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民主労総の労使政代表者会議への復帰批判         かけはし2006.7.24号

社会的合意主義は新自由主義改悪に道を開く


1カ月でまたも「方向転換」

 民主労総は6月19日の中執会議で「労使政代表者会議への参加」を「決定」した。去る5月23日の中執会議で「不参加」を決定してから、わずか1カ月にもならない期間での「方向転換」だ。民主労総中執は労使政代表者会議への参加の時期など具体的戦術を委員長に委任し、指導部や産別連盟などとの意思疎通強化のために交渉団を構成・運営することにした。
 今回の民主労総中執の決定はチョ・ジュノ委員長の「強力な意志」と「組織の混乱を避けるための決定」だと伝えられている。このような民主労総指導部の決定は、政権や資本の社会的合意戦略に当面の核心的闘争諸要求を委ねる形だ。最近で言えば、この2年間にわたって続けられた非正規改悪案をめぐる労使間の攻防でも確認されているように、政権と資本は非正規職の量産、外注化など、構造調整のためにのみ労使政の大妥協を望んでいたにすぎなかった。それにもかかわらず、民主労総は、またもやこの2年間の悪循環を繰り返す決定を下した。これは毒入りの杯と知りつつも飲みましょうと言うことにほかならない。
 現在の労使政代表者会議は非正規悪法、ロードマップを貫徹するための機構にすぎず、結局は先の非正規改悪案の一部修正を通じた国会常任委通過のような様相を繰り返すだけだ。また低出産・高齢化対策のための社会協約は新自由主義「改悪」の道連れへと労働者たちを転落させるもので、破綻した社会的合意を再び本格化させた。
 労使政代表者会議への復帰は、当面の非正規・ロードマップ粉砕・労働基本権争取のための力強い闘争を組織するうえで撹乱かつ障害となるだろうし、むしろ政権や資本のギマン的術策にまるめ込まれる結果を招くだろうと「労働者の力」は判断する。また社会的合意の一形態として登場した「低出産・高齢化の社会協約」は、社会的合意主義の流れが本格化するシグナルであり、その結果は新自由主義の柔軟化の貫徹によって労働者民衆の「生存」が根こそぎ奪いさられるものとして現れるだろう。

再び姿を現した「交渉」


 社会的合意主義の本質とは何か。それは新自由主義改革勢力たるノ・ムヒョン「参与政府」が韓国社会で新自由主義の労働柔軟化を貫徹させようとして断行した社会統合戦略だ。このような資本や政権の戦略は労働運動陣営が「対話」や「交渉」を通じて労働の柔軟化を受け入れるように強制する制度的装置として現れた。これは民主労総イ・スホ指導部が推進していた「社会的対話」、「社会的交渉」という外被によって現象化された。
 04年、「社会的対話」を強調していたイ・スホ執行部は「労使政委員会の改編」のために「労使政代表者会議」に参加した。これをめぐって民主労総の内外で提起された様々なレベルの問題提起は05年初めの2度にわたる代議員大会での物理的衝突へと極大化した。だがイ・スホ指導部は独断的決定によって「社会的交渉」を強行し、結局は05年4月の政権による非正規改悪案強行処理の局面において、「労使政代表者会議」への参加を留保するところとなった。
 政権や資本が社会交渉を通じて一貫してねらったのは非正規悪法の貫徹だということが証明されたのだ。結局、社会的交渉を主張していたイ・スホ執行部は下半期の非正規職改悪案阻止のためのゼネストが組織される局面において、カン・スンギュの不正事態を経過しつつ歴史の後景へと消え去った。そして非正規職改悪案の強行処理を阻むとの名目で参加を決定した「労使政代表者会議」で手にしたものは何もないことを労働者階級のすべてが確認した。
 結局、力の優位を土台としない状態での「交渉」や「協議」は労働者階級の生存を根こそぎ支配階級の意図に委ねるものにすぎないことが確かな事実なのだ!
 だが破綻したものとばかり思っていた「社会的交渉」、「社会的合意主義」が再び姿を現している。ひとつは民主労総中執の「労使政代表者会議」への復帰決定を通して確認されたし、もうひとつは「社会協約」という形態を通じて復活した。
 新自由主義貫徹のための、資本や政権が推進している社会的合意主義の典型的形態が、まさに汎国民的機構の構成を通した「社会協約」の締結だ。「低出産・高齢化の社会協約」は、これのシグナルにすぎない!
 6月21日、「低出産および高齢化問題解決のための社会協約」締結のニュースが、ありとあらゆるマス・メディアを通じて伝えられた。低出産・高齢化対策連席会議は、05年10月に当時のイ・フェチャン総理が国会の施設演説で「社会の2極化問題」、「国民年金問題」など主要な社会的課題を扱う協議機構として提案した「国民大統合連席会議」の延長線上に位置づけられている。
 政府は当初、さまざまな課題を包括的に扱う拡大した形態の機構を構想した。だが社会的対話の経験が充分ではない韓国の現実を考慮し、合意が比較的に容易な低出産・高齢化問題にテーマを縮小し、この経験を土台にして今後、テーマを拡大する計画を提出した。そしてその結果は低出産・高齢化問題についての「社会契約」の締結として現れた。しかし政府が主導した低出産・高齢化対策は労働力の需給の不足分を補うための、女性や高齢者などの低賃金階層の積極的な労働市場への誘引策にすぎず、低賃金労働者量産についての社会的合意ということにすぎない。
 現在、提起されているのは、抽象的な文言の合意にとどまった協約の実践過程が今後いかなる問題を引き起こすのかについての、さまざまな憂慮だ。だが核心的問題は賃金体系の改編と連動した定年制度の改善方針の論議に合意したことだ。民主労総はこのような合意について、一部マスコミが「賃金ピーク制の拡大」と報道した問題を指摘しつつ、報道の訂正を要求した。
 しかし定年制度と連動した賃金体系の改編がいかなるレベルで論議が展開されるのかは疑問であり、その具体的内容が何なのかは当然にも疑いをもたざるをえない。賃金ピーク制は、定年を維持するかわりに賃金の柔軟化を通じて「賃金全体を減らす」との意図によって作られたものだからだ。結局、賃金体系を改編して定年制度を改善していくとの話は賃金ピーク制を全社会的レベルで推進していくということ以外に他の方案がないのだ。したがって「賃金ピーク制の拡大」のための水準となる可能性についての憂慮を抑えがたい。
 すでに保守マスコミは社会協約の実効性への疑問を提起するとともに、法的効力が現れるようにせよ、との要求をしている。「国家を構成している各主体の多様な苦悩や利害関係を対話によって合理的な解決していく」という名分の下に進められた部門・課題レベルの社会的協約は結局、支配階級の統治・支配戦略に対する順応であり、彼らの階級支配に対する広範囲な同意の基盤を形成する過程であるにすぎない。
 韓国資本主義社会にあって最大の争点とならざるをえない労働者階級との全面的衝突を迂回し、部門や領域別の課題を中心に形成された社会的協約・社会的合意は結局、労働者階級に対する逆包囲攻勢へと結びつくだろう。最近、長期闘争の事業場の問題解決の過程を通じて確認されているように、地域の労使政協議のテーブルによる仲裁、勧告案の受け入れは社会的妥協体制を現実化させている。
 政権や資本は中央単位を通じた社会的交渉の進展が難航すると、これを迂回して部門・領域の課題別合意を導き出し、地域的レベルで社会的合意の実体を作り出していくことによって全方位的に労働(組合)運動を圧迫し、新自由主義の柔軟化を貫徹させているのだ。

労総指導部の誤った「選択」

 また今回の民主労総中執の「労使政代表者会議への参加決定」は先月23日に行われた中執会議の「不参加」の決定を覆すものだった。その会議では「3月28日の中央委員会で労使政交渉が決定されたのであり、中執はこれを受け入れて執行の決意さえすればよい」との主張が展開されたりもした。しかし激論の末に参加を留保する決定を下すこととなった。それにもかかわらず民主労総執行部は労使政代表者会議への参加をあきらめず、再び6月13日の中央委に上程し論難を繰り広げ、さらに6月19日の中執会議でチョ・ジュノ委員長の提案からわずか10分余りで、さしたる論議もなしに満場一致(?)で決定された。
 このような一連の民主労総の議決・執行単位の論議過程は、民主労総執行部の宗派主義的組織運営と共に運動陣営全般の沈滞や無気力さをそのまま見せつけている。情勢は、より急進的で全面的闘争を要求しているのに反して、右傾化の流れは強化され、これを批判する各主体もまた無気力にされ、敗北の沼から脱け出せずにいるのだ。
 保守メディアは一斉に民主労総中執の「労使政代表者会議への参加決定」を大々的に報道し、復帰を大々的に歓迎するとのメッセージを伝えた。これと同時に民主労総が復帰を通して「非正規職改悪案の再改正の主張さえしてはならない」、「いかなる前提条件も提示してはならない」と圧迫している。ともかくも交渉の場に引き入れることには成功したので、今やすべてを条件なしに引き渡せと脅迫している形だ。
 キム・グムス前・労使政委員長は退任に際して、在任当時は民主労総の「取るに足りない少数勢力」によって思うにまかせることができなかった心境を語りつつも、今では復帰することについて歓迎するとの立場を伝えた。韓国労総イ・ヨンドウク委員長は「一身の栄達のために労働運動をしている勢力」を難詰しつつ民主労総指導部の決断と労使政代表者会議への復帰を歓迎している。
 政権と資本は可能な一切の手段を動員し、民主労総の武装解除を奨めており、全方位的に包摂して迫ってきている。状況がこのような条件であるのに労使政代表者会議を通して何を望むというのか!
 結局、政府が一方的に推進している「労使関係の先進化(労使関係ロード・マップ)」に対して民主労総は下からの闘争を通じてこれを阻止、廃棄させる戦術ではなく、交渉の道を選択した。だが交渉を通した解決は、奴らが核心的にねらっている柔軟化、労働3権の無力化をつくり出し、上層のさまざまなレベル(中央、産業別、地域別)の交渉構造を法制度的に安着化させるだけだ。そうであるがゆえに、労使政代表者会議への復帰は「解決の条件」を形成したのではなく、政権や資本の意図が貫徹されるしかない条件を形成したのだ。

全面的な闘いの組織化を

 現在の時点は非常の覚悟で政権や資本が推進している韓米FTA、労使関係ロード・マップ、非正規職改悪案などの新自由主義グローバリゼーション、労働柔軟化攻勢に対決する下からの闘争の組織力を再構築し、全国的な闘争戦線を組織すべき段階だ。「闘争エネルギーの不在」という現実は、いかにしてそのエネルギーを再構築、再組織するのかという闘争計画によって高められなければならない。そして現実の条件を変化させるための組織の体系的整備へと突き進まなければならない。
 したがって、今日われわれは、よりハッキリと闘争の基調を改めて確認しなければならない。前にも述べたように、「交渉」、「対話」を通じて最大値として手にできるものは、ない。労働者階級に対する全方位的包囲と包摂がもたらす悲惨な結果を変えることができるのは結局、政権や資本と対決する労働者階級の全国的闘争戦線を構築することだけだ。また社会的合意主義に対する明確な態度を通して労働者階級の非妥協的戦闘性を取り戻してこそ、その克服は可能なのだ。(「労働者の力」第105号、06年6月23日付)



6・15集会と5・18光州の落差
居場所を失った5・18「英霊」無視される階級的現実

 先週、光州で開かれた「6・15南北共同宣言6周年記念民族統一大祝典」は苦い後味を残している。5・18が剥製化されてからすでに久しく、6・15もまた米国の対北攻勢の中でその意味が色あせてから久しい。北は北なりに、南は南なりに、その形式的意味ばかりを持ちあげるだけで、いずれの側も真剣ではない。
 いかなる統一なのかを考える暇(いとも)もなしに、その場限りの行事と祝典の中で冷酷な現実は忘れられてしまう。米軍基地の拡張で政権の軍靴によって追い立てられている平澤住民の切なさや韓米FTAの亡霊の前に追い立てられた民衆の生存権などは、およそ眼中にもない。その週の日曜日に行われた平澤での汎国民大会には辛うじて3千人が参加したのに対して、統一大祝典には数万人が参加したというのだから、苦々しいことこの上ない。
 一方、5・15墓地を参拝した北側の代表団が何回にもわたって5・18精神に言及しつつ「光州の英霊たちの魂を称える道は6・15共同宣言の実践にある」と発言し、これに応えるかのように5・18の関係者たちも「北側の代表団の参拝が光州抗争の精神をさらに一段階、高めてくれた」という件(くだり)もまた、苦々しさにおいては同じだ。
 不便な体をおして今回の行事に参加したキム・デジュン氏が「きょう、この民族統一大祝典の光景を見て望月洞国立墓地にいる英霊たちは自分らの犠牲がムダではなかったと考えるだろう」と発言した件は、身の毛もよだつばかりだ。DJ印の太陽政策の本質は反共であるのに、「5・18光州精神は民主、平和、統一の精神」だという詭弁によって6・15とごちゃまぜに編みあげる政治手法の腕前は相変わらずだ。
 一方、まだ真偽は確認できないが、今回の行事で北側の代表団に忠誠の手紙を伝えようとして拘束された汎民連幹部の拘束のニュースは、今回の行事に合わせて反北デモを展開した極右、ニュー・ライトに対するのとどっこいの向かっ腹が立つ。
 今回の行事を前後して登場した人物らが南北で心を一にして無視したのは、実にほかならぬこの土地の労働者・民衆が直面している階級的現実だ。労働界の指導者たちが大祝典に酔いしれている間にも、労働者・民衆の凄絶な闘いは続いている。それほどに統一を願っている人々にとってさえ、祝典参加はぜいたくだった。
 このような集団的偽善と催眠の中で光州はもう一度死に、5・18の英霊たちは、もはや居場所を失う。このような荒唐なアイロニーの中で南韓サッカーチームは「赤い悪魔」のファナティックな応援にもかかわらず、W杯で予選落ちの苦杯を味わった。(「労働者の力」第105号、06年6月23日付、コラム「ヒム・イヤギ」より)
      


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