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フィリピン                       かけはし2006.6.26号

アロヨ政権と軍による左翼活動家の暗殺を許すな!


解説

「非常事態宣言」と表裏一体の弾圧体制

 アロヨ政権の危機が深まるフィリピンでは、左翼活動家に対する暗殺が吹き荒れている。五月二十三日、アムネスティ・インターナショナルが提出した二〇〇五年の世界の人権状況を求めた年次報告書はフィリピンでの暗殺事件の激増に注意を喚起し、「二〇〇五年度の左派活動家の暗殺は、少なくとも六十六件に上り、軍との関係が疑われる武装グループによる犯行」との見方を示した。
 アロヨ大統領府のスポークスマンはアムネスティの報告書に対して「われわれは常に法を維持している。犯人は必ず逮捕されるだろう。報告書の内容は不当で、かつ間違っている」と政府や軍との関係を否定した。しかし、その弁明をを信じる者はほとんどいない。この五月に大統領の指示で国家警察が設置した特別捜査班の報告でも、殺害のかなりの部分に軍関係者が関与した疑いがあると指摘している。その一方で、国家警察特別捜査班による同報告は、この間の左翼活動家暗殺の一部がフィリピン共産党(CPP)によるものだとも主張している。
 アロヨ政権と国軍は、明らかにCPP―NPA(新人民軍)の非CPP系左翼諸勢力に対する内ゲバ主義的「暗殺」作戦を利用することによって、左翼活動家の相次ぐ殺害の責任をCPPに押しつけ、左翼勢力全体の抹殺を体系的に推進する「対テロ」治安弾圧政策をエスカレートしているのである。

殺害の選択・規模
が「手当たり次第」

 ここに掲載した論文の筆者であるハーバート・ドセナが参加する「フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウス」の一活動家は、連続的な左翼活動家暗殺について、その主要な対象がCPPの影響力が強い「バヤン・ムナ」系の活動家であること、殺害の規模の大きさ、対象の選択が「手当たり次第」のものであり、左翼ではないジャーナリストやエストラダ前大統領の支持者も誘拐の対象になっていること、さらにCPPの「暗殺リスト」に上げられていた活動家が殺害された人びとの中に含まれていないこと、などから判断して、決して左翼内部の「粛清」によるものではなく、軍・治安関係者、あるいは地主の私兵集団などの犯行によると考えられる、と語っている。彼は、CPP―NPAの「内ゲバ」主義的暗殺政治を批判しつつ、それとは区別した形で国軍・治安機関による左翼活動家の大規模な暗殺に対して大衆的に反撃すべきことを強調している。
 国軍・国家治安機関による暗殺は、ブッシュの「対テロ」戦争の一環であるミンダナオでのMILF(モロ・イスラム解放戦線)などに対する米軍とフィリピン国軍の掃討作戦、反政府運動に対するアロヨ政権の「非常事態宣言」などの弾圧と一体である。そして活動家の「暗殺」という究極の人権侵害を支えている小泉政権をも、われわれは糾弾する。
 WTO(世界貿易機関)、FTA(自由貿易協定)、EPA(経済連携協定)を通じたアジア・太平洋の新自由主義的経済統合は、「米軍再編」に示される軍事同盟のグローバル化とまさに表裏一体の関係にある。
 新自由主義グローバル化を通じた貧困のいっそうの拡大と民衆の抵抗は、軍事的弾圧体制の拡大、民主主義の圧殺、人権侵害のまん延をもたらしている。その端的な現れの一つとしてフィリピンでの相次ぐ活動家暗殺をとらえ、その実態を明らかにし、民主主義と人権を擁護する闘いをともに作りだそう。 (平井純一)                




フィリピン社会の激しい分極化
人民の怒りを軍事力と弾圧によって押しつぶす


                           ハーバート・ドセナ
アロヨの政権に代って拡大

 政治活動家のキャシー・アルカンタラは、昨年十二月五日、彼女が農民の権利に関する会議の組織化を手伝っていたリゾート地の外で身元不明の殺し屋によって射殺された。
 二カ月後、彼女の友人である十九歳の活動家アウディー・ルセロの死体が、遠く離れた水田で発見された。ルセロが最後に人びとの目にふれたのは、病院のロビーで警官と兵士に取り囲まれて説明しがたい叫びを上げている姿だった。
 もう一人の左派活動家アナライザ・アバナドール・ガンディアは、この二人の犠牲者と何度もいっしょにデモ行進し、しばしばデモの先頭で「グロリア・マカパガル・アロヨ大統領は辞任せよ」「フィリピンでの米軍演習をやめろ」「世界貿易機構(WTO)の自由貿易政策を総点検せよ」などの政治的変革を求めるさまざまなスローガンを叫んでいた。
 五月十八日、アバナドール・ガンディアが死んだ。何が起こったのかは正確には分からない。その夜、彼女は一人で自分の店のなかにいた。彼女の死体は机に倒れた状態で発見され、八発の弾丸が顔、胸、腹を撃ち抜いていた。火薬が彼女の顔で見つかったことは、至近距離で撃たれたことを示している。
 この三人の犠牲者はいずれも、労働組合、農漁民組織、女性と青年のグループの左派連合組織であるKPD(民族民主主義運動)の活動的オルガナイザーだった。今年、農村地域で同組織に属する別の二人のメンバーも射殺されている。
 フィリピンでは、左派系政治活動家の殺害がじわじわと拡大している。これらの人びとはその最新の犠牲者である。この二カ月の間に、身元不詳の殺し屋によって少なくとも十八人の活動家が殺された。平均すると一週間に二人が殺されている勘定になる。KPDの約十年間の歴史の中で、これほど多くのメンバーが殺されたことはなかった。
 KPDは、謎の襲撃を受けている多くの左翼グループの一つにすぎない。「大衆の闘い」に属する農民グループであるUNORKA(自立地域農村住民組織全国調整連盟)は、現在、アロヨ政権に代わる「移行革命政権」を主張している。これまでのところ少なくとも十三人のUNORKAのリーダーたちが殺された。同グループの全国書記長は、四月二十四日に射殺された。
 ビサヤとミンダナオで土地改革を強く要求している別の農民グループであるタスク・フォース・マパラド(TFM)は、二〇〇一年以後、少なくとも八人の農民リーダーが殺された。最近では二〇〇五年五月に殺されている。同グループの運動調整委員であるラニ・ファクターは、活動家への暴力のエスカレートについて、フィリピンの「暗殺の季節」と言及している。
 犠牲者の多くは、国会に議席を持つ「バヤン・ムナ」グループに属している。同グループでは二〇〇一年以来、九十五人の地方リーダーが謎の死を遂げた。同グループの書記長ロバート・デ・カストロは地方紙を引用して、地方リーダーたちは「鶏のように殺された……彼らはハエのようにたたき殺された」と述べた。
 襲撃の足跡を追うことは容易ではなかった。一般的に言って人権組織は、彼らに報告されたケースを数え上げるだけであり、それぞれは別々のリストにとどめられている。フィリピン・デイリー・インクワイラー紙の計算に基づけば、最新の殺害事件によって二〇〇一年にアロヨが政権について以後に殺された活動家の数は二百二十四人になる。人権グループのカラパタンの見積もりではもっと多く、六百一人になる。事件のほとんどすべては未解決である。その上に百四十人が「行方不明」となり、消えたままであると考えられている。そしてその数は週単位で増えている。

各州で起った暗殺事件

 殺害された活動家アバナドール・ガンディアのいた州は、フィリピンで最も物議をかもしている軍人であるジョビト・パルパラン少将が指揮する管轄区域である。「死刑執行人」としてその悪評が広く流されているパルパランは、彼の以前の任地であるサマール州とミンドロ州で、多数の左翼活動家の殺害や行方不明事件を犯したとして告発されている。
 彼は一貫してこの告発を否定し、「私はそんなことを笑い飛ばすことができる」と公式に語っている。同時に彼は、司法手続きによらない殺害は、政府に反対して闘うために人びとをそそのかす連中をフィリピン国軍が取り除く上で「手助け」となる、とも公式に語っている。彼にとっては、軍による反乱鎮圧作戦にとっては活動家の死など「小さな犠牲」である。パルパランは最近の「ニューズブレーク」誌とのインタビューで「われわれはこうした反乱運動を憎んできた」「われわれはこうした立場で戦闘してきた」と語った。
 パルパランの挑発的声明は、集中的な非難を浴びてきた。しかしますます彼は孤立した存在ではなくなっている。彼の軍の上官たちは、彼の昇進を通じてパルパランの戦術に同意していることをひそかに表明してきた。パルパランは軍の階級を上昇し、最近、彼の「きわめて賞賛すべき価値ある仕事」に対して「特別功労メダル」を授与された。
 政府官房長官のエドアルド・エルミタ――彼自身、軍の元高官である――は、パルパランは「立派な軍人」として歓迎し、パルパランを中傷する者たちが確実な証拠もないまま、暴力的事件を理由に彼を条件反射的に非難している、と語った。
 しかしパルパランの戦闘ムードは、軍内部でのいらだちの拡大を反映している。ロメオ・ドミニゲス中将は、最近の著書『戦争の三位一体:CPP(フィリピン共産党)・NPA(新人民軍)・NDF(民族民主戦線)の大構想』で、「われわれが三十年以上前から戦ってきた敵は、現在もわれわれが戦っている相手だ。より陰謀的になり、さらに危険になっている」と書いた。フィリピン国軍(AFP)が発行したこの著書は、AFPの高官が作成し、兵士の間に回覧しているパワーポイントのプレゼンテーションで示されているように、軍の「汝の敵を知れ」ガイドブックになった。この著作は、左翼運動が一九四〇年代後半以後どのような展開を見せてきたか、フィリピン共産党(CPP)が一九六〇年代初めにどのようにその地位を引き継いだのか、そしてそれが一九八〇年代以来イデオロギー的・戦術的路線にそってどのような形態変化を遂げ、分裂したかを論議している。
 表や図を完備したこの著作は、彼らが言うところの「共産主義テロリスト」の合法戦線組織の包括的リスト――州のレベルまで――を含んでおり、そこにはCPP主流から決別したグループや、近年になってできたばかりのグループの名前やトップ指導者の名前も含まれている。
 ここ数年はすべての注意がアブサヤフ反乱運動に注がれてきたにもかかわらず、議会が資金を出している「米国平和研究所」の専門家・ザカリー・アブザは、「フィリピン国家の唯一最大の脅威は、依然としてCPP/NPAである」と結論づけている。アブザはフィリピンで政府と闘っているさまざまな左翼やモロ分離主義グループを研究してきた人物である。
 この脅威は、左翼の反乱による警告を受けてきた軍部や右翼政治家にとって失われてはいない。一九七〇年代の戒厳令の時期に、NPAは二万五千人の兵員を擁するとされてきた。一九九〇年代には八千人にまで縮小したが、現在は再び上向きになっていると報告されている。ここ数カ月、NPAは全国で一連の軍事攻勢を開始した。NPA以外にも、遠隔の地域で多くのより小さな左翼の武装グループが作戦を展開している。

大衆組織の活動
家も殺害の対象

 フィリピンの右翼も、民主的選挙での左翼の最近の成功におびえている。一九八六年の「ピープル・パワー」以後、民主主義の公式制度が復活した時、依然として武装闘争を主要なものと見なしている人びとと、選挙プロセスを通じて権力を競い合おうと願う人びととの間で左翼は分裂していた。CPPは当初、コラソン・アキノに大統領への道を切り開いた総選挙をボイコットした。
 その後CPPは、いわゆる「長期人民戦争」を遂行しつつ、社会の中でなかなか代表権を与えられず周辺化された層に対して、議会に比例議席を確保する措置である党リスト制度が導入されてから、選挙への参加を決定した。他の左翼グループは武装闘争を全面的に放棄し、政治的変革をもたらすために選挙と大衆的キャンペーンに焦点を当てることを選択した。
 前回の選挙で左派候補は二十四の党リストで十一の議席を獲得した。この比例得票で、左翼は全国総得票数の五%を少し上回る程度だったが、公共の場での討論で左翼は実際の議席数と比べると不釣り合いなほどに目立ったものだった。フィリピンで政治的闘争がひんばんに行われる場である街頭で、広範な左翼だけが、限定された規模であるにもかかわらず一貫して人びとを動員することができた。
 軍高官のパルパランは、「今年九月に退官する前に、反乱への対処という自分の責任分野で完全に決着をつける」と約束した。それはつねに「共産主義叛徒」を六年から十年で敗北させると述べていた、フィリピンの民間防衛のトップであるアベリノ・クルスが確認した誓約である。
 クルスは、この目標が野心的な「フィリピン国防改革プログラム」を通じて達成されることに自信を持っている。この包括的なプランは、国軍が「国内治安作戦」を遂行する能力を現代化し、質的に向上させるためのものである。
 フィリピンの長期にわたる反乱鎮圧作戦への関与を強化しているアメリカは、フィリピン軍部とともに共同で「フィリピン国防改革プログラム」を構想し、三億七千万ドルに及ぶその予算の半額を支出している。米政府はCPP/NPAとNPAから分裂したアレックス・ボンガヤオ旅団を、「外来のテロリスト組織」と名付けている。
 しかし軍部はつねに武装左翼グループを主要な敵と見なし、アロヨが政権に就く前に攻勢―反攻作戦を開始していたが、最近では軍部の中枢で顕著な変化が存在している。それは武装左翼と非武装左翼の区別を否定し、地下ゲリラ運動と公然たる合法闘争の区別を否定する動きが強まっていることである。少なくとも一部の軍部、文民当局にとってはそうした境界は存在しない。
 こうした態度は、非武装で合法的な大衆組織に参加していた活動家の殺害に注意を促された時に、いつでもパルパランが引き出してくる回答にもっともみごとに要約されている。「彼らは合法的だが、非合法な活動を行っている」。パルパランは、共産主義者は犯罪者ではないとした一九九四年の決定は間違った考え方だと述べ、さらに以前の考えを復活させればハッピーだと述べた。『戦争の三位一体』は太文字の活字で次のように強調している。CPPは依然として、武装闘争に対して議会闘争を副次的なものであると見なしており、両方の闘い方は「相互補完的で、相互に関連しており、相互作用するもの」と考えている、と。
 この見方は、文民指導部も共有している。大統領府の首席スタッフであるマイケル・ディフェンサーは「われわれは共産主義も社会主義も欧州の党のようなものになるよう促している」「われわれが望まないのは、彼らが武装革命に訴えることだ」と述べている。
 国家安全保障顧問ノーベルト・ゴンザレスによれば、「われわれが今日闘っている対象はもはや古典的なゲリラ戦争ではない。彼らはわれわれの民主的プロセスに浸透し、そこに入り込んでいる」。彼は、左翼の国会議員たちが革命を前進させるために自らの地位を利用しようとしている、と悪口を投げかけている。彼はつねに、いかにバヤン・ムナのメンバーがNPAの戦士という「副業」に従事しているか、パルパランの言葉を言い換えながら、政府が合法、非合法と定義する両方の活動に、いかに彼らが二股をかけているかとこぼしている。

「われわれは共産主義者を憎む」

 殺害された人びとは、告発に対して争う機会を持たないことは明白である。犠牲者のほとんどは合法的左翼、あるいは国軍リストの中で「フロント」組織だと列挙されている左派系組織に属していた。最近のアムネスティー・インタナショナルの報告は「特定の州での殺害の増加は、地域の国軍司令官が左翼のグループをNPAのフロント組織と公的にレッテルを張ったことと結びついていると報告されている」と述べている。
 たとえば活動家アバナドール・ガンディアの殺害に先立って、バターンの警察と軍当局はKPDのメンバーに対して「われわれはすでにお前が何者かを知っている。われわれはお前の背後に誰がいるかを知っている。われわれはお前のすべてを知っている」と不吉な調子で語っていた。別の活動家は、強力な大地主との厳しい土地紛争にかかりっきりになっている組織に属している。この地主たちは国家の無言の同意、あるいは政治意思の欠落に助けられて、土地改革を要求する農民たちを抹殺するためにギャングたちを歴史的に使ってきた。いまや自らの土地が収用にさらされる中で、これらの大地主たちは、TFM運動調整委員のファクターが「鎖から解き放たれた猛犬のように」活動してきた、と語った。
 殺害事件のほとんどは、軍事化が拡大し、反乱鎮圧作戦が強化されている地域に集中している。パルパランの任地である中央ルソンでは、五十人以上の左翼活動家が殺され、フィリビン・デイリー・インクワイラー紙がまとめた総計二百二十四人の死者数り四分の一に達している。この地域では、軍部が多くの村で十人からなる分遣隊を作り、戸別尋問や深夜パトロールを行っている。
 彼らは反共ワークショップを組織し、軍を支持する抗議集会に動員するようなことさえやっている。こうした集会への参加者は、「われわれは共産主義者を憎む」と書いたプラカードを作るよう指示されている、と語っている。数多くの殺害事件が集中しているネグロスは、当地の軍の責任者であるサミュエル・バガシン中将が「決定的作戦」と述べたような作戦を開始した、もう一つの州である。
 明らかに犠牲者たちはアットランダムに選ばれている。殺された人びとのほとんどは、現場で積極的に活動していることで知られているリーダーやオルガナイザーであり、新メンバーを彼らの組織に加盟させていた。ほとんどのケースでは、これらの作戦は的確なものであり、目標をきっちりねらったものだった。そして州や自治体レベルのオルガナイザーたちがねらい撃ちされているが、全国指導者たちも追跡を受けている。
 反乱への告訴に直面する中で、少なくともアナクパウィス出身の一人の国会議員が依然として拘留されており、五人の議員が逮捕から逃れるために二カ月にわたって野営している。ラウル・ゴンザレス法相は、彼らに対して「君たちの場所である山に帰れ」と語った。それはCPPがベースキャンプを歴史的に築いてきた場所へのあてつけである。
 活動家のファクターは、彼の組織の上層部を抹殺しようという計算は、運動を徐々に弱体化させるという願望をもってメンバーを威嚇し、メンバーの獲得をやめさせる企てではないかと疑っている。ある地域の共産主義者は「一人を殺し、百人をおびえさせる」戦術と語った。活動家たちは一まとめに殺されるのではなく、毎日じわじわと一人ずつ殺されていくのであり、それは恐怖効果を最大限に高め、公然たる暴力行動を最小限化しようとする目論見である。
 多くのケースでは、目撃証言は、身元不詳の兵士、警官、あるいはよく知られている準軍事組織や自警団グループのメンバーが襲撃犯人だと直接に指摘している。他の多くの例では、犠牲者たちはバイクに乗った覆面の男たちのペアによって銃撃された。
 事情に通じた人びとは、この殺害のやり方が一九八〇年代後半を思い起こさせると指摘している。当時はアキノ政権が左翼に対してしかけた「全面戦争」の頂点であり、覆面してバイクに乗った男たちが、この時も全国で活動家たちを射殺した。人権グループの「フィリピン被拘留者対策委員会」は、この超法規的暴力が吹き荒れた時期に五百八十五人が殺されたとしている。

「誇るべき人権状況」


 政府は、広範囲にわたる活動家の殺害をたんに悲しい偶然の一致と、公式な評価を加えている。そこには調整されたパターンは存在しないし、殺害は相互関連を持たないと当局は主張している。国家治安当局への告発は、いつものやり方で無視されている。
 警察のスポークスマンは、もし何らかのパターンがあるとしたら、それは普通の犯罪発生率のサイクルにすぎないと言い張った。「ある時は犯罪発生率は低下し、ある時は増加する」。フィリピン国家警察スポークスマンのサミュエル・パグディアオは、活動家殺害の激増について、そのように語った。
 国家機関は、活動家たちへの国家公認の厳重措置など存在しない、と繰り返し強調してきた。最近、報道官のイグナシオ・ブニェは「われわれには隠すべきことなどないし、われわれは人権についての実績を誇りにしている」と述べた。それより以前にアロヨは、人権侵害の告発は軍への「侮辱」だと語った。
 別の高官は、もし誰かが非難されるべきだとしたら、それは活動家自身だと主張した。この見解によれば、一九八〇年代にそうであったように、革命はふたたびそれ自身の子どもたちをむさぼり食っている。当時のある作戦で、後にCPP指導部が認めたことであるが、少なくとも二千人の党員が政府の潜入スパイという容疑で殺害指令を受けたのである。
 しかしもはやCPPと関係していない左翼の人びとや、CPPの潜入者摘発作戦を公然と批判してきた人びとは、この非難を機会主義的でこっけいな話だとあっさり退ける立場を取っている。CPPの過去の内部粛清で生き残った人びとや、この粛清の犠牲者の家族、友人たちの組織である「真実、癒し、正義のための平和擁護委員会」事務局長・ロベルト・フランシス・ガルシアは、政府が「この問題を利用してCPP/NPAを打ちのめそうとしている」と考えている。
 ガルシアは、CPPの粛清のやりかたは、現在、活動家たちが殺されているあり方とほとんど類似したところはない、と指摘した。ガルシアは想起している。潜入分子の疑いをかけられた者は、逮捕され、拘禁され、党のエージェントによって尋問されたが、彼らは現在起こっている殺害のように、公然と即決処刑されたわけではない。
 政府によって構成された警察の特別部隊でさえ、最近、少なくとも一部の殺害事件の容疑者として兵士や準軍事組織の構成員を確認した。通例は臆病な、独立立憲機関である人権委員会(CHR)は、「われわれのもとに提出された告訴のパターンは、国軍とPMP(フィリピン国家警察)が容疑者であると示している」と述べている。委員会は、多くの未解決の殺害事件の背後に政府がいたわけではないと想定しつつ、これらの事件を解決し、防止することは政府の義務であると指摘している。…(略)…

マルコス独裁政権に匹敵


 アロヨ政権は、フェルディナンド・マルコスの腐敗した強権主義的支配以来、フィリピンにおいて最も抑圧的な体制であることが明らかになった。フィリピン被拘留者特別委員会によれば、マルコスの十四年の独裁の中で、約三千四百人が殺され、七百人以上が行方不明となった。
 CHR(人権委員会)が提供した数字を引用したマニー・ビラー上院議員によれば、アロヨ政権の五年間で、処刑され、拷問されれ、不法に拘留されている人びとの数は、それ以前の三人の大統領の任期十一年を上回っている。
 アロヨが政権につく前は、すべてが良かったと言おうとしているわけではない。以前の政権も権利侵害の記録を共有している。フィリピン人権擁護連盟の議長で、長期にわたる人権活動家であるマックス・デ・メサが指摘するように、アロヨの下での権利侵害事件の総数は、彼女の前任者たちの権利侵害と切り離して比較されるべきではない。
 「アロヨ政権は、依然としてそうした過去の人権侵害を解決する義務を負っている」と彼は述べる。「彼女の政権はそれを解決することに完全に失敗している。以前の政権の下での事件の総数が、アロヨ政権の下で行われた事件の総数に付け加えられるべきだ」と彼は主張している。
 アロヨ政権の初期、犠牲者のほとんどはムスリムの市民であり、米国が支援する政府の「対テロ戦争」の中で、彼らはしばしば検挙され、大量に拘留され、ひどい目に合わされた。とりわけ衝撃的なエピソードが、昨年三月の全国テレビの実況で放映された。大統領からの支持を得ていることが明白なわが国の治安最高責任者が、刑務所への攻撃を指揮していたのである。それはこの刑務所に捕らわれているアブサヤフ容疑者が反乱を起こしたためであった。
 非武装で壁に押しつけられていたにもかかわらず、二十六人の被拘留者は射殺された。人権グループは、この事件を「虐殺」と呼び、人権委員会は当局に対して殺人罪として告発する勧告を行った。
 軍がアブサヤフグループを追跡し、きわめて軍事化されたフィリピン南部のスールーでは、二〇〇五年二月になされた一家虐殺など国軍による数多くの深刻な人権侵害の申し立てがなされている。それは最終的にモロ民族解放戦線による国軍への攻撃再開を引き起こしたのである。
 この地域では、行方不明、首の切断、即決処刑が再び標準的出来事になった。しかし、政府による暴虐の記録には、アブサヤフが行った残虐行為と同じだけの注意が払われなかった。
 政府が市民的自由の保護と保障を行わなかったことを、おそらく最も明確に示しているのは、ジャーナリストの野放しの殺害であった。報道の自由は、アロヨが政権の座について以降に殺された少なくとも四十二人のジャーナリスト――一九八六年以来殺された八十二人と見られるジャーナリストの半数にあたる――という高価な代償を伴っても、決して実現されなかった。この記録は、二〇〇五年にアメリカのジャーナリスト防衛委員会が、フィリピンを世界中でイラクに次いでジャーナリストにとって「最も殺人的な」国としてランクづけするよう促すことになった。一部の人びとは「この国は自分たちの仲間を持っているが、イラクは結局のところ戦場だ」と述べて、このレッテルに異議を唱えた。
 ジャーナリスト殺害の背後にいる可能性が高いのは国家のエージェントではなく、地方のボスと犯罪者グループの一員であるが、政府の気乗りのしない対応は、政府が報道機関を保護する能力、あるいは意思が存在しないことを示している。


ジャーナリス
トも狙われる

 最近、ラウル・ゴンザレス法相は、殺人犯を裁きの場に引き出そうとするのではなく、メディアの専門家は自衛のために武装すべきだと示唆した。彼はまた、殺害は報道の自由とは何の関係もないとほのめかした。最近ゴンザレスは「酔っぱらったり、女性関係が原因で殺されたメディア関係者がいる」と述べた。
 人権侵害が着実に深まっていく中で、あらゆる政治勢力から追放の呼びかけが広がったことに直面したアロヨが、権力を保持するためにより激しく高圧的な手法を取るようになって以後、状況は悪化する方向に鋭く転換した。例えば彼女は大衆的デモを禁止し、デモを追い散らすために力の使用を正当化した。彼女は議会の公聴会での公的人物の証言を禁止した。
 そしてとうとう彼女は、二月二十四日に「国家非常事態」を発令した。警察と軍の当局はこの措置を、正当な理由なき逮捕を行い、メディアを襲撃し、脅迫するための白紙委任状と解釈した。「国家非常事態」はすみやかに撤回され、最近、最高裁判所によって反憲法的との判断を下されたが、人権侵害は止むどころか、むしろ激増している。
 先週、民主主義と正義のための大衆連合(UMDJ)――投獄されたジョセフ・エストラダ前大統領を支持するグループ――の五人の指導者が、白昼誘拐され――農村地帯でではなく首都マニラにおいてである――約二日間にわたって行方不明になった。軍がUMDJ指導者を逮捕したのかどうか迫られて、エドワルド・エルミタ官房長官はこの疑いを否定し、政府の基本路線を断固として繰り返した。「彼らは反射的に政府機関が犯人だと指摘する。それは不公平だ」。
 しかしわずか二時間後、軍のスポークスパースンは、五人は確かに情報機関によって逮捕され、拘留されていることを確認した。この同じ軍のスポークスパースンは、わずか一日前には、五人がどこにいるかについて何も知らないと語っていたのである。大統領や多くの閣僚の暗殺を図ったNPAの潜入者だとして告発された被拘留者たちは、のちに「証拠不十分」という理由で釈放された。
 こうした事件は、国家が活動家たちに対して奇襲部隊的な作戦を実行していることを示しており、また未解決の殺害事件や行方不明に関与していないという主張に疑問を投げかけている。

民主主義の圧殺

 多くの点で、最近の殺害の波は、フィリピンの歴史におけるかつてのエピソードの悲劇的な反復である。一九四六年、左翼の国会議員は議会から追放されて山に追いやられた。「死の部隊」が一九五〇年代と一九八〇年代後半に、フィリピンの農村地帯をのし歩いた。戒厳令の時期には、新聞社が政府によって封鎖されることは日常茶飯事だった。国家によって主導された「行方不明」事件は、孤児と寡婦の一世代を生み出した。
 現在フィリピンでエスカレートしている弾圧は、偶然の一致ではない。独裁体制の終焉から二十年、その後の三回の「ピープルズ」パワーを経たフィリピン社会は、激しく分極化している。
 最近の殺害事件の激発がなにごとかを意味しているのだとしたら、それは圧政の拡大とポスト一九八六年の政治秩序の磨滅を予告する民主主義的権利の放棄である。この一九八六年に、独裁者マルコスはあっけなく権力から放り出され、民主主義が復活したのであった。こうした民主主義的希望に替わるものは、近年では他のどの時期よりも厳しい政治的競い合いだろう。
 アロヨへの不正選挙と汚職の告発を契機とした政治危機は、こうした分岐を公然と明らかにした。一つの陣営は、学者たちが「寡頭制民主主義」あるいは「低強度民主主義」と呼ぶものを救い出し、実行しようとする人びとである。ここでは弾丸が普遍的な保障であり、食糧や職や住居ではない。
 この論争の反対側にいるのは、制限つきの民主主義を越えて進み、上からと「地下」からの双方からシステムを変革するために活動している人びとである。この数カ月間、この双方がアロヨを打倒することができず、いまや袋小路に直面している。
 しかし軍事化と弾圧の強化が示すように、もう一つの陣営はこの行き詰まりを突破しようと動いてきた。民主主義を押し戻し、名目は民主主義だが、より権威主義的な制度に向けて突き動かそうとしている人びとは、再び優位に立ち、明らかに攻勢局面にある。
 一九八六年以来の支配的エリートと保守派にとって、民主主義の公的諸制度――自由で公正な選挙、報道の自由、市民的自由の保護と促進――は、彼らの権力と富を維持する最も効果的な方法であるように見える。
 しかしフィリピンの多くの周辺化された人びとは、こうした諸制度を使ってますます現状に挑戦しようとしており、支配階級と軍部の一定の部分は、民主主義は両刃の剣だという結論に到達している。低強度民主主義はふたたびフィリピンにおける低強度戦争への道を切り開いており、「地下」はその古い意味をまとうようになった。…(以下略)…

(ハーバート・ドセナは研究・提言組織であるフォーカス・オン・ザ・グローバル・サウスのメンバー。「フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウス」の電子版ニューズレター「FOP」06年第5号より訳載)


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