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                            かけはし2007.2.12号

静岡空港を廃港へ

「オオタカの小屋」前で強制収用反対の意思表示


県当局の工事
強行に強い怒り

 一月二十八日、空港はいらない静岡県民の会は、静岡空港の本体部予定地の「オオタカの小屋」前で強制収用反対集会を行い、八十人が参加した。
 集会は、「代執行をふりかざす公権力の悪逆非道との対峙を超えて、その先にある空港の絶望的な将来をより鮮明に提示し、いささかもひるむことなく闘い続ける」ことを第12回総会で確認し、反対運動のよりいっそうの広がりを作り出していくための出発として実現した。石川知事の空港反対運動解体の一環である行政代執行の強行という挑発に乗らず、新たな空港廃港にむけた拠点として、一月二十七日に「オオタカの小屋」を二十メートルほど自主移転した。会場は、移転後の小屋の手前だ。すでに小屋の後方には、フェンスが張られ、山林にそびえ立っていた木々が伐採されている。参加者は、あらためて県の横暴な工事強行に対して怒りを噛みしめた。

軍事利用のも
くろみ許すな

 いつものようにオオタカがペアで出迎えてくれている晴天下で集会が始まった。小屋には、「空港反対続行中!人の心を踏みにじってまでも、この空港を造る必要があるのか」という大横断幕を掲げた。
 司会の増田勝さんは、「私たちは昨日、苦汁の選択として小屋を移転しました。強制収用に抗議していこう」と元気一杯で訴えた。
 主催あいさつを竹野昇さん(共同代表)から行われ、「闘いの再出発の日だ。一九九六年に建設したオオタカの小屋を県によって不当に壊されるのではなく、新たな拠点として地権者の松本吉彦さんの土地に移転した。団結の証だ」と発言した。
 さらに今後の運動の方向性として、「建設費用があと三百億しかないのに、どうやって工事を続けるのか。借金と税金の無駄遣いを許さない監視を強めていこう。空港が完成したとしても赤字は必至だ。その後にくるのが軍民共用として、米海軍の横須賀第七艦隊の空母艦載機のタッチアンドゴー飛行訓練のために使う可能性がある。おそらく国は、地方空港を作らないという方針にもかかわらず、静岡空港の軍事利用を見据えて認可を与え、援助したのではないか。このような目論見を許さず、廃港のために頑張っていこう」と強調した。

空港いらない
の声が広がる

 次に四人の地権者から発言が行われた。
 檜林耕作さんは、「空港が開港しなければ静岡県民の一人一人が困窮をきたすというのなら考える余地がある。そういうこともなく無謀にも強制収用が執行された。小屋には、私たちの魂が宿っている。県に壊されることを拒否し、苦汁の選択として小屋の移転をした。私たちはここを去るわけにはいかない。新たな闘いのスタートについていただいて、皆さんと共に闘っていく」と力強く発言した。
 松本吉彦さんは「空港は知事が作りたくて作ったのではなくて、もっと大きな力が働いているのではないか。本当は国が作りたかったのではないか。なぜならば浜松基地、静波基地があるが空域調整が県、運輸省、防衛庁の間で早く決まった。つまり、米軍の影響があるのではないか。軍事利用を絶対に許してはならない。もっと監視を強めていかなければならない」と発言した。
 村田利廣さんは、「皆さんがここにいるように、私たちも気持がずっと続いています。この小屋は、闘いの過程で作られ、いろいろな気持が入っている。移築したことによって、今後も続けていくんだということだ。反対運動は、やることが一杯あるが、ともに頑張っていこう」と呼びかけた。 
 大井寿生さんは、「裁決書が送られてきたが、ほとんど起業者の意見を丸呑みしただけだ。裁決は、知事の報復的な性格が色濃く出た陰湿なものだ。このような中でメディアで空港問題が取り上げられ、空港はいらないという声がよく出てきている。『空港は大地に対するいじめだよね』と言うDJもいるほどだ。若い世代に少しでも伝えていこう」と発言した。
 さらに泉州沖に空港をつくらせない住民連絡会、浜岡原発訴訟、自然を守る会、松谷清事務所、三島市議選に立候補する堀よしのぶさんなどから決意表明が行われた。
 島野房巳さん(共同代表)は、事業認定取消訴訟の取り組みを紹介した。続いて桜井建男事務局長から集会集約と今後の取り組みについて提起した。
 最後に、空港予定地に向かって「空港反対、裁判闘争勝利」のシュプレヒコールを響かせていった。(Y)


大江・岩波訴訟第7回口頭弁論
「集団自決命令」否定論に被告側が全面的な反論


 【大阪】一月十九日、大江・岩波沖縄戦裁判第七回口頭弁論が大阪地裁で開かれた。今回は、今までに出された原告の主張に対する全面的な反論を被告側が展開した。
 被告側からは新たな資料、つまり一九四五年の米軍記録(林関東学院大教授が発見した集団死事件発生直後の住民証言・04年10月3日沖縄タイムス掲載)、「集団自決」の犠牲者については準軍属扱いとするという当初からの政府の方針(07年1月15日沖縄タイムス掲載)、沖縄タイムス社の新川明氏と梅澤裕氏の会談テープ(1988年当時)が提出された。被告側からは特に新しい主張はなかった。
 裁判長は、「資料はたくさん出たので、今後はこの資料をどう評価するかだ」と語った。裁判は折り返し点にきたとの評価だった。

メチャメチャ
な原告の主張

夕刻から報告を兼ねた学習会が開かれた。はじめに岩波書店を代表して、岡本厚さんがあいさつをした。「原告の主張はメチャメチャになっている。はじめの主張では、住民は自ら自決を選んだが、援護法適用上軍命があったとした。今度は、軍命があったと住民が思っていたのは事実だが、それは彼らが勝手にそう思いこんでいただけだと変わった。今日は、大江さんの著書についての匿名性のことを出してきた。しかしいま問題になっているのは七百人の死に関わる問題だ。この裁判を通じて様々な事実が発掘され、歴史の実相がより明確になってきた」と語った。

ひとつひとつ
詳細に反論展開

続いて、弁護団の近藤弁護士が、今日提出された被告第7準備書面に沿った口頭弁論の報告をした。
 第1・隊長の自決命令による「集団自決」は、当初から戦闘参加者に該当するものとして、援護法による補償の対象とされていた。
 その事実としては、@米軍の「慶良間列島作戦報告書」(1945年)、A馬淵新治氏(元大本営船舶参謀、引き揚げ援護局勤務)の一九五五年から五八年までの執筆資料、B琉球政府作成の戦闘参加者概表(1957年)、C座間味村役場の援護係・宮村幸延氏の一九五七年厚生省陳情の時期(原告は、集団自決補償のための上京だったというが、戦闘参加者処理要綱決定後のことであり、適用年齢を14歳から7歳まで下げるための上京だった、その後年齢は1963年には0歳まで下げられている)。
第2・原告第4準備書面に対する反論。
 @宮村幸延氏が原告梅澤裕に一九六二年に書いたとされる詫び状。この詫び状とは、「集団自決は軍命令ではなく、幸延氏の兄で、当時の兵事主任兼村役場助役であった宮里盛秀氏の命令で行われた。それを幸延氏が遺族補償のためやむを得ず隊長命令として申請した」という内容を梅沢裕宛に書いた一九八七年三月二十八日付け親書である。
 しかし、これについては宮城晴美さんの「仕組まれた『詫び状』」で詳しく述べられているし、朴壽南さんが宮村幸延氏がなくなる直前にインタビューしたVTRでも証明されているように、幸延氏には記憶がない。梅澤は三月二十八日の前日から、元部下らとともに幸延氏経営の民宿に宿泊し、幸延氏に酒を飲ませた。幸延氏がもし書いたとしても、泥酔状態で書かされた可能性が高い。
 援護法の適用のために軍命令を作り出す必要はなかったし、自分の兄が命令を出して村民を死に追いやったという証言などあり得ない。梅澤は絶対に公表しないからと懇願していたそうだが、彼は親書なるものを手に入れるとすぐそれを神戸新聞に持ちこみ、幸延氏が梅沢に証言のような親書を寄せたとして掲載された。梅澤は、その後沖縄タイムスに対し、梅澤自決命令の部分の訂正を要求している。沖縄タイムス社は応じなかった。
 A神戸新聞には、『母の遺したもの』の母である宮城初枝さんが語ったという話、沖縄県史料編集所の大城将保さんが言ったということなど、当事者の取材に基づかないで書かれた記事が多い。要するに、この記事を使って梅澤らは隊長命令はなかったというのが真相のようだ、という話をもっともらしく広めようとした。
B産経新聞は二〇〇六年八月に、当時渡嘉敷島の住民で赤松隊長の自決命令を証言したものは一人もいなかったとの元琉球政府職員照屋昇雄氏の証言を掲載したが、一九五〇年現地取材に基づく『鉄の暴風』には赤松隊長の自決命令が記載されているし、渡嘉敷島遺族会発行の「渡嘉敷島の戦闘概要」にも自決命令が記載されている。史料の重要度は自ずからはっきりしている。

軍官民の「共生
共死一体化」方針

 第3・@原告第5準備書面に対する反論。兵事主任兼助役から忠魂碑前に集まれとの指示が、住民に軍命令だととられたが、それは軍命令ではなかったと原告は主張する。
 しかし、まさにそれこそが軍命令に他ならない。沖縄戦において日本軍は、「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下、米軍が上陸したら村民とともに玉砕する方針をとっており、秘密保持のため、村民に対しても米軍の捕虜になることを禁じ、米軍の捕虜になったら女は強姦され、男は八つ裂きにされるなどと脅し、いざというときは玉砕するように言い渡していた。
A沖縄県史第十巻に記載されている徳平秀雄郵便局長らの証言によると、「集団自決」は赤松隊長命令ではなく、古波蔵渡嘉敷村長の命令によるとされている。自決の前に村長の演説があったとしても、その点をとらえて、隊長命令はなかったとはならない。
 『ある神話の背景』では、渡嘉敷村長が集団自決の音頭をとっていながら生き残ったことで、村長としての責任を軽減するために、存在しない赤松隊長による自決命令を作り出したとの解釈を述べている。しかし、それは根拠のない曾野綾子の単なる憶測だ。
 また、原告は「沖縄ショウダウン」(琉球新報掲載)で、「赤松隊長は立派な人だった。村の中で赤松さんを悪く言うものはいない」という赤松隊長を賛美する住民の発言を引用している。しかし、赤松隊長は渡嘉敷島で住民を虐殺している。米軍が投降勧告のため伊江島から住民六人を渡嘉敷島に送ったところ、赤松隊長はこれをとらえて処刑し、投降を呼びかけに来た少年二人も処刑し、国民学校訓導であり防衛隊員であった大城徳安氏を、家族を心配し持ち場を離れたとして処刑したことが明らかになっている。ショウダウンでは、このような赤松隊長を一方的に評価していて、信用性がない。
 「『鉄の暴風』周辺」を著した太田良博氏は、「戦後二十年たって曾野綾子氏が赤松元大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かだ。」と述べている。同感だ。歴史の歪曲は、人々が忘れかけた頃をねらってたくらまれる。記憶が生々しい時期にはすぐに意図が見破られるからだ。曾野綾子のやっていることはそのようなことであり、品位にかける行為だ。
 この報告の後、VTR「沖縄戦の証言」が上映され、支援連絡会の小牧事務局長が「沖縄戦裁判の争点と宮村証言」を原告と被告の主張を対比させてコメントした。
 続いて、映画監督の朴壽南さんが、昨年なくなる直前に座間味島で宮村幸延氏にインタビューしたときのVTRをが上映し、「宮村証言の意味するもの」と題した講演をした。
 ベッドに横になり酸素吸入している幸延氏が、一九六二年三月に梅澤たちがやってきて親書を書いてくれと懇願・強要する様子を証言していた。梅沢は、このように書いてくれとあらかじめ紙に書いた見本を持ってきていたという。この見本と幸延氏が書いたとされる親書の両方が裁判の書証として原告から提出されている。
 最後に、この裁判を支えながら今後息長く教科書問題に取り組んでいくために結成された「沖縄の歴史歪曲を許さず、沖縄から平和教育をすすめる会」の代表で、口頭弁論を傍聴した三人からあいさつがあった。
次回は3月30日である。その後は証人尋問に移っていく。     (T・T)


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