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エストニア                       かけはし2007.6.4号

共謀罪の先取り弾圧を許すな

ロシア社会運動活動家とのインタビュー
ソ連記念碑撤去で吹き出した歴史的矛盾と対立

 四月二十六日から二十七日にエストニアのタリンで起こった旧ソ連兵像の撤去をめぐるロシア系住民とエストニア警察の衝突は、二国間の緊張を作り出している。以下は、タリンを訪れたロシアの「前進」グループ活動家とのインタビュー。(編集部)

ロシア語を話す
10代の若者たち

――数日前までエストニア共和国の首都タリン(ロシア語ではレバル)にいたとき、何を見て何を経験したか、話していただけますか。

 四月二十六〜二十七日には、タリンにおける大衆的抗議運動の真っただ中にいました。(政府による)ソビエト兵士の記念碑撤去が開始された夕方、数千の人々が、そのほとんどはロシア語を話す十代の若者たちですが、ロシア語が話されるゲットーのようになっているレスナメア地区から自然発生的に市の中心部に移動してきました。
 政治的要求やスローガンはほとんど掲げられておらず、組織されたグループもいませんでした。若者たちは(十三、四歳も含まれていました)ただ国家に対する怒りを示したくて高級店やカジノや銀行を打ち壊しました。この数日間、警察はまったく事態をコントロールできていないように見えました。
 二十六日の夕方、警察はデモ参加者の一部の逮捕を開始しました。若いロシア人が一人死亡しましたが、誰に殺されたのかは明らかではありません。
 四月二十七日の朝、エストニア大統領のヘンリック・イルベスは、テレビで特別声明を発表し、この中で彼は若者たちを「無軌道な破壊者」と非難し、「平成と秩序」を求めました。私はカフェで、エストニア人たちがイルベスのテレビ演説を聴くのを見ていましたが、彼らはまったくショックを受け、呆然としているように見えました。ほんの数日前まで、タリンでこのような暴動が起こるとは誰も想像できませんでした。
 二十七日の夕方も暴動は続きました。そのとき私は、タリンの中央広場である「自由の広場」にいました。約三千人の若者たちが広場に入ってきましたが、特に何か目標があったわけではありません。ロシア国旗を持っている者や、「アンシプは出て行け」(アンドルス・アンシプは首相)と書いた手作りの横断幕を持っている者がいました。彼らの感情は非常に矛盾していて、大ロシア愛国主義と社会的抗議の入り混じったもののようです。

歴史とエスト
ニア民族主義

――ロシアはエストニア当局とエストニア民族主義者を「ファシスト」扱いしている、という報道を読みました。本当でしょうか。このような侮辱には多少の真実があるのでしょうか。

 もちろん、これはまったくのプロパガンダにすぎません。問題は、現在のエストニア国家が一九九一年に始まった最初から、一九一九年から一九四〇年まで存在していたエストニア共和国を直接引き継ぐという考え方に基づいていることです。この考え方に従って、両親が一九四〇年以前にエストニア市民であった人々だけが、新しいエストニアの完全な市民となることができます。これは、人口の三〇%を占める非エストニア人にとっては、市民になるには特別の試験に合格しなければならないことを意味します。
 エストニアの歴史の公式バージョンでは、ソビエト時代を「占領」と呼び、第二次世界戦争におけるエストニア人のSS部隊(ナチスドイツ親衛隊)への参加を「自由のための戦士」と表現しています。同時に、一九四〇年代末に十万人以上のエストニア人(エストニア人口の約一〇%)がNKVD(ソ連内務人民委員部、ソ連秘密警察の代名詞)によって強制収容または銃殺されたことも忘れてはなりません。これは、現在、すべてのエストニア人家族にとって、家族の誰かがスターリニスト国家の抑圧を受けた経験があることを意味します。エストニア民族主義が非常に複雑な性格を持っている理由がここにある、と私は思います。
 一方では、それは典型的な「小さな民族」の民族主義であり、他方では、非常に強烈な反共産主義的、極右的要素を持っています。

――赤軍記念碑の問題についてはどう思いますか。エストニア人がこれをソ連に支配された大ロシア人の国家権力による民族抑圧の象徴と見るのは当然でしょうか。

 記念碑の問題は、エストニア政府が政治的理由で、主としてロシアの強い鋭い反応を挑発する目的で持ち出した問題であると私は思っています。この記念碑は、ロシア語を話す第二次世界戦争の老兵士たちにとって毎年五月九日に集会を開く伝統的な場所であり、過去十五年間にわたって、これに反対していたのはエストニアの一部の極右勢力だけでした。
 二〇〇六年になって、この国の主要政党の一つである改革党が記念碑のことを取り上げ始めました。エストニア語メディアとロシア語メディアの両方でこの記念碑をめぐるヒステリーが高まり始めたのは最近六カ月間のことであり、私の印象では、歴史的問題や人々の真の感情とはほとんど関係がないと思われます。

左翼グループ
と労働者階級

――「中道左派」政権および今日のエストニア議会における野党の、主要政党の特徴を説明していただけますか。

 二〇〇七年三月の選挙後、政府を構成しているのは三つの政党です。改革党は中道右派で、新自由主義派で極端に親EU的です。この党の指導者アンドルス・アンシプが政府の首相です。祖国党は、右翼の保守的民族主義的勢力で、現在教育省および国防省を支配しています。社会民主党は、公式にはエストニア社会民主主義の歴史の後継者ですが、実際には自由主義的な親EU政党のようです。したがってエストニアの政治においては、この政府は中道右派です。
 議会の主要野党勢力は、中央党です。これは改革党やそのパートナーより伝統的に「社会的」です。指導者エドガー・サビザールは、現在タリン市長で、最初からソ連兵士記念碑の移転に反対していました。また、中央党は、他の政党より選挙において「ロシア人の票」を重視しています。

――エストニアにおける労働運動(労働組合、労働者階級の政党、失業者運動など)について、簡単に説明していただけませんか。

 現在存在する労働組合は一つで、エストニア労働組合連合(EAKL)です。これは公共部門ですこしばかり活動しているだけで、EU諸国におけるエストニア労働者を防衛する活動をしています(現在、約十万人のエストニア人がフィンランド、スウェーデン、アイルランドなどで生活し働いています)。現在、エストニアには労働者階級の政党は存在しません。すべての左翼グループは非常に小さく、労働運動に対して影響力を持っていません。

――モスクワにおいては、エストニア大使館前で抗議運動が行われています。この人々は何者でしょうか。ロシア国有鉄道会社は、エストニア向けの燃料輸送を「修理作業のために」停止するかもしれないと発表しました。二つの国家および政府の関係をどのように判断しますか。

 最近二、三週間の間に、政府寄りのロシア・メディアが組織した反エストニア・キャンペーンの高まりがあり、一部の青年組織がこれに結びついています。これらの青年組織は大統領府に緊密に結びついており、モスクワのエストニア大使館の封鎖を組織し、「エストニア大使館をモスクワから追い出す」署名を集めています。
 私の考えでは、このキャンペーンの目的の大部分は国内向けです。つまり、世論を非常に抽象的な「エストニアのファシズムとの闘い」に向けることです。これは、国家に支援されたロシアのナショナリズムの高まりの問題を含むロシアの現実の政治的社会的問題とは何の関係もありません。エストニアに対するロシアの外交攻勢も、来週サマラで行われる予定のロシア・EUサミットの前にEUに圧力をかける役割を果たしています。この対立の中で、エストニア政府も、EUとゲームを演じようとしており、EUからもっと支援を引き出すためにロシアからの危険を示そうとしています。

ロシア・EU双方
を利用する政府

――バルト諸国におけるロシア語を話す少数派の社会的状態はどのようなものでしょうか。エストニアにおけるロシア語を話す市民の政治的雰囲気と政治勢力について、どのような意見をお持ちですか。

 二〇〇〇年の公式の数字によれば、エストニアの人口は百四十万足らずです。その六五・三%はエストニア人で、二八・一%がロシア人です。さらに少数のウクライナ人、べラルーシ人、フィンランド人がいます。六七%がエストニア語を話し、三〇%がロシア語を話します。ラトビアも、ほぼ同じような民族比率です。これらの二カ国の状況は、まさに分裂した共同体社会です。別個のロシア人の学校、大都市の中のロシア人が支配的な地域、ロシアン・バーやロシアン・クラブ、右派から左派までの別個のロシア的政治的スペクトルです。たとえば、ラトビアでは、ロシア人は「彼らの」政党にしか投票しません。
 その中の最大政党である「市民権運動」は、欧州議会に一議席を持っています。この状況の起源は古いスターリニスト政策にあります。一九五〇年代および六〇年代に、多くのロシア人が、工場で働くためにラトビアやエストニアに移住してきました。彼らはこれらの共和国を大きなソビエトの別の部分と考え、ラトビア語やエストニア語を学ぶことには関心がありませんでした。
 一九九一年以降、ラトビア政府やエストニア政府はこれらの人々を新しい社会に統合するために何もしませんでした。それどころか、統合を不可能にするためにあらゆることをしました。今や、ロシア語を話す人々はその大部分が社会の貧困層です。若者の多くは、人生に何の展望もないと感じています。また、この状況は、ロシア政府に、EUに圧力をかけるために、種々の政治的マヌーバーのために、バルト諸国ロシア人の問題を利用する機会を与えました。

――エストニアの進歩的グループや、反資本主義的、反スターリニスト的急進的グループについて何かご存知ですか。エストニアに、反愛国主義的で親西欧主義的でない文化的および政治的運動が存在しますか。同様のロシア人グループと協力しようとする潮流は存在しますか。

 エストニアには、ごく少数の左翼グループしか存在しません。改革された旧共産党である左翼党が存在します。これは欧州左翼党に加盟しています。エストニアの政治においては強力な地位は持っていません。最近の選挙における同党の得票率は一%に達しませんでした。
 また、反資本主義的・反グローバリゼーション的な「赤と黒」(エストニア語ではPunamust)と呼ばれる青年グループが存在します。これは大部分がエストニア語を話す青年グループであり、一定の反資本主義的、反ファシズム的活動を行おうとしていますが、残念ながら彼らとロシア人左翼の間に真の結びつきは存在していません。

(インタビューに答えたイリヤはロシア社会運動「フペリョード」(前進)の活動家である)
(「インターナショナルビューポイント」電子版07年5月号)




イスラエル―戦争の教訓
軍事機構の危機の深刻さ
ミシェル・ワルシャウスキー



 四月三十日、昨年夏のレバノン攻撃に関するイスラエル政府の調査委員会は、オルメルト首相らの「開戦」決断を「軽率」だったと批判する中間報告を提出した。イスラエルのM・ワルシャウスキーがこの問題について分析している。(編集部)

大失敗であった
レバノン戦争

 イスラエルのレバノン戦争調査全国委員会は、中間報告を発表したところである。最終文書は数カ月後に出ることになると予想されている。ビノグラード委員会――議長をつとめる裁判官の名前をとってそう呼ばれている――にとって、「第二次レバノン戦争」(イスラエル政府は公式にそう名付けている)が大失敗であったことはすでに明らかである。その責任者は首相のエフード・オルメルト、国防相のアミル・ペレツ、そして前参謀総長のダン・ハルツ将軍である。ダン・ハルツは、委員会による参謀総長ポストからの退任勧告を待たずに、米国のハーバード大学で研究を行うという口実でさっさと国外に出てしまった。
 われわれは、昨年の夏の戦争がイスラエルにとってどれだけの大失敗であったかを示すのに、九カ月も待つ必要はない。われわれは二〇〇六年の夏に、ビノグーラド委員会が入手できた数千の文書や数十の証言などなくても、同様の結論を出すことができた。しかしそれにもかかわらず、イスラエル軍がどれほどひどい状態で、幕僚たちが無能力で、士官たちにやる気がなく、兵士たちが訓練されていなかったかについて、われわれが過小評価していたことを認識すべきである。
 それがビノグラード委員会が出した重要な教訓の一つである。確かにわれわれは、昨年夏にそのことを示し、そうした線に沿って文書を書いてきた。そうしたわれわれの分析はあまりに大げさだと考えていた専門家の一部から、懐疑的な反応を引き起こしもした。現実には、委員会の報告が示したことは、われわれが間違っていたとすれば、それは大げさに語ったことによるのではなく、まったく反対にイスラエルの軍事機構の危機の深刻さを過少評価したという点にあったのである。
 ビノグラード委員会は、政治的・軍事的決定の仕方、さらにそれ以上にこうした決定の実行の仕方の無責任さについて、きわめて厳しく評価している。他方、委員会はレバノン戦争中になされた戦争犯罪について一言も述べてはいない。市民への空爆、ティールとビント・ジュベイルでの虐殺、インフラの破壊、ベイルートの精油所の破壊による地中海の汚染という犯罪に対しては、一言の批判の言葉もないのである。
 いつか戦争犯罪が裁かれる時には、われわれは調査と提言を委託されていたビノグラード裁判官と彼の二人の助手が、沈黙によって共犯者となったことを忘れるべきではない。

経済好調と政
治危機の深さ

 ダン・ハルツ将軍は辞任したが、正しく機能しなかったことを是正するのは彼ら次第であり、それをなしうるのは彼らだけであると言われているオルメルトとペレツは辞任していない。実際のところイスラエルの政界で、誰もこの二人の後継となる準備ができている者はいない。ベンヤミン・ネタニヤフは自分が代わりになると主張しているが、彼の党であるリクードは議会の中で小グループに縮小してしまった。リクードが政治的力量を再建するためには新しい選挙が必要だが、ペレツの労働党もエフード・オルメルトの党であるカディマもそれを望んではいない。
 しかし政権を引き継ぐ意思を持っている政治指導者が一人いる。裏切り、変節、詭弁に満ちたシモン・ペレスである。八十歳を越えた彼は、祖国を救うために責任を取る用意があると語っている。彼はイスラエル政界の腐敗、政治危機の深刻さについて多くのことを語っている。
 しかしこの危機の中で、株価は下がっていない。なぜなら存在意義を失った政治家たちとは逆に、イスラエルの経済は好調なのである。経済は繁栄しており、輸出は増大し、貿易収支は黒字で、金持ちや中間層の生活水準はヨーロッパの平均より上である。学生のストライキを除けば、社会的戦線ではすべてが平穏である。「パレスチナ問題」は日刊紙の4面にまで追いやられている。
 オルメルトはこれまでのところ、占領の終結に向けた交渉再開に道を開く措置について提案するよりも、アッバス大統領と一回の夕食をしただけである。しかしイラン問題が残っている。だがこの分野でも、戦争屋、とりわけ軍部内でのその声は、核問題についてのテヘランとの交渉にあたってワシントンをあてにする人びとに、ますます道を譲るようになっている。
 いずれにせよ、新たな好戦的冒険を企てるには、それがイランに対するものであれ、シリアに対するものであれ、「ユダヤ人国家」の抑止能力に致命的な打撃を与えるだろう第二の大敗北のリスクを極小化するための軍と参謀本部の再建が何よりも必要なのである。そしてそれには時間がかかるだろう。

bミシェル・ワルシャウスキーはジャーナリスト、文筆家でイスラエルのオルタナティブ情報センターの創設者。邦訳の著書に『イスラエル=パレスチナ 民族共生国家への挑戦』(柘植書房新社)がある。
(「インターナショナルビューポイント」電子版07年5月号)


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