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日本の侵略責任は消せない                かけはし2007.2.19号

重慶爆撃被害者に補償と謝罪を


重慶爆撃被害者と連帯する集い
楽山市の原告三人が訴訟への支援を訴え


 【千葉】日本の中国侵略戦争中、重慶で一九三八年二月から一九四三年八月まで五年半にわたって繰り返し空爆で被害を受けた原告四十人(重慶市34人、楽山市5人、自貢市1人)は、二〇〇三年三月三十日、日本政府に一人一千万円(総額4億円)の損害賠償と謝罪を求めて提訴した。
 原告側は、戦略爆撃の実態を法廷で明らかにする方針である。一月二十四日には、東京地裁で口頭弁論が行われ、楽山市から来日した三人の原告が意見陳述をした。
 一月二十七日には、千葉県の市川教育会館で、「日本海軍機の『楽山』無差別爆撃 私たちの父母 兄姉は殺害された《重慶爆撃被害者と連帯する集い》in千葉」が戦争責任を考える千葉八月の会と平和が好きin市川市民の会により行われた。原告は三人とも二回目の来日である。
 まず戦争責任を考える千葉八月の会代表の大島孝一さんは「本来戦略爆撃は一回で効果が上がり大打撃を与えることができる。ところが戦果をあげ勲章をばらまく目的で陸軍と海軍が競争して二年間も爆撃を継続したのではないか。一回の爆撃の被害では、戦意が喪失してしまうが、何度も繰り返して爆撃を受けたことにより、民衆の怒りは増幅したと思う。二十四日の意見陳述では傍聴席は満席だった。裁判長は割と熱心に原告の陳述に耳を傾けてくれたが、国側の代理人である若い法務省の役人は、どうせ国側が謝罪も補償も行わないのだからと早々に結審を求めた。これに対し普段温厚な土屋公献弁護士が、これから法律的な審理を行おうとしているのにその態度は何だと怒気を含んでたしなめた。法廷での原告の皆さんの声と弁護団の努力が実現できるよう見守っていきたい」とあいさつした。

日本政府の態度
は許されない

 次に原告が報告を行った。
 趙樹信さん(70歳)は「私たち楽山の原告団と声援団(支援団)は日本、特に市川の方の親切を感じている。東京大空襲や広島・長崎の原爆投下は、同様に残忍非道な行為だ。私たちは戦争に反対している。二十四日の意見陳述では妻と父を奪われた怒りが満ち、涙が止まらなかった。と同時に法廷が満席だったことが嬉しかった。これは日本政府に対して大きなプレッシャーになっただろう。日本政府は事実をもとに公正な判決を下すと確信している。ただし、法廷終了後日本語が分かる人から聞いた話では、楽観視できないとのことだったが。私たちが来日したのは、日本政府に歴史の反省とともに謝罪と補償を求めることが目的だ。防衛庁が省に昇格したことにより戦争の危機が近づいている。戦争被害国の人民とともに加害国の人民も戦争の被害者だ。ともに戦争に反対していきたい」と語った。
 羅保清さん(81歳)は「著名な文学者である郭沫若は楽山市で生まれ育ち、一九二八年より十年間日本に亡命し市川市に暮らしていた。現在市川市は楽山市と友好都市になっている。その市川に来られて大変嬉しい。現在中日両国は大変友好的な関係だと思う。たが日本軍国主義は中国に対して大きな犯罪を犯した。一九三九年八月十九日の楽山爆撃では、一万人を超す人が住居を奪われ、十二の街道はすべて壊滅した。多くの死者がでたが、遺体すら見つからなかった人はもっと悲惨だ。私の家には父と奉公人を含め五人ほどいたが、爆弾の直撃にあい、全員遺体すら見あたらなかった。日本軍国主義の侵略以降一日として平和な日は訪れなかったが、やっと訴訟を起こすことができるようになった。謝罪も補償もしないという日本政府の態度には、絶対に闘いの姿勢を崩さない」と発言した。
 呉紹武さん(74歳)は「二回目の来日で、市川にも二回目の訪問だ。また一つ友情が深まった。市川の皆さんには重慶爆撃と不可分の楽山爆撃をもっと知っていただきたい。六十七年経過しているが楽山の人々は歴史を忘れてはいない。数千人の死者の遺族は、少数しか残っておらず、七〜八十代になり厳しい状況になった。私たちが提供した証拠に対して日本政府がどういう態度をとるのか見つめていきたい。動かぬ証拠を前にそれを認めるのか、あるいは肯定も否定もしないというあいまいな態度をとり続けるのか。肯定も否定もせず私たちの死を待つことは、世界の正義の人々に許される行為ではない。日本政府の状況は良くならないし、日本人民は抗議の声を上げるだろう」と訴訟への支援と協力を訴えた。
 原告に随行してきた三人の声援団(支援団)からは、楽山市では訴訟への関心が大変高まっており、楽山爆撃を語り継ぐ記念碑の建立に十七万人民元(約260万円)の寄付が五千人もの市民から寄せられていることなどが報告された。

若い世代に歴
史を伝えよう

 一月二十五日には、中国・黒竜江省チチハル市で二〇〇三年、日本軍が遺棄した化学兵器から漏れた毒ガスで死傷者が出ており、遺族と被害者が日本政府を提訴した(1月26日東京新聞)。戦後補償裁判において、日本の司法は国家無答責や時効をを理由に訴えを退ける判決を連発している。東京裁判では、アメリカの原爆投下や都市戦略爆撃などについての言及をさけるため日本の重慶爆撃は取り上げられず、これまでその違法性が指摘されることはなかった。
 私たちは、現在闘われている戦後補償裁判を注視するとともに、いかに若い世代の関心を引き出すか。大きな課題である。
 なお、重慶爆撃を理解する上で、以下の本が参考になる。『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島』 前田哲夫著(凱風社刊; 新訂版 2006/8)
 また、重慶大爆撃の被害者と連帯する会では、賛同人を募集している。Webサイトhttp://www.anti-bombing.net
 なおこの集会は、先日急逝されたちば市民ひろばの林廣治さんから送っていただいた「ひろば」紙の案内で参加した。林さんは三里塚、反戦、平和、戦後補償、反原発、在留資格裁判の支援等々様々な運動に関わり、それらを結ぶ役割をはたしていたと思う。
 筆者は田んぼくらぶの秋のご苦労申しで「ひろば」の購読料を支払ったのが最期となってしまった。心からご冥福をお祈りします。 (沢中 仙)




『労働情報』30周年パーティー
労働運動の根本的再建に一層重要な役割を期待


 二月三日、お茶の水の東京ガーデンパレスで『労働情報』創刊30周年パーティーが開催され、『労働情報』に関わってきた労働運動や市民運動、住民運動活動家など二百二十人が参加した。
 『労働情報』は高野実さんらによる発行を引き継ぐ形で、民同労働運動を乗り越え階級的労働運動をめざして一九七七年四月に創刊された。大阪・田中機械の闘いをはじめとする戦闘的職場・地域労働運動、三里塚闘争、郵政4・28処分との闘い、右翼労線統一・総評解散の攻防、国鉄分割・民営化反対闘争、女性たちの闘い、そして韓国労働運動をはじめとする国際的な連帯闘争の闘いを紹介し、繋げる役割をになってきた。
 『労働情報』は現場報告による闘争の教訓化とともに、総評三顧問や学者・知識人によるいくたの提言を職場活動家に伝え、闘いの方針化に役立ってきた。
 しかし、ソ連・東欧の崩壊よる「社会主義」運動の歴史的敗北や中曽根による総評・国労解体攻撃をはじめ左派労働運動解体攻撃に対して、日本の労働運動は歴史的敗北を強制された。この厳しい現実の中で、それに抗して闘う国鉄1047解雇撤回闘争を始めとして、抵抗し闘う労働者の闘いを『労働情報』は伝え、闘う方針をつくり出すための助言を行ってきた。『労働情報』の存在は今も色あせることなく、逆に一層必要とされている。三十年間、発行し続けるためにはさまざまな困難に直面してきたが、パーティーに参加しただれもが、これからも『労働情報』をよりすばらしく、階級的労働運動に役立てたいという意志が現れていた。
 最初に、前田裕晤さん(協同センター労働情報 共同代表)が「『労働情報』はよく三十年もった。社会運動の原動力としての労働運動を再生するためにこれからもがんばりたい」とあいさつした。この後、電通合同労組山崎委員長、国鉄共闘会議二瓶議長など多くの人たちからあいさつがあった。一部を紹介したい。
 藤崎全労協議長、「頼りがいのある労働情報を」。武藤都労連書記長、「社会変革の構想力とロマンをもって労働情報は発足した。これからたいへんな時期であるが、現場感覚を研ぎ澄ましてほしい」。元労働情報編集人の樋口篤三さん、「多数を獲得できるように日本の労働運動を変えなければならないと戦略的に考えた。労働情報は発足から一年間で一万部になった。しかし、多数派にはなれなかった。なぜ、敗北したのか、反省・総括しなければならない。前衛的で横断的左翼をもう一度つくりだすために、労働情報を武器としよう」。鎌田慧さん、「ポーランドのワレサは『自由と民主主義』を掲げて連帯労組をつくった。われわれも大胆なスローガンを掲げてネットワークを広げよう」。山田聡子さん(故山川暁夫さんの連れ合い)、「編集部の浅井さんを始め、スタッフの皆さんの血のにじむような努力によって、『労働情報』は継続して発刊されてきた。これからもがんばってほしい」。
 韓国山本労組、鉄建公団訴訟原告団、全動労争議団、郵政4・28被解雇者などが決意表明を行った。社民党衆院議員の保坂展人、阿部とも子さんも参加し発言した。
 『労働情報』とともに、階級的労働運動再生にむけて、われわれも奮闘しようではないか。ぜひ、『労働情報』の読者になろう。 (M)

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関西三里塚闘争に連帯する会が旗開き
三里塚の地に空港がある限り反対同盟はたたかいつづける

 【大阪】一月二十八日、「関西三里塚闘争に連帯する会」が兵庫県尼崎市立勤労福祉会館で二〇〇七年旗開きを開催した。
 旗開きには、三里塚空港反対同盟から柳川秀夫さんを招き、約二十人が参加して成功した。
 最初に連帯する会事務局の渡辺さんが新年の挨拶をおこない、昨年一年間の取り組みの報告とこれからの活動にむけての提起がされた。
 「昨年一年間、事務局としてさまざまな活動にとりくんできた。三里塚、静岡空港、関西新空港と。昨年は大きな節目の年だった。二月に神戸空港が開港し、北九州空港が開港した。三里塚では北側延伸が決定し東峰地区住民に対して新しい攻撃がかけられようとしている。静岡では四人の地権者に対して土地明け渡しを要求する『強制収用』の攻撃がかけられようとしている。こういう形で無駄な公共事業が進められ日本の農業が破壊され、そしてそれは軍事へと使われていく。きびしい状況だががんばって闘っていこう」と報告し、これからの取り組みについて「昨年の第六回反空港全国集会は静岡で百五十人の参加で成功した。今年は白保(沖縄県石垣島)での開催を考えている。関西での集会も秋に予定しているのでみなさんの協力をおねがいしたい」と提起した。
 また昨年十二月三日、東京で行われた「三里塚四十年のたすきわたし集会」について「四十年の闘いをただの回顧にするのではなく、次の世代に伝えていく。そういう意味でたすきわたしという名称で集会を行いました。三里塚闘争は空港に反対する闘いであると同時に、世なおしの闘いでもあったはずだ。それを今、もう一度見つめなおそうと提起されました」と報告し、「今年も一年闘っていこう」と締めくくった。
 続いて三里塚反対同盟から柳川秀夫さんが挨拶と現地の報告を行った。
 「三里塚では暫定滑走路を二千五百メートルに延長する攻撃がしかけられている。東峰地区住民を守るため裁判闘争を闘っている。反対する者が地元では少数だろうと個人であろうと納得のいかないものには反対し続けるし闘っていく。三里塚の農地に空港があるかぎり反対の闘いは続くし反対同盟は存在し続ける。私の人生はほとんど三里塚闘争に使った。残りの人生も三里塚で闘っていきたい。これからもみなさんの協力をお願いしたい」と発言した。
 交流会に移る前に、昨年、亡くなった連帯する会の専従だった平本さんにたいして一分間の黙祷が行われた。この後、全員がビールで乾杯。三里塚でとれた野菜でおでんと鍋料理で交流会を楽しんだ。
 交流会の合間に各個人や団体の代表が発言。それぞれの思いや感想を述べた。
 ATTAC関西のメンバーは「去年は結局、旗開きに参加しただけでなにもできなかった。たすきをうけとるためになにをすればいいのか?まずは三里塚現地に行くことだと思う。今年は三里塚現地に行き、見て聞いてみよう。まずはそれからだ」と発言。古参のメンバーからは「たすきわたしは自分が止まっていてはできない。やはり自分が走りながらでないと次の人にたすきをわたすことはできない」と発言。
 その後も多くの人が発言し大きく盛り上がりながら旗開きは終了した。 (A)


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