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書評『戦後左翼はなぜ解体したのか』寺岡衛 著/江藤正修 編 同時代社刊 一九〇〇円                      かけはし2006.7.17号

市民的「対抗社会」論への疑問(下)



「国家」を迂回できるのか

 第三の問題は、新自由主義的グローバリゼーションと「対テロ」戦争の時代における、変革主体にかかわる問題である。
 寺岡氏は、グローバル資本主義の下での国家権力の本質が「半国家」たらざるをえないとし、「国家を超えて、大衆自身が自治を作りだす運動が必要」と強調している。寺岡氏の試論的戦略は、「生活共同体」であるとともに「生産共同体」でもあるローカルな自治を、地方自治体をも活用しながら作り上げ、そうした地域的な自治としての「対抗社会」を国家を超えて結合していく、という点に焦点をあてたものである。
 「国際的な資本は現在、国家を利用する形態をとっている。後期資本主義の国家はもともと、国際的な市場経済が作りだす労働者や農民、小商店にとって不利な条件を規制することによって、権利を保障していたのである。しかし国家はいまや資本を保護して、大衆の権利を`既得権aという名目で一掃しようとしている」。寺岡氏は、ここから今や「国家」をバイパスして、ローカルな住民の「自治」の国際的な結合を構想し、「東アジア共同体」に向けた民衆の運動もそのような基盤で展開することを提起している。
 しかし「国家」をバイパスすることはできるのだろうか。グローバリゼーションの下での「国民国家」の主権の制限、喪失という状況の深まりの中で、むしろ「国民」、民主主義的主権という伝統的概念の組み替えをめぐって、さまざまな模索が現に繰り広げられているのではないだろうか。
 「国民国家」の多数派から排除され、「主権者」としての権利を奪われてきた先住民族、多様なマイノリティーに属する人びとが、「国民国家」の擬制の下で主流派によって排他的に奪われてきた自らの「主権者」としての権利を訴えて、グローバル資本主義の「新植民地主義」に対する抵抗を開始している。一九九四年一月のNAFTA(北米自由貿易協定)発効に抗して蜂起したサパティスタの闘い、ラテンアメリカの先住民族の運動、ベネズエラのチャベス、ボリビアのモラレスに象徴される「ボリバール主義」革命運動の波及の重要な意味の一つを、私たちはそのように捉えることができるだろう。天然資源の主権、食糧主権を守り、住民自身がグローバル資本主義による資源の収奪、生活の破壊に抵抗しようとしている。
 ここで提起されているのは「国民」という概念を複数主義的にとらえかえし、住民自身の多様なアイデンティティーを基礎に、グローバル資本主義の新自由主義政策による「主権侵害」への抵抗を開始した人びとの姿である。それをたんなる「民族主義」と把握するのは誤りである。むしろ資本主義の下での旧来の「国民国家」的枠組みを超えて、多様で公正な、自律的民主主義を行使しようとする主権者「国民」を確立するための運動が登場しているのだ。

「国民主権」概念の再定義

 この伝統的な「国民国家」の枠組みの下での「主権者」概念の組み替えを求める闘いは、ラテンアメリカや第三世界諸国に限定されるわけではない。たとえば昨年のEU憲法国民投票で「左翼のノン」の勝利をもたらしたフランスの例は、新自由主義に対する闘いとセットのものとして、民主主義的正当性も持たないEUの超国家機構による長大な憲法条約の一括押しつけに反対し、住民の民主主義的主権を求める「国民的」反対運動という性格をもふくんでいた。
 このEU憲法反対運動に対しては、アメリカの一極覇権に対するEU的対抗軸を無条件に肯定的な評価を加える人びとから、それを極右の民族主義的・排外主義的キャンペーンと同一視したり、はては「ネオコンを利するもの」などという中傷が加えられたりした。しかしそれは全くの誤りであった。このEU憲法国民投票で「反対」運動を主導したのは、ATTACなど新自由主義グローバル化に反対する社会運動の再生にたずさわってきた人びとであり、移住労働者をはじめとした「排除された」人びととの共同の闘いを作りだしてきた人びとであった。そしてEU憲法を推進する側に立っていたのは、昨年秋の郊外の反乱で、アフリカや中東からの移住労働者二世、三世の青年たちを「社会のゴミ」と名指しして弾圧したサルコジ内相らであった。
 ここでも異なった民族的・文化的・言語的・宗教的アイデンティティーの多元性と自治を条件とした新たな民主主義的で公正な「主権者」概念が登場しているのである。私は、グローバル資本主義に対する闘いの中で、自らの平等・公正な「主権者」としての尊厳の自覚に立って、資本主義的「国民国家」体制の下での「国民」の意味を問い返し、再構成しようとする闘いの重要性を強調すべきである、と考える。

グローバル化と国家との闘い

 私はこの間、反グローバリゼーション運動の中で運動と主体の「グローバル化」を押し進めていくとともに「国民的主権」そのものの民衆自身による再定義が必要である、と述べてきた(たとえば本紙03年9月1日号に掲載した、ネグリ/ハートの『〈帝国〉』書評)。寺岡氏の、ローカルな自治が国家を迂回して直接に国際的にネットワーキングするという一種の「地球市民」的構想には大きな落とし穴があると私は考えている。現に潤沢な資金力を持つ一部の巨大国際NGO(その決定機構はきわめて中央集権化されている)の中には、事実上、新自由主義的グローバリズムを制度的に補完するようになっているものがある。
 私は、ネグリ/ハートが『〈帝国〉』で語ったような、アムネスティ、オックスファム、「国境なき医師団」などの「人道主義的NGO」は「新たな世界秩序が所持する最強の平和的武器の一つ」にほかならず「〈帝国〉の慈善キャンペーンであり、托鉢修道会」だという最後通牒的規定に与するものではない(そう語るネグリはEU憲法を支持する側にまわった!)。しかし「どのような立場に立つのか不確かな一部の市民社会組織が、現存システムを推進する側が規定したフレームワークの中で活動することによって、事実上、現システムの政策に正当性を与えてい」る(ダミアン・ミレー、エリック・トゥーサン『世界の貧困をなくすための50の質問』〔つげ書房新社刊〕への著者による日本語版序文)という指摘について、十分に留意しなければならない。
 私は、この問題については、ローカルな住民自治に基づく「対抗社会」戦略が、資本の新自由主義的グローバル化に対抗するものとなりうるためには、現在の対「テロ」戦争戦略への闘いとともに、「国家」との闘いを媒介することが絶対に必要であると考えている。つまり、日本においては小泉「構造改革」政治とセットで進行している「米軍再編」、憲法と教育基本法の改悪、共謀罪、靖国参拝などの一連の「戦争国家」体制づくりとの闘いである。とりわけ憲法改悪との闘いを、現憲法の「国民主権」概念を、多元的なアイデンティティーを有する「主権」へと再構成していく展望を構想していくための出発点にしていく必要がある。国家主義・排外主義との闘いは、直接に「国家」をめぐる闘いをわれわれに要請しているのである。

スターリニズムは必然か

 最後に「党」についてごく簡単にふれたい。寺岡氏はロシア革命を主導したボルシェビキ型党について、それを「代行主義型前衛党」論であり、政治革命中心論だったと総括している。「資本蓄積の過程において、大衆自身が革命を次の時代に向けて主導する主体としての準備が不十分であった結果として、代行主義的な前衛党論が形成された。その意味で一九二〇年代の革命から官僚主義、官僚主義的独裁の構造が生み出された必然性を、そのような関係として捉えなければならない」と寺岡氏は語っている。これはレーニン主義からスターリン主義が自動的かつ必然的に生み出されたという一種の「運命論」的史観に陥っているのではないか。
 この問題については詳論する余裕はないが、私はそのような「スターリン主義宿命論」に対しては、一九二〇年代を中心としたスターリン支配の確立にいたる国際的・国内的情勢と、ロシア共産党内部の闘争について、その政策・路線を中心により具体的・過程的に検証する必要性について主張してきたつもりである。この問題については、少なくとも『トロツキー研究』40号〜42/43号で三回にわたって特集された「左翼反対派の闘争」を参照していただきたい。寺岡氏はいつの間にスターリン主義必然論にまわってしまったのだろうか。
 本書の「あとがき」で佐々木希一氏は、より慎重に、現代資本主義の変貌に即して「エリート主義を内包した代行主義的な革命的前衛党の建設という主体形成の方法論も、高等教育の広範な普及を媒介にして直接民主主義を要求する社会運動が発展し、それがヨーロッパなどの先進資本主義諸国において参加型民主主義の制度化を促進させ、あるいは近代国家に対して自立的な非政府・非営利団体を世界各地に誕生させた現実を踏まえて再検討される必要があるだろう」と書いている。佐々木氏のまとめは、MELTが一貫して主張してきた「労働者党」の枠組みの転換をともなうものであることが予想される。
 私たちは、ロシア革命以後の「社会主義をめざす権力のための闘い」という階級闘争史の歴史的サイクルがいったんは閉じられた、という現実に即して、革命党の組織化と主体形成の方法論を再検討しなければならないことに同意する。それは「前衛党」理論の今日的見直しと再構成をふくむものにならざるをえないだろう。第四インターナショナルが現に挑戦している歴史とイデオロギーを異にする左翼諸組織の各国の現実に合わせた新たな再統合の試みと、新しいインターナショナルのための闘いは、二十一世紀における新しい革命運動を再出発させるための主体的条件を築き上げようとするものである。
 しかし私は、先進資本主義国の「参加型民主主義」とNGO・NPOの形成について、その果たしている役割を十分に評価しながらも、それが直接に「現代革命」と「党」の問題を再検討するための出発点になるとは考えてはいない。この問題については、いずれ稿を改めて、私たちの現実の運動の経験の中から「試論」的に提起したい。 (平井純一)




コラム
ミサイル発射騒動と闘う主体

 北朝鮮・金正日政権によるミサイル発射に対する左翼や市民運動家からの評価をいくつか耳にする機会があった。いわく「日本に向けたものではなく、単なる軍事演習だ。アメリカや日本の軍事演習は非難されないのに、北朝鮮のみを非難するのはおかしい」。「アメリカ軍が圧力を加えているから、北朝鮮は対抗して軍事力強化をせざるをえないのだ」。「アメリカ軍と北朝鮮軍の軍事力の差はとてつもなく大きく、脅威と思っているのは北朝鮮の方だ」などなどだ。
 さすがに、ミサイル発射断固支持という意見は聞かなかった。しかし、北朝鮮の今回のミサイル発射行動そのものについての評価は避けて、日米の圧力が悪いというものが主なものであった。
 今回の北朝鮮ミサイルは「もし、日本本土にミサイルが打ち込まれたら恐ろしい」という日本の民衆にとって強烈なイメージをつくり出した。拉致問題を通して「最悪のイメージとなっていた北朝鮮・金正日政権」に対してさらに、悪感情は増幅された。
 社民党党首・福島瑞穂はミサイル発射直後の記者会見で「今回のミサイル発射は朝鮮・日本両国民にとって何も良いことはない」とコメントした。まったくその通りである。アメリカ軍は早速最新鋭イージス艦を横須賀に配備、軍事力強化で対抗している。自衛隊は青森の車力村にミサイル防衛・MDレーダーの設置を地元の反対を押し切り、半年も早く前倒しで運用を開始するという。九条改憲を進め、自衛隊の軍隊への転化と侵略軍としての体制を整えようとする自民党保守右翼・公明政権にとってなによりの追い風である。
 そればかりではなく、朝鮮学校へいやがらせが相次いでいると報じられている。今回のミサイル事件と何の関係もない在日朝鮮・韓国人の意識をひどく萎縮させるだろう。なんと理不尽なことであろうか。
 スターリニズムを北朝鮮に適用して完成させたチュチェ思想体制は、中ソ対立やソ連・東欧の崩壊によって、崩壊の瀬戸際に立たされた。北朝鮮では一九九〇年代半ばから後半には大量の飢餓死が起こった。金正日独裁体制は飢餓的状態が続いていてもなお、体制の生き残りをかけて、核・ミサイル開発に膨大な予算を注ぎ込んた。
 スターリンは農業の強制集団化と大量の粛清の危機をなかばナチス・ヒットラーにすがることによって、危機を乗り切ろうとした。しかし、ヒトラーのソ連侵略は実行され、大量の人々を死においやった。昭和天皇ヒロヒトは国体護持のために、戦争終結を受け入れることなく、本土都市爆撃、沖縄戦、原爆による大量の人々の死とアジア人民の命を奪った。
 このように独裁者の論理は、人々のことを考えるのではなく、独裁体制の生き延びのみを考えるものだ。今回の金正日のミサイル発射も同じ論理に貫かれている。帝国主義を打ち倒し、人類の未来を切り開くためには、それに反対する政治運動の「質」も厳しく問われている。     (滝)


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