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国家主義スポーツイベント=ワールドカップ批判      かけはし2006.6.19号

「サムライブルー」なんてゴメンだ

「武士道」の鼓吹と「愛国主義」の浸透

「国民的一体感」の興奮がつくり出す政治キャンペーン

スポーツイベントがはたす効果

 世界最大のスポーツイベントである「ワールドカップ」が始まった。「日の丸」を頬にペイントした「ニッポン、ニッポン」の喧騒が新聞、テレビをはじめとしたあらゆるメディアを占拠する、あのうっとうしい季節がまためぐってきた。
 四年前、「日韓ワールドカップ」への鋭い批判を本紙上で展開した高島義一は述べた。「スポーツを自ら実践し、あるいは観客としてゲームを楽しむのは、労働者人民の権利である。しかしサッカー・ワールドカップは、オリンピック以上に国家主義的なスポーツの祭典である。『日本チャチャチャ』『がんばれ日本』と浮かれているわけにはいかないのである」(「ワールトカップ批判」本紙02年5月27日号〜6月10日号、新時代社パンフ『オリンピックもワールド・カップもいらない』と『右島一朗著作集』に再録)。
 日韓ワールドカップの終了後まもなく刊行された香山リカの『ぷちナショナリズム症候群』(中公新書ラクレ)は、屈託なく「ニッポン大好き」と語る「若者たちのニッポン主義」への危機感を提示した。
 「愛国ごっこ。民族主義のパロディー。/あれは、本当にそうだったのだろうか。彼らは、『これって芝居だから』と自覚した上で、あえて『日の丸』を振り、『君が代』を大声で歌ったのだろうか」。
 香山の答えは否定的である。「自己相対化の視点が欠如している」若い世代が、「『身体が健康なのが何が悪い?』『お金もうけのどこがいけない?』という非常に現実的な、ほとんど身も蓋もないほどの価値判断の延長として『自分の国が強くなってどこが悪い?』とごくあたりまえのことのように口にしたのではなかったか」。
 四年前と比較していまや「がんばれ日本」のナショナリズムにかかわる状況は、より深刻なものになっている。「日の丸・君が代」の強制や「愛国心」を強制する教育基本法改悪案の上程、小泉の靖国参拝にあおられ、「嫌中」「嫌韓」の感情をなんのためらいもなくあらわにする若者たちの登場は、「ぷちナショナリズム」を超えて真正排外主義の色合いすら強めているのではないか。
 「愛国ごっこ」のレベルではない。世界的なスポーツイベントにおけるナショナリズムへの批判意識ぬきには、「オリンピック愛国主義」「ワールドカップ愛国主義」は、そのままきわめて政治的な「愛国主義」「排外主義」と直結せざるをえない。多くの人びとが夢中になるスポーツイベントだからこそ、それが醸しだす「民族的・国家的一体感」の興奮が強烈な政治的作用を果たすことに、自覚的でなければならないのだ。

ナチスとドイツのサッカー

 ワールドカップの「国家主義スポーツイベント」としての性格を把握するに際して、ドイツサッカー界とナチスとの関係についてもふれておくべきだろう。
 今年のワールドカップの招聘合戦において、後から名乗りを上げたイングランドは対抗馬と目されていたドイツに対して「歴史の検証が終わっていないのではないか」と批判した。それは言うまでもなくナチス・ドイツとサッカーとの関係の歴史的総括を迫るものだった。
 その典型が一九三〇年代にドイツチームの主将をもつとめた名選手フリッツ・シェパンの場合である。ワールドカップ開催地の一つであるゲルゼンキルヘンのクラブチーム「シャルケ」で活躍したシェパンは、ナチスが政権を取ると「シャルケ」のクラブハウス内にあったユダヤ人商店を不買運動で立ち退かせ、残された店舗を自ら安く買い取って大儲けをした。「シャルケ」の優勝式典は「かぎ十字」の旗と「ハイル・ヒトラー、ハイル・シャルケ」の連呼に覆われた。
 ヒトラーの政権奪取後、サッカーを含めた主要なスポーツクラブの会長にはナチス党員が就任した。一九三三年十月に国際連盟を脱退したナチス・ドイツにとって、サッカーの国際試合は有力な外交手段となった。サッカー選手は「外交官」としてナチス・ドイツの近隣諸国への侵略的意図を覆い隠すために利用されることになった。
 第二次大戦後の一九五四年のワールドカップ・スイス大会でドイツチームを優勝に導いた監督のゼップ・ヘルベルガーは一九三三年に入党したナチス党員であり、その見返りに代表監督の地位を獲得し、ナチスのプロパガンダ映画の制作にも協力した。ナチスとドイツサッカー界の関係を検証した初の著作として昨年刊行された『かぎ十字の下のサッカー』の著者、ニルス・ハーベマンは「ナチスがサッカーを利用することに、協会やクラブといった組織、選手が同意し、協力的に仕事を進めた。その結果、後押しを受けた」と述べている。
 しかしこの検証作業は始まったばかりである。日本対クロアチア戦が行われるニュルンベルクのフランケン競技場などにはナチス党大会の会場だったことを示す案内板が建てられ、「負の遺産」について解説しているという。

サムライと今日の思想状況

 ところで今年のドイツ・ワールドカップの日本チームには「サムライ・ブルー」の呼称が飛び交っている。ここでは「サムライ」が日本的アイデンティティーを代表するものとしてイメージさせられているのだ。
 時あたかもベストセラーとなった藤原正彦の『国家の品格』(新潮新書)は、新渡戸稲造の『武士道』を引き合いに出しながら日本人が依拠すべき「行動基準、判断基準となる精神の形」=道徳として「武士道精神」を称揚しており、教育基本法改悪を推進する保守政治家や評論家たちが、藤原の言葉をおうむがえしにしている。作家の藤沢周は「私は普遍主義の新渡戸でもなく、対極の国粋主義でもなく、あえて『侍イレブン』なる語を誤読して、実戦としての武道のやり方、勝ち方として、日本代表の二三人には『侍』になってもらいたいのである」と述べ、「頼む、侍! 侍ブルー!」などと、それこそ情緒的にわめきたてている(「毎日」6月5日夕刊「いざ決戦・侍ブルー」)。
 われわれはこうした「サムライ精神」を日本の代表チームにかぶせて、ナショナリズムを煽り立てる風潮への批判精神を磨いていかなければならない。言うまでもなく「武士道」や「サムライ精神」は、封建支配階級の人民抑圧・統合のイデオロギー体系である。人口のわずか一割にも満たない武士の、支配階級としての「精神訓」を、私たち自身の「伝統精神」としてなんでもてはやさなければならないのか、という疑問はあまりに素朴すぎるのだろうか。
 新渡戸は「武士道」を次のように説明していた。
 「我々に取りて国土は、金鉱を採掘したり穀物を収穫したりする土地以上の意味を有する――それは神々、すなわち我々の祖先の霊の神聖なる棲所(すみか)である。また我々にとりて天皇は法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁愛とを御一身に兼備したもうものである」「神道の教義には、我が民族の感情生活の二つの支配的特色と呼ばるべき愛国心および忠義が含まれている。……この宗教――或いはこの宗教によって表現せられたる民族的感情といった方が更に正確ではあるまいか?――は武士道の中に忠君愛国を十二分に吹き込んだ」(『武士道』岩波文庫)。
 彼にとっての「武士道」と神道主義・天皇制とのストレートな関係がここで明確に示されている。新渡戸はさらに述べる。
 「過去の日本は武士の賜(たまもの)である。彼らは国民の花たるのみでなく、またその根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れ出た。彼らは社会的に民衆より超然として構えたけれども、これに対して道義の標準を立て、自己の模範によってこれを指導した」。
 「武士道はその最初発生したる社会階級より多様の道を通りて流下し、大衆の間に酵母として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。武士道は最初選良の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰(かつごう)および霊感となった。しかして平民は武士の道徳的高さにまでは達しなかったけれども、『大和魂』は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」。
 「武士道」=「サムライ精神」は「忠君愛国」の情であり、それは日本の「民族精神」であるというこの新渡戸の主張は、まさに教育基本法改悪案をつらぬくイデオロギー的核であり、「サムライブルー」のキャッチフレーズがそれを通して醸成しようとする心情でもある。だからこそわれわれはこうしたキャンペーンを座視するわけにはいかない。「ワールドカップ」の国家主義的政治に対する批判を続けることをやめるわけにはいかない。
 「サムライブルー」なんてゴメンだ!  
(6月10日 坂口民雄)         



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茨木のり子さんの詩を読んだ
                 S M


 2月20日(06年)の新聞に、次のような記事が載った。「鋭い批評精神とヒューマニズムに裏打ちされたみずみずしい表現で戦後女性の生の歌い上げた詩人の茨木のり子(いばらぎ・のりこ、本名三浦のり子=みうら・のりこ)さんが、東京都西東京市の自宅で死去していたことが、19日分かった。79歳だった」(『朝日新聞』朝刊)。興味をもったので、茨木のり子さんの詩集を、何冊か読んでみた。『倚(よ)りかからず』(筑摩書房)、『対話』(童話屋)、『おんなのことば』(童話屋)、『見えない配達夫』(童話屋)、『自分の感受性くらい』(花神社)を読んだ。
 『倚りかからず』に収録されている「鄙(ひな)ぶりの唄」という詩が印象に残った。こういう詩だ。
 「それぞれの土から 陽炎(かげろう)のように ふっと匂い立った旋律がある 愛されてひとびとに 永くうたいつがれてきた民謡がある なぜ国歌など ものものしくうたう必要がありましょう おおかたは侵略の血でよごれ 腹黒の過去を隠しもちながら 口を拭って起立して 直立不動でうたわなければならないか 聞かなければならないか 私は立たない 坐っています 演奏なくてはさみしい時は 民謡こそがふさわしい さくらさくら 草競馬 アビニョンの橋で ヴォルガの舟唄 アリラン峠 ブンガワンソロ それぞれの山や河が薫りたち 野に風は渡ってゆくでしょう それならいっしょにハモります  ちょいと出ました三角野郎が 八木節もいいな やけのやんぱち 鄙ぶりの唄 われらのリズムにぴったしで」
 国旗・国歌法・教育基本法改悪に反対する。スポーツ・ナショナリズムに反対する。茨木のり子さん、さようなら。(06年5月28日)

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