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ナイロビWSFが突きつけたもの(下)          かけはし2007.4.2号

アフリカ社会の現実とどう向き合い連帯するか

南アから世界社会フォーラムに参加して見たこと、考えたこと
                福島康真(南アフリカ・ケープタウン在住)


WSFの民営化、商業化

 会場で目についたのは、「オフィシャル」と名付けられたサービスだった。
 まず組織委員会は、オフィシャル・シャトル・サービスを準備した。すでに書いたように、最初に見かけたのは、ナイロビ空港の到着ロビー。「WSFオフィシャル・トランスポート」とプリントされたお揃いのTシャツに、看板を持って、到着する参加者を待ち受けている。その一人に話を聞くと、空港からナイロビ中心部までは、一人千シリングだと言う。空港で客待ちしているタクシーを利用すると千二百シリングなので、タクシーを四人で利用する場合と比べると、値段は三倍ちょっとということになる。「値段はリーズナブルだし、何よりも安全」とオフィシャル・スタッフは言う。
 次に見かけたのは、中心部と遠く離れた会場を結ぶシャトルだが、結局期間中にこのシャトルを見かけたのは最初の二日間だけだった。タクシーや公共交通機関を利用した方が、遥かに便利だということが分かったからだ。
 会場内では、Celtelという携帯電話会社のテントが目立っていた。参加団体の展示ブースの間に、赤と黄色のポスターや旗を飾り付けた通信サービスのテントやキオスクが、あちこちに立っている。組織委員会は、この企業にWSFのすべての通信サービスを任せたという。
 新聞報道によると、この企業は二千万シリング(約3500万円)でWSFのスポンサーとなり、開催中のすべての通信と文化・音楽イベントを提供する契約を結んだという。しかも、フォーラム参加者へのSIMカード(携帯電話番号の入ったチップ)の無料配布にも合意したという。
 これまでのWSFでは、オープン・ソフトウェアのリナックスなどを利用したインターネット・サービスなどが設置されていたが、それと比べると大違いである。
 その他にも、ケニアのナショナルフラッグのケニア航空は、参加者への航空券の一〇%割引を行っていた。
 一月十九日付の新聞「デイリー・ネイション」紙には、「フォーラムには世界中から十万人の人々がやってくるので、ケニアを売り込むいいチャンスだ」と、WSFをビジネス・チャンスにしようという投書が掲載された。
 このように、ケニヤの企業やメディアは、こぞってWSFをビジネスに結びつけようとした。なぜWSFがナイロビで開催されるのか、WSFがなぜ行われているのかということとは無関係に、ビジネスのことが語られていた。
 この動きは、略奪され周辺化され続けているアフリカをグローバリゼーションの流れにのせるために、アフリカのエリートたちがいま行おうとしているNEPADと同じ流れの中にある。貧困を持続可能にしている歴史的、社会的な構造とは無縁のところで、ビジネスを通して「豊か」になろうということに他ならない。
 このアフリカのエリートによるビジネスは、WSFの会場にレストランの形をとって登場した。このレストランは、ケニアの情報大臣が所有する五つ星ホテルのレストランだ。各団体の展示ブースの中に設置された三つの大きなテントの中で、白いユニフォームを着たコックたちがビュッフェスタイルの食事を提供していたが、一人四百五十シリングという高額の値段がつけられていた。
 それに対して、組織委員会が会場の外に設置した二カ所のフードコートでは、地元のレストランやケータリング業者のブースが並んでいたが、こちらの方は会場内レストランの半分程度の値段で同じような食事を提供していた。このフードコートについては、プログラムに印刷された会場案内図に申し訳程度に載っているだけだったので、多くの人はその存在を知らず、会場内の高級レストランでは常に長い行列ができ、フードコートは閑散とした有様だった。
 このように、会場では政治家という立場を使ったビジネスが行われており、組織委員会はそれを認めたということになる。
 このレストランに対しても、会場のゲート開放を求めた人々は抗議行動を行い、会場を訪れた周辺に住む子どもたち若者たちに無料で食事を提供するよう求めた。レストランの周辺には皿を持った若者たちの長い行列ができた。この抗議行動の先頭に立った南アフリカの活動家は、最終日に行われた社会運動総会で「高級レストランを社会化した!」と報告していた。

南アフリカの活動家たち


 一連の行動の中で目立ったのは、ナイロビの活動家たちとともにあらゆるところに姿を見せていた南アフリカの活動家たちだった。特に、反民営化フォーラム、ジュビリー南アフリカ、市民社会センターといった「社会運動インダバ」に参加する活動家たちは、飛行機チャーター組も含め、三百人近くがナイロビにやってきた。
 二〇〇二年に南アフリカのジョハネスバーグで行われた国連環境サミットの際に結成された、南アフリカの社会運動団体の連合体である社会運動インダバ(インダバは、集まりという意味のズールー語)は一月上旬、南アフリカのダーバンでナイロビWSFに向けた総会を開いた。その際に出された宣言文は、アフリカの貧困問題に焦点を当てさせるために、様々な企画に顔を出し、アフリカの同志たちと真摯な議論を行うことを呼びかけている。
 「……アフリカのケニヤで行われる世界社会フォーラムは、アフリカにおける闘いの歴史、アフリカに置ける運動の姿や質、アフリカの運動との連帯の方法について、われわれが学ぶスペースを提供する。アフリカの民衆であるわれわれは、アフリカのエリートと『北』のボスにしか利益をもたらさないNEPADに直面している。NEPADとこの大陸におけるあらゆる抑圧に対する抵抗を作り出す場として、WSFを使わねばならない」
 「……同時に、WSFへの参加に際して注意すべきことは、帝国主義的態度をとってはならないということだ。アフリカの運動とかかわる際には、相手を尊重し、言うことをよく聞き、同志的に対応しよう。……この大陸の人々から、たくさんのことを学ぼう。……他の国の同志たちと競争するのではなく、経験を共有し、連帯を作り出すために参加しよう」
 アフリカの中で一番の「先進国」であり、アパルトヘイトを廃絶する闘いを経験した南アの社会運動の活動家たちは、こうした意思一致の下、連日朝に行われたゲート開放抗議行動や、道路封鎖、会場内レストラン開放行動などの抗議行動のみならず、主要な社会運動関連の企画に参加していたのだった。

アフリカの左翼の友人

 南アフリカにおける左派の運動は、その歴史の長さと多様性をみると、アフリカ大陸の中でも一番活発だといえるだろう。しかし、アフリカ大陸全体を見ると、左派・革命派のネットワークは、決して十分なものとはいえない。
 そこで、WSFの期間中、アフリカから参加している活動家たちと何度か会合を持ち、今回のフォーラムの評価を含めた議論を行うことができた。参加したのは、南アフリカをはじめ、マリ、コンゴ、カメルーン、ニジェール、ジンバブエなどの活動家たち。やはり南アフリカの活動家が一番多い。
 「WSF開催地のケニヤにおける左派の運動は非常に弱く、そのために組織委員会への社会運動や左派の立場からの関わりは十分ではなかった。そのことが、開会中の様々な混乱を引き起こしたのではないか」
 「会場では国際NGOや宗教団体が大きな影響力を持っている。会場のあちこちに、国際NGOのプレートをつけた車が行き交い、宗教団体系NGOの大テントが目立つところに設置されている。まるでNGO見本市だ」
 「今回のWSFには政治的空間が存在していない。特にユースキャンプの非政治化には驚かされる」。
 さまざまな議論が出されたが、WSF国際評議会への社会運動、左派・革命派からの介入の必要性と、アフリカにおける左翼ネットワークの形成の必要性について合意することができた。そして、「人民議会」をはじめとするケニヤの社会運動、左派の運動とのネットワーク作りと、アフリカ大陸に置ける革命的左翼の日常的なネットワークを作ることを決めた。

社会運動団体
総会での討論

 最終日、社会運動団体総会が開かれた。世界各地から参加した二千人ほどの人々が集まった大テントは、開会前から熱気で包まれていた。
 総会の進行は、南アフリカの反民営化フォーラムのトレバー・ングワネ。最初に、社会運動団体の声明が読み上げられた。WSFのアフリカでの開催を祝うと同時に、商業化、民営化、軍事化していること、女性に対して差別的な立場をとる流れや団体が参加していることなどに対する懸念が表明された。その後、世界各地から、さまざまな呼びかけ、アピールなどが発せられた。
 二時間以上にわたって行われた総会が終わった時には、会場はすでに暗くなりかけていた。会場を出ると、すぐ横で警備会社の警備員たちが横一列に並び、指揮官が点呼をとっている。まるで軍隊のようだ。これから最後の警備に出発するようだ。これを見たトレバー・ングワネは、指揮官のところへ行き、早速抗議をしていた。WSFの軍事化は、このような形で現れていたのだった。

ナイロビWSF
から見えたもの


 こうして、様々な問題を抱えたナイロビのWSFは幕を閉じた。
 参加した率直な感想を一言で言うと、世界社会フォーラムは、世界経済フォーラムの対抗フォーラムとして始まったことを意識していた参加者は、果たしてどれほどいただろうか、ということだ。
 会場の主流派はNGOだった。多額の資金を使って派手な企画や展示を行っていた国際NGOをはじめ、宗教団体関連のNGO、各地のNGOと、さながらNGOフェスティバルの様相を呈していた。
 政治的空間は少なく、反グローバリゼーション運動としてのWSFは様変わりしていた。というよりも、反グローバリゼーション運動そのものが、いま変わりつつあるといった方が正しいかもしれない。
 これまで、WSFの開催地は、その国の社会運動を強化するために選ばれてきた。国際評議会がケニヤを選んだのは、ケニヤの社会運動の強化のためだった。しかし、これまで述べてきたように、さまざまな課題を残すことになった。
 参加者に関しては、今回のWSFには五万人ほどが参加したという。開会前に組織委員会は十万人以上の参加を見込んでいた。参加者が少なかったのは、『遠い』アフリカの地で行われたためではない。一つは、ケニヤを含めたアフリカの社会運動の弱さの結果といえるだろう。アフリカの人々の参加を、物心両面において十分に組織することができなかった。もちろん、地元ナイロビの人々が気軽に参加できないシステムだったことにも、原因があるだろう。
 そして、WSFの商業化、民営化の問題は、組織委員会だけの問題でも、国際評議会だけの問題でもない。アフリカの現状が強制する、アフリカの社会運動の現在的な姿だと言えるかもしれない。
 一九六〇年代のアフリカ諸国の独立と新国家建設、八〇年代の経済後退の中での「北」による構造調整策と「民主化」の強制、九〇年代の累積した債務による世銀・IMFによる支配と、二一世紀に入ってからの新自由主義的グローバリゼーションによる周辺化と資源を求める「北」による新たな支配構造。
 こういう厳しい状況の中で、アフリカの社会運動は、グローバリゼーションの流れに抗するだけでなく、これに追従しようとするアフリカのエリートたちとの闘いにも直面している。しかし、多くのエリートたちは、独立闘争の英雄たちであり、またアフリカの人々を伝統的にまとめてきたコミュニティー、民族のリーダーたちである。
 こういった社会運動の抱えるこのジレンマの一つの現れが、WSFで現れたと言えるのではないだろうか。そしてこれは、アフリカだけで解決できる問題ではないことは明らかだ。
 アフリカが抱える問題は、言葉だけで語られたとしても、その厳しい現実を認識することはできない。WSFでゲートが開放された瞬間に、参加者たちはアフリカの現実に直面したことを見れば明らかだ。そしてこのアフリカの現実が、歴史的に作られた社会構造の産物であり、グローバリゼーションの中でいま作られていることを考えるならば、アフリカの状況を変えていくこと、貧困を廃絶する闘いは、この歴史的社会構造とグローバリゼーションに対する闘いから目を背けることはできないだろう。
 そして、アフリカが必要としているもう一つのことは、社会運動に対する世界からの支援と連帯である。アフリカにおける社会運動と左派の運動に対して、様々な形での交流や連帯する運動を行っていくことが大切だ。その中で、アフリカの人々が直面している貧困の問題を真摯に語り合うことができるだろう。それは、世界各地で行われている闘いを豊富化することにもなるだろう。
 ナイロビで行われた世界社会フォーラムは、アフリカの人々にとって世界と触れ合う中で自らの問題を明らかにできた機会となった。そして、アフリカ以外の人々にとって、地球上で自分たちがどこに立っているのかを強烈に認識させた場となったのではないかと思う。(おわり)


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