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フランス 左翼の中で何が進行しているのか?       かけはし2007.4.9号

大統領選挙への候補者擁立をめぐる左翼の政治的分裂と戦略的な論争

社会民主主義に従属するのか 政治的独立性を確保するのか                                   フランソワ・デュバル


解説
LCRはブザンスノーの候補擁立を決定

 フランスLCRの大統領候補オリビエ・ブザンスノーはついに、四月二十二日の大統領選挙第一回投票に立候補する資格を獲得した。周知のように、フランス大統領選挙に立候補するには、五百人以上の議員と市町村の首長の推薦人を集める必要がある――きわめて非民主的な制度である。そして、LCRは今、五百三十人の推薦人を獲得することに成功した。今回の大統領選挙では、五百人の推薦人を獲得することは、これまでの通常の大統領選挙に比べてはるかに困難であった。そのためにLCRの何千人もの同盟員や支持者が全国を走り回り、全部で一万七千人もの首長に面会し、ようやく五百三十人の議員・首長の推薦をとりつけることができた。この過程が困難をきわめたのは次のような理由によるものである。
 1、社会党が全国の首長や議員に対して、自党以外には推薦しないようにとの「締め付け」を強めたこと
 2、LCRが、一方でブザンスノー候補の選挙戦を展開しつつ、もう一方で「五月二十九日全国コレクティブ」にもとづく反新自由主義の左翼統一候補の実現を追求するという二面作戦を余儀なくされたからであった。
 LCRのフランソワ・デュバル同志がここに説明しているように、この左翼統一候補の試みは今回、失敗に終わった。LCRの左翼の政治的再編に関する立場は一貫したものである。それは、一方において現実の社会運動、大衆運動を基盤に形成されてくる左派潮流に依拠して政治的再編を追求するというものである。このことは、社会運動の中から生まれた現実の左派潮流と無関係に、抽象的な観念的な左翼の再編、「思想的整風」、を構想するという立場には立たないということを意味する。しかし、LCRは同時に、それが政治的再編である以上、この社会運動を基盤にした左派潮流がそのまま政治的再編にはつながららないこと、すなわち、こうした左派潮流が成立しているということと選挙や政治的統合に向けた政治的再編との間には質的な相違が存在することを明確に意識しつつ、粘り強く追求していくというものである。
 今回の大統領選挙においても、LCRのこの立場は貫かれた。それは、つぎのようなものであった。
 @、LCRは、欧州憲法条約に反対票を投じた「コレクティブ」に結集する左翼統一候補の擁立に賛成する。したがって、そのような統一候補が実現されるならば、ブザンスノーの立候補をいつでも取り下げる用意がある。
 A、しかし、実現されるべき左翼統一候補は、新自由主義路線を推進する立場に立って破産したジョスパンの連立政権の破産の結果を受けて、政権問題をめぐる社会党との関係を政治的に明確にしたものでなければならない。
 しかし、コレクティブ全国指導部と共産党は、一貫して社会党との関係を政治的明確にすることを回避し、その結果、コレクティブの統一候補擁立は挫折したのである。ここには、現実の大衆運動や社会運動から生まれてくる左派潮流と政治的再編との間には、ひとつの質的な飛躍が必要であり、前者から後者への発展が必ずしも容易でないことを示している。(編集部)

フランス 左翼の中で何が進行しているのか?

左の立場に立つ4人が立候補

 大統領選挙への候補者擁立をめぐるフランスにおける左翼の政治的分裂は国際的にも大きな論争を引き起こしている。ここで紹介するのは、LCR(革命的共産主義者同盟)全国指導部のフランソワ・デュバルによるヨーロッパ反資本主義左翼の会合へのこの問題についての報告である。デュバルは、この報告の中でLCRの立場を詳しく述べている。

 ヨーロッパ(ならびに他の地域)の反資本主義左翼の多くの友人たちが、フランスで今日進行している事態について心配し、LCRの政治路線と行動について質問を寄せている(1)。この報告文書は、「フランス以外の読者」がフランスの情勢を理解するための一定の情報を提供するとともに、LCRがフランスの情勢に対してどのような形で取り組もうとしているのか、その方法について一定の説明を行おうとするものである。
 次期大統領選挙(2007年4月末)に向けて社会民主主義よりも左の立場に立つ少なくとも四人が立候補している。これが考えられる最良の事態でないということは、疑問の余地はない! したがって、この事態は不可避的に以下のようないくつかの問題を提起する。
◇左翼の結集や統一的連合が、イングランドやウェールズのレスペクト、ドイツのWASG(労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ)/左翼党などに見られるようにさまざまな結集がヨーロッパ諸国で可能になっている。それなのに、なぜフランスではそれが可能でないのか?
◇LCRはこの事態に責任はあるのか? LCRはフランス左翼の再編のための大きな好機をつぶしてしまったのか?

フランスの情勢をどうみるか

 まず何よりも、フランス情勢の長期にわたって続いている傾向に対してより全体的でより均衡の取れたアプローチを提起する必要がある。人々は一般に、一九九五年以来、大きなストライキと巨大なデモ、そして左翼にとっての大きな成功を伴いさえした豊かで強力な社会運動が存在している、とみなしている。そして、われわれはそうした社会運動を挙げようとすれば、それらを容易に列挙することができよう。
◇一九九五年の大統領選挙でアルレット・ラギエ(2)が獲得した得票結果。
◇その六ヵ月後の政府に反対するストライキとデモ。
◇一九九九年の欧州議会選挙での五人の革命派議員(3)の当選。
◇二〇〇二年の大統領選挙での革命派候補の合計得票率:一〇%。これに共産党指導者の立候補者を付け加えると一三%にもなる。
◇二〇〇三年三月と四月の巨大なデモ。ほとんどゼネスト寸前の状態の出現。
◇二〇〇五年五月二九日の新自由主義的な欧州憲法条約案をめぐる国民投票での「ノン」(反対)の勝利。
◇二〇〇五年一二月のフランス都市郊外での青年の反乱と暴動。
◇二〇〇六年五月のCPE(新規採用契約)(4)に反対する青年と労働者運動の勝利。
 以上すべての出来事はいずれも非常に重要である。それらは、自由主義ならびに株式会社資本主義に反対する抵抗――社会的であると同時に政治的でもある抵抗――の強さを示している。これらのことは明らかに、新しい広範な反資本主義的政党、すなわち、搾取され抑圧された人々の新たな政治的代表、を体現する政治的オルタナティブの出現を通じてその政治的表現がなされなければならないということを示すものである。

 しかし、これら出来事は情勢の一方の側面だけにすぎない。もし情勢の別の側面を見るならば、とりわけストライキによる「労働損失日」の低い水準、労働者の敗北を通じて――あるいは労働者の抵抗がまったくないままに――相次いで実施される新自由主義的改革、ごくわずかの人数しかいない労働組合の組合員数や労働者政党の党員数、選挙での棄権割合の増大、矢継ぎ早に導入される警官に有利で若者や移民に敵対的な法律の数々、労働組合や社会民主主義政党の指導部を含む政治的エリート層の不断の右傾化、などを見ることができるだろう。
 政治と選挙の舞台では、実際の政治生活は、急進的、革命的左翼にとって得票の不断の増大とはなって来なかった。二〇〇二年の大統領選挙から数週間後の総選挙では、LCRとLO(労働者の闘争派)の合計得票率の平均は二・五%だった。二〇〇四年には、(LCRとLOの)共同候補者名簿の平均得票率は、三%〜五%に達した。
 実際、フランスの情勢はより複雑で矛盾に満ちている。
◇一方で、万事が「平穏」なままで、ストライキも運動もなく、右翼政党や経営者からの厳しい攻撃が続く長い期間が続いている。
◇しかし、他方で、(非常な)短期間の激しい社会的爆発が起こる。
 以上二つの相矛盾する側面は、情勢が一九八〇年代および一九九〇年代前半のような「下降」局面にあることを意味しているわけではない。しかし、少なくとも、それは情勢が不安定で移ろいやすいことを意味している。これらの短期間の社会的爆発は、支配階級と労働者階級との間の力関係を覆すことには成功してこなかった。社会運動は激しいがその期間が短いために、労働者階級の重要な部分によっても活動家集団によってさえ引き出される教訓がきわめて不均等なのである。これは、抵抗を政治的オルタナティブに変えようとするすべての試みが直面する第一の重大な障害なのである。そして、この点こそが、二〇〇五年五月以降に起こってきた事態の多くの原因を真に説明しているのだ!

反自由主義闘争の勝利と限界

 実際、五月二十九日以後、われわれは、相次ぐ出会いの機会の見逃しと誤った期待と歪められた論争という事態に直面してきたのだった。簡単に言うと、欧州憲法条約に反対する連合を二〇〇七年のための選挙連合に変えるのは、容易ではなかったし、おそらく不可能であった。
 国民投票に向けて、革命的左翼(主としてLCR)、フランス共産党、緑の党内の左派、社会党内の左派、労働組合運動や社会運動団体やフェミニスト運動やグローバル・ジャスティス運動の活動家、そして左翼の考えをもつ多数の一般の人々が、EU憲法条約に反対するキャンペーンを展開することに同意した。これがわれわれの築き上げるべき豊かな基盤であったことは明白である。しかし、そのためには、一定の政治的明確化が必要であった。
 新自由主義的な欧州憲法条約に対する拒否という立場を共有することは、これらすべての人々が選挙に向けて共同したアプローチに自動的にあるいはたやすく同意し得ることを意味するわけではない。もっと正確に言うと、政治権力、政府、議会における多数派、が問題になるような、すなわち、旧来の言葉で言えば、国家権力が問題になるような、特定の選挙、総選挙の場合は、とりわけそうである。
 反自由主義左翼の共同候補の擁立を目指す過程の破産について最も一般的に広く受け入れられている説明は、LCRのセクト主義またはフランス共産党の覇権主義的行動(そしてまた運動をコントロールしようとするこの党の欲求)、あるいはその両方、のせいである、というものである。
 もし唯一の問題がLCRのセクト主義だけであったというなら、どのような事態になっていただろうか? 結局のところLCRを抜きにした反自由主義左翼のすべての人々を結集した統一連合と共同候補が生まれていたことだろう。だが、そのような事態は生まれなかった。
 もし唯一の問題が共産党の覇権主義的行動だけであったとするならば、どのような事態が生まれていたであろうか? 最終的に共産党を抜きにした反自由主義左翼のすべての人々を結集した統一連合と共同候補が生まれていたことだろう。だが、そのような事態もまた生まれなかった。
 今回の試みの破産についての私の説明は、本質的な政治的理由のために統一連合と共同候補のための過程が破産したというものである。それは、中心的政治問題についての主要な政治的不一致が存在していたがために――そして今なお不一致が存在しているために――、失敗に終わったのである。つまり、それは、反自由主義の運動は、政府、議会の多数派、国家権力の問題に関して社会党指導部とどのような関係を取り得るのか、という中心的政治問題をめぐって主要な政治的不一致が存在しているからなのである。

LCRはセクト主義だろうか

 事態をできるかぎり明確にしてみよう。われわれは、わが組織が社会と民主主義に関する緊急の政策にもとづくすぐれた政綱をもっていると考えている。しかし、われわれは、反自由主義の統一連合がわれわれの政綱を簡単に承認することがあり得ないということも完全に承知している! だから、われわれは、妥協がわれわれの提案に反するものでないかぎり、妥協を受け入れるつもりであった。
 ところで、五月二十九日のコレクティブは、ひとつの政綱を採択した。われわれは、その提案のうちの多くの点に同意していたが、われわれの間には同時に相違もあった。ここでは、そうした相違点のうちのいくつかを挙げるだけにとどめておこう。
 ◇真の反自由主義の候補者はわれわれが闘いの目標に掲げている最低賃金の水準について明確でなければならないとLCRは考えている。この点については、共産党のマリー・ジョルジュ・ビュフェもジョゼ・ボベも明確ではない。
 ◇真の反自由主義候補はできるだけ早急な原子力エネルギーからの脱却を支持すると明確に述べなければならない、とLCRは考えている。だが、「五月二十九日のコレクティブ」の綱領は、主として共産党が原子力推進ロビーに深く関わっているために、この点について述べていない。
 ◇真の反自由主義候補は、帝国主義同盟の解体のために活動しなければならなのであって、フランスはこの問題についてヨーロッパの他の諸国の同意を待つことなくNATOから一方的に脱退すべきであるとこの候補者がはっきりと表明すべきである、とLCRは考えている。
 しかし、選挙に向けた政綱の討論の中では、LCRはそうした政綱の基準の敷居(しきい)を高くするようなことはけっしてしなかった。われわれはただ次のように述べたのであった。これらの相違点(ならびにその他のいくつかの相違点)は統一連合実現の絶対的な障害ではないし、一時的な未解決問題はわれわれには対処可能である、と。
 もちろん、主要な問題は、これらの「非常に慎重を要する」考えが反自由主義コレクティブの活動家の間で共有できなかったということではなかった。活動家たちの大半は、もっと進んだわれわれの要求にも同意していた。主要な問題は、共産党の路線であった。共産党は同時に、この過程に参加している主要政治勢力の中では抜きん出た大きな勢力をもっていた。
 こうして、二〇〇六年春の数カ月間、LCRは共産党との間で公開の真剣な討論を組織しようと試みた。すべての人が合意可能な政策のリストと追加作業と妥協が必要な政策のリストを確定するために、各テーマごとに、共産党とLCRのそれぞれから、ニ、三人の「専門家」が参加する共同の作業グループの設置が計画された。共産党が、LCRと討論すべき理由は何もない、「人々」と討論する方がよい、という決定を下すまで、これらのグループのいくつかは、一、二回の会合をもった。

大切なのはシナリオ

 数カ月間、すべての人々がコレクティブ内で合意が成立しているかのよう思い込んでいた。政治的合意が最も重要であって、共同候補の名前は重要ではなかった。
 LCRは、自身の候補であるオリビエ・ブザンスノーがすばらしい候補者であり、おそらく反自由主義運動のさまざまな指導者の中でも最良であろうと考えていた。オリビエは、労働者と青年の間で非常に人気がある。だが、彼はわれわれの中で最もよく知られたスポークスパーソンであり、この理由からして反自由主義統一連合の候補者になり得ないという点をわれわれは完全に承知していた。われわれには、妥協の用意が、別の候補者を支持する用意があった。ブザンスノーの立候補を発表した後でさえ、政治的合意を見出すことができた場合には、自党のブザンスノー候補をいかなる時でも辞退させる用意がある、とわれわれは明確に述べていた。
 しかし、われわれが妥協できないたったひとつの点があったことは確かである。それは、一連の無数の口実ではなくて、回答を、それもいかなるあいまいさもない明確な回答を必要としたし、今なお必要としているたったひとつだけの問題であった。諸君たちもきっと理解しているだろうが、われわれがこの過程の最初から提起している問題は一貫して同じものであり続けている。それは、政府と議会をめぐる社会党との関係という問題であった。
 そして、われわれが聞きたかった答は、反自由主義の候補者が社会党主導の政府に入閣しないということであり、総選挙で反自由主義の候補者が国会議員に選出された場合に、社会党主導の議会多数派にはけっして所属しないし、社会党主導の政府を支持しもしない、というものであった。
 われわれにはそのような回答が届けられなかった。

歪められた論争

 この問題に関する論争は二〇〇六年前半に展開された。ここでもまた、主要な問題は、反自由主義コレクティブの活動家の全体的な気分ではなかった。かなりの数の活動家が、たとえわれわれがこの問題の重要性を誇張していると思ったとしても、多かれ少なかれわれわれの観点に同意していた。主要な問題は共産党の政治的アプローチであったし、今なお依然としてそうである。
 フランス共産党の指導者たちは二心をもった偽善的発言を行っている。一方で、これらの指導者たちは、一九九七年から二〇〇二年までの時期の「多元的左翼」政府(社会党を中心とするジョスパン連立政府)の経験を繰り返すことを望んでいないという点を再確認する。共産党は、この時、社会党とのジョスパン政府と議会多数派に参加し、その社会自由主義的綱領を承認せざるを得なかった。この経験の最後は二〇〇二年四月の選挙での惨敗で終わった。
 しかし、他方で、共産党指導者たちは、「反自由主義の綱領の上に立つすべての左翼」の結集が可能であり、国民投票で欧州憲法条約へのノン(反対)に賛成した政党とそれへのウィ(賛成)に同意した政党との間の和解が可能である、と主張する。共産党指導者は社会党主導の政府の閣僚に再びなるという前提を放棄していないのである。
 われわれがこの問題について共産党と公開の真剣な論争を行おうと試みたのは、まさにこの理由のためであった。LCRと共産党の両党は、それぞれの党が政治権力、連立政府、共同政府などの問題をどう考えているのかについて文書を作成することに同意した。それからしばらくして、LCR指導部は、共同政府に所属する場合のわれわれの条件を明らかにしたこの文書を起草した。共産党は、いかなる文書も書かなかったし、われわれの文書に対して回答を寄せることもなかった。

候補選出過程の転換点

 次のステップは、この問題についての全国コレクティブと何百もの各コレクティブの内部の論争であった。この論争は二〇〇六年九月に終了した。この時点で、「反自由主義コレクティブ」の全国会議が「大望と戦略」と題する文書を採択した。この文書は、「社会自由主義」の覇権に関する曖昧な定式を含んでいたものの、社会党政府に入閣することも、現存する社会党やその綱領やその指導部との共同の議会多数派の枠組みのもとで社会党政府を支持することも不可能であるとは明確に述べていなかった。
 LCRは、問題を明確にするために修正案を提案した。これらの修正案は、全国コレクティブによって受け入れられなかったし、「反自由主義コレクティブの全国会議」の採決にもかけられなかった。それと酷似したフランス南東地域のコレクティブからの修正案も却下された。同じ地域のコレクティブから出された「共同候補者は政党のスポークスパーソンにはなれない」という点を明確にした修正案もまた同じく無視された。
 この会議が一連の過程における転換点であった。欧州憲法に反対する反自由主義の連合からの仲間たちは、LCRを厄介払いするという決定を行った。これはパラノイア(被害妄想)によるものではない……。もっとも疑り深い人でさえ時として純然たる敵を作り出すこともあるのだが。他の政治潮流や全国コレクティブの他のメンバーの主要な目的は、LCRを厄介払いすることではなかった。だが、これらの人々はこう考えたのだった。すなわち、選択は、LCRをとどめておいて共産党を排除するか、それとも共産党をとどめておいてLCRを排除するのか、どちらかであり、LCRについて言えば、ここで排除しておいても、遅かれ早かれいずれLCRはこの文書に賛同するものと期待できる、と。しかし、われわれはこの文書には加わらなかった。……われわれは政治的思想を信じているからである。
 コレクティブ内の多くの人々は、全国会議が承認したこの文書が実際にはわれわれLCRを満足させるものだと語った。しかし、それから数日後、共産党指導部が明らかにしたいくつかの演説と論文はわれわれの懸念を確認させるものとなった。共産党指導者たちは、コレクティブが合意できたと思い込んでいた内容とは異なる解釈をしていたのだった。そして、共産党指導者たちは、LCRによって支持された政治路線が「コレクティブ」によって打ち破られたのだ、と主張した。私が思うに、これは残念ながら正しかったのだ
 共同候補の選出過程にLCRが加わらなかったのは以上のような理由によるものである。われわれの観点からすると、そのための必要条件は、政治的合意であり、社会党との関係に関する共通の立場である。

共産党の多数派工作

 政党のスポークスパーソンは共同候補になることができないとする修正案を却下するという全国コレクティブの決定はこの過程のもうひとつの弱点であった。実際、共産党が考えていたのは、最終段階では結局、コレクティブの全員が共産党候補を支持することに同意するようになるだろう、というものであった。ところが、全国コレクティブの共産党以外の潮流とメンバーは、最終的に、共産党は自党の候補者を引っ込めるだろうと考えていた。しかし、そんなことは起こらなかった。
 いつものように、共産党は統一という装いを得たいと考えたが、運動をコントロールし続けたいとも思っていた。そして、そうするための最良の方法は、反自由主義運動を代表する形で自党の候補者を立候補させることであった。共産党はそれ以外のことをやるつもりはまったくなかった。そして、まさにその通りのことが起こったのだった。
 共産党が自党の候補者、共産党第一書記マリー・ジョルジュ・ビュフェを押し付けようと試みた二〇〇六年十二月にコレクティブの統一候補擁立過程は吹っ飛んでしまった。もちろん、共産党は、自党候補者を選出するための多数派を獲得しようとして共産党員のいる「新しい」コレクティブをいっせいに作り上げるなどの「ポスト・スターリニスト」的方式を用いてそうしたのだった。一部の以前から存在していた真のコレクティブは、突如として、ただ候補者を選出する時間にだけ間に合うように会議にやって来た共産党活動家の侵入にさらされることになった。一部の選挙区では、共産党の地区支部が急きょ反自由主義コレクティブの組織へと変わった。
 過去のスターリニズムから引き続いた共産党の古いやり口はコレクティブ内の多くの人々を悩ませた。しかし、全国コレクティブが候補者指名の問題を無視し、引き延ばすことを決定していたので、この全国コレクティブから共産党指導部はそうするよう事実上促されていたのだった。
 (われわれを除く)すべての人々が、過程の第一ステップが成功裏に完了したと確信していた。今や、反自由主義運動は戦略文書と選挙綱領(2006年10月に採択)を持つようになったのであり、候補者の名前を決めるのは最後の簡単なステップとなるだろう、というわけである。
 しかし、政治的問題と政治的相違を取り消してしまうことはたやすいことではない。
 われわれが提起した問題に対する解答はなされなかった。このことは、過程からのわれわれの政治的立ち退きにつながっていった。しかし、未解決の問題、ならびに一部の活動家や反自由主義運動のこの過程の指導者たちと共産党指導部との間の不一致が最悪の形で再び発生した。候補者の指名について、意見を聞かれた人々のうちの六〇%がマリー・ジョルジュ・ビュフェを支持すると回答したが、これはコレクティブ内の共産党員とそれ以外の人々との間の実際の比率を示しているにすぎない。

共同候補選出の機会を失う

 LCRがこの過程にとどまり、コレクティブによりいっそう参加していたとしたら、事態は異なったものとなっていたのだろうか? これは、考え抜かれた真剣な観点とは言えない。
 数カ月間にわたって、われわれは、共産党が党独自の候補者の擁立を望んでおり、社会党の関係についていかなる保証をも与えようとしないだろうという証拠があると繰り返し主張してきた。LCRはコレクティブに参加してこの点を指摘してきたけれども、それによって事態を変えることはできなかった。われわれはそれほど強力ではないのである! 欧州憲法条約に対してわれわれが共同の力で国民投票に勝利した後、われわれはこの反自由主義の運動の「発展力学」を過小評価したのだろうか? そうは思わない。
 この運動は、政治的オルタナティブの問題を提起したし、われわれは、自身の政治路線を保持しながら、この大統領選挙戦の間、結集した人々といっしょに前進しようと試みた。しかし、すでに説明したように、前進のための必要条件は中心問題に関する政治的明確化であった。
 左翼の中の一部の人々は、別のアプローチが可能であったと主張した。それによると、いずれにしても、絶対に確実な保証などあるわけではないのだから、賢明なやり方は、その政治的基準が曖昧であっても、コレクティブの過程に参加し、その発展力学に依拠することであり、われわれの懸念が確認された場合にはじめて最終的に共産党と決別することであった、というのである。だが、政治生活はそんなに簡単なものではない。
 LCRは、その政治的基盤がどのようなものであろうと統一候補を求めていたあらゆる人々からの重大な圧力にさらされてきた。もしわれわれが曖昧な基準を受け入れて、この過程に加わっていたならば、この枠組みの中にとどまらせようとする圧力はよりいっそう高まっていただろう。もしわれわれがしばらく後になってから訣別していたなら、すべての人々がわれわれについて次のような記憶を残すことになっていただろう。すなわち、今や新しいものは何も残っていない、諸君はこの基準を受け入れた。それは裏切りである、と。われわれはよりよく理解されることにもならなかっただろうし、われわれの主張をまったく立証することができなかったであろう……。
 われわれは共産党の内部危機を過小評価したのであろうか? そうは思わない。
 ソ連邦の崩壊と前回の社会党との連立の悲惨な結末を受けて、この党の危機はかってないほど深い。多くの共産党員は、そしてこの党の議員や自治体の首長でさえ、共産党の指導やその路線から離反しつつある。だが、このことはこうした事態がどの方向に向かって進行しているのかを示しているわけではない。右派から左派へなのか、それとも左派から右派へなのか?
 もちろん、われわれは、こうした党員の一部がすぐれた選択を下すことができるものと期待している。すなわち、それは、ネオ改良主義的、ポスト・スターリニスト的伝統から離れて他の勢力と共に広範な反資本主義の新しい党の建設を支持するという選択がそれである。だが、われわれは同時に、こうした党員の多くが、共産党指導部とまったく同様に、選挙で再選される上で社会党の支持を必要としているという点をも考慮に入れておかなければならない。
 過去において、より少数のグループが共産党から離れるか、分裂するかした。そのうちの一部は、スターリニズムと本当に訣別し、急進的左翼との共同の活動によりオープンな態度を取った。しかし、そのうちの大部分は社会党に引き寄せられ、社会党の衛星的存在となった。
 われわれは、共同候補によるすばらしい選挙結果を通じて左翼を再編するという機会を見逃してしまったのだろうか?
 この運動に加わった多くの人々は、二〇〇五年には、社会党の有権者をも含めて左翼の有権者の多数派が欧州憲法に反対したのだから、反自由主義左翼の統一候補が出馬すればすばらしい選挙結果を得られるものと信じていた。一〇%以上の得票率を獲得できると夢見る人もいた。また、反自由主義のこの候補者は社会民主主義の候補者の票を上回るだろうと予測するものさえいた! そして、このような洞察力のまったくの欠如は、共産党指導者と全国コレクティブの主要スポークスパーソンによって促された。この主張の考えられ得る最悪の論拠は、もし反自由主義の候補者が勝利し得るのだとしたら、どうして社会党との関係など心配する必要があるのか、というものだった。

LCRは孤立しているのか

 大統領選挙に向けたわれわれのキャンペーンはすでにスタートしている。オリビエ・ブザンスノーとの集会・デモや公開集会は大きな成功をおさめている。われわれは、テレビのトークショーやインタビューが行われる度に、激励の手紙やEメールを受け取っている。ブザンスノーは職場やデモの中では温かく迎え入れられている。社会問題と差別に対する闘いがこのキャンペーンの中核なのであり、多数の労働者、女性、若者がこのキャンペーンに対して関心を示している。
 現時点でLCRの路線と行動と活動についての真剣な総括を行うのは、明らかに余りにも早すぎる。大統領選と総選挙の後に、総括すべき時が来るだろう。おそらく、その結論はこうなるだろう。LCRはすべてのことを最良のやり方でやったわけではないし、いくつかの間違いを犯した、と。
 われわれの同盟員の間でも意見の相違が大きくなったことは明白である。反自由主義運動のきわめて善良な真の活動家たちが共産党に怒っているが、同時にLCRに対しても怒っていることは明らかである。明らかに、われわれは理解されていないし、部分的に孤立している。これがよい結果でないし、共同候補で真に独立した反自由主義の連合を作り出すという試みの失敗が政治的敗北であることは、明白である。
 だが、失望と後悔だけでは十分ではない。それよりも、何が起こったかを理解しようと試みることの方がもっと重要である。
 われわれは困難で心地よくない問題を提起したがゆえに部分的に孤立した。反自由主義左翼の単一候補を必死に求めている人々や活動家に対して、それが容易なものでないと語りかけることは、大きな支持を得られるものではなかった。長く持続する連合を築き上げるには政治的明確化が必須のものであるとそうした人々に告げるのは、大きな支持を得られるものではなかった。
 反自由主義の候補者の選挙結果が、たとえ単一候補が実現されとしても、すばらしいものにはならないだろうと告げるのは、大きな支持を得られるものではなかった。社会党が欧州憲法に賛成しても、左翼政党に常に投票していた人々の多数派が欧州憲法に反対票を投じた。たとえそうであったとしても、これらの有権者の多くが大統領選挙では社会党候補に直接に投票するだろうとこれらの人々に語るのは、大きな支持を得られるものではなかった。何十人もの反自由主義候補者が国会議員に当選することはないと告げることは、大きな支持を得られるものではなかった。そうしたことを聞きたくない人々に(真実であった)こうした点を告げようとするのは、大きな支持を得られるものではなかった! 
 もちろん、われわれの役割は、多数の人々の期待を打ち砕くことではない。だが、われわれは空想的な幻想をこれらの人々に提供するわけにはいかない。

ボベは必要な候補者か?

 多くの事態が進展した後になって、農民連盟の前指導者のジョゼ・ボベが今日、反自由主義と急進主義左翼の四番目の候補者となった。彼はマクドナルド店舗に対する攻撃、遺伝子組み換え食品に反対するその運動、グローバル・ジャスティス運動への参加によってかなりの人気がある。彼は勇敢な活動家であり、数カ月間の禁固刑に処せられたことがあり、今日、再び新たな刑が宣告されるかも知れないという危険に直面している。そして、当然のことながら、彼には、特定の潮流(急進的エコロジー、グローバル・ジャスティスなど)の代表として立候補する権利がある。
 だが、彼は、反自由主義運動や「五月二十九日の連合」の統一候補でも、その「必然的な」候補者でもない。彼は、欧州憲法に反対する連合に加わったどの政党や政治潮流からも支持を受けていない。社会党内のPRS(「社会共和国のためのプラットフォーム」)は、今では社会党候補を支持している。LCRはオリビエ・ブザンスノーを支持している。共産党はマリー・ジョルジュ・ビュフェを支持している。そして、「共和国左派」の小さなグループ(J・P・シュヴェヌマンのかつての支持者たち)もボベの立候補に同意していない。緑の党内の小さな「アルテルナティブ」(オールタナティブ派)とコレクティブ内の少数派だけがボベを支持しているにすぎない。
 この立候補を立ち上げるために用いられた方法は実は問題が多い。二〇〇六年十二月まで、ボベはコレクティブの候補者になるために他の人々と競い合っていた。その後、彼は立候補の取下げを決定した。おそらく、コレクティブ内での投票結果が彼についてはそれほどよくなかったためであろう。その後、彼は、ビュフェとブザンスノーが立候補を辞退した場合にのみ、立候補すると語っていた。
 共産党が第一書記の立候補を発表し、コレクティブの統一候補擁立の過程が吹っ飛んでしまった後になって、彼の友人たちによって、ウェブサイトとEメールを通じて彼を候補者にすることを求める署名が集められた。そうして、最後になって、彼は立候補を決断したのだった。
 この出来事は、コレクティブ内の民主的で矛盾に満ちた論争の結果ではない。それは政党間の政治的対決や合意の結果ではない。それは「反政党」的ムードの危険な臭いを漂わせたEメールの署名にもとづく一般投票の結果なのである。
 オルタナティブ左翼のすべての人々は、政党がたとえそれがオルタナティブな左翼あるいは革命的な左翼であっても、人々を失望させたという点を理解しなければならない。しかし、ゆるやかなネットワークが政党に取って代わることができると考えるのは、政治的効率の面からも、民主主義の面からも、危険な幻想である。
 この点は重要である。なぜなら、以上すべての論争の背景にあるのは、われわれが将来において建設したいと望んでいる新しい反資本主義運動や広範な左翼政党のタイプであるからである(5)。

政治的独立性のための闘い

 われわれが提起した主要問題に関してもう少しだけ述べておく。社会党との関係や政府や議会での連合の問題は純然たる理論的問題ではない。それらは、病にかかったLCRの病の想像の中から生まれた強迫観念でも悪夢でもない。それらは、いわゆる「フランス的例外」に依拠したものでもない。それらは、左翼にとっての全世界での真の挑戦課題なのである。
 革命的・急進的グループはすでにこれらの挑戦課題に直面してきた。たとえば、ブラジルとイタリアでは、中道左派との共同の政府や議会連合を通じて社会民主主義の衛星的勢力になることは、急進的左翼の崩壊という形で終わってしまう可能性がある。われわれは、中道左派政権の経験がより大きな失望、より大きな怒りにつながり、ポピュリスト的な極右政党への支持の増大をもたらすことを十分に承知している。もしわれわれがこれを避けたいと望むなら、急進的左翼はこれらの社会的、政治的災厄の責任を共有しなければならない。
 フランスでわれわれが経験した困難な論争は「改革か革命か」をめぐるものではなかった。それは「党か運動か」をめぐるものでもなかった。LCRの長い伝統は、運動と統一連合と公然たる再編への参加と緊密に関係する形で(革命)党を建設することである。
 それは、「統一戦線」かセクト主義的孤立かに関するものでもなかった。一九七〇年代から今日に至るまで、(欧州憲法に反対する二〇〇五年のキャンペーンへのわれわれの参加に見られるように)、LCRが自党を強調するよりも行動のための統一的枠組みの建設を常に一貫して支持してきたという十分な証拠が存在している。
 それは、日和見主義か革命的純粋主義かという偽りの対立をめぐるものでもなかった。ところで、そのようなアプローチ――革命的純粋主義――は、LCRに提案されることはほとんどないのであるが。そうではなくて、より控え目に言えば、それは社会民主主義への従属(あるいは社会自由主義や政治的独立性)に関係していたのだった!
  07年2月18日
注記
(1)LCR(革命的共産主義者同盟、第四インターナショナル・フランス支部)
(2)LO(労働者の闘争派)の候補者
(3)LOとLCRとの共同候補者名簿
(4)初期雇用契約
(5)これについてもっと詳しく知りたければ、ピエール・ルッセの文書を参照。http://www.europe-solidaire.org./spip.php?article4979
フランソワ・デュバルは、LCRの指導的メンバーである。


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