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原子力資料情報室公開研究会              かけはし2006.5.29号

原発は地震に耐えられない

志賀原発2号機運転差止判決の画期的意義

弁護団事務局長
岩淵さんが報告

 四月二十二日、東京の全水道会館で「第58回原子力資料情報室公開研究会 志賀原発2号機運転差止判決――原発は地震に耐えられない」が行われた。今回の今回研究会は、三月二十四日の金沢地裁で出された石川県志賀原発2号機差止訴訟・差止勝訴判決の画期的意義を確認するために開かれたもの。講師は能登原発差止め訴訟弁護団事務局長の岩淵正明さん。
 志賀原発2号機は、この判決直前の三月十九日に営業運転を開始した日本で五十五番目の原発で柏崎原発などと同じ改良型沸騰水型(ABWR)。出力は135万キロワットで最大級のものだ。原発差止訴訟としては初の勝訴である。1号機については一九八八年十二月に北陸電力を被告として民事差止訴訟が提起されたが、二〇〇〇年十二月に上告棄却判決が出て原告敗訴が確定した。今回の2号機については一九九九年八月に全国から百三十五人を原告として提訴がなされ、六年間で三十回の口頭弁論が行われ、今回の勝訴判決を引き出したのである。

耐震設計の不備
を指摘した判決

 判決は、耐震設計の不備に関する原告の主張を全面的に認めたものだった。
 判決は、大規模なプレート内地震であっても地震発生前にはその震央付近に活断層の存在が指摘されていなかった例が、二〇〇〇年の鳥取西部地震など少なからずあることを例に上げ、「被告(北陸電力)がした綿密な調査によって活断層が見つからなかったからといって、本件原子炉の直下にマグニチュード6・5を超える地震の震源断層が存在しないと断ずる合理的な根拠があるとは認め難い」と述べる。
 政府の地質調査研究本部は二〇〇五年三月九日付で「邑知潟(おうちがた)断層帯の長期評価について」と題する報告を発表した。邑知潟断層帯は、同原発近くの南に位置している。判決は同報告に依拠し「邑知潟断層帯は、将来的にも全体が一つの区間として活動すると推定し、発生する地震の規模はマグニチュード7・6程度とした。上記報告の評価内容に不備があるとは認められない。耐震設計審査指針に従えば、邑知潟断層帯による地震は、基準地振動S2として考慮すべき地震である」として、志賀原発2号炉の耐震設計の不備を指摘している。
 また判決は、被告が地震の規模を想定する際に使った、活断層の長さから地震の規模を推定する方法には限界があり、地震の規模を過少評価してしまう傾向を、二〇〇五年八月十六日との宮城県沖地震などを例にとって指摘している。したがって判決は「本件原子炉敷地に、被告が想定した基準地振動S1、S2を超える地震動を生じさせる地震が発生する具体的可能性があるというべきである。そのような地震が発生した場合、被告が構築した多重防護が有効に機能するとは考えられない」と断じ、「原告らは、地震によって周辺住民が許容限度を超える放射線を被曝する具体的可能性があることを相当程度立証した。これに対する被告の反証は成功していないから、地震によって周辺住民が許容限度を超える放射線を被曝する具体的危険があることを推認すべきである」とした。
 まさに、地震が起きても大丈夫という被告・北陸電力の強弁ははっきりと否定されたのだ。
 そして原告の一人が熊本県の住民であることからする原告資格の問題についても、判決はこう述べている。
 「原子力発電所で重大事故が発生した場合、その影響は極めて広範囲に及ぶ可能性がある。そして、本件原子炉において地震が原因で最悪の事故が生じたと推定した場合は、原告らのうち最も遠方の熊本県に居住する者についても、許容限度である年間1ミリシーベルトをはるかに超える被曝の恐れがあるから、すべての原告らにおいて、上記具体的危険が認められる」。

「原発ルネッサン
ス」にストップ

 判決について詳細に紹介した岩淵弁護士は、今回の判決はきわめて素直な見解にもとづいており、他の原発においてもすべて適用できるものだと語った。
 現在の耐震設計審査指針の不備を指摘した今回の判決は、容易に否定することはできない。現在の「指針」は見直される予定と言われているが、より「安全性」を重視したものとされるかどうかについての警戒が必要だ。チェルノブイリ事故から二十年後の現在、「原発ルネッサンス」と言われる動きにストップをかけ、脱原発社会に向かって進んでいく上で、今回の「差止め」判決を生かすことが重要である。    (K)


5・31第1回公開審理に向けて集会
静岡空港の事業認定取り消しと収用裁決却下を

 【静岡】五月十三日に静岡市で静岡空港建設の「事業認定取消」と「収用裁決却下」の実現をめざす集会が開かれた。集会は、取消訴訟原告団結成から一年が経過したことから、一年間の闘いの総括と向こう一年間の闘いの進め方を論議する第二回総会として、またこの認定の結果、県収用委員会における収用裁決のための第一回公開審理が来る五月三十一日に開催されることに対して取消訴訟原告団(原告74人を含む300人)と一千四百人を超える権利者が共に連帯して闘う姿勢を固め、土地収用攻撃をはねかえすための学習討論会として、二部構成で行われた。
 総会のあいさつに立った地権者の松本さんは、最近の現地の様子や、この間の米軍再編報道の関連記事で四〜五年前の全国紙が報じた「空母艦載機の訓練候補地に静岡空港」を思い出し危惧していると述べた。
 活動報告の今後の課題に触れて補強意見に立った「県民の会」の桜井事務局長は、今後の取消訴訟の中で、社会整備審議会が事業認定にあたってどのような審議をしたかが全く明らかでないこと(収用法改正案審議の扇国土交通大臣の国会答弁を反古にする)を問題としていくこと、県知事石川をはじめとした証人を法廷に引きずり出すことなどこれから迫っていく課題を提起した。また松谷県会議員からは、「公設民営空港」や破綻した県財政に触れ、財政指標のない無駄や投資を繰り返す県当局の姿勢が明らかにされた。静岡は「最後の地方空港」ではなくて「県民・住民によって葬り去られた最初の空港」にしようと結んだ。
 第二部の権利者集会(収用委員会審理をどう闘うか)では、権利者三団体「地権者の会」「立木トラストの会」「共有地権者の会」が収用委員会審理にまとまって対応するために「却下を実現する会」を立ち上げた活動経過報告を受け、特別報告として首都圏の圏央道・高尾山天狗裁判弁護団事務局長の関島保雄弁護士から収用委員会審理の具体的な闘いについて経過や方法など資料をもとに詳細な報告をいただいた。質疑・討論では五月三十一日までの取り組みや当日の闘いなどさまざまな意見が交わされた。(S)



三里塚・横堀

田んぼくらぶが今年も田植え


 連休中に、今年も田んぼくらぶが横堀の熱田さんの田んぼで田植えを行った。
 すでに新聞各紙などでも報道されているように、熱田一さんとテルさんは高齢と体調の衰えを理由に反対運動から退き、娘さん夫妻の下山さんとともに移転することを決めた。
 私たちが四月の現地集会の折に立ち寄った際にも体調さえ良ければまだ横堀でがんばりたかったこと、移転先の家も完成しているが、まだしばらくは横堀で生活したいことなどをテルさんは話してくれた。また、一さんも意気軒昂であったが、近く移転することとなる。
 田んぼくらぶの耕作して来た旧二期用地にある田んぼについては息子の誠さんに相続されており、誠さんは「自分としては空港に売るつもりはない」とのことで、田んぼくらぶとしては今年も一年間これまで通り米作りを行なえることとなった。
 まず、四月三十日には代かきが行われた。いつものように手前はトラクターで、奥の深いところは万能を使って手で土をかきまぜていく。
 続いてトンボや角材にロープを付けたものなどで田んぼをならしていく。昨年は現地集会の日の午前中にあわてて済ませたため完全に平らにならなかったが、今年は時間をかけてていねいに納得がいくまで作業。
 田植え前日、五日の夜には横堀農業研修センターに東峰の石井紀子さんを迎えて交流会。今回は反対運動四十周年ということでテレビのクルーも二日間同行して取材。
 翌六日は朝食を食べるとすぐ田んぼへ向かい、子どもも含めて約三十人でにぎやかに田植え、初参加者も見よう見まねで植えていく、子どもたちも「子ども田んぼ」で田植え体験、約二時間ほどで全て植え終わり、横堀農業研修センターに戻ってバーベキューを食べながら反省会。
 翌七日も数人が残り、追い苗の作業を行った。五月二十一日に第一回の草取りを行う予定。    (板)


コラム
史跡と想像力


 晴天が続いた連休のある日、ほんの少しだけ遠出をしてみた。遠い遠足の記憶――埼玉県東松山市の史跡「吉見百穴(ひゃくあな)」。「何もないところだよ」と近くに住む同僚は苦笑した。
 駅前は想像通り居酒屋チェーンやファーストフードが軒を連ねる。案内板に「徒歩二十分」とあるので迷わず歩くことにした。
 埃ぽい沿道には、東京郊外の見慣れた風景が続く。はるか前方にポツンと小高い丘陵が見える。やがて突然視界が開け、市野川にかかる橋を渡ると、目的地はもう目の前だ。
 「吉見百穴」が科学的に検証されだしたのは明治になってから。山腹に開く無数の横穴から出土した人骨や土器が、「コロボックル人の住居」などと当時の研究者に発表させた。しかし大正時代に各地で同様の遺跡が発見されると、この穴は古墳時代に死者を埋葬した墓穴であることが明らかになる。その数二百十九。「住居説」は覆され、国の史跡に指定された。
 市野川の土手は、一面の緑の絨毯に黄色い花が咲き、さわやかな初夏の風を運んでいる。入場料を払って門をくぐると、そこはきれいに整備された公園だ。何もないどころではない。売店や真新しい資料館が立ち並び、観光客で賑わっている。横穴を観ながら曲がりくねった山腹を頂上へ。鬱蒼とした木々が日差しを遮り、にじむ汗を冷やす。
 さて本題は、百穴のその後の歴史である。山腹の内部には碁盤の目のように洞窟が掘られている。入口に近づくと急激に気温が下がり、電球がほの暗く足元を照らす。時代は太平洋戦争末期。米軍の爆撃が激しさを増すなか、日本最大の中島飛行機椛蜍{工場がこの地に移転した。その掘削工事に全国から狩り出されたのが三千五百人もの朝鮮人だった。昼夜たがわぬ突貫工事で造られた洞窟のなかで、動員学徒らがエンジン部品を組み立てていた。吉見百穴は戦時中、地下秘密軍事工場として使われていたのである。だが、本格的な生産に移る前に敗戦を迎えた。観光客が入れるのは工場全体の十分の一の広さに過ぎない。いかに巨大な施設だったかがわかる。
 戦時体制は貴重な遺跡すら破壊して人々をのみこんだ。朝鮮人の最後の一人が帰国する際、平和を祈念してムクゲが植樹され、この地で今も生長を続けているという。冷気漂う人口の洞窟の中でいったいどれほどの人が、過酷な強制労働の実態に想いを巡らせたであろうか。国民支配総動員のダイナミズムに、今さらながら慄然とするばかりである。軍都東京をはじめ、全国各地にはまだ数多く無謀な総力戦の傷跡が残り、二度と同じ過ちを犯すなと、私たちに訴えている。   (隆)


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