もどる

厚生労働省「素案」を批判する             かけはし2006.7.24号

労基法全面改悪につながる契約法・時間法を許さない



新自由主義と規制緩和政策

 六月十三日、厚生労働省は労働政策審議会の労働条件分科会に対し、「労働契約法制及び労働時間法制の在り方について」(案)と題する文章を提案した(以後この文章を「素案」とする)。
 この「素案」は労働条件分科会に厚労省より提案された「研究会報告」、さらには四月に提案された「検討の視点」に対して分科会の中で委員より出された意見を集約し整理したもので、七月の中間報告、今秋の最終報告、そして来年の通常国会に提出される「労働基準法改正案」のための「たたき台」であると厚労省は強弁している。
 だがマスメディアや分科会に出席していた委員によると使用者側委員の意見も、労働者委員の意見も全く反映されず、「研究会報告」で出されている方向に沿って、用語を多少手直しただけのものに過ぎず、分科会の委員十四人全員が反対していることも明らかになった。表面的には来年の通常国会に向かって厚労省だけが「暴走」している形にはなっているが、資本と財界を背景にしている使用者側委員の反対は、「事前に相談がなかった」「委員を無視している」というプライドと厚労省の立場は「労働者側に譲歩し過ぎである」ということであり、この「素案」では依然として資本側の負担が大き過ぎるというのが本音である。
 労働契約法制が必要だという気運が広がったのは、労働者派遣法の時と同様に、労働条件や雇用形態が多様化し、一方的な労働条件の不利益変更やリストラが広範に起き、労使の紛争が多発したために、この新しい事態に対応する公平なルールが求められたからに他ならない。だがこうした気分を利用し、厚労省は戦後の労基法が定めてきた「労働のあり方、労使関係」を根幹から変更してしまうような内容を「労働契約法制と労働時間法制の改正」を盛り込もうとしているのである。戦後の労基法が十分に労働者を保護するものではなかったにしろ、資本の攻撃を一定はね返す側面を持っていた。「裁判に訴える」というのもこうした側面を強く反映したものである。
 だが政府と資本は、一九九〇年代以降「労働時間」の問題では世界が「週四十時間」「週三十五時間」という形で短縮に向かって進んでいる時、それに逆行し「リストラ」という名の斧を振りまわし、「サービス残業」の名のもとに残業代が支払われない長時間労働を全般化させた。一言でいえば政府と資本はこの十数年間にわたって押し進めてきた「規制緩和政策」の中で手にした「雇用」と「労働時間」の「法外」な権限をこの機会に法的に確立しようとしているのである。
 労働者の側の要求は「新しい時代」に対応した「公平なルール」としての法制であるが、厚労省を始め資本がねらっているのは「二極化社会をつくる推進力」の重要なテコになった膨大な「雇用」と「労働時間」の権限を法制として確立したいのである。戦後の労基法的労使関係を解体し、新自由主義的グローバル化に対応する「労基法」なのである。

拡大する資本の「権限」

 したがって当然にも厚労省が労働契約法制の中で実現したいと思っているのは、規制緩和政策の中で手にいれた「雇用」における権限、言い換えれば「使用者側が労働条件に対して無制限の影響力を持つ権限」の実現に他ならない。これが「素案」の中では大きくは三点にわたって言及されている。
 第一は、「就業規則の変更」である。これは過半数組合との合意があれば、資本・使用者はどのような労働条件でも労働者に押しつけることができ、自由に変更できるとなっていることである。これは少数労働組合の存在意義を解体してしまうだけではなく、実質的に一企業一労働組合となり企業内における労働組合の並立を認めないことになってしまう。企業と御用組合の決定が「絶対」になってしまうのである。未曾有の利益をあげるNTTとNTT労組、トヨタとトヨタ労組、まさにこれが「素案」のモデルなのである。
 さらに企業の中に過半数労働組合がない場合、職場に労使協議を行う労使委員会をつくり、そこでの合意を就業規則と労働条件とみなすというものである。労働組合のないところでつくられる労使委員会は「委員」でさえ「社長の命令」で決まるし、労働条件も企業・資本の意向を反映するのは誰でもわかる。御用組合より手っ取り早く、企業の意向を貫徹させやすいシステムであることは一目瞭然である。
 今日労働組合の組織率は一八・五%であり、過半数労働組合が存在しない企業(事業場)は九三・三%にも達している。つまり、この九三・三%に及ぶ企業に対して、労使委員会で確認した労働契約内容が就業規則であり、労働条件であることを「保証」する法律なのである。これは転勤・出向にまで貫徹される。そして一番恐ろしいことは、裁判になっても労使委員会決定を持ち出し「合意」と認めさせる法律でもある。労使関係に「司法」を介入させないねらいがあることは明白である。
 第二は、「就業規則の変更」と同じように大きな柱になっているのが、「解雇の金銭解決」の提案である。「素案」は、「労働者の原職復帰が困難な場合」には裁判での金銭解決の「制度・仕組み」の検討があげられている。これは裁判で解雇不当の判決が出た場合でも金銭解決し、原職に復帰させないということである。つまり「カネで解雇を買う制度」を合法化させ、企業が組合の役員などで「不必要」と思う者がいれば、簡単に追い出しができるのである。これは労働現場から「不当労働行為」という概念を追放し、ひいては労働組合への敵対・解体攻撃さえ合法化させてしまうことにつながる。
 第三は有期雇用の問題である。四月の「視点」では、契約更新を繰り返せば期間を定めない労働契約になると提起していたが、「素案」では、契約更新が一年または三回を超えれば、労働者の請求で使用者は期間の定めない契約への「優先的応募機会を付与」に変わった。一見すると労働者に有利になったように思えるが、「使用者の義務」ではなく「使用者の温情」の枠内にある提案に過ぎない。いま日本ではパート、派遣などの非正規職は雇用者全体の三三%に達し、有期雇用も一四%に達している。女性パートの賃金は一般男性の四五%と低く、休暇、社会保険、年金などで正社員と比較して厳しい労働条件を強制されている。しかしこの有期雇用の項には均等待遇化や格差の是非は一切ふれられてはいない。

日本型エグゼンプション

 労働時間の法制化の項での最大のねらいは「日本型エグゼンプション」の導入である。これを「素案」は「自律的労働にふさわしい制度」と述べ、一定の役職、収入があるものに対して「残業代」を支払わないという制度を法制化するという提案である。「素案」は、「高付加価値の仕事を通じたより一層の自己実現や能力発揮を望み、緩やかな管理の下で自律的な働き方をすることがふさわしい仕事に就く者」と書かれている。全く抽象的であいまいな概念である。「使用し易いように理解していい」という典型的な`お役所言葉aである。
 厚労省は、アメリカ型のホワイトカラー・エグゼンプション制度を導入したいのである。しかしアメリカと違って日本ではホワイトカラーとブルーカラーの違いが役職においても収入においても明白ではない。アメリカでは週四十時間制が採用されており、それを超えた場合には五割の割増賃金を払うことが義務づけられている。
 厚労省は一方で「係長級」「チームリーダー級」と答えながら、他方では経団連の主張する年収四百万円を「自律的労働者」として「三六協定」の適用から除外しようとしているのである。この十数年間の「規制緩和」の中で、多くの職場で年収四百万円、「係長級」といわれる三十代から四十代の労働者は圧倒的に「サービス残業」を強制されてき、なかには月百時間に達するものができている。これを認めなければリストラの対象とされたのである。このつくり出された構造を法的に確立させようとするのが「自律的労働」であり、「日本型エグゼンプション」なのである。
 もしこの制度が導入されるなら、労働時間という概念のなかに「時間内」「時間外」という区別がなくなり、残業という言葉さえ使用されなくなるであろう。
 この制度案に対する反発を恐れた厚労省は、突然「素案」の中に、四月の「視点」にはなかった割増賃金と休日付与を持ち出したのである。それによると月四十時間以上の時間外労働に対しては「一日の休日の付与」、月七十五時間以上には「二日の付与」、月三十時間を超える時間外労働に対して二・五割から五割へ割増賃金を支給する。しかしこれで働き過ぎが是正されるわけはないし、人間らしい労働になるわけはなく、「過労死」さえこの枠内であれば認められるのである。
 実際、大手を始め多くの企業では書類には夜八時以降は残業したと記入するな。月三十時間残業したと記録するなという業務命令が出されている。こうした事実はこの間の過労死裁判で次々と暴露されている。
 前記したように六月十三日の労働条件分科会で使用者側委員が「素案」に反対したのは「突然」「使用者側委員に相談もなく」、この「休日」と「割増賃金」が出されたことに対する反発に他ならない。彼らにとって「休日の付与」も「割増賃金」も労働者に対する譲歩なのであり、企業の利益を後退させる法改正と映っているのである。
 東京労働局が今年四月に発表したデータによるとこの一年間で四十八人が過労死・過労自殺で亡くなり、そのうちの十一人は管理者であるとなっている。もはや労働者は「上層・中層・下層」のすべてが「労働者」である限り資本と企業によって「働らかされ過ぎ」のために、人並の生活どころか命まで奪われるところまで追い込まれているのである。
 私たちに問われているのは「労働契約法制・労働時間法制」の改悪に反対するにとどまらず、まず第一に一日八時間、週四十時間の労働時間を企業・資本に守らせる闘いである。労働条件の最低基準を守らない「素案」は労働基準法の全面改悪であり、絶対に認めてはならない。(松原雄二)


連続講座
トロツキーと論争の革命史
主催‥トロツキー研究所

 トロツキーの生涯とロシア革命の歴史は無数の論争で彩られています。最も自由に意見を闘わすことのできた当時の状況ゆえに、そして当時の一級の知識人が革命党に、ないしその周辺に参加していたこともあって、さまざまな重大ないし瑣末な問題をめぐって何度となく大規模で精緻な論争が繰り広げられました。トロツキーは、レーニンと並んでそうした論争の数々に積極的に参加し、その論争は多くの実りある理論の発展をもたらしました。そこで、今回、「トロツキーと論争の革命史」と題して、だいたい二カ月に一回の割合で合計六回、一年間にわたって連続講座を実施します。トロツキーのみならず、論争を彩ったさまざまな人物もテーマに取り上げます。ふるってご参加ください。
b第1回 1905年革命と永続革命論争(講師 西島栄)
7月28日(金)午後6時
b第2回 コンドラチェフと長期波動論争(講師 岡田光正)
9月8日(金)午後6時
b第3回 アメリカ社会主義労働者党とソヴィエト国家論争(講師 山本ひろし)
11月10日(金)午後6時
b第4回 第2インターナショナルと民族問題論争(講師 湯川順夫)
2007年1月
b第5回 ソヴィエト・テルミドールと民族問題論争―第12回党大会前後を中心に(講師 上島武)
3月
b第6回 レーニンと組織問題論争(講師 志田昇)
5月

b場所 中野勤労福祉会館(JR中央線中野駅南口下車徒歩5分)



コラム
郵便局は誰のものか

 去る六月二十八日、日本郵政公社は民営化の前倒しともいえる郵便局の再編計画を発表した。それは、全国に約四千七百ある集配局を合理化し、その四分の一弱にあたる千四十八局から順次集配業務を廃止するというものである。
 公社は業務を近隣の局に移管するだけ、対象となった局では窓口業務に専念するのでサービスの低下はないとしているが、これはまやかしにすぎない。集配エリアの拡大や職員の再配置により、配達の遅延や時間外窓口業務が廃止されることは明らかだ。これらの動きは今後の成りゆきとして、民営化後の不採算局廃止の布石と見て取れる。
 栃木県では十の郵便局が対象となった。そのうちのひとつ三依郵便局がある日光市三依地区は、今でこそ野岩鉄道会津鬼怒川線が開通し、国道一二一号線が山王トンネルを抜け会津地方と結んでいるが、一九七〇年代までは男鹿川に沿って砂利道の会津中街道が細々と延びる栃木県のどん詰まりであった。
 そんな三依に郵便局が開局したのは一八七四(明治七)年。日本に信書郵便法が制定された一八七〇年のわずか四年後のこと。村民の期待が如何に大きかったか窺い知れる。以後百三十年余、郵便局は地域の拠り所であったに違いない。三依郵便局に四十有余年勤務したというAさんに話を聞くことができた。
 Aさんは現在八十歳。戦争中は勤労動員で都内の軍需工場で働き、敗戦直後の一九四七年に入局した。三依村の人口は約二千五百人。林業や炭焼きで生計を立てるほか、福島県会津地方と栃木県を結ぶ交易の拠点として栄え、村人の暮らしぶりも豊かだったと懐かしむ。今回の再編で集配業務が集約される川治郵便局は当時なく、五十里、湯西川の村々までが集配地域であった。局には十二人の職員がおり、皆徒歩で集配、集金に回ったという。
 今回の再編に対してAさんは「絶対反対」と言い切る。「郵政民営化自体、小泉首相の強権政治そのもの。地方を無慈悲に切り捨てる改革だった」「高齢者の保険集金や、見回りなどのサービスをする余裕もない」「川治から中三依まで十五キロ。さらに横川まで十二キロ。雪の積もる冬季の集配は無理だろう」「冬、村人は郵便配達の足跡をたどって歩いたものだ」などなど朴訥な語り口調の中に、郵便局員として過ごした経験と誇りが感じられた。
 現在の三依地区は人口約六百人。その半数近くが六十五歳以上の一人暮らしだ。Aさんが先に述べたように高齢者の安否確認など郵便局が果たす役割は大きい。三依自治会連合会、同地区老人会連合会、全逓日光地方支部退職者組合三依分会は連名で、日光市議会に対し再編撤回の意見書を求める陳情を提出。同市議会は、総務常任委員会を開き、全会一致で採択を決めた。高齢化の進む過疎地域では、郵便局の存在とサービスが不可欠と判断したからである。
 「郵便は人と人とを結ぶ絆。郵便局は地域の拠り所です。泣き寝入りはしません。最後まで再編に反対します」とAさん。
 郵便局の存在意義を改めて教えられた一日であった。     (雨)


もどる

Back