱的な振舞いよりも死んだ方がましだ。少なくともわれわれは天国に行くだろうし、われわれの犠牲はイスラム革命の成就を助けるだろう」。この言葉が、アブドル・ラシド師にインタビューした多くの人びとが伝えた、モスク内部のファナティックな信徒たちの叫びだった。
 後に軍部当局は、すでに行われた有害なことがらを軽減しようと試みた。「シャツを脱がなくても、両手を挙げなくてもよい。通路の安全は確保する。アブドル・ラシド師のために体調を崩している母親と共に自宅拘禁でよい」。こうした提案はすべて、モスク内の信徒によって拒否された。それは軍士官によるまったく侮辱的な振舞いがもたらした、信頼の完全な破壊だった。商業メディアのほとんどが、アブドル・アジズ師の逮捕後に掲げた「いよいよ幕引き」という見出しは、モスク内のファナティックな信徒が最後まで全面的に抵抗するという道を選んだことによって、完全な誤りだったことが示された。

「友人」間の利
権をめぐる対立

 「赤いモスク」のサーガ(神話)は、全世界のTVで放映され、数日間のわたってメディアの大見出しとなった。ムシャラフはタフ・ガイで、宗教的原理主義者との闘いに立ち向かう気構えがある、という印象が植えつけられた。一部の新聞は、ムシャラフはアメリカ帝国主義の密接な同盟者としての国際的立場を強化したとのコメントを載せた。それは誤った印象である。ムシャラフ政権は、宗教的極端主義者とともに何十人もの無実の学生たちを殺害した責任を全面的に取らなければならない。
 「赤いモスク」事件は、二つの「怪物」間の戦闘と規定するのがもっとも良い言い方である。二人の聖職者、アブドル・アジズとアブドル・ラシドは、現在権力の座にある者によってあらゆる手段を通じて助けられ、力を拡大され、支援されていた。現在の戦闘は、利害をめぐって幾つかの対立を拡大させてきた密接な友人間の闘いである。二人の友人が戦うとき、彼らはお互いの弱点を知っている。彼らは敵対グループの情報をよく知っている。今度の場合、「赤いモスク」の聖職者は目下のパートナーであり、権力は適当な時期に彼らを利用してその力を発展させてきたのである。
 目下のパートナーである「赤いモスク」の聖職者たちは、九・一一事件後、徐々に統制の下から離れていった。歴史は、ギャングの一員がボスの支配から離れていく例に満ちている。インドとパキスタンの映画会社は、呼び物となった多くの作品でこうした物語をほめたたえている。インド亜大陸の政治史も、いくつかこれに関連した類の逸話を持っている。
 一九八四年六月、アムリツァーの「黄金の寺院」へのインド軍による「青い星作戦」で、数百人に上るシーク教叛徒が、その指導者であるビンデルワレをふくめて、殺害された。ビンデルワレは、パンジャブ州におけるシーク教徒の主要政党であるアカリ・ダルの影響力の増大に対抗させるために、当時のインド首相であるインデラ・ガンジーによって支援され、その力を増大させられていた。ビンデルワレは、一九八二年にファナティックなヒンズー教徒組織であるアリャ・サマジの多くの指導者を殺害したという容疑で逮捕された。彼は逮捕の二日後に匿名の勢力の命令によって釈放された。
 彼はインデラ・ガンジーの統制を離れてヒンズー教徒との全面的戦争に入り、独立シーク教徒国家の設立に向かった。ビンデルワレは、釈放の二年後にインデラ・ガンジーの軍によって殺されなければならなかった。シーク教の最も神聖な場所である「黄金の寺院」での殺害から六カ月もたたない一九八四年十月三十一日、二人のシーク教徒警備兵によってインデラ・ガンジー自身が殺された。インデラ・ガンディーの殺害は、暗殺の日から数日のうちに千人以上のシーク教徒が殺害される内戦に帰結した。
 同様のことは、アルカイダの密接な同盟者として二〇〇四年にムシャラフ政権によって逮捕されたが、現連邦宗教相のイジャズ・ウル・ハクの助力で釈放された二人のイスラム聖職者のケースにもあてはまる。イジャス・ウル・ハクが軍事独裁者だった故ジア・ウル・ハク将軍の長男であることは偶然の一致ではない。ジア将軍は、アメリカ帝国主義の教唆によって宗教勢力を支援したことに主要な責任がある。しかしジア将軍がソ連との和解というアメリカのプランに反対し、一九八六年のジュネーブ協定に反対した時、彼は長生きすることができなかった。彼は一九八八年に飛行機事故で死んだが、現在にいたるまで誰が彼を殺したのか知る人はいない。
 パキスタンの宗教的原理主義勢力と国軍との関係の変化は、九・一一以後の多くの事件によって感じ取られることとなった。数十年に及ぶ二つの勢力の密接な関係は、宗教的原理主義の影響力の拡大へと帰結した。宗教的原理主義勢力は、現在、四つの州の一つである北西辺境州(アフガニスタンとの国境近く)を支配している。彼らは第二の州であるバルチスタン州で、ムシャラフ将軍の忠実な支持者である与党のムスリム同盟と連立政権を担っている。
 「いわゆる議会」における公式の野党指導者は、宗教的諸勢力の連合であるMMAの出身である。政府の支持のため、議会の多数党であるパキスタン人民党は公式の野党ではなくなっている。不正に満ちた総選挙での宗教的勢力の総得票数は約一五%だった。「赤いモスク」事件のような出来事は、宗教的勢力が得票と支持を拡大する助けになることは明らかである。

諸勢力の分極化
と再編を強制

 宗教的原理主義勢力は、力の行使によっては敗北させられない。アメリカ帝国主義の戦争と占領の政策は、この現象のきわめて明白な証である。普通の民衆の生活ににとっての宗教的原理主義の真の意味を暴露するためには政治的闘争が必要である。「思想を殺すことはできない」――これこそムスリム世界全体を通じた宗教的勢力の影響力の拡大の教訓である。ムシャラフ将軍の体制は、「赤いモスク」で数十人を殺害することで、パキスタンにおける真の進歩的勢力にとって、より困難な情勢を作りだした。この事件はパキスタンの諸勢力を分極化させた。
 今回の事件は、さまざまな政党と連合の組織的再編成をもたらした。それは七年間の歴史を持つ民主主義回復連合(ARD)を崩壊させた。パキスタン人民党(PPP)は、ロンドンで最近発表された「全政党の民主主義運動」(APDM)に参加しなかった。パキスタン人民党議長のベナジール・ブットは、ムシャラフ将軍には他の選択はなかったと語り、軍事作戦への全面支持に踏み込んだ。これはここ数カ月に及ぶ彼女の政策と一貫性を持っている。PPPはムシャラフ将軍の支持を得て、次の政権を形成することを望んでいる。PPPと軍事評議会との混合は、新たに結成されたAPDMの背後にある主要勢力である宗教的原理主義を強化するだろう。
 パキスタンの進歩的勢力は、双方を批判する独立した立場を持たなければならない。われわれは、一つの敵に反対して別の敵を支持することはできない。アメリカ帝国主義に支持された軍事評議会と、宗教的原理主義者は、ともに労働者階級の敵である。彼らはともに労働組合やラディカルな政治・社会組織に敵対している。彼らはともに私有財産と市場の信奉者である。彼らはともに、地球全体の大衆の生活条件を破壊する絶対的貧困にとって主要な責任がある経済政策を保持している。われわれは二頭の牛の闘いを、傍らで座って見ていることはできない。われわれは労働者階級の権利のために闘うことを通じて、われわれの隊列を築き上げるために、両者に反対しなければならない。
(インターナショナルビューポイント07年7・8月号)




コラム
安全な「原発」はありえない

 七月十六日、中越沖地震が起きた。昼のテレビで柏崎原発から火災が発生し、黒煙が上がっている姿を映しだしていた。「大事故発生か!?」チェルノブイリ原発の大災害を思い出した。安倍首相は長崎での選挙演説を急きょ取り止めて柏崎に向かった。そして、原発施設内に入り「放射能漏れなどない」として、「安全宣言」を行い、参院選での劣勢を挽回しようとした。なんと想像力の欠如した為政者か! 
 数時間後に東電は、揺れは設計で想定する三・六倍にもなっており、放射能を含む水が原発敷地外に漏れていたことを明らかにせざるをえなかった。そして時が経つに連れて、被害の実態が明らかになり、トラブルが五十七箇所に及ぶと東電が発表した。ついに十八日、柏崎市長は東電に対して原発停止命令を発した。
 福島みずほ社民党党首は柏崎原発を視察した後、「豆腐の上に原発があるようだ」と、原発施設内が波打っている状況を的確に伝えた。「柏崎原発の直下二十キロに活断層があることが分かった」(毎日、7月18日付夕刊)と伝えている。
 柏崎原発の立地条件を見ると、静岡県・浜岡原発とまったく同じだ。予測される震源地で、地盤が毎年数ミリ上昇している。浜岡原発も東海大地震の震源地の砂地の真上に建っている。東海大地震が起きるということは原発を決めた時に分かっていた。その後、国は震度8という大規模な地震対策をこの地域一帯で進めている。
 なぜ、こんな「危険な浜岡」に原発が立地されたのか。一九六四年に、中電は三重県芦浜地区に建設しようとしたが、漁民などの猛烈な反対であきらめざるをえなかった。浜岡の砂丘部分は地主も数も少なく、地元出身で、財界四天王のひとりだった水野成夫(当時産経新聞社長)がゴーサインを出したので、浜岡に決まったという(『原発列島を行く』鎌田慧著、集英社新書)。
 二〇〇四年八月九日に、福井県・美浜原発で起きた蒸気漏れ事故で四人が死亡し、重軽傷者が七人も出た。
 この事故に対して八月十一日、私は経産省でM君などといっしょに抗議行動を行った。本来なら、右島一朗かけはし編集長が必ず、来ているはずなのに、右島は南アルプスへの登山に出掛けていた。この夜に、右島が遭難した、と連絡が入った。右島は生前「反原発闘争は基本的には勝利した。政府・資本があきらめるように、ねばり強く運動を続けるだけだ」と言っていた。確かに、ドイツなどヨーロッパでの脱原発の流れが作り出されたが、資本・政府は地球温暖化問題を逆手にとり「クリーンエネルギー」として、もんじゅの再開、六ヶ所村の再処理工場の稼動など原発推進をはかっている。
 「柏崎原発は半年で運転を再開するだろう。それまでは電力不足に備えよう」とマスコミは脱原発ではなく、電力不足をあおる。二〇〇二年、GE技術者が東電原発でのデータ隠しを告発した。その結果、二〇〇三年に東電の全原発が止まったが、電力不足は起こらなかった。「安全問題」は、耐震性を強めるだけではだめだ。チェルノブイリ事故、東海再処理工場爆発事故、JR尼崎事故などをとってみても、必ず設計問題と人為ミスが重なり重大事故が起こっている。原発はコントロール不可能であり、廃棄物処理問題も解決できない。脱原発化する以外「安全・安心」はないのだ。      (滝)


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