もどる

映 評 『夜よ、こんにちは│ Buongiono, Notte』マルコ・ベロッキオ監督
「赤い旅団」が引き起した事件              
かけはし2006.5.29号

人間に対する寛容、信念としての勇気

スターリニズムの悪夢と社会主義者の「甘い夢」

映画がモチー
フにした事件

 イタリアの左派文化人の代表格であり、ベルナルド・ベルトルッチと並ぶ映画界の巨匠と言われる マルコ・ベロッキオが二〇〇三年に製作した『夜よ、こんにちは』が、四月二十九日から渋谷ユーロスペースで上映されている。この『夜よ、こんにちは』は、一九七八年にイタリアの武装左翼集団「赤い旅団」によって引き起こされた、当時のイタリアの保守政治家の中でも首相経験のある大物だったアルド・モロ誘拐殺害事件をモチーフにした映画だ。
 あえて「モチーフにした」と言うのは、この映画は史実を克明に再現し、「モロ事件」の真実の究明を意図したものではないからだ。むしろベロッキオ監督は、実際のモロ誘拐・監禁の実行犯であるアンナ・ラウラ・ブラゲッティの事件当時の逡巡と事件後の懺悔の手記であるという『囚人』(日本語未訳)から想像力の翼を広げた自身の「甘い夢」を映像化したものである。モロを誘拐した「赤い旅団」のメンバーたちの名前も、実際の実行者たちとは、違う名前がつけられている。したがって、「モロ事件」の真実や「赤い旅団」が何者か知りたい向きには、あまりお勧めできないかもしれない。

スターリニズム
の暗黒と恐怖


 ストーリーはその大部分が、「赤い旅団」のメンバー四人がモロ(ロベルト・ヘルリツカ)を誘拐し、アパートの一室の本棚の裏の隠し部屋に監禁した「二重構造の密室」で繰り広げられる。モロを監禁している部屋の外界は、ことごとく「赤い旅団」の誘拐を非難する。実行犯四人のうちただ一人の女性である主人公キアラ(マヤ・サンサ)が乗っている電車に赤旗を掲げた一団が乗り込む。それは「赤い旅団」による「モロ誘拐」に抗議するストライキ中の労働者たちだった。そのストライキを支持する乗客たち。そして、労働者の大集会で「赤い旅団」を非難する演説を皆が拍手する様子にキアラたちは孤立感を深める。
 「赤い旅団」は、モロを「プロレタリア」の名において裁判にかける。モロを監禁する部屋に飾られた「赤い旅団」の大きな赤旗は、生きた労働者たちの鮮やかな赤旗との対比において、スターリニズムの暗黒と恐怖を象徴している。「プロレタリアによる独裁を」(字幕では「プロレタリアが支配する」)を呪文のように復唱する「赤い旅団」のメンバーたちの場面に、ベロッキオ監督は閲兵するスターリンの姿とソ連邦時代のマスゲーム行進の映像をかぶせる。ベロッキオは、「赤い旅団」に一抹の「正当性」も見出さない。主観的に「プロレタリア」や「正義」を振りかざすだけのひたすら独善的でファナティックな集団として「赤い旅団」を描き、対するモロを知性に溢れた高潔な人物として描く。
 「スターリニズムの恐怖と犯罪」が世界的な常識となっている現在、このような描き方はともすればステレオタイプと言うこともできるが、ベロッキオが描く「甘い夢」のなかのキアラが、スターリニズムの悪夢から人間性に目覚めていく過程を描く上で、「国家の暴虐とテロリストの一抹の正当性」という「もう一つのステレオタイプ」を拒否したかったのだろうと思う。

「ほんの少しの
勇気があれば」


 キアラは親族一同が集う、かつて反ファシズム・パルチザン闘争によって命を落とした家族の墓参に参加する。墓参の後の会食で合唱される『カチューシャ』(独ソ戦の最中に作られヨーロッパ中のレジスタンスに歌われた反ファシズム抵抗歌)。通りすがりの新婚夫婦もこの合唱に加わる場面に、かつての反ファシズム・パルチザン闘争がイタリアの「国民的記憶」であり、アイデンティティであることが示される。
 「赤い旅団」の「プロレタリア裁判」は、モロに死刑を宣告する。キアラは、モロが妻に宛てた手紙の「ファシストの銃殺隊が私を処刑するだろう」という一節に衝撃を受ける。モロもまた、自分たちとおなじように、自らを「パルチザンの後継者」と見なしていた(キリスト教民主党もパルチザン活動を行っていた)。そして、自分たちは「パルチザンの後継者」でなく、「ファシストの銃殺隊」なのか。キアラは、このモロの手紙の一節から、かつて父親がキアラに読み聞かせた『レジスタンス―死刑囚の手紙』を思い起こし、モロの解放を願うようになっていく。この描写は実際の実行犯であるアンナ・ラウラ・ブラゲッティの回想をモチーフにしているという。このキアラの「分裂」は、そのままベロッキオの「甘い夢」としてストーリーが転回されていくのだが、それはまたアンナの回想からベロッキオがヒントを得た「ほんの少しの勇気さえあれば現実にあり得た可能性」でもある。ベロッキオ監督の夢想するキアラは、仲間たちに睡眠薬を飲ませて監禁部屋の鍵を外す。モロはあっけなく脱出に成功し、朝のローマの街を軽やかに歩いていく。一方で、その場面を実際のモロ殺害と国葬の当時のニュース映像と対比させながら。

現在のイラク戦
争とも重なる

 左翼運動や活動家の生き様を数々の映画で描いてきたベロッキオは、先日のイタリア総選挙で「中道左派」の比例区候補者として立候補した人物である。ベロッキオは、この『夜よ、こんにちは』において、ブルジョア政治家とおなじように「政治は冷厳なものである」と簡単に言い放つスターリニズムに、社会主義者の「甘い夢」を対置する。
 キアラが「パルチザンの記憶」によってスターリニズムの独善から人間性を取り戻したように、パルチザンの勇気は命を賭けた激しい闘争だけではなく、引き返す「勇気」にも発揮されるべきだと訴える。この映画の製作後に開始されたイラク戦争の時代において、「赤い旅団」の「暗黒の赤旗」の系譜は、繰り返しインターネットで流された「イラク人質斬首映像」の背景に貼られたイスラム主義者の旗に連なるものだろう。

社会的客観性を
欠いた思考の限界


 そしてこの日本における社会運動の陥没状況に、この戦争と暴力の時代に、私たちもまた「甘い夢」を見たくなる。連合赤軍の雪中のアジトにおいて、あるいは「内ゲバ」に向かうテロリストと化した活動家たちのなかに、あるいはWTCに向かうハイジャッカーたちのなかに、あるいは香田証生さんを誘拐した武装グループのなかにおいて、そのような「勇気」が発揮されたならば…。「歴史の`もしaは無意味」であったとしても、あるいは歴史に学ぶことは未来を学ぶことだとすれば、そのような「甘い夢」を見るのも無意味なことと言い切ることは誰にもできないだろう。そしてまた、民衆の鎮圧を拒否して革命派に転じたロシア・ツァーリの軍隊に、あるいは命令を拒否して収容所に送られた幾万のナチス・ドイツの兵士たちに、あるいはフランス五月革命時に「もう学生を鎮圧したくない」と引き上げた機動隊員たちに、あるいは現在徴兵や軍務を拒否しているイスラエル人たちに、ベロッキオが描いた「勇気」を史実とこの世界のなかに見出すことはできるのである。
 社会的客観性を欠いた「プロレタリア」や「正義」の名において、「民族」や「宗教」あるいは「組織」で人間を色分けする思考は決定的な腐敗であり、実は弱さの表れなのだ。ベロッキオは、人間に対する寛容、そして根底にあるべき「信念としての勇気」に裏打ちされた「甘い夢」によってのみ、この「暴力の時代」を乗り越えることはできるのだと、とりわけ私たち左派にこの映画で訴えているかのようだ。
 『夜よ、こんにちは』は、ユーロスペースでの上映を皮切りに随時各地で上映される。社会変革を志すすべての人に、一見をお勧めしたい。(ふじいえいご)


パンフ紹介
編集発行:日本共産青年同盟 頒価 400円

『青年戦線』168号

分断と階層の壁をいかに超えるか

 青いモノトーン調の表紙の最新一六八号。今年二月の紀元節反対デモの写真を選び、試験的に表紙だけを四色刷りにした。
 三月十二日に行われた山口県岩国市の住民投票の結果は、八七・四%という圧倒的な民意で、米空母艦載機の岩国基地への移転を拒否した。さらに一カ月後の四月二十三日、合併にともなう新市発足で新岩国市長選挙が行われた。ここでも前市長の井原勝介氏は、五万四千票余りを獲得して安倍晋三らの推す自民党候補に圧勝し、語った。「私は艦載機移転に対する住民の悲鳴を知っている。市民の素晴らしい良識の勝利だ」。
 米軍再編をめぐる協議で稲嶺恵一沖縄県知事は五月四日、米軍普天間飛行場のキャンプ・シュワブ移転について「容認できない」という基本姿勢を示しつつ、代替案としてシュワブでの暫定的なヘリポート建設を打ち出した。このまやかしの修正案に県民からの反発が相次いだが、政府・防衛施設庁はあくまで日米の基本合意にこだわり、沖縄県民に引き続き犠牲を強制しようとしている。
 五月十一日、額賀防衛庁長官と稲嶺が会談。稲嶺は態度を軟化させ、キャンプ・シュワブ沿岸部にV字形滑走路を建設する政府案を「基本とする」ことで合意。午後には小泉首相と会い、政府案を事実上受け入れる姿勢を示して政府にすり寄った。
 任期満了に伴う沖縄市長選では、野党統一候補の東門美津子氏が「米軍嘉手納基地の自衛隊との共同使用反対」を掲げて自公候補を破り、初当選した。千葉では衆院七区の補欠選挙で民主党の太田候補が競り勝った。こうした与党自民党の雪崩的な敗北は、昨年の衆院選――小泉チルドレンと劇場型選挙――で自民党を大勝させてしまった有権者の反省と抑制が、ある程度表層化したものと考えることができる。同時に地元住民の、基地そのものへの根強い拒絶感を示しているといえるだろう。それがたとえ地方議会での敗北であっても、ブルジョア選挙に基本的に立脚するこの国の政治システムへの、一定の打撃になることは明らかである。
 だがしかし小泉政権は数の力を頼りに、国民投票法案による憲法改悪をはじめ、教育基本法の改悪、共謀罪などなど、戦争国家形成のための悪法の成立を急ピッチで画策している。絶叫と独特のパフォーマンスで支持を集めた小泉政治のこの五年間。いったい何がどう変わったのか。


小泉「構造改革」の
バランスシート

 デフレ下の小泉「構造改革」は、大手銀行の再編を加速し、とりあえず不良債権を半減させた。自画自賛する景気回復は、経済の循環に乗っただけとの冷ややかな分析もある。他方、人民に徹底的に「痛み」を強制する基本方針は、資本に「儲け過ぎ」と批判が出るほどの収益をあげさせるに至った。企業の顕著な体力回復―業績向上は、理不尽なリストラ――正社員の切り捨てと派遣・契約雇用の推進による低賃金化、超過密労働の強制の結果に他ならない。
 二〇〇〇年をピークにして不良債権と倒産件数は減り続けたが、「企業の雇用コストを示す労働分配率は一貫して低下。家計部門が受ける恩恵が少ないことを意味し、景気回復の実感が得られにくい要因の一つになっている」(三月二六日・東京新聞)。非常にわかりやすい。つまり資本は「どんなに儲かっても、労働者には還元しない」ということである。企業は確実に収益力をつけるが、労働者の家計の苦しさは変わらない。子供が就学援助を受ける家庭は増え続け、生活保護受給世帯も増え続け、中高年の自殺は今なお高水準を維持している(同前)。こうしたデータは繰り返しメディアで公表されている。中流・下流の生活はいっそう苦しく絶望的になっていく。
 小泉が推進した弱肉強食の競争社会とは、保釈金三億円で出獄した「ホリエモン」に象徴されるように、富めるものを「勝ち組」などと讃えて羨望の的に祭りあげ、貧困にあえぐ圧倒的多数の人々を「負け組」と見下して嘲笑するような不平等社会である。六本木ヒルズにある家賃月額四百万円を超える高級マンションはすべて埋まり、IT長者「ヒルズ族」らは、夜な夜な豪華なパーティに興じているともいう。


数の力を頼りに
悪法のゴリ押し

 小泉政権が定着させた長者優遇は、優勝劣敗の無慈悲な格差を深刻化させている。その現場でいったい何が起きているのか。労働組合は何をしているのか。今号のメイン企画「労働者座談会」では、仲間たちがそれぞれの問題意識を語り合った。
 各種集会への右翼の妨害が日常化し激化している。この社会状況の変化と、左右の勢力を取り締まって治安を維持する側の思惑とは何か。建前としての彼らの「中立性」と、激化する微罪逮捕・運動弾圧の関係性の問題。さらに政府・財界が求めるアジア外交と止まらない「靖国参拝」、そして「憲法改正」策動の整合性とは―「法治国家日本」の行方と憲法論争を探る問題提起も興味深い。
 連載の古典学習は二本。最終回と新連載が重なる。「中南米革命講座」では、ラテンアメリカの経済政策を考える。アジ連自主学習会「フェミニズムセクション」は、討論の中間報告と、「上野講演中止問題」をめぐって三月二十五日に緊急に開催された「ジェンダーシンポジウム」を紹介する。紆余曲折のフリーター経験を綴ったレポートは、今回が完結。読者はどんな感想を持たれただろうか。ぜひ寄せてほしい。

思いをぶつけ伝
える媒体として

 私たち共青同は、「新自由主義的グローバリズムにNO!」をはっきりと掲げ、長時間、低賃金、孤立分断、無権利状態で将来を見失う若者たちに語りかけ、フランスの若者たちのように、「本当はみずからの力で社会を変えることが可能なのだ」という希望をさし示す勢力でありたいと思う。「青年戦線」は私たちのかけがえのない財産であり、思いをぶつけ伝える媒体である。人々の長い閉塞感とフラストレーションを、跋扈(ばっこ)する国家国益民族主義に明け渡す前に、私たちとともに学習し、人々を組織する言葉を獲得し、国際主義的な労働者人民の未来を切り開いていこう。       (S)


もどる

Back